捨てる女
俺が修行から戻った時、あいつは出てこなかった。
ケンカしていたわけではない。ただ、出てこなかったのだ。

「あら、おかえり」
C.Cのホールを歩く俺の前に現われたブルマの姿は、いかにもあいつらしかった。
ミュールにオイル、ピアスにレンチ。
こいつは男と女の綯い混ざった不思議なやつだ。
俺はこいつのそういうところが嫌いではない。時折作業中に作る擦り傷などを、痛々しいと思うことはあるが。

求める工具とパーツを手にすると、ブルマは再び部屋へと戻っていった。いつもならすぐに俺の部屋へ飛んでくるのに。よほど楽しいものを作っているらしいな。
俺は荷を解くのもそこそこに、ブルマの元へと赴いた。いつもと逆だな。

ブルマは常になくのんびりとそれを作っていた。鼻歌まで歌っている。これは完全に趣味の領域だな。
覗き見ると、どうも慎重を規する箇所を弄っているようだったので、それが一段落するのを待って、俺は声をかけた。
「何を作ってるんだ?」
ブルマの答えは、まったく要領を得なかった。
「新しい引き出しよ」
「は?」
俺は思わず間抜けな声を出した。何だって?引き出し?
「だから引き出しよ。うまくできるかわからないけどね」
『引き出しがうまくできるかわからない』?何かの暗喩だろうか、これは。
それにしても、ブルマはいつもきっちりと設計図をあげてから制作にかかる(当然でしょ、とはこいつの談)。こんなふうに、作り始めてから不可能を口にすることなんてないのに。
これは内緒ということかな。珍しいこともあるもんだ。いつもは性能とか効果とか薀蓄とかを、まるで土石流のように垂れ流すのにな。
俺は鷹揚に構えてみせることに決めて、なにげなさを装い訊ねてみた。
「ずいぶんいいものを作っているようだな」
それに対するブルマの答え――
「すっごく役に立たないものよ」
俺はそれ以上追及するのをやめた。

ブルマが星の本を読んでいる。星占いとかではなくて、天文学だ。本当にこいつは、人にも物にも気の多いやつだよ。
「銀河系に1000億個、それが銀河団に数百個、さらに銀河団が1万個…どこで手を打つべきかしら」
まったくわけのわからないことを言っているな。
そして、そのわからなさは俺にまで波及した。
「ねえ、ヤムチャは土星の輪ってどう思う?」
…何だって?
100%心外の質問に、俺はただ聞き返すことしかできなかった。
「土星ってあの土星か?」
「たぶんその土星よ。あたしにはあの輪が、あまり美しいものだとは思えないの。邪魔よね、はっきり言って。あったほうがいいと思う?」
よくなかったらどうするというんだ。
俺はちょっと怖くなって(こいつは何をするかわからない性格の上に、技術が伴っているから本当に怖い)可能な限り傍観者に徹させていただくことにした。
「…あまり考えたことはないな」
「やっぱり星の良さは球体美だと思うのよね、あたし」
俺は無言を通した。うかつに同意するのは危険だ。
しかし、科学者ってロマンを捨ててるよなあ。

どうやら例の制作物は基本の格納が終わったらしく(俺もこういう言葉を覚えてきてしまっているなあ)、ブルマはあまり部屋には篭らなくなった。その変わり、奇妙な質問をすることが多くなった。前述然り。そして、今また。
「ねえ、それってどうやってるの?」
外庭でトレーニングをする俺の傍らで、ブルマが呟いた。
「どう見ても重力に逆らってるわよねえ。どういう理念なの?」
舞空術のことだ。
俺はやっと舞空術を、さほど気を集中せずとも使いこなせるようになり、修行や必殺技の開発(まだやってるぞ)の際、恒常的に使用するようになっていた。
「理念って言われてもなあ」
俺は頭を掻いた。
「わからないのにやってるの?本当に体力バカね」
…否定できない。
「気をコントロールするんだよ」
「その気っていうのが問題なのよ。一種の超光速粒子と考えるのが自然だけど、その速度がおかしいのよ。計算すると光速を越えちゃうのよね。そんなことってありえるのかしら」
実際あるんだからいいじゃないか。今日のおまえ、えらく面倒くさいぞ。
「何でそんなことわかるんだ」
俺はやっとの思いで訊いた。
「あたしの専門だもん。仮説だけど、かなり真実を捉えている自信があるわ。この説だと、あんたたちのわけのわかんない技が、ほとんど説明できるのよ」
わけわかんなくて悪かったな。
気分を害したわけではなかったが、俺はもう面倒くさくなって、それきり喋るのをやめた。俺が黙ると、ブルマは腰に手を当て軽く溜息をついて、言葉を選び選び言った。
「じゃあさ、簡単な質問に答えてよ。どういう感覚なの?浮いてる?飛んでる?蹴ってる?体は軽い?」
「軽くはならないさ。…そうだな、連続して蹴ってる感じかな。今じゃそんな感覚も薄いけど。始めは確かにそんな風に力を込めていた気がする」
「じゃあ推進式なのね。運動の第3法則はどうなってるのかしら。通常、飛行はそれでするはずだけど」
どこが簡単な質問なんだ。
俺は完全に相手をする気をなくして、瞬時にブルマの懐に入り込むと、その体を背負うように抱え上げ、宙に飛んだ。
「ちょっと!何すんのよ!」
ブルマは拳を振り上げ喚いた。
「飛びたいんじゃないのか」
「違うわよ!…でも、ちょっと待って」
ブルマは俄かに暴れるのをやめ、再び考察し始めた。
「抱えてるってことは腕は使ってないのよね。体勢も固定されてないし…じゃあ足?」
そう言うと前のめりになって、俺の足先へと手を伸ばし始めた。おいおい。
「危ないって」
「飛行中に確認したいのよ」
俺は滑り落ちそうになるブルマの胴を押さえた。なおも下へとずり下がっていく。
「ちょ、ちょっと待て!」
尻!尻が顔に当ってる!!
「んー、余剰エネルギーの発光現象は確認できないなあ」
おまえなぁ…
俺はほとんど宙吊り状態になっているブルマを抱えて、慌てて地へ降りた。
「もう絶対おまえとは飛ばねえ!!」
「何よー、ケチ」
科学者って女も捨てるのかなあ…

まさかそれが原因だとは思いたくないが、ブルマは俺の前に顔を見せなくなった。例の制作に勤しんでいるわけではない。なぜなら、部屋から物音がしないし、倉庫にパーツを取りに行く姿も見かけなくなったからだ。
だからきっとあれは完成したのだ。なのに部屋から出てこない。
俺は自分が悪いことをしたとは思っていないが、このまま機嫌を損ね続けるのも嫌だったので(こんな俺の態度をウーロンは「尻に敷かれている」と言う)、夜もまだ更けぬうちにブルマの部屋を訪れた。
「ブルマ?いるのか?」
いるとわかっていてもこう声をかけてしまう。何でだろうな。
返事はなかった。が、すぐにロックが外れた。
「入るぞ…」
1歩を踏み入れた瞬間、体が軽くなるのがわかった。
舞空術ではない。包み込まれる浮遊感。何だ?
「反重力空間よ」
俺の心の問いに答えた部屋の主は、星の光に包まれていた。横たえた体がわずかに10cmほど浮いている。
見ると、俺の足下と床の間にも同様の空間ができていた。
「な、何だ、これは?」
驚きと共に発せられた俺の真っ当な質問は、ブルマの冷静な感情論に押さえつけられた。
「あんたって、本当に感動のない男ね。もっと他に言うことないの?」
俺は室内を振り仰いだ。もはや部屋とは呼べそうになかった。本来直方体であるはずの空間からは距離感がすっかり消え失せ、ほとんど果てがないように見えた。どこまでも続く漆黒の闇に、燦然と輝く無数の光点。それらは各々軌道を持って、しかし互いにぶつかり合うこともなく、漂うように移ろっている。
「おまえが作ったのか?」
訊いてから後悔した。これ以上の愚問もないだろう。
それが伝わったのか、ブルマは黙って半身を起こすと、囁くように言った。
「全宇宙の星が見渡せるのよ」
その瞳はどこか遠くを見つめていた。
「全宇宙?」
「そ。空想だけどね」
『空想』。こいつの口から出るには意外すぎるその言葉。
「疲れたらここに来るのよ」
「疲れたら?」
「そうよ」
言葉とは裏腹に、ブルマの声には強さが溢れていた。何故かは知らず凛然としたその姿勢に、俺はある感情を刺激された。
「…俺のところには来ないのか」
「え?」
「いやその…」
するりと口に出したはいいが、ブルマの意外そうな瞳に迎えられて、我に返った俺は言い澱んだ。
「そういう時は男のところに来るものなんじゃないかと思って…」
どうしても語尾が萎んでしまう。情けないな。
ブルマは俺の台詞に瞬間瞳を瞬かせ、だがすぐに一笑してみせた。
「もちろんそれもありよ。っていうか行ってるわよ。あんたが気づいてないだけで」
そうだったのか。
「でもそれだけじゃダメでしょ。あんたはいないこともあるし。引き出しは多く持っておかなくちゃね」
引き出しか。…俺もその中の1つなのかな。
「あたしにはそれが必要なのよ」
そう言うブルマの顔は凛としていて涼しげで、こんな表現が許されるなら――とても男らしく見えた。


本当に、こいつは男と女の綯い混ざった不思議なやつだ。
そして、俺はこいつのそういうところが嫌いではないのだ。
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