隣の女
束縛されているな、と感じる時がある。

ブルマが地図を広げだした。俺は荷を造る手を休めて、それを見た。
「で、平原のどこ?」
「山の麓かな。或いは森の中か…」
とにかく人目につかないところだよな。中央部は花畑があったりして、観光客も来るらしいし。…あまり適している場所とは言えないよな。本当はもっと人里離れた場所がいいんだけどなあ…
消去法的にいくつかの場所をピックアップして、俺は地図にペンを走らせた。記された5つの印を見て、ブルマは眉を吊り上げた。
「ちょっと。もっとはっきり決めてよ」
「そんなこと言ったって、行ってみないとわからないよ」
初めて行くところなんだからさ。それにひさしぶりだし。
武道会から3ヶ月が経った頃。ようやく骨折が完治して、俺は再び修行の旅に出ることにした。武道会での敗退、そしてたった1人でピッコロ大魔王を打ち倒した悟空の存在が、俺にその決断を促した。
C.Cでブルマと過ごしながら修行をするのも楽しいけどな。でもやっぱりぬるい。理性によらず、俺は肌でそう感じていた。
様々な思惑を秘して答えた俺の言葉に、ブルマは口を尖らせた。
「本当にいい加減なんだから」
「いいじゃないか、行って帰ってくるだけなんだから。どうせおまえは来ないんだろ?」
そう。ブルマは俺の修行先には来ない。
学院へ入ってからというもの、ブルマがそうしたことはまだ一度もない。ハイスクール時代とはうって変わって、学業に打ち込んでいる。大変結構なことだ。
「そういう問題じゃないでしょ!居場所を知らせるのは、人として当然のことよ。そうしないのはね、蒸発とか世捨て人って言うのよ」
「はいはい」
苦笑しながら俺は頷いた。ブルマの言うことは最もだ。それは俺にもわかっている。問題は、つい忘れてしまうということだ。人里離れて修行していると、そういう俗世的感覚が気づかぬうちに薄れていく。
そのことも俺は自覚していたので、一連のブルマの言葉を不快には感じていなかった。むしろ、注意を喚起してくれてありがたいくらいのものだ。
ブルマが地図を折り畳んだ。再び荷造りへと戻った俺は、ややもしてかけられた言葉に、またもや手を止められた。
「15日の約束、忘れないでよ」
「わかってるって」
忘れるわけないさ。…この修行場所にいる限りはな。
無意識のうちに、床に転がる地図に目を落とした。自分の瞳に皮肉めいた光が浮かび上がるのを自覚して、俺はふと目を閉じた。
都から僅かに100km強程離れた、西の平原。それが今回の俺の修行場所だ。人の手の入っていないところも多いが、局地的には観光スポットともなっている。人里離れているとはとても言えない場所だ。本来、修行場所に選ぶようなところではないのだが、俺はここに行くことに決めた。
だって、またすぐ(一週間後だ)戻って来なきゃいけないとわかっていて、遠くにいく気しないだろ。
…そして、俺が束縛を感じるのは、こういう時だ。
ブルマとデートすることが嫌だというわけではない。嫌なら断ればいい。だから、これは俺個人の問題だ。
でも、そうとわかっていても、少し感じてしまうんだよな。
しょうのない人間だよな、俺も。

詰め終わった荷を片手に、エアクラフトのカプセルをポケットに忍ばせた。ドア横のコンソールに手を伸ばしかけた俺の服の裾を、ブルマが引っ張った。
「何だよ」
訝しく思いながら振り返った俺に、服の裾は掴んだまま、ブルマが言った。
「お別れのキス!」
それは、ブルマの口から出るものとしては、初めて聞いた言葉だった。
「たった一週間だろ」
「一週間でも別れは別れよ」
何なんだ、一体。
別にキスするのが嫌ってわけじゃないけどさ。今までこんなこと言い出したことなかったくせに。その時の気分で態度を変えるの、やめてほしいよな。
それに、こういうのって一度したら、ずっとしなきゃいけなくなるんじゃないだろうか。…と思わせておいて、次回には何もなかったりするんだよ、こいつ。疲れるんだよなあ、そういうの。
「ん」
でも、俺はブルマの言う通りに、キスをした。だって、逆らえるはずもない。
それに、悪い気はしないしな。


問題の西の平原。俺はそこのとある森の中で一週間を過ごした。
消去法的に選んだ場所の中から、さらに消去法的に選んだ場所だ。本当は木なんかない方がいいんだけど、やっぱり人目が気になるんだよな。人に見られて困るようなことをしているわけではないが、数年前と比べれば俺の武道も独特のものになってきているし(かめはめ波とかな)、観光客に見物されて楽しいはずもない。修行は人里離れた場所に限るよ。今回それを痛感した。
しかし、それも一週間きりのことだ。ブルマとのデートが終わったら、うんと人里離れた場所へ行ってやる。
皮肉なことにそれが1つの糧となって、俺は修行に熱を上げた。


デート当日。俺はC.Cには寄らずに、待ち合わせ場所へと直行した。それが唯一の近場修行のメリットだからだ。遠くにいると前の日から帰って来なきゃいけなかったりして、余分に時間を取られるからな。もともとそれが理由で近場に留まることにしたのだ。
待ち合わせ場所は、俺たちの間では定番の1つとなっているとあるカフェ。何の変哲もないカフェだが、イチゴのデザートが豊富であるところがブルマのお気に入りだ。そう、俺の嗜好は反映されないのだ。別にいいけどな。
約束の時間は10時。俺はブルマを待ちがてら、ダッチコーヒーを飲んだ。次にやや退屈を持て余して、2杯目のダッチコーヒーを飲んだ。さらに間を持たせるために、3杯目のダッチコーヒーを飲んだ。ついには4杯目のダッチコーヒーを頼んだ。
…遅い。
2杯目まではウェイトレスの目も温かかったが、4杯目ともなると、その目が同情的になるばかりか、俺の腹もくちくなってくる。いろいろと限界だ。
カフェの壁に掛かる時計を見た。13時5分…
「待ち合わせしてるんだけど!!」
大声と共にカフェのドアベルが鳴った。声の主を、俺は見るまでもなくわかったが、敢えて見た。思いっきり見た。睨みつけてやった。
一瞬目の前のウェイターに目をやってから、ブルマは俺の座るテーブルへとやってきた。
「お・ま・え・なあ〜〜」
震える拳を握り締め、俺はブルマと目線を合わせた。
「一体何時間待ったと思ってるんだ!!」
ブルマは僅かに体を竦めながらも、声音は萎縮することなく答えた。
「…2時間くらい?」
「3時間だ!!」
もう1時間待って来なかったら、帰ろうと思ってたところだ!!
「C.Cに電話しても誰も出ねえし!!」
こいつや博士はともかく、プーアルまで出ないとはどういうことだよ!!なあ!?
俺の声は誰にも届かないのか?…なあ。
「ご、ごめん。徹夜続きだったものだから。研究が佳境に入ってて。謝るから。許して?」
「ふん!!」
引き攣った笑顔と共に見せるブルマの陳謝の姿勢を、俺は鼻息一つで吹き飛ばした。当然だ!
一体どれほど厳しい時間を、俺が過ごしたと思ってる!?俺はおまえの遅刻にはいい加減慣れているけどな、他の人間はそうじゃないんだ。俺を見る周囲の人間の、不憫そうなあの目つき。ほとんど『一方的に彼女に振られた不幸な男』扱いだ。帰るに帰れないじゃないか。…本当に、来てくれてよかったよ。
「エスプレッソね」
内心の安堵を隠し怒り続ける俺をそのままに、ブルマがウェイターを呼び止めた。そのオーダーで、俺はわかった。
…寝坊か。朝のコーヒーもとらずに飛び出してきたってところか。一体、何時まで寝てたんだこいつは。徹夜って言ってたな…
さりげなくブルマの顔に目を走らせた。…徹夜したにしちゃ血色のいい顔してるけど。まあ、やつれているよりはいいか。
ややもして、エスプレッソを啜りながら、ブルマが飯を食いに行こうと言い出した。怒りのポーズはそのままに、俺はそれに同意した。
時刻は13時20分。たぶん腹は減っているはずだ。今は水っ腹で、そんなこと全然感じられないけど。
ブルマに促されて、俺は重い腹を上げた。

ブルマに連れられていったカフェレストランは、一風変わった造りだった。
食事を取るためのカウンタースペースとバッグ売り場が一店舗化している。なるほど、済し崩し的に男にプレゼントを買わせようというコンセプトか。こいつは騙される男がいっぱいいそうだ。
その点俺は安心だがな。こいつは買い物に付き合せはするが、強請りはしないからな。…金持ちの彼女は持つものだな。
「ここすっごく評判いいのよ。まだ食べたことはないんだけど」
俺の洞察を裏付けるように、ブルマは売り場については一切言及せず、いつもの明るい口調でそう言った。俺はナプキンを膝上に広げながら、黙ってそれを聞いていた。
一体、どういう神経してるんだろうな、こいつは。全然悪びれてないよな。嫌みがないっちゃあなくていいけど。
でも、俺はもう少し怒り続けるぞ。当然の権利だ。甞められてたまるか。
ブルマは常と変わらず程々饒舌に話し続けた。俺はあくまで無言を通して、それを聞いていた。オーダーを決める段になって、ブルマが言った。
「ねえ、別々の物頼んでシェアしましょうよ。それとアラカルトね」
この台詞に俺は思わず答えてしまった。
「そんなに食べられないだろ」
だって、こいつ特別大食漢というわけじゃないのに。水っ腹も解消してきたとは言え、俺だって人並みだし。
「こういうところのは量が少ないのよ。それにあんた男でしょ」
そういうもんか。
俺は再び口を噤んだ。うっかり乗ってしまった自分にも腹が立ったし、だいいちこういうところはブルマの方が詳しい。任せておくのが無難というものだ。

ようやく空腹感がやってきた頃、料理が目の前に置かれた。ほとんど同時にそれに手をつけて、俺とブルマはやっぱり同時に声を出した。
「うまいな」
「おいしいわね」
俺の言葉にブルマは目を輝かせ、行儀悪くフォークで俺の皿を指し示した。
「本当?一口ちょうだい!」
「もう少し食べてからな」
またもや俺は答えてしまった。だって、本当にうまいんだ。
それに、いいものを他人に譲る、という精神はブルマにはないからな。渡してしまったが最後、食われ尽くしてしまいかねん。
4割方食べ進めて、俺は皿を押しやった。ところが、ブルマは自分の皿を動かそうとはせず、その一切れにフォークを突き刺した。
…おまえ、両方がめる気か。とりあえず俺はいいとしてもだな、周囲の目というものがあるだろ。恥ずかしくないのか?
それを言うか言うまいか一瞬迷っていた隙に、ブルマがその行為をやってのけた。
「はい、あーん」
「な!!」
口元にそのフォークを向けられて、俺は思わず大声を上げてしまった。カウンター内の隅にいたウェイターがこちらを見た。俺はあわてて口を押さえた。
「おまえ!そういうこと…」
こんな目立つところですんな!
「冗談よ、冗談」
カラカラと笑いながらその手を引っ込めると、ブルマはその一口を自分の口に放り込んだ。
ああ、冗談か…あー、びっくりした。
まったく本気に取ってしまった。考えてみれば、こいつそんなこと一度もしたことないしな。…そうか、冗談か。
俺は息を吐いた。安堵の息だ。本当だぞ!
気づくとブルマが、皿をこちらに押しやりながら、にやにやと俺を見ていた。
おまえ、どうしてそんなに悪びれてないんだ。恥ずかしくないのか?
俺は思わず頭を抱えた。
…緊張感がどっかへ飛んでいっちまった。

「じゃ、映画でも観よっか。あまり時間もないし」
おまえが遅刻したからだろ。
その台詞を言う気は、もう俺にはなかった。完全に気が殺がれてしまっていた。
本当は、今日は遊園地に行く予定だったんだよな。でも、もうすぐ夕方だし。今から行ってもさして遊べないしな。
俺たちはシアターへと行きがてら、公園をのんびりと歩いていた。ふと、俺の左で腕を絡ませるブルマを見た。まったくいつもの表情だ。
こいつ、どうしてこんなに悪びれてないんだろう。俺が遊園地好きなこと知ってるくせに。完全に予定を狂わせたくせに。しかも寝坊なんかで。
「今、忙しいのか?」
ブルマの遅刻の言い訳を思い出し、俺は訊ねた。
「学士の準備あるから。そろそろ実験終わらせなきゃ」
その言葉からはブルマの状況はさっぱり読み取れなかったが、忙しいのだということだけはわかった。
こいつは、暇な時は暇とはっきり言うからな。暇だから構え、とか。本当は大変なのに平気ぶったりもするし。だから、こいつが大変だと言ったら、それは本当に大変なのだ。それだけは確かだ。
俺は再びブルマを見た。今度は表情ではなく、その顔色を。
やっぱり血色いいけど。でもこいつ、徹夜して機嫌悪いことはあっても、顔色悪くなったりはあまりしないからな。見た目からじゃわからないか…
あ、吹き出物みっけ。
俺はなんとなく優しい気持ちになって、ブルマのその部分を撫でた。自然、歩みは止まった。ブルマが口を尖らせた。
「ちょっと、やめてよ」
うーん、どうしようか。
本来、今日のこいつは俺を咎められない立場なんだよな。少しはそれを喚起すべきだよな。どう考えても、俺甞められてるし。たまには俺も甞めてかからないと。
だから、俺は甞めた。
吹き出物の上――ブルマの唇を。


結局、俺たちは映画を観なかった。
公園の、木陰に据えられたベンチの上に寄り添って、暮れ行く夕陽を眺めた。
こういう時は、ブルマはあまり俺を甞めない。いいことだ。でも、少し調子に乗ったりはする。そして、大概そういう時は(こいつにしては)甘い言葉を吐く。
「ねえ、今日はあたしの部屋に来ない?たまにはいいでしょ」

――ほらな。
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