切らせる女
まるで俺を捕らえるように、背中に回された細い腕。素直に胸に沈み込む菫色の髪。時折見上げる青い瞳。
珍しくも優位な雰囲気の中に俺はいた。
…その台詞を放たれるまでは。

「ねえ、それでどんな髪型にする?」
ふいに胸元から明るい声が飛んできて、俺は菫色の髪を弄る手を止めた。…またきたか。
「やっぱり切るのか…」
どうしても切らなきゃダメか?
なぜそんなに俺を短髪にしたがるんだろうな、こいつは。自分は長いくせに。
手元に流れ落ちる髪を、俺は今一度掬ってみた。まっすぐでさらさらの、手梳きのいい長い菫髪。出会った時から変わらない。…ズルいよな。
「やっぱりって何よ。そういう約束でしょ」
ブルマが俺を仰ぎ見た。甘さと咎めが絶妙にブレンドされたその眼差しに流されかけて、俺は目を閉じた。
「う〜ん…」
俺はなんとか踏みとどまり、先ほどの心の反駁を口にした。…形を変えて。
「もう少し伸ばしたいんだけど」
「それ以上伸びたら山親父になっちゃうわよ」
あっさりそう切り捨てられて、再び俺は瞼を落とした。…一体どう言ったら、わかってもらえるんだろうな。
「じゃあさ、来月にしないか?おまえもいろいろ忙しそうだし、俺も帰ってきたばかり…」
この台詞は言い終えられなかった。尖った口から放たれた怒声が、俺の声を掻き消した。
「どうして切るのを嫌がるのよ!?」
「おまえこそ、どうしてそんなに切りたがるんだ」
…あ、言っちまった。
ブルマが俺を睨みつけた。俺は思わず身を反らした。だが俺が意外に思ったことに、ブルマの瞳は燃え立たなかった。
「わかったわよ。もういいわ。でも明日は付き合ってよ。服買い直しに行くんだから。あんたがダメにしたんだからね」
今度は俺は逆らわなかった。もとより逆らえる余地などない。むしろ、それくらいのことで済むのがありがたいくらいだ。
正直なところを言えば、明日のその買い物模様を想像しただけで、疲れを感じてしまいはするが。こいつの買い物って、ほとんど無限地獄だからな。でも俺が悪いことは確かだし。それに、事故直後の態度を思えば、今のこいつはかわいいもんだ。
ふとブルマと目が合った。あいつはどことなく笑みを浮かべて、再び俺の胸に沈み込んだ。
…やっぱり、こいつまだちょっとおかしいよな。
俺はブルマの顔を覗き込んだ。今やまったく紅潮していない、その頬を。


翌朝、俺はいつもより少々早めに目を覚ました。
ブルマが起き出す前に、トレーニングを終えておかないと。朝の鍛錬は、俺にとって重要な活力源だ。やるのとやらないのとでは、その日一日の心の張りが違う。
いつもよりやや多めにメニューをこなし(昼間やれない分だ)俺がリビングへと赴くと、すでにブルマがそこにいた。俺は瞬時に身構えた。
「あんた、こんな日にまで修行してるの?」
開口一番ブルマは言った。朝の挨拶もなしに。その普段と変わらない声のトーンに、俺は安堵した。どうやら起き抜けではないらしい。…よかった。
「おまえこそ早いじゃないか」
異常気象の前触れだろうか。
俺は窓の外に目をやった。…こんなに晴れているのになあ。
「当ったり前でしょ」
胸を張ってブルマは答えた。デートの朝はどうとかこうとか。それを聞いた俺の心は、大変複雑だった。
おまえ、俺を無理矢理海に引っ張り出した時も、俺がここを発つ時も、いつだって寝坊していたくせに。なのに、こんな時だけ早起きしやがって。一体どういうことなんだよ、それは。
だが、俺はそれを口にはしなかった。なぜって?…虚しいじゃないか、そんなの。
そんな俺の心中も知らず、ブルマは居丈高に言い放った。
「ちゃんとシャワー浴びてよ」
「わかってるよ」
言われなくてもそうするって。そのために早起きしたんじゃないか。いちいちうるさいんだからな。
その思いはシャワーで流した。

異常気象の前触れだろうか。
俺は空を見上げた。…こんなに晴れているのになあ。
街へ着くなり、ブルマは公園を歩きたいと言い出した。それには特に異存はなかった。
公園は別に嫌いじゃないし。いや、買い物に付き合わされることに比べれば、むしろ大好きだと言ってもいい。
どちらかというとブルマの方が、こういうところをあまり好きではない。俺はそう思っていた。嫌いというほどのものではないのだろうが、街へ来た時は、いつも闇雲に買い物していた。こんなところ時間の無駄だとでも言わんばかりに、足早に通り過ぎていた。
それが今日は、妙におとなしく腕を絡めながら俺の方にしなだれかかって、のんびりと歩を進めている。妙だよな。…悪い気はしないけど。
俺は再び空を見上げた。
…こんなに晴れているのになあ。

「さあ、探索開始よ!」
公園から一歩を出るなり、ブルマはいつものブルマに戻った。もはや公園には目もくれず、店から店へとその目を走らせ歩いていく。異常気象の危機は去った。よかったよかった。雨が降るくらいなら構わないけど、異常気象はさすがに嫌だからな。
「何買おっかな」
常と変わらぬその声音に落ち着きを取り戻しながらも、俺は訝った。ブルマの台詞だ。
「買い直すんじゃなかったのか?」
あの時の服の責任を取るために、俺は連れて来られたはずだが。
こいつのことだから、それだけで終わるなどとは思っていなかったが。それにしたって忘れすぎじゃないのか。
この当然(だよな?)の俺の疑問に対し、ブルマは飄々と言ってのけた。
「バカね。同じ服買ってどうするのよ」
何だって?
話が違うじゃないか。おまえ、『買い直しに』行くって言ったくせに。言葉は正確に使え。だいたいそれじゃ、俺は一体何のために連れて来られたんだ。
…ひょっとして、嵌められたのか?
「ちょっと、何よその顔」
自分の迂闊さに愕然としかけた俺の耳に、ブルマの声が響いた。
「3年ぶりのデートなのよ。もっと楽しそうな顔しなさいよ」
無茶言うな!
おまえが騙したんだろうが、おまえが。楽しそうにしてほしいなら、それなりに計らえ。だいたい3年ぶりって言うけど、時々買い物行ってただろうが、一緒に。…まあ、デート未満であることは認めるけど。
でも、そういうことならそうと最初から素直に言えばいいのに。まったく図るよな、こいつも。
思わず溜息が出た。呆れと何かの入り混じった溜息が。
…しょうがないな。


「なあ、どこへ行くつもりなんだ?」
片手の指ほどの店を渡り歩き、少々小腹も空きかけた頃、俺はブルマがどこかへ誘導しようとしていることに気づいた。
いや、正確に言うと気づいてはいなかった。ショッピングエリアのメインストリートを外れようとするその様を、少々訝しく思っただけだ。その疑惑が育ったのは、俺の言葉を受けたブルマの顔を見た時だ。
「…えっとー」
ブルマはあらぬ方向に目をやりながら、わざとらしく品を作ってみせた。
「だって、ほら。せっかく街に来たんだし。やっぱり整えておかないと。ねっ」
唇に指を当てにっこりと微笑みながら見上げるブルマの瞳は、俺の心を全然揺るがさなかった。
似合わなすぎなんだよ!
こいつは人を騙すのはお手のものだが、土壇場の誤魔化しなんかはてんで下手なんだ。媚が似合わないんだよ、媚が。全然板についてねえ。完全に性格のせいだな。
まあ、そんなもの似合わなくていいんだけどさ。むしろ俺としてはその方が…いや違う、今はそういう話をしている時じゃない。
俺はブルマの瞳を見据えた。『整える』…その言葉が譲歩に感じたのも、すでに過去の話だ。
「おまえ『もういい』って言ったよな?」
こいつが意趣を返すなんて珍しくもないことだ。そんなことわかってる。だけどな…
気の咎めた素振りなどまったく見せず、ブルマは飄々と言い放った。
「そりゃ、あの時はそう言ったけど。やっぱり切らなきゃダメよ。約束したでしょ」
だったら最初からそう言え!
正直、髪を切ることにはそこまで執着しないがな。やり方が気に食わん。俺じゃなくたって、気に入るやつなんか絶対いないぞ。いくらなんでも図りすぎだ!
「俺は切らないぞ」
そっぽを向きつつ、俺は切り捨てた。当然だ。
「何言ってんの。せっかくアポイント取れたのに。すっごい人気店なのよ」
そういう問題じゃないだろ!
こいつまたいつものように、済し崩し的に進めようとしているな。気づいたら話がすりかわってるんだよな。そしてOKしてるんだよ。
「冗談じゃない」
そういつもいつも流されてたまるか!
言い捨てて、俺は駆け出した。これ以上こいつと話していたくなかった。悔しいが、丸め込まれるのが目に見えている。ここは逃げの一手だ。
俺は走った。メインストリートへ戻り、人込みに紛れ、角を曲がって、小路に入り、行き止まっては、もと来た路を戻った。ブルマはそれを最短距離で追ってくる。そうだ。
俺の方が足は速いが、路に詳しくない。ブルマはそれのまったく逆。だから対等だ!ショッピングエリアにはな、男女格差なんてものはないんだ。よって、全然卑怯じゃないんだ!
1/3時間程を費やして、俺はブルマをまいた。…と思う。あいつは体力がないからな。おそらく今頃はどこかでへたり込んでいるだろう。…やっぱり卑怯だったかな。
だけどな、あいつが悪いんだぞ。あいつが俺を陥れようとするから…普通、彼女は彼氏を陥れたりしないだろ。そりゃ、あいつは普通じゃないけどさ。
ワンコインドリンクを飲みながら、ぼちぼちと歩を進めた。
さて、どうしようかな。
エアカーのカプセルはすべてブルマが持っている。まさか、こんなことになるとは思わなかったからな。…まあいいか。マラソンがてら歩いて帰るか。
空になったドリンク缶を握り潰し、それをゴミ箱に放り込もうとして、俺は慌てて身を建物の陰に隠した。
ブルマだ。ちょうど俺が入ろうとしていた小路の真ん中に、ブルマがいる。僅かに息を乱しながら、周囲に目を配っている。あいつ、まだ探してたのか。根性あるなあ。…こんな時だけな。
一瞬、俺は迷った。あいつのところに戻ろうかと。少しかわいそうな気もしてきたし。でもなあ。
やっぱり、あいつが悪いよな。一方的に段取りつけやがって。それを伏せてたというのが、どだい許し難い。だいたい、俺の髪は俺の物だ。…やっぱり帰ろっと。
俺が踵を返しかけたその時。
「やあ、ブルマ」
あいつを呼ぶ声が聞こえた。俺は思わず足を止めた。その声に聞き覚えがあったからだ。
ブルマはともかく、俺の知り合いで街中で会いそうなやつなんて、そうはいない。興味に駆られて、俺は振り返った。見覚えのない男がそこにいた。
「あら、リーク」
ブルマの発したその名前にも、聞き覚えはなかった。だが、どこかで聞いた声だ。不思議とはっきり覚えている声だ。
胸に何かが痞えたようなもどかしさに捉えられ、俺は2人の会話に耳をすませた。その内容になど興味はないが、こいつが誰だか思い出したい。その一心で。
「ひさしぶりね。今、何やってるの?」
「ツイスター理論だよ」
その一言で思い出した。ブルマの研究者仲間だ。ハイスクール時代の…
『偽物』だ。
俺は1つ大きく息を吐いた。そして踵を返した。
正体がわかった以上、ここに留まる理由はない。…あいつとブルマが何を話そうが知ったことか。
その場を離れかけた俺の背中に、ブルマの声が届いた。
「さすがね。よかったら話聞かせてくれない?ランチでも食べながら」
瞬時に俺は振り返った。男の姿はもう目に入らなかった。ただ菫色の髪の下にある、その表情を見た。あいつは今まで自分が何をしていたのかなど、まったく忘れているようだった。
…おまえ、俺を探してたんじゃなかったのか?
『3年ぶりのデート』なんだろ?…見切り早すぎないか?
俺は自分の手元を見た。握り潰したドリンク缶。そうだ、俺はこれをゴミ箱に放り込もうとしていたんだ。
やや離れたところに設置されたゴミ箱目がけて、俺はそれを放り投げた。力を込めて。それは放物線は描かずに、見事ゴミ箱におさまった。ガン、と大きな音が鳴った。すでに入っていた缶が1つ、弾き出されて路上に転がった。傍にいた男女が驚いたようにこちらに顔を向けた――
――ブルマとその男が。

「ヤムチャ?何してんの、あんた」
ブルマの言葉に、俺は答えなかった。無言のままに、努めてゆっくり、ゴミ箱へと近づいた。…弾かれた缶を拾わなきゃな。
ブルマは黙って俺を見ていた。リークと呼ばれた男がその耳に何か囁きかけたが、俺は気にしなかった。…あいつとブルマが何を話そうが知ったことか。
おもむろに男が去った。俺は足元に転がる空き缶を見下ろした。ブルマが小首を傾げて、俺に言った。
「あんた、今まで何してたの?」
「別に」
缶を拾い上げ、軽く手首を翻した。缶がゴミ箱の上に乗った。ほとんど音を立てずに。ブルマが窺うように俺を見上げていた。俺は溜息をついた。
…結局、戻ってきちまった。
こいつのせいだ。こいつの天邪鬼がな、俺にも移ってきてるんだよ。
ああ、絶対そうだ。


ブルマに片腕を預けた俺は、当然のようにヘアサロンへと引っ張り込まれた。
こいつも厚顔だよな。あんなことがあった後で、よく連れて行けるよ。
端然と散髪台に腰を下ろした俺を尻目に、ブルマと美容師の会話が始まった。
「どういったスタイルにしますか?」
「これと同じヘアスタイルにしたいんだけど」
待て待て、ちょっと待て。
どうして2人で決めるんだ。なぜ俺を外すんだ。俺の髪だぞ、俺の。
言葉と共にブルマがバッグから取り出した写真を、俺は引っ手繰った。おまえ、何だよこれは。こんなもの用意してるなんて聞いてないぞ。希望の髪型があるのならあると一言俺に相談…いや、了解を取りやがれ。
「ちょっと、何すんのよ」
「勝手に決めるな。俺の髪だ。俺の好きにさせろ」
当たり前のことを、俺は言った。…はずだ。
「好きにさせた挙句が、その様でしょうが!」
あっ、こいつまた、話をすり替えようとしやがって。
「俺が俺の髪をどうしようと自由だろ!」
…俺、間違ってないよな?
自分で言うのもなんだが、俺はがんばった。本当にがんばった。こいつにこれほど真っ向から抵抗したのは初めてだ。おそらくは、ここに来る前に味わったらしからぬ緊張感が、俺の精神を高らしめていたのだと思う。
店内の雰囲気が急速に悪化していく中、ブルマはようやく矛をおさめる可能性をちらつかせてみせた。
「わかったわ。じゃあとりあえず好きなヘアスタイルを選びなさいよ。でも、この写真より格好いいやつじゃなきゃダメよ!」
俺は自由をもぎ取った!…と思うのは、まだ早い。
こいつのことだ、どうせ何やかやといちゃもんをつけてくるに決まっている。俺はこれからそれを、さらにかわさねばならないのだ。
まったく、茨の道だよな。っていうか、予約時間内に終わるのかな…
溜息をつきかけた俺の鼻先に、ヘアカタログとその写真が突きつけられた。後者を一目見て、俺はうっかり呟いてしまった。
「…結構いいな」
それみたことかと言わんばかりに、ブルマが畳み掛けてきた。
「でしょー?でしょでしょ!イケてるでしょ。あんたなら似合うと思うのよね!」
「うーん…」
癪だけど悪くない。少なくとも茨の道よりは断然いいな。
「じゃあこれで」
「オッケー!!」
俺が言うと、ブルマはにこやかにポーズを取った。
見切り早すぎ?何を言う、決断こそ男の力量の見せ所じゃないか。それにこれだとブルマも機嫌よくいられるし。美容師も助かるだろう。みんな幸せになれるのだ。うーん、俺って大人だなあ。

俺たちは予定時間通りに、ヘアサロンを後にした。
やっぱり、ちょっと涼しいかな。
のんびりと歩を進めながら、ショウウィンドゥに映る自分の姿を認めて俺が後ろ髪に手をやると、ブルマが嬉しそうな声を上げた。
「ねっ。あたしの見立て通りでしょ!すっごく似合ってる!あんた絶対、短い方がいいんだから!」
そして媚びのない瞳で俺を見上げた。
…ま、いいか。
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