夜の女
「ふあぁあぁ〜」
一つ大きな欠伸をした。誰に憚ることもない、自分の部屋で。
時刻は夜の11時半。一日の修行を終え、身も清め、心地よい気だるさに包まれるその時間。ベッドの上でうつらうつらしていた俺は、ドアのコンソール越しに聞こえたその声に、反射的に身を起こした。
「ヤムチャ!入るわよ」
一見断りを入れているように聞こえるが、そうではない。例えダメだと言っても、こいつは入ってくる。こちらの都合などお構いなしだ。
事実、ロックをかけていたはずなのに、入ってきている。一体どうやっているのかなど、俺はとっくの昔に追及することをやめていた。
ブルマは手にしていた雑誌を放り出し、ついで自分もベッドの上に飛び込んだ。
「何やってたの?」
「いや、別に」
ベッドに寝転がって雑誌を捲りだしたブルマを横目に、俺は立ち上がった。やれやれ。
「あんた、まだトレーニングするの?」
「少しだけな」
「ふーん」
気がなさそうにブルマは言い、再びページを捲りだした。
なんということのない一連のやり取りだが、実のところ久しぶりだ。3ヶ月ぶりくらいだろうか。俺自身は1週間ほど前からC.Cに帰ってきていたのだが、ブルマの方がそれを無視した。ケンカではない。その本分故にだ。
何かのメカが仕上げに入っているとかで、自分の部屋に篭りっぱなしだったのだ。こいつは忙しい時と暇な時が、えらく極端なんだよな。
「ねえ、まだ寝ないの?」
惰性で筋力トレーニングを続けていた俺を見て、ブルマがおもむろに言った。
「眠くならないんだよ」
おまえがそこにいる限りな。
おまえが夜型なのは構わないけどさ、俺まで巻き込まないでほしいよ。こんな時間にやってきて、平然とベッドの上に寝転がりやがって。まったく、機微なさすぎだ。
そういう思考がないはずはないのに。だって…なあ。本を読むのなんか自分の部屋でやれ。
いつまでも色気ないよなあ、こいつ。

ブルマと初めて夜を一緒に過ごしたのは、5ヶ月ほど前のことだ。まるで夢のようだった…月並みな言い方だけど。
そして今、やはり夢のように感じている。
その後も俺たちは幾夜かを共に過ごした。そして俺がやや長期の修行を終えてC.Cへと戻ってみると…なんていうか、そういう雰囲気なくなってたんだよな。
やっぱり、3ヶ月は空けすぎだったかな。でも、気づいたら経ってたんだよ。
俺は忘れてないんだけどな。あいつはどうも忘れてるくさい。もともとそういう思考が(部分的に)抜け落ちてるようなやつだし。
まあ、あいつは女だし。俺は男だからなあ…


どうやらブルマは、かなり本格的に暇になったようだ。昨夜に続いて、今夜も部屋にやってきた。
いや、部屋に来ること自体はいいんだよ。前からのことでもあるし。ただ何ていうかな、読みきれないんだよな。
来てくれるのは嬉しいけど、やっぱりそんな雰囲気微塵もないし。俺一人が困ってしまうわけだ。
「七光り?」
唐突に繰り出されたブルマの言葉に、俺は思わずトレーニングの手を止めた。
「そうよ。そういうのってないわけ?あれでも一応仙人なんでしょ、亀仙人さんって」
ブルマの言い草に内心苦笑しながらも、俺はきっぱりと答えた。
「ないな。っていうか、知らん」
「知らない?」
「そんなこと言われる機会がないよ」
鶴仙人の罵倒の仕方は、少しそれっぽかったような気もするけど。でも厳密には違うよな。あれは老師様本人にケンカを売っていたんだし。
「幸せね。縦社会がないなんて」
珍しく弱気の入ったブルマの口調が、俺には意外だった。
「おまえにはあるのか?」
学生なのに?
俺が訊くと、ブルマはそれまでその上で崩していた足を伸ばし、ベッドの端に腰掛けた。俺もなんとなく、その隣に腰掛けた。
「パーティとか行くとあるわよ」
「パーティ?」
「父さんの代理で行くことがあるのよ。いずれにしても科学者の社会は強烈なヒエラルキーよ」
本当に意外だった。科学者の社会がそうであることがではなく、こいつがそれを気にしているということが。
俺はそっとブルマの肩に手を乗せた。ひょっとしてこいつは、一見強気な人間ほど実は弱い、とかいうやつなのだろうか。俺は今まで誤解していた…
「ま、そのうちあたしが頂点に立ってやるけどね」
…わけじゃなかった。やっぱりこいつは、俺の思っていた通りの人間だった。
付き合い5年目にして騙されかけた自分を情けなく思いながら、ブルマの額を小突いてみせた。
「おまえ、隈ができてきてるぞ。もう寝ろ」
中途半端に愚痴ってないで気力を養え。そしてさっさと頂点に立ってくれ。
その方が惑わされずにすむってもんだ。


暖かい夜だった。
一日の修行を終え、額に張りつく髪を掻きあげながら外庭から引き上げた俺は、C.Cのエントランスに足を踏み入れるなり、思いっきり蹴躓いた。
「うわっ!」
慌てて両腕をついた。倒れゆく地面に、ロイヤルブルーの塊が見えたからだ。
「ブルマ?」
その服の色には見覚えがあった。夕刻、ポーチの前で、これからパーティに行くのだと言っていた時に着ていたドレスだ。少々スリットの深すぎるやつ…
まさか、帰ってきてからずっとここにいたのか?
「何やってんだ、おまえ。大丈夫か?」
ブルマは手足を丸めて、眠るように転がっていた。靴を片方しかはいていない。確か首に巻いていたと記憶するストールが、丸められて枕代わりにされている。太腿がほとんど露になっている…
瞬間、一点に目を奪われかけて、俺は頭を振った。
「おい?」
手を除け顔色を見ようとしたところ、本人からの申告があった。
「…気持ち悪いのよ」
言葉よりも状態が事実を物語っていた。ブルマの息はひどく酒臭かった。
「飲んだのか」
返答を得るまでには、数拍の時間を要した。
「…飲ませられたのよ」
あながち嘘でもあるまい。酒に弱いかどうかは別として、これまでのところブルマはほとんど酒を飲んでいなかった。
「吐いちまえよ。楽になるぞ」
「無理」
ブルマはぽつりと呟くと、それきり目を瞑った。
おいおい。
こんなところで寝る気か?中毒などではないようだが、充分困った酔っ払いだな。
できるだけ揺らさないよう気をつけながら、ブルマを部屋へと運んだ。

俺もルームロックの外し方を教えてもらおうかな。
少しだけそう思った。冗談だけど。
ブルマがあいつの部屋のロックナンバーをいつまで経っても言わない(言えない?)ので、俺はしかたなく自分の部屋へと連れてきた。
「サンキュ…」
その身をベッドに横たえると、ブルマはぽつりと呟いた。相変わらず目は瞑りながら。
意識はわりとしっかりあるようだ。その証拠に、俺がかけたタオルケットを思いっきり蹴り上げた。俺はそれをさらにしっかりかけ直した。
いくら初夏とはいえ、何もなしでは絶対冷える。こんな薄いドレスならなおさらだ。酒を飲んだら冷やさない。常識だ。
それに、別の意味でもぜひかけておいてほしいところだ。
「ほら、薬。水も。明日酷いぞ」
「無理」
薬と水を手渡そうとした俺に対し、ブルマは目を開けることもせず、こともなげに言い切った。まあ、その気持ちはわかる。とてもよくわかる。だが…
「ダメだ。薬と水は飲んでおけ」
俺は引かなかった。ここで少しがんばっておくとだな、翌日非常に楽なんだ。自慢じゃないが、俺はそれを経験によって知っているんだ。
俺が再三促すと、面倒くさそうにブルマが呟いた。
「飲ませて」
なんか甘えてるな、こいつ。
酔っ払いに甘えられても、嬉しくもなんともないけど。一応こいつの辞書にも、そういう言葉はあるんだな。
ということはやはり俺が問題か…
…少し量ってみようかな。
依然目を瞑ったままのブルマの枕元に、俺は屈みこんだ。薬を2粒取り出して、水と共にブルマの口へ流し込んだ。俺の口から。目的を超えた感触を与えることを意識して。
ブルマはそれを素直に飲み込んだ。
「サンキュ…」
そして、それだけ言うと眠ってしまった。
…俺のプライドはしこたま傷ついた。


翌日、陽も真上に昇るという頃になって、ようやくブルマが起きてきた。学院は休んだらしい。まあ、そうだろうな。
リビングへ入ってくるなり、昼食のテーブルについていたブリーフ博士に噛みついた。
「ちょっと、父さん。スピーチがあるならあるって言ってよ。知ってたらもっとユニセクシャルな格好で行ったのに」
「はて、そうじゃったかな」
「そうだったかじゃないわよ!おかげで酷い…あいたぁ…」
自分自身の声にダメージを受けて(そんなの見ればわかる)、ブルマは頭を抱え込んだ。
完全に二日酔いだな。だから水を飲めって言ったのに。
ちょうどキッチンでコーヒーを淹れていたところだった俺は、フリーザーからバドワを取り出し、ご丁寧に栓まで抜いて、それをブルマに手渡した。
「サンキュー」
ブルマは礼の言葉を口にした。…俺にとってのみ苦い、その言葉を。おそらく、こいつは覚えていないのだろうが。
昨夜のことは、依然俺の心に残っていた。正直、少し不貞腐れてもいた。男ってそんなもんだ。いや、まさかブルマが悪いなどと思ってはいない。思ってはいないが…
まあ、俺は男だし。こいつは女だから。感覚が違うのかもしれないが。それにしても…
ふいにブルマがバドワを俺の方へと突き出した。俺が不審に思う間もなく、その言葉が飛び出した。
「飲ませて」
ぶっ!!
俺は思いっきり啜りかけのコーヒーを咽てしまった。
「おまっ…!」
覚えてるんじゃないか!っていうか、わかってるんじゃないか!
「冗談よ、冗談」
カラカラと笑いながら、ブルマはリビングへと戻っていった。
そこで初めて、俺はリビングにいたみんなの視線が、俺たちに向けられていたことに気がついたのだった。

俺はますます腐った。外庭でいつもの修行を行いながら、心の中で毒づいた。
一体あいつはどういう神経をしているんだ。
例え冗談だって、人前で言うな、あんなこと。そりゃ意味はわからないだろうけどさ。
心の停滞を補うように体は動いた。いや、動かした。俺の視界の片隅に、木陰に寝転がるブルマの姿が常にあった。
あいつは俺のアドバイス通り、大量のバドワを横に置きながら、昼寝とC.Cへの出入り(トイレだろ。別に恥ずかしいことじゃない。そもそもそのために水を飲んでいるんだからな)を繰り返している。素直で大変結構なことだ。それにしても…
…冗談にされてしまったか。
この溜息は抑えることができなかった。

ブルマは再び部屋に篭った。あいつ、立ち直り早いな。精神的にそうだということは知っていたが、酒に対してまでもそうだとは。…ひょっとして酒飲みの資質あるんじゃないか?
夕食の時間になっても、あいつは姿を見せなかった。いつもそうだ。何かを始めると脇目を振らなくなる。自分のことも他人のこともそっちのけで、対象物のみに心血を注ぐ。
それが悪いことだとは思わない。俺はあいつの能力についてはよくわからないが(知識がないから。出来るやつだということくらいしかわからない)、そういう資質は、あいつの言う『天才』のものなのかもしれないと思っている。
…のだが、今回に限り、このブルマの行為は俺の心に影を落とした。

あいつはどうして、あんなに平然としていられるのだろう。一方の俺は、こんなに悶々としているというのに。
いや、悶々としているというのとは少し違うな。まあ男だから、それもあるけど。
俺は、あいつがどういう風に考えているのかが気になるんだ。
俺といてもそんな気にならないのかな、とかさ。なんていうか、…少し淋しいよな。
まあ、あいつは女だし。きっとまだ子どもなんだろうから…長い目で見るべきなのかもな。
と、思うことに俺は決めた。
…努めてな。


時刻は夜の11時半。一日の修行を終え、身も清め、何とか精神も立脚し終えたその時間。ベッドの上で宙を見ていた俺は、ドアのコンソール越しに聞こえたその声に、少々身を固くした。
「ヤムチャ!入るわよ」
ブルマだ。…早いな。もう篭り終わったのか?最短記録じゃないかな。うまくいかなかったのかな?
俺はベッドに横たわったまま、とりあえずの視線をブルマに送った。まずは機嫌を確かめておかないとな。機嫌の悪い時に俺の部屋へ来ることは、通常ほとんどないはずだが(こいつは愚痴はこぼしはするが、本当に機嫌の悪い時は少なくとも部屋には来ない。顔を会わせれば八つ当たりはされるけど)、こいつはなにせ気分屋だからな。
怒りの兆候は見られなかった。俺は安堵の息を吐くと共に、体勢を元に戻した。珍しいことにブルマはベッドに飛び込みはせず、その脇に立ち尽くして、第二声を発した。
「どうしたの?」
「うん?別に」
何かおかしなことしたかな、俺。…ひょっとして視線が不躾だったかな?
ブルマがベッドの上に座り込んだ。俺の隣。一瞬、習慣で体を浮かせかけて、俺はそれをやめた。
「今日はトレーニングしてないのね」
「うーん、ちょっとな」
今は体を動かす気に、正直なれない。だが特に問題はない。一日のメニューはすでに消化しているのだから。いつもがイレギュラーなんだ、本当は。
おもむろにブルマが寝転がった。いつもと同じポジション。そしていつもと同じ声音で、いつもとは少し違った台詞を吐いた。俺の鼻を突つきながら。
「なんか怒ってる?」
俺は思わず苦笑した。…いつもと違うのは俺の方か。
「怒ってないよ」
それは本当だ。ただ考えごとをしていただけだ。そういう時って、怒って見えるのかな、俺。
それとも怒ってるのかな。自分でも気づかぬうちに。何に?こいつに?自分にか?
俺はブルマの髪に手を伸ばした。なんとなく手持ち無沙汰だったから。量るつもりなど毛頭ない。もうそんな気持ちは湧いてこなかった。なんとはなしにその髪を弄びながら、自分の心を確認した。

…何考えてるんだろうな。
正直、目の前にするとそう思う。
でも、こいつは俺の部屋にやってくる。そして、俺はこいつのことが好きだ。
それで充分じゃないか。なあ?

よし!
俺は勢いよく身を起こした。
復活した。精神が。もともと俺はそういう男だ。深く考えるのは性に合わないんだ。
さあ、そうともなれば追い出すとするか。
依然、隣に寝転がるブルマに、俺は声をかけた。
「おまえ、もう自分の部屋に戻れよ。明日は学院行くんだろ?」
そう、お子様はもう寝る時間だ。帰った帰った。…お願いだから、あまり大人を困らせないでくれよな。
ブルマは口を尖らせ反抗した。
「今夜はいいわよ。昼間寝たし。今日は戻らない!」
そのこと自体はまったく予想の範囲内だった。俺が聞き咎めたのはその台詞だ。
わかってなくてもな、許されないことというものはあるんだ。
「おまえなあ。そんな誘いをかけてる女みたいなこと言ってないで…」
俯き吐いた俺の溜息を、ブルマが掻き消した。
「みたいじゃなくてそうなの」
一呼吸おいて続けた。
「あんた、本当にわからないの?」
俺はブルマに目を向けた。ブルマも俺を見た。見上げるような瞳で。甘い上目遣いで。
「ダメ?」
「ダメ、って…」
何て返せばいいんだ、一体。
何をどう言えばいいのか、俺にはわからなかった。
結局、俺は何も言わなかった。




ベッドの中、俺がその細い肩にかかる一筋に手を伸ばしかけた時だった。
「重い」
ふいにブルマが呟いた。俺は反射的に身を浮かせた。
上下を入れ替えるべきなのか真剣に悩みだした俺の胸元を、ブルマが叩いた。
「固い」
これにはどうしようもなかった。足を絡ませながら、さらにブルマは言い募った。
「狭い…」
「おまえな…」
おまえがしたいっていうからしてるのに。いや、俺だってしたかったけど。
まったく、何考えてるんだ。子どもじゃなかったのはいいとして、その雰囲気のなさは何なんだ。
咎めるべきか否か判断に迷っていた(難しいところだよな。ケンカになったら元も子もないし)俺の首に、ブルマの腕が伸びてきた。それは俺の頭を絡め、俺とあいつの距離を0にした。俺の耳元にその言葉が飛び込んだ。
「…好き」
瞬間、理性が飛びかけた。
だって、『好き』って言ったんだぞ、こいつが。こいつが俺のことを。俺のことを『好き』って。自慢じゃないが、こんなことを言われたのは初めてだ。
俺はブルマを引き剥がし、再び距離を取った。
「も、もう一度」
自分の声が震えているのがわかった。
「…もう一度言ってくれないか」
ちょっと信じられないんだ。
「ダメ」
ブルマはあくまで笑みは浮かべず、咎めるような瞳で上目遣いに俺を見た。
「もう言わない」
そして再び俺の首に腕を絡めた。首元と共に俺の感情が締め付けられた。
ヤバイ…




…かわいい…
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