線上の女
まったく、あいつもなあ。
徹夜明けだか何だか知らないけど、彼氏が帰ってきた時くらい、愛想よくできないものかな。
唸りをあげて地に着かんとするエアジェットのコクピットから、約2ヶ月ぶりに目にするブルマの顔を眺めながら、俺は一人ごちた。
俺は東の谷での修行を終え、C.Cに帰ってきたところ。まさに着陸する寸前、学院から帰ってきたらしいブルマが、目の前に現れたというわけだった。
タイミングがいいのは、大変結構なことだ。だがあいつの表情ときたら…
物質的な壁を隔てているにも関わらず、俺は直視しないよう努めながら、C.Cの庭に佇むブルマに再び目を向けた。
…おおこわ。
その瞳には爛々と不機嫌の光が輝き、細く形のいいはずの眉は、原型を留めない程吊り上っている。
最も見慣れているはずの俺でさえ、こんなに怖いんだからな。ウーロンがケンカを咎めだてるのもわかる気がする。ウーロンには、いつもとばっちりを食わせてるからなあ。たまには俺も、その気分を味わってみるとするか。
「よっ!」
機外へ出てタラップに片足をかけながらかけた俺の言葉にも、ブルマは答えなかった。
心の中で首を竦めながら、俺は地に降り立った。ブルマの正面に歩を進め、軽く笑ってみせた。
「相変わらずだなあ、おまえ」
こんな状態の彼女にも優しく声をかけられるなんて、俺って本当、タフガイだよな。できることなら夜までには機嫌を直してほしいけど。…まあ、無理だろうな。明日に期待するか。
その頭を軽く撫で叩いて、ブルマの横を通り過ぎた。務めは果たした。次はプーアルだ。
テラスが無人なのを見てとって、歩みをポーチへと向けた。その直後だった。
「ちょっと、あんた」
ブルマが初めて言葉を発した。俺は反射的に振り向いた。
「何なのよ、その態度は!!」
聞き終えた時にはすでに、胸元に詰め寄られていた。ブルマが俺の道着の襟元を掴んだ。
「あんたには反省の色ってものがないわけ!?」
「…な、何の話だ?」
やはり反射的に俺は訊いた。ブルマの言葉の意味が、まったくわからなかった。反省する事柄も何も、こいつに会ったのだって2ヶ月ぶりだ。2ヶ月空けたことを怒っているのだろうか。でもそんなの、今さらだよな。
ブルマは俺から手を離し、顔を伏せながら吐き捨てるように言った。
「最ッ低!!」
「だから何だよ!?」
俺は叫び返した。わけのわからないことで責められるほど、腑に落ちないこともない。
ブルマは再び俺に顔を向け、怒りに満ちた瞳で俺を見据えた。
「昨日のデートよ!!あたしずっと待ってたんだからね!」
「デート?…」
その言葉を聞いてもなお、俺は得心しなかった。
…マジか?嘘だろ?俺、そんな約束したっけ?
あっちゃぁ〜。…まいった。全然覚えてない。
「どんな約束だったっけ?」
俺は訊いた。まずそれを思い出さないことには、始まらない。
ブルマは瞬時に答えた。口ではなく、体で。鋭い痛みと鈍い音が、俺の左頬を襲った。一瞬、視界に火花が散った。俺は思わず心に叫んだ。
効いたぁ〜。
殴られるかもとは思ったけど、こんなに早く来るとは思わなかった。せめて質問に答えてからでも…
頬に手を当てる間もなく、ブルマが口を開いた。その声音の冷たさに、俺は事態の深刻さを悟った。
「消えてよ」
すでに怒り心頭に達している。いつもはこの状態になるまでに、もっと時間がかかるのに。
「ブルマ…」
「さっさと消えて!」
早くも取り付く島のない段階に入られてしまった。というか、そこまで怒らせてしまった。
俺は先の苦労を思って、心の中で溜息をついた。これはひさびさに長引くぞ。そりゃ俺が悪いんだけどさ…しかし、本当に約束なんてしたっけかな?
ブルマには頭を冷やす時間が、俺には記憶を掘り起こす時間が必要だ。俺はそう思い、ブルマから離れた。
まずはプーアルに話を聞いてみよう。あいつは時として、俺以上に俺のことを知っているからな。
ポーチへ向かって歩き出した。それとほぼ同時だった。
「ちょっと待ちなさいよ」
再びブルマが俺を呼び止めた。俺は振り返らなかった。振り返ることが出来なかった。…怖ろしくて。
「あんた、あたしのことはすっかり忘れてたくせに、その家には入り浸ろうっての?都合良すぎなんじゃないの?」
続けられたブルマの言葉に、俺の心の呪縛が解けた。同時に思考回路が切断された。
考えたくないことがある時、人はそうなる。だが鈍った頭でさえ、その意味は量れてしまった。
「ブルマ、それは…」
出てけってことだよな。…本気で言っているのか?
「あたし、間違ったこと言ってる?」
後半部分についての答えが、俺はほしかった。しかしそれを口にすることは躊躇われた。
訊けばこいつは『そうだ』と言うに違いない。それだけは言わせてはならない。そんな気がする。
「…わかったよ」
ブルマの目は見ずにそう言った。見られなかった。…情けなくて。こいつにここまで言わせてしまった自分自身が情けなくて。
俺は元来た道を戻り始めた。下りたばかりのタラップを、黙って上った。最上段に足をかけて、最後にブルマの顔を見た。その言葉で量りたかった。
「…じゃあな」
ブルマの表情は変わらなかった。
俺は溜息をつきながら、エアジェットを離陸させた。


惰性で針路を定めながら、心の中で呟いた。
…追い出されちまった。
あいつが怒るのは当然だよな。言うことも間違ってはいない。でも…
陥るべき心境に、俺は陥った。
…本気なのかな。
あれは別れを告げられた、ということにやっぱりなるのだろうか。
ふと目を閉じかけて、慌ててそれをやめた。操縦をオートパイロットに切り替えた。冷静に、冷静にだ。今の俺にはそれが必要だ。
努めて冷静に、先のブルマの姿を思い浮かべた。あいつの顔と、その言葉を。
あいつは俺を切り捨てている、という感じではなかった。不機嫌とも少し違っていた。依然可能性があるように思えてしまうのは、俺の甘えだろうか。
「…とりあえず様子を見るか」
努めて、その台詞を口に出した。
自分を鼓舞するために。

俺は北の森へとやってきた。
ここが厳しい土地だからだ。今は自分に厳しくする時なのだ。
修行はいつも通りに行った。その方が頭が働くからだ。…本当に俺は『修行バカ』だ。
…そういや『バカ』って言われなかったな。
あいつはいつも最後にそう言うのに。まるで俺に聞かせるようにそう言うのに。
どうやら俺は、本当にブルマを怒らせてしまったらしい。わかっていたはずなのに、改めてそう思った。

2週間を、俺は過ごした。まったく一人で。
誰に連絡を取ることもなく。心身共に一人で。自分への戒めのため…いや、違うな。
怖かったからだ。あいつに連絡を取るのが怖かった。いつもは忘れがちなC.Cへの連絡も、今は常に念頭にあった。人って皮肉な生き物だよな。
でもそろそろ腹を決めなきゃな。プーアルを一人あそこにおいておくわけにもいかないし…
…そうだ、プーアル。
あいつのことをすっかり忘れていた。せめてあいつには連絡してやらないと。…俺、ちょっと浸っていたな。
まったく、らしくないよな。…俺自身はそうは思わないけど。ブルマならきっとそう言うだろう。
俺を追い詰めているはずの人間の言葉に突き動かされて、俺の心に前向きな思考が芽吹きだした。
最後にもう一度帰ってみるか。
どうせダメ元だし。

思いついたが吉日。早速C.Cに電話をした。
俺は即実行型なのだ。そこが自分のいいところだと思っている。…そうは言わない人間もいるが。
どうもいちいちあいつのことを思い出してしまって癪だが、しょうがない。今はそういう時だ。
電話は直接プーアルに繋がった。幸運の兆しかもな。…ブルマが出たらどうしようかと思った。
プーアルは俺たちのケンカのことを知っているようだった。別段意外なことではない。いつだってそうだ。俺たちのケンカは、いつも周囲にバレバレだ。これまではそれを不快に感じもしたものだが、今回に限ってはよかったかもな。『追い出された』なんて言いたくないし。
そんなわけで、さしたる前置きもなく、俺は本題に入った。
「ブルマはどうしてる?…まだ怒ってるかな?」
「はい、まだ…」
あいつがどんな風に怒っているのか。そんなことを俺は訊かなかったし、プーアルも言わなかった。まったく自明のことだからだ。本当は怒っているだろうことも自明なのだが、それを端折ると会話自体が成立しなくなるので、俺は敢えて訊いたのだった。
「迷惑かけてすまんな。ウーロンにもそう言っておいてくれ」
「はい」
プーアルの言葉はさらに短くなった。おそらくは返事に困った、というところだろう。
「ヤムチャ様、今どこにいるんです?」
「ああ、そうだな。ええと…地域ポイントでいいか?」
「はい!」
相変わらず返事は短かったが、その声ははずんでいた。やっぱり、プーアルにはもっと早くに連絡しておくべきだった。悪いことをした。
というより、いつまでもこいつを一人でC.Cにおいておくわけにはいかないよな。俺はもうあそこの住民ではないのかもしれないし。
この瞬間、俺の腹が決まった。決めると共に実行に移した。そうさ、俺は即実行型なんだ。
「プーアル、そのポイントは破棄してくれ」
「え?」
プーアルの最短の声に、俺はシンプルに答えた。
「これから帰るよ」

プーアルとの通信を終えて、俺は再び修行を開始した。
気力を高めておくためだ。これから一戦交えるんだからな。…交えさせてほしいところだ。いや、何としても交えなければ。それには引かない気構えを作っておくことが必要だ。だから修行だ。修行はいつでも俺の心を高めてくれる。どうせ俺は修行バカさ。放っておいてくれ。
そうともなれば平地だ。森の中なんぞで鬱々とやる気分ではない。平地でドカンとやってやる。
プーアルに教えたポイントを、俺は移動した。どうせもう必要のない数値だ。

不思議なもので、腹が決まると思考がどんどんポジティブになってくる。今や俺はこう思っていた。
…ひょっとして、たいしたことじゃないのかも。
怒っているということは、忘れてはいないということだ。少なくとも、切り捨てられたわけではない。
あいつが怒っていることなんて、いつものことだし…俺が怒らせてるんだけど。まだ怒っていたことも予想の範囲内だし…だって仲直りしてないからな。確かにいつもより怒りは大きいみたいだけど…っていうか、かつてないほど怒ってるよな。
前言撤回。ポジティブ思考って、案外難しい。
俺は修行に熱を入れた。
とにかく一戦だ。

平地に砂塵が舞い散り出した。
悪い兆候?そうではない。夕刻近くはいつもこうだ。
西の方角から緩やかな風が吹く。ここは乾燥してはいないが、それでもこの時期は砂埃が舞い上がる。
黄色い霧に包まれて、俺は動きを止めた。…そろそろ行くか。
なんとなく伸ばし伸ばしにしてしまったが、そろそろ出発しないと今日中にC.Cに着けない。プーアルに宣言したしな。これで行かなかったら、間抜けどころか主の権威が失墜する。
「主の権威か…」
本当はそんなものどうでもいいんだ。ただ、あいつが話をしてくれさえすれば。いつものように怒鳴ってくれれば。一戦交えてくれさえすれば。
…いや、交えてみせるさ。
その時、咆哮が聞こえた。低く伸びる単音の鳴き声。およそ予想のつくその正体を、俺は肉眼で確かめにかかった。一瞬開いた砂塵のカーテンの隙間から、数100m先に展開する森の端に、前足を伸ばして立つ灰色の巨体が見えた。グリズリーだ。グリズリーが何かを襲っている。その姿勢から、それが小動物ではないことがわかった。
それしかわからなかった。だが俺にはわかった。
「ブルマ!」
あいつだ。あいつの姿は見えない。どうしてここにいるのかもわからない。だが、きっとそうだ。なぜかいつもそうなんだ。
なぜか俺は、いつもギリギリのところでそれに気づくんだ。ギリギリのところでないと気づけないんだ。
駆けようとは思わなかった。この距離では間に合わない。俺は拳に力を溜めた。
一閃で終わらせてみせるさ。

轟音が鳴り響いた。それが後ろに倒れたことを遠目に確認して、俺は胸を撫で下ろした。
前に倒れられていたら元も子もない。…本当にギリギリだ。
砂塵の間を駆け抜けた。森と平地の境界に、眠ったように横たわるあいつがいた。
「大丈夫か?」
…失神してるのかな?
おもむろに目が開いた。すぐにそれは感情全開の眼差しとなって、俺を射抜いた。
「バカ!」
俺は息を呑んだ。いきなり開戦か?
ブルマが身を起こした。そして再び叫んだ。
「根性なし!」
俺は完全に言葉に詰まった。まったく予想の範囲外だ。こいつがここにいたことも、助けた後で怒鳴られたことも。
――次の瞬間、抱きつかれたことも。

「あの…」
両腕に力を込めて俺の体に抱きつくブルマに、俺は声をかけた。まったく、何も把握できずに。
さっぱりわからないんだけど。もう怒ってないのかな…
「何よ!?」
すぐに声が返ってきた。怒りの篭った呟きが。怒ってはいるんだな…
それにしては離れようとしないんだよな。これはどうしたことだろう。
俺はブルマの頭を撫でてみた。それで量るつもりで。
ブルマの態度は変わらなかった。いや、少し腕の力が抜けたかな。うーん、これは…
どうやら一戦交えずに済んだようだ。
…よかった。


森の片隅に設置したカプセルハウスで、俺はまずシャワーを浴びた。汗臭いだ何だとブルマが文句を言ったからだ。…自分だって砂塗れのくせにな。よく言うよ。
さっさとブルマにバスルームを明け渡して、一人キッチンカウンターに身を凭れた。
「ふぅ…」
張り詰める緊張感から開放されて、俺はまったく安堵していた。
正直、何が何だかわからないけどな。あまり深く考えるのはよそう。疲れるだけだ。というか、もう充分疲れている。精神的に。
今日はこれ以上精神を摩滅させないよう、安穏と過ごそうじゃないか。幸い…
「暑い〜」
その時、ブルマがやってきた。床に落としていた視線をあいつに流しかけて、腿のところでそれを止めた。
「おまえ、またそんな格好で…」
久方ぶりにそれを見た。プーアル選定ブルマ専用バスローブ。桃色をした膝上丈のあれだ。
「しょうがないでしょ、何も用意してなかったんだから」
そういう問題じゃないんだよ。
こいつもそろそろそういうこと、わかってもよさそうなものなのにな。外見だけが女だなんて、厄介もいいところだ。…これ以上、精神を摩滅させないでくれよ。
俺は凭れていた身を起こし、キッチンへと回り込んだ。安堵。疲労。一日の終わり。そういう時に口にしたくなる飲み物ってあるよな。今日から俺はそれを口に出来る人間だ。
しかも、目の前にはこいつがいる。最高だ。
おもむろにフリーザーを開け、ギネス瓶を掴んだ。栓に右手をかけた時、キッチンカウンターの窓からブルマが口を尖らせた。
「あんた、何ビールなんか飲もうとしてんのよ。未成年のくせに」
いつもはうるさく感じるこいつの口調も、今日はいい肴だ。
栓に指をかけながら、噛んで含めるように事実を紡いだ。
「残念だったな。俺はもう大人だ」
「は?」
ブルマはまったく要領を得ない様子で、目を見開いた。ははあ、こいつ。
「誕生日だ」
俺が言うと、ブルマは黙った。動きすらも止まった。やっぱりな。忘れていたな。
構わないさ。俺も宣伝しなかったしな。誰かに誕生日を祝ってほしいなんて、男はあまり思わないものだ。例え相手が彼女であろうと。ただな…
固まり続けるブルマを横目に、俺はギネスを開けた。だってわざわざ言うのも変だろ。だいたい何て言えばいいんだ?『別に忘れてたっていいんだよ』とかか?絶対嫌味だろ、それ。
だから勝手にギネスを飲んだ。感慨に浸りながら。そりゃ、いろいろ感じるさ。誕生日なんてどうでもいいけど、成年と未成年の違いは大きい。酒もその一つだ。飲めるかどうかが問題なんだ。味は二の次だ。
俺が感慨と共に酒を飲み下していると、ブルマがふいに言った。
「ねえ、あたしにも一口ちょうだい」
俺の答えは決まっていた。
「ダメだ。おまえはこっち。まだ未成年だろ」
キッチンカウンターの小窓から差し出されたその手の片方を、俺はわざとらしく払い除けた。

これだよ。これがやりたかったんだ。
今日から数ヶ月の間が、俺の人生の中で唯一合法的に、こいつより上位に立てる時だからな。せいぜい大人ぶってやるよ。

「ケチ」
ブルマが不満そうにバドワを飲む様を、俺は満足の呈で眺めた。
酒もある。肴もいる。女みたいなやつもいる。
なんて贅沢なんだ。あー、酒が美味い。

…苦いけどな。全部。
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