隣の女(後編)
――ちょっと待て。
ブルマの態度はある程度予想していたものの、その口から出た言葉は、俺には完全に想定外のものだった。
「今日はも何も、俺これから帰るんだけど」
C.Cに戻る気など、俺には毛頭なかった。当然、口に出してもいない。素振りだって見せていない。勝手に決めるなって話だ。
だいたいそんなつもりがあったなら、最初から修行になど出ていない。一週間に満たない修行の旅なんて、面倒くさいだけだ。
俺が言うと、ブルマは口を尖らせながら、瞳を見開いて俺を見上げた。
「えぇー?何でよ。まだ話足りない!」
「おまえが遅刻したからだろ?」
反論の余地なし。…のはずのことを俺は言った。
本当は言いたくなかったけどな。突発的に口から出た。だってそうだろ。それに関しては全面的にこいつが悪いのに、棚に上げるのにも程があるというものだ。
ブルマは反論しなかった。そのかわり、ほとんどいちゃもんとも言える言葉を吐いた。
「あんた、そういうこと言うわけ!?」
「言うも何も事実だろ?」
そう、事実だ。なのにこいつは、勢いだけでそれを跳ね除けようとしている。
こいつはいつもそうだ。そして大概、俺はそれに押されてしまう。だが、今日はそうはいかない。
俺は今日のデートのために、自分の行動範囲を狭めた。『遊園地へ行く』という条件でOKしたはずのデートの内容を変更することも黙認した。こいつの大幅な遅刻も、結局は許した。これ以上譲歩する必要がどこにある?
そもそも、こいつの抱いている不満は自業自得だ。たまにはこいつも、そういうものを味わうべきだ。
ブルマは溜息をついた。落胆や諦めからくるものではない、侮蔑の溜息だ。鈍いと言われる俺にも、それがわかった。
「だからあんたはダメなのよ。もっと臨機応変にいきなさいよ!」
「臨機応変?」
俺は眉を吊り上げた。その言葉に腹が立った。…そう、ここまでは許容範囲だった。甘いよな、俺も。
「自分で遅刻しておいて、予定を潰した挙句に相手を拘束するのが、臨機応変か?そういうのはな、自分勝手って言うんだ!」
自分の甘さと共に、ブルマを切り捨てた。すでに妥協の余地はない。俺はブルマに背を向けた。
「とにかく俺は帰るぞ。明日からまた修行だ」
ブルマがどんな顔をしたのかはわからない。あいつは少し声音を弱めて、だがなおも言い張った。
「わざわざ平原に帰ることないでしょ。どうせ近くなんだから、明日の朝一番に帰れば…」
「あそこには戻らない」
「じゃあどこに行くのよ?」
俺は答えなかった。答える必要などない。これ以上制約されてたまるか。
それに、どうせ行って帰ってくるだけだし。答えずとも問題はない。
歩き出した俺の背に、その言葉が届いた。
「あんた、世捨て人になりたいの!?…捜索願出すわよ」
思わず俺は反芻した。『世捨て人』。『捜索願』…面倒なことになりそうだ。
「…東の谷だよ」
溜息と共に答えた。
「東の谷のどこよ!?」
ブルマがさらに言い募った。俺は駆け出した。そうしろと、俺の理性が告げていた。
これ以上済し崩される前に立ち去れと。そう、俺の理性が告げていた。

まったく、しょうのないやつだな、あいつは。
あれが女王様気質ってやつなのかな。いつかウーロンがそう言っていたな…
そんなことを考えながら、エアジェットの操縦桿を握った。エアクラフトではなく、エアジェットだ。今度は近場じゃないからな。
そして、人気のある場所でもない。初めて行く場所でもない。言わば、俺の庭だ。土地自体は他人のもの(国のものかな)だけど。
エアジェットが地を離れかけて、俺は早くも腕が疼いてきた。思いっきりやってやる。
やっぱり、これが本分だよな。


西の都から遠く離れた東の地で、俺は本分を開放した。
ブルマのことは考えなかった。意識するしないに関わらず。
あの時自分が怒ったことを、俺は後悔してはいない。あんなの、怒って当然だ。誰に聞いたって、あいつが悪いときっと言うぞ。
だからといって、いつまでも根に持ったりはしない。根に持つ程のことじゃない。だいいち、あの程度のことをいちいち根に持っていたら、あいつとは付き合っていけない。
適当な時期に帰って、適当に仲直りするさ。
たぶん、あいつもそう思っているはずだ。


適当な時期に、俺はC.Cに帰った。…2ヶ月ぶりくらいかな?
別にブルマと仲直りするために帰ったわけではない。そこが俺の帰るところだからだ。
そして、人はあまり長期に渡って留守にするべきではないのだ。…とはブルマの弁だ。俺には俺の、理由がある。
探されるんだよ、あまり長く空けると。ブルマと、そしてプーアルに。学院に入ってからブルマが俺を探しに来たことはまだ一度もないが、それはたまたま今のところそうであるというだけで、その性質が消え去ったわけではない。それくらいわかるさ。
それに、以前知人に言われた言葉もあるしな。『淋しがってる』――あいつの態度を見てると信じ難い時もあるけど。…女ってよくわからないよな。特にあいつはさっぱりわからん。
とにかく、時々顔を見せていればうまく収まるのだ。それだけ覚えておけば充分だ。

C.Cのポーチの傍にエアジェットを着陸させて、俺が機内から最初に見たのは、プーアルとウーロンの姿だった。テラスで日光浴がてら茶を啜っている。
ブルマはいない。そりゃそうだ。あいつは学院に行っている時間だ。
荷物とエアジェットをそのままに俺がテラスへ向かって歩いていくと、プーアルが程よく嬉しそうに飛んできた。
「おかえりなさい、ヤムチャ様!」
「ただいま、プーアル」
こいつの程よい笑顔。それも、俺がここに帰ってくる理由の1つだ。
一度泣かせてしまったことがあるからな。嬉し泣きだったけど。喜んでくれるのはいいんだけど、さすがに涙まで浮かべられるとちょっとな。気が咎めるよな。…後で思ったことだけど。あれは武者修行を始めた頃のことだったか…
「おまえら、またケンカしただろ」
顔を合わせるなり、ウーロンがいつもの台詞を、今日は断定口調で言った。
「ちゃんと仲直りしてから出てけよ。おれ、大変だったんだからな」
苦笑しながら俺は訊ねた。
「どれくらいだ?2週間くらいか?」
ブルマが怒っていた期間だ。酷い質問だと思うかもしれないが、やっぱり気になるからな。
それにしても、あいつの怒りの持続時間は本当に長い。疲れないんだろうか。すごいバイタリティだよな。出すとこ間違ってるけど。
おそらくウーロンも同意見なのに違いない。俺に答えるやつの言葉には、呆れがたっぷりと篭っていた。
「1ヶ月半の時点ではまだ怒ってたぜ。今もまだ怒ってるかもな。おまえ一体何やったんだよ」
「当たり前のことを言っただけだよ。っていうか、どういうことだそれは?あいつ部屋に篭ってるのか?」
最も被害に遭う確率の高いウーロンが、あいつの怒りを把握していない。そのことが俺には意外だった。あれから2ヶ月近く経つというのに、まだそんな(部屋に篭るほど)あからさまに怒っているのか。…俺は少し怖ろしくなってきた。
だが、その怖れはすぐに消えた。ウーロンがのんびりとした口調で言ったのだ。
「どっか行ったんだよ、先週末だな。だから正確に言うと1ヶ月半じゃなくて1ヶ月と3週間だ」
その1週間の誤差は、俺にとってはどうでもよかった。
…あいつがいない?
ショックというか新鮮というか、よくわからない気分に、俺は襲われた。
俺が帰ってきた時に、ブルマがいない。こんなことは初めてだ。ブルマのいないC.C。それも初めて…いや、あいつが悟空と海底洞窟へ行ってた時はそうだったか。
でも、それはもうずいぶん前のことだ。すでに懐かしい記憶だ。
俺は頭を掻いた。なぜとはなしに、そうしていた。

ひさしぶりに食卓を「囲む」ということをしながら、俺の心は不思議にたゆたっていた。
どうにも妙な気分だ。
武天老師様の元での修行を終えてから今日までの間、俺の生活は常に二分されていた。
一人っきりでいる時と、そうじゃない時。自分一人でいる時と、あいつと一緒にいる時だ。あいつのいない集団生活の中になど、ここ一年はまったく身を置いたことがなかった。
別に淋しいという程のことはない。…けど、少し退屈だな。とりあえずあいつの怒声を受ける気構えでいたからな。
当然、どうやって仲直りしようかなんてことも、考えていたしな。…その相手がいないというのは、やっぱり拍子抜けだよな。
夜、一日の汗を洗い流して、俺はそれを手に取った。
バドワ。あいつの好きなミネラルウォーター。そして俺も好きな、しょっぱい水だ。
だが今の俺には、そのしょっぱさがあまり感じられなかった。それは、舌に心地よい刺激をもたらす、ただの水だった。

翌日、未だ昇りきらない朝日の中、俺の足は自然、外庭へと向かった。
早朝トレーニングだ。意識するしないに関わらず、俺の一日は変わらない。例えどこにいても。
修行している最中はまったく一人の時間。例え周りに人がいようと。武道家ってそういうもんだ。…その垣根を越えてくる人間がいなければ、なおのことそうなれる。
完全に平常通りの一日を終えて、俺は自室へと引き取った。
…やっぱり妙な感じだ。一日中一緒にいたいというわけではないが、ここC.Cにいて、一日の最後にあいつの顔を見ない、というのがどうにも慣れない感覚だ。
俺はブルマの顔を思い浮かべた。次に、最後に会ったブルマの顔を思い描いた。
…あいつ、どんな顔してたんだろう。
あんな風に突っぱねたことなど、これまでなかった。我ながらよく切り捨てられたものだと思う。…その後、少し流されかけたけど。
いつもの台詞は言ったのだろうか。言ったよな、きっと。言わば〆の言葉だもんな、あれ。
それにしても、あいつ一体どこに行ったんだろう。
…まさか、ドラゴンボールを探しに行ったんじゃないだろうな。

夜のうちに忍び込んだ懐疑は、朝霞と共に消えた。
娘のプライベートには関知しないがその学業(というより研究)だけは把握している同好の父親が、あいつの現状を教えてくれたからだ。
卒業。スキップ試験。生物科学。植物採集…
あいつはあいつの本分を尽くしているというわけだ。大変結構なことじゃないか。…本当によかった。
そして、そうともなれば俺がここに留まる理由もない。
俺は再びC.Cを離れた。修行再開だ。文字通りの、な。
ブルマは俺のことをいい加減な放浪者のように言うが、何も考えずにうろつき回っているわけではない。修行に適した場所なんて限られているし、飽きが来ない程度にローテーションしているだけだ。そして、東の谷にはまだ飽きていないというわけだった。


東の谷はのどかなところだ。夏頃までは。
秋ともなるとどこからともなく、野生動物が集まってくる。鹿、ハーテビースト、野犬、アードウルフ…夏以降も、のどかなところかもな。
だが、それはさほど問題ではなかった。最近の俺は、獲物を求めてはいない。狩りは遊びとしては悪くないが、修行の一貫としての意味はすでにほとんどないと言ってもいい。眼光だけで四散されてしまう身としては、時間の無駄もいいところだ。
森を囲むように聳り立つ東の谷の一端で俺は半日を過ごし、中央部の森へと足を踏み入れた。場所移動だ。なんとはなしに前回とは違う方面を選んでみたのだが、完全に失敗だった。渓谷のきざはしをかわいらしい野生動物どもがうろちょろしやがる。気が殺がれてかなわない。やはり水場が近いとダメだな。
森の中を、俺はまったく無造作に進んだ。比較的面倒だと思える野犬やアードウルフは夜行性だ。鬱蒼としている森だから多少はいるかもしれないが、近づけばだいたいわかる。やつらにはやつらの理がある。襲ってくるにしても、それなりの予兆があるというものだ。
足元の草が長さを増した時だった。何かが左の頬を掠めた。
自然界にはあり得ない速さで飛んできたそれの軌跡を、俺は追った。それは後背の立木に当たって止まった。10cm程の黒光りした固形物。
「弾丸!?」
驚く間もなく、第2陣が飛んできた。俺はすんでのところでそれをかわした。続いて第3陣。
おいおい、ちょっと待ってくれよ。ここは未開の地のはずだろ。どうして弾丸が飛んでくるんだ。
第3陣を拳で叩き落としながら、その発射地点を見極めた。足音などは聞こえない。狙撃手は動いていないと見た。
ステップを踏みながら4発目を掴み取り、素早く触感を確かめた。フルメタルジャケット弾だ。これで相手がハンターである可能性は消えた。
ハンターでもない人間が、こんなところで何をしているんだ?っていうか、いい加減解れよ。獣が位置も変えず、4発もかわすわけないだろ!
残りの4発を、俺は難なく掴み取った。狙撃手の腕はなかなかのものだった。それが幸いした。発射地点と軌跡がわかれば、掴み取るのは簡単だ。
銃撃が途切れた。この瞬間が来るであろうことが俺にはわかっていた。昔とった杵柄だ。この隙に回り込んで、背後か上から強襲してやる!自分の無謀からきた結果を、とくと味わわせてくれる!!
左側面に回りこんでそこから飛び出した俺の気力は、狙撃手の後姿を視界に捉えて急速に萎えた。瞬時に背面へ距離を詰めて、その背を叩いた時には、完全に失せていた。
狙撃手が驚いたように俺を見た。
「ヤムチャ!」
…ブルマだった。

森の片隅にカプセルハウスを設置して、俺たちは息をついた。ソファの上で胡坐を掻いた俺の頬に、ブルマがガーゼを当てた。
「ごめんね。痛かった?」
「痛かったっていうか…」
あやうく死にかけた。まったく、ちゃんと確かめてから撃ってくれよ。
事のしょうもなさに言葉を失いかけながら、俺は一つの決断をした。
やっぱり行き先は言っていこう。うん。
ブルマはもう怒ってはいなかった。当たり前だ。これで怒っていたら、今度こそ本当に俺は怒るぞ。
粛々と、ブルマは謝罪の言葉と事の経緯を口にした。俺は黙ってそれを聞いていた。ブリーフ博士にすでに伝え聞いてはいたが、それは伏せておいた。たまにはこいつも、そういう気分を味わうべきだ。
傷の手当てとブルマの話が終わったところで、俺は自分のではない頬の傷に言及した。
「おまえ、その傷はどうした?」
ブルマの左頬に一筋の裂傷。木の枝に引っ掛けたって感じでもないし。ひょっとして、すでに何かに襲われていたのか?
それであの対応か?だとすると、少々感覚は違ってくるかな…
傾きかけた俺の心の天秤は、ブルマ自身の素っ気ない言葉によって、押し留められた。
「あんたがやったのよ」
「俺が?いつ…」
またもや俺は押し留められた。上目遣いに俺を見上げるブルマの瞳と、その口元に浮かんだ笑みに。
思わず固まった俺の口に、ブルマが自分の唇を押し付けた。優しく甘く、軽やかに。
…仲直りのキスかな?珍しいこともあるもんだ。

「さ!今度はあたしの手当てして」
「あ、ああ…」
促されて、今度は俺がブルマのそこにガーゼを当てた。
自分のものとほとんど同じ形のその傷に。
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