堕ちた女
やっぱり、空気が冷たいと気が引き締まるものだな。
朝日が冷気に降り注いで、俺は一日を開始した。俺の一日目。自由の一日目を。
場所は北の森。以前武者修行をした際に、一番最初に訪れたところだ。
それで選んだ、というわけではない。さすがにそこまでは拘らない。そこまでポーズ取るやつはなあ、たぶん武道向きじゃないよ。俺がここへやってきたのは、ここが程よく厳しく、身の引き締まる土地だからだ。
初冬を思わせる冷たい空気。陽が隠れれば息は白く、眼前に広がる湖沼には薄氷が張ることもある。今だ冬に留まるグリズリーの姿も見かける。少々倒木が邪魔であることを除けば、なかなかいい環境だ。
桜の荒野も捨て難かったけどな。…あそこには甘い記憶が多すぎる。
俺は小さく頭を振って、脳裏からそれを追い出した。
さっ、修行修行。

東の空に月が映えかけて、自然、気持ちは切り替わった。夜には夜の楽しみ方がある。それが修行であってもだ。
樹木の茂みから抜け出して、空を見上げた。遮るものも遮るネオンも何もない、ただただ暗く広い空。
俺はそれに手を伸ばした。大地に足を張り、心を静め…
「はっ!」
発すると共に放つ。光の塊が空の彼方へ飛んでいく。玉屋〜。
闇夜だとな、もっといいぞ。俺はまだ放出してるに過ぎない段階だからな。この方法で充分だ。これだと自然も破壊しなくて済むしな。一挙両全…
その思考は終えられなかった。2発目が空に消えた次の瞬間、その空が赤に染まって、俺は思わず息を凝らした。森が月の光によらず照らされた。半拍遅れて、ありえない爆音が轟き渡った。
…何かに当たった。
一体、何に?ここには俺以外に人などいないはず。航路からも外れている。まったくの未開の土地…
白煙を吹き上げながら落ちるそれを、俺は高まる緊張と共に見守った。それは眼前の湖沼に着水した。やがて炎がおさまった。立ち込める煙の合間から、それが姿を現した。
「ブルマ!」
俺は駆けた。
見覚えのある機体。見紛うはずもない刻印。
どうしてここに?俺を探しにきたのか?探さなくともいいように、書き置いてきたというのに…
上着を脱ぎ捨て、湖に飛び込んだ。薄く張った氷が割れた。水が冷たい。
湖の中ほどに浮くエアジェットの、派手派手しく壊れたコクピットの中に、ブルマはいなかった。途中で投げ出されたのか?それが吉なのか凶なのか。それは、あいつを如何に早く見つけ出せるかで決まる。
長い長い時間のように、俺には思えた。湖底の比較的浅い部分に、その体が沈んでいるのを見つけた時、俺は安堵したりはしなかった。
口から空気が漏れていない。当然だ。
湖のほとりにその体を横たえて、俺はひたすらにブルマの胸を押した。1、2、3、4…30。口から空気を送り込む。何度繰り返したかなどわからない。とにかくブルマは水を吐いた。
弱々しいその吐息を耳元に聞いて、俺は安堵した。大きく息を吐いて、両腕を地面に投げ出した。そしておもむろにブルマの体を抱き上げて、愕然とした。
体が冷たい。…冷たすぎる。
当然だ。気を抜いた自分を、俺は責めた。そして再び駆け出した。
「プーアル!湯…」
ブルマを両腕に抱え、カプセルハウスのドアを蹴り開けそう叫びかけて、俺は口を噤んだ。そうだった、プーアルはいないんだった。まったく、俺もなあ…
「落ち着け、落ち着け、落ち着け」
努めてそう口に出した。大丈夫、命に別状はない。…はずだ。俺が対応を誤らなければ。
ブルマを床に置き、バスルームへ走った。湯だ。熱すぎない程の湯。
バスに轟く湯の吹き出る音を聞きながら、ブルマの衣服を脱がしにかかった。躊躇?そんなことしている場合じゃない。湯が半ば以上埋まったところで、下着姿のブルマをそこに浸けこんだ。自分はその隣で熱いシャワーを浴びながら、時が過ぎるのを待った。規定の30分を待つまでもなく、ブルマの頬に赤みが差してきた。そこで俺は今度こそ本当に、安堵した。
「はぁ〜…」
大きく息を吐きながら、バスルームの床に両手をついた。今度こそ咎められない行為…のはずだ。
タイミング良すぎだぜ、まったく。
わざわざあれに当たらなくてもなあ。俺、何にも狙ってなかったのに。むしろ何にも当てないよう放ったのに。なあ?
ブルマを湯から上げ、バスローブを着せた。安堵の気持ちも去りほぼ平常心になっていた俺は、その体をベッドに寝かせて、ここで初めて躊躇した。
…濡れた下着を何とかしないと。
とりあえず体温は戻ったようだが、濡れた下着を着けさせたままにしておくわけにはいかない。大事には至らないだろうが、それは確実に体温を奪う。
「う〜む…」
努めずとも声が出た。戸惑いと悩みの声が。
こいつ怒るかなあ…というより、俺がどうしよう。
でも、脱がさないと。…不可抗力だよな。
ブルマの体を横向きにし、その背後に回った。いくらなんでも正面からそれをするのは躊躇われた。というか、俺が無理だ。
まずは上からだ。こっちの方が幾分安全だろうからな。
バスローブの中に手を入れて、勘でそれに触れた。ホックは楽に外せた。ブラの紐を肩から外そうとして、俺は手を止めた。
…ローブを脱がさないと、腕を通せない。
ええい、くそ。どうしてプーアルはいないんだ。
あいつがいたら頼めるのに。少し微妙な気もするが、あいつは猫型だからな。感覚も(たぶん)違うってもんだ。
俺はやむなくローブを脱がせた。本当にやむなくだ。これは信じてもらいたい。
あくまで背中に視線を固定させて、俺はブラを脱がせた。再びローブを着せ、いよいよ本番の下の下着(表現が被ってるな)に手をかけた。そしてまったく拍子抜けした。
…すっげー簡単に脱がせられた。
そうか、下の方が楽なのか…
俺は妙な感心をしながら、壁を背に床に腰を下ろした。
…疲れた。

替えの下着は、以前ブルマが使った部屋に残されている可能性もあったが(このカプセルハウスは前にブルマに貰ったあれだ)、俺は探すことすらしなかった。…そこまでチャレンジャーではない。
あいつが目覚めた時の為にと、軽い食べ物と温かい飲み物を用意し終えた頃には、すでに夜も更けていた。
まったく、ハードな一日だよな。あいつが来た時は、大概そうだ。修行以外のことで疲れさせられるんだよな。だから書き置いてきたのに…
だが、今はそれは言わないでおこう。とにかく、あいつは絶対安静だ。今夜はこのままここに寝かせて、明日病院へ連れていこう。凍傷を甞めると酷いことになるからな。
全部屋の設定温度をオートに切り替えて、自分の部屋へと向かった。そこにブルマを寝かせていたからだ。非常の時って、つい自分のテリトリーに引き摺り込んでしまうよな。…あいつの部屋へ移し変えるべきかな。
そんなことを考えながら、部屋のドアを開けた。途端に、ブルマと目が合った。
「おまえ!まだ寝て…」
「嫌!」
ブルマはすっかり目覚めているらしく、目を見開いて俺の前に立ち塞がり、寝起きからくるのではない不機嫌を俺にぶつけた。
「あんただけ?」
一瞬、意味がわからなかった。俺が思わず立ち尽くしていると、ブルマは俺を睨みつけ、さらに言い募った。
「あんただけなの?ここにいるの」
半ば気圧されて、俺は簡潔に答えた。
「そうだけど」
「バカ!!」
叫びと共に、頬に痛みが走った。それがブルマの手によるものだと気づいた時、あいつはすでに廊下に消えていた。

彼方へと飛び去るブルマのエアクラフトを遠目に、自身もカプセルを手に掴んで、俺はそれを使うのをやめた。
もう遅い。悔しいが、こと飛行艇に関しては、あいつの方が操縦テクニックは上だ(おそらくは場数によるものだ)。加えてこの闇夜。しかもあいつが乗っていったのは最新型(目聡いよな、まったく)。たぶん絶対追いつけない。
俺は溜息をつきながら、C.Cに連絡を入れた。そして朝が来るのを待った。


明朝適当な時間に、俺は一日限りの自由の地を後にした。今さら一刻を争うこともないので、それなりの速度でC.Cへと向かった。
ブルマのことが心配だった。確かに一見元気そうには見えたが、凍傷は後でくることがあるからな。ブリーフ博士にブルマの状態は伝えてあるので大丈夫だとは思うけど。
それともう1つ、個人的な心配。…やっぱり少しはショックだったみたいだな。クロゼット荒らされてたし。あれはたぶん、服を探してたんだよな。あそこは俺の部屋だから、あるわけないんだけど。
どうしてあそこで平手が飛んできたのかがよくわからないけど、悪いように取られていることは確かだ。とにかく説明しないとな。

お茶の時間も過ぎた頃、C.Cに着いた。俺はまず、ブリーフ博士と話をした。内庭から出てくる博士にばったり出くわしたからだ。博士が言うには、ブルマは朝から寝込んでいて(ただしそれは何の変哲もない風邪とのこと)、耳と頬に少し凍傷の気があるかもしれないということだった。それらを耳に入れながら、俺は昨夜のブルマの姿を思い起こした。
そうか。頬に赤みが差したと思ったのは、凍傷の発赤だったのか。…やっぱり素人って危ないな。考えてみれば、顔は温めてないしな。女の子なのにな。失敗したなあ。
ロックはかけていないということなので、ブルマの部屋に行ってみた。珍しく悪くない寝相で眠るあいつの顔を覗き見た。
確かに頬が赤い。…少し腫れてるかな?いや、そうでもないか。腫れがなければ大丈夫って言ってたしな。たぶん平気…
その時、やおらブルマの目が開いた。目と目が合った。途端にあいつは頭から布団を引っ被った。
「おい、ブルマ…」
ちょっと傷つくんだけど、その反応。
「出てってよ」
布団の中からくぐもった声が聞こえて、俺はさらに傷を抉られた。
やっぱり、悪いように取ってるな。いや、実際俺が悪いんだけど。
俺は背筋を伸ばした。できるだけ平静を装いながら、言葉を紡いだ。
「ごめん。あんなことになるとは思わなかったんだ。誰もいないと思ってさ」
「もういいわよ」
意外にもすんなりとブルマはそう言った。…酷く無機質な声で。
やっぱり怒ってるな。しかもかなり怒ってるな。怒鳴りつけこそしないけど、声音がそう言っている。むしろ怒鳴られるより怖い。
「本当にごめん。…あの、一応言っておくけど、俺何も…」
下着姿は見ちゃったけど、あの時はそれどころじゃなかったし。それに、もしこいつがそういうことを気にしているのなら、そこは伏せておくべきだよな。
とにかく、いくらでも謝るからさ。その態度をどうにかしてくれよ。
俺の思いは伝わらなかった。ブルマは俺が言い終える間もなく、唐突に叫んだ。
「うるさい!!」
「ブルマ…」
「出てって!」
取り付く島もないとはこのことだ。
「とにかくごめん。…話はそれだけだ」
俺は話を切り上げた。自分自身を宥めながら。


一晩を無為に過ごして、俺はいつもの早朝トレーニングを開始した。
ブルマの凍傷の予後がはっきりするまで、ここにいるつもりだった。だって、俺の責任だし。そうとなれば、やはり修行だ。俺が謹慎したからといって、あいつが回復するわけじゃなし。だいいち、体が鈍る。
朝日も昇りきった頃、俺は一通りのメニューを終え、キッチンへと赴いた。
ブルマがいた。いいとは言えない顔色で、コーヒーを啜っていた。頬はまだ赤い。起きてていいのかな。
「おまえ、もう…」
そう声をかけた途端、ブルマが動いた。瞬時に顔を背けると、持っていたカップを乱暴にシンクに叩きつけた。そしてキッチンを出て行った。それを見送る俺の心は、いつもの呆然とは程遠かった。
…わかっているさ。俺が悪いのだということは。
俺が当てた。俺が堕とした。…俺が脱がせた。全部、俺が悪い。
そう反芻しながらも、自分の心に棘が芽吹くのを、俺は止められなかった。
俺だって、わざとやったわけじゃないのに。そんな風に突っぱねることないじゃないか。もう少し聞く耳持ってくれたって…
キッチンシェルフからコーヒーカップを取り出した。無意識のうちにそれは、強くテーブルを叩いた。ふと、近接するリビングにいたウーロンの視線に気づいた。
「おまえら…」
いつもの台詞を言われる前に、俺はそこを後にした。

3時のお茶も終えた頃、ブルマが早々と学院から帰ってきた。
その時、俺はポーチを潜り抜けたところだった。外庭へ出るために。規則正しい生活。規則正しい修行。そこへ、規則に反した人間がやってきたというわけだった。
具合悪いのかな。
瞬時にそう考えた。ブルマの態度に不快を感じてはいたが、それとこれとは話が別だ。あいつは今療養中の人間だ。なのに学院なんかへ行ったりするから…
俺は足を速めた。まっすぐこちらへと向かってきていたブルマは、一瞬俺と視線を絡めると、すぐさま顔を伏せた。
…何だよ。
まるで俺がそこにいないかのように歩を進めるブルマの姿を横目に、俺の眉は自ずと集まった。

…もう放っておくか。
会いたくないって言ってるんだし。渡りに舟だ。修行しに行くか。
いくらか時間が経てば、あいつも落ち着くだろ。

夕食の時間になる前にC.Cを発つことに、俺は決めた。みんなの揃った場所であんな態度を取られてはかなわない。すでにウーロンには感づかれているようだし、これ以上の不愉快はごめんだ。
今度は誰にも知らせず行こう。いや、そうだな、キッチンにでも張り紙しておくか。ママさんあたりが見つけてくれるだろう。後で改めてプーアルに連絡すればいい。
さっ、そうと決まれば、準備、準備。修行、修行。

さて、どこへ行こう。
また北の森かな。それとも、別の場所を探そうかな。
知らず知らずのうちに、俺の心は浮き立っていた。不謹慎?まあそう言うな。これが俺の本分だ。
それに、あいつにとってもこの方がいいんだ。…たぶん。だから、一挙両得ってもんだ。
エアクラフトに荷を積み終え、なんとはなしに手を打ったその時、背後から声が聞こえた。
「…どっか行くの?」
瞬時に俺は身を固まらせた。…ブルマだ。
緩んだ顔を見られたくないのと、あいつが目を伏せる様を見たくないのと半々で、ブルマに背中を向けたまま、俺は答えた。
「修行だよ」
そう、修行。俺の本分。
それと、今のおまえの欲求を満たすものだ。
続く言葉はなかった。俺はそれを了承の合図と受け取った。例えそうじゃなくとも構うものか。これ以上、こいつに不機嫌をぶつけられるのはごめんだ。
俺はエアクラフトのタラップに足をかけた。ふと、進行方向とは真逆の方向へ働く力を感じた。その力点に、俺は目を落とした。
ブルマの手が俺の上着の裾を掴んでいた。

…なんだろう、この手は。
行くなってことなのかな?でもまだ怒ってるみたいだけど。

俺はブルマを返り見た。あいつは即座に目を逸らした。依然、口は尖らせたまま。俺の裾は離さぬまま。
…正直、さっぱりわからないんだけど。
固く固く、ブルマは裾を掴んでいた。それを強引に振り解くような性質は、俺にはなかった。
俺は息を吐いた。自然と構えは消えた。
…しょうがないな。少し話すか。


俺は心底まいっていた。まったくどうすればいいのかわからなかった。
なんとなくその手を掴んで――裾から手を外した、その成り行きで――ブルマを俺の部屋へ連れてきたはいいが、こいつさっぱり喋りゃしねえ。床に尻をつき、膝を立て、その足を両腕で抱え…その体操座りの格好で、ただただ黙ってやや離れて、俺の横にいる。…そう、俺の横に。
一体何だってんだ。怒ってるんじゃなかったのか?怒ってるんなら、どうして傍にくるんだよ?
いや、まさか本気でそう思っていたわけじゃない。俺の本音はこうだ。
怒ってないなら、少しはそれらしくしやがれ。
そう、こいつは怒っていない。…としか思えない。
事の経緯を、俺は話すことにした。こいつが遭った事故の経緯を。
ある程度は伝わっているはずだけど、やはり俺の口から話しておくべきだと思ったし、できることなら心象を和らげておきたかったし、それにそれしか思いつかなかった。話すことが。
光の正体だけを僅かにボカして、俺はそれを話し終えた。そして最後に付け加えた。
「ごめんな」
ブルマは僅かに目線を寄越しただけだった。
おまえなあ。
俺がこんなに一生懸命、恥を忍んで話しているというのに。謝っているというのに。その態度は何なんだ。不貞腐れるのもいい加減に…
そう思う一方で、違う気持ちが沸き起こってきていることも自覚していた。
首を竦め体を丸めて、困ったように身を縮こまらせるブルマ。
そう、こいつは困っている。一体どうしてなのかはわからないけど。
自らを隠すように丸めた手足。まるで迷子になった子どものような、戸惑いを湛えた瞳。抱きしめ慰めてやりたくなる、頼りなげな表情。
…小さな女の子みたいだ。
決して体の触れないその距離に身を置いたまま、俺はブルマの頭に手を伸ばした。
ブルマは僅かに身を逸らした。…大丈夫、何もしないよ。
菫色の髪に触れた。今度はブルマは身動ぎすることなく、黙って髪を撫でられていた。やっぱり、顔は伏せながら。
…かわいいな。

俺はブルマの額にキスをした。小さな女の子にするように。
すでにこの時には沸き起こっていた、いつもの衝動を押し込めながら。

しょうがないよな。やっぱり、俺は男だ。
でもまあ、いいさ。

それは明日に取っとくさ。
拍手する
inserted by FC2 system