過去の女
身から出た錆…と言うのだろうか、これは。

エアジェットのタラップを上ってくるブルマの姿を、俺は無言のままに見つめていた。
ブルマとは武道会が始まって以来、まともに話をしていなかった。開会前に数度言葉を交わしたきりだ。
昼、みんなで食事をしに行った時は無視された。
試合の合間に、ちらと顔を合わせた時も無視された。
武道会終了後も、悟空たちがいなくなった途端に無視され始めた。
そして今、帰路に着くエアジェットの中でも無視――
理由はある。残念ながら。
悟空の結婚相手のチチさんに、俺が昔言った言葉だ。それを、彼女が覚えていたんだ。
俺はほとんど忘れていたというのに。おそらく彼女が現れなければ、永遠に忘れ去っていたと思うのに。
確かに、不用意な言葉だったと思っている。今となっては。
「そんなこと言っていない」という言い逃れもできない。事実だからな。
でも、事情を話せばわかってくれるはずなんだ。
ブルマは、俺が荒野で盗賊をしていたことを知っている。ドラゴンボールを狙っていたことも知っている。ずっと追跡していたことは言っていないが、話せばわかってくれるだろう。幼少のチチさんとの間に起こった出来事も、話せないというほどのことではない。
それなのに、あいつは話を聞こうともしない。それどころか、目を合わせようとすらしない。
そのわからずやは、俺の斜め前のシートに座って、眉を吊り上げながら雑誌なんかを読んでいる。
ブルマに会うのは半年ぶりだ。通常、俺たちの間ではそれくらいの期間は、さしたる変化を生まない。こいつの機嫌が少し悪くなるくらいだ。
でも、今回は違った。
無視されているにも関わらず、俺は今日何度もブルマに視線を寄せていた。
控えめな紫黒のワンピース。時折髪の落ちかかる耳元に光の一粒。相変わらずの大きな瞳にかかる、濡れたような睫毛。白い肌に浮かび上がる、艶のある唇。
すごく綺麗なんだよな。これで怒ってさえいなければなあ…

エアジェットが地に着くなり、ブルマは一目散にC.C内へと消えてしまった。
声をかける暇もなかった。前シートに座らせたのが災いした。
後ろから睨まれ続けるよりはと思ったのだが…失敗だった。
「ありゃあ、相当怒ってるな」
今やブルマの怒気事情にはすっかり精通しているウーロンが、白けた目をして呟いた。
「ま、今回はおまえが悪いな。早いとこ仲直りしてくれよ、とばっちりを食うのはおれなんだからな…ちゃんと仲直りしてから出てけよな」
「わかってるよ」
俺は仲直りしたいと思ってるんだよ。いつだってな。ブルマもそう思っている。…たぶん。
問題は、そうであるにも関わらず一筋縄じゃいかないということだ。


とりあえずのシャワーを浴び、上辺だけは汗を流した。熱い湯に身を打たせて、俺は心を冷静にした。
とにかく話をすることだ。事情を伝えることだ。
いつものケンカとは少々異なることに、今回は明らかな事情がある。おそらくはあいつも納得するであろう事情が。
表面だけを見るから大したことのように思えるんだ。裏面を知ればなんてことのない話なんだ。あいつはそういうことをわからなすぎなんだ。
ある意味では堂々と、俺はブルマの部屋を訪れた。ロックのかかっていないそのドアを開けることを躊躇する理由は、俺にはなかった。
「ブルマ、入るぞ」
目に入ったのは、紫黒の後姿。それはすぐに新鮮な見目の特徴を伴って、俺に向き合った。
「何の用よ?」
その瞳の中には、青い炎が静かに燃えていた。
「話しようと思って」
「話すことなんか、あたしにはないわよ」
一刀両断に切り捨てられても、俺の気力は萎えなかった。こんなの、いつものことだ。
「じゃあ、聞いてくれないかな」
ブルマは答えなかった。だが、追い返す素振りも見せない。充分だ。
俺は事の経緯をあらまし語った。幼少のチチさんと偶然巡り合ったこと、彼女が目の前で倒れたこと、あくまで彼女の信用を得るための言葉であったこと…
多少端折りはしたが、根底は押さえたつもりだ。だが俺の話を聞いても、依然ブルマの瞳に揺らめく光は変わらなかった。
「それで?」
「いや、それでって…」
俺は言葉に詰まった。ブルマの反応が意外だった。
他に言うべきことはないはずだ。…謝るべきなのだろうか。いや、違うだろう。誤解させたという点でチチさんには謝る必要があったかもしれないが、こいつに対してはないはずだ。謝りたくないというわけではなく、そうするべきではない。こいつは揚げ足を取るやつだ。俺が謝れば、むしろ畳みかけてくるに違いない。『つまり謝らなきゃならないようなことをしたってわけね』…目に見えるようだ。
「じゃあ、あたしが訊いてあげるわ」
ブルマが思考を破った。口元に笑みが浮かんでいた。俺を嘲る、妖しい笑みが。
「あんた、ずいぶんチチさんに構ってたわよね。何で?」
「そ、それは…」
だって、かわいかったから…
初々しくて。ブルマにもああいう時代が(少しは)あったよなと思って。懐かしかったというか…羨ましかったというか。
それにしても、なかなか痛いところを突いてくるなあ、こいつ。俺も後悔してるんだ。もっと遠巻きにしていれば、思い出されずに済んだのかもしれないんだからな。…でも、何でそんなこと知ってるんだ?
思わず口篭ってしまった俺に、ブルマは冷たく言い放った。
「本人には言えたのに、他人には言えないわけ?――『愛して』たからでしょ」
「だからそれは違うって…」
さっき説明したじゃないか。おまえ、何を聞いていたんだ。
こいつはいつもそうだ。いつもいつもひとの話をさっぱり聞きや…
ブルマが背を向けた。瞬間その向こうに懐かしい物が転がっていることに気づいて、俺は思考を止めた。
数あるブルマの作ったメカの中で、俺が一番初めに目にしたもの。俺とブルマが出会うきっかけとなったある物を探し出すための小型メカ…
…ドラゴンレーダー。
こいつ、今まで一度だって――俺をここから追い出した時にだって、これを引っ張り出したことはなかったのに。
とても信じられなかった。でも目の前にある物が、その事実を語っている。
例え誤解からだとしても、ブルマは今、本当に俺から離れようとしている。
どうしてだよ。どうして。俺はまだ…

――おまえに触れてもいないのに。

そう思うのと同時だった。気がつけば俺はブルマの腕を掴んで、その唇を奪っていた。
そう、奪って。…こんなことは初めてだ。
「おまえだけだって!」
脳裏に響く自分の声で、俺は我に返った。努めて呼吸を整えた。感情から出た言葉を、今度は理性で咀嚼した。そうだ。これを伝えないでどうするんだ。
「おまえだけだ。俺があい――」
「ストーーーップ!!」
土壇場で気づいた俺の行動は、ブルマの叫び声に止められた。ブルマが俺の体を押し返した。
「わかった、わかったから。もうわかったから、とりあえず出てって」
「ドラゴンボールは…」
俺から離れようとするブルマの力の強さと、険の消え去ったその声に、俺は真意を量りかねてそう訊ねた。
「探さないから。ね?もう出てって」
そう言われても、信じることは出来なかった。俺は半ば呆然と、ブルマの瞳を見下ろした。
「本当に?」
「本当に。だから出てって」
ブルマの瞳はもう燃え立ってはいなかった。だが、ケンカの後いつもそうであるように、温かな光が溢れているわけでもなかった。
俺にはまったく読みきれなかった。先ほど自分を動かした激情はすでに去っていた。ブルマに背を押されるままに、俺は部屋の外へと追い出された。


手を離すべきじゃなかったのかもしれない。
俺はそう思っていたが、時すでに遅かった。
あれから一週間、ブルマは極々普通に生活していた。学院へ行き、帰ってきて、そこそこの時間部屋に篭る。ドラゴンボールを探しには行かなかった。
だが、元通りになったわけではない。ブルマはまだ一度も俺の部屋にやって来ない。日常会話は返してくれる。避けられているというわけでもない。でも、笑ってくれない。怒ってもくれない。
何を考えているのかわからないって、辛いもんだな。ひょっとして怒られている方がマシかもしれない。

「ヤムチャ。いる?」
コンソールからブルマの声が聞こえた。俺はその時、午前中の修行を終え、いつものように考えているところだった。
ベッドの上で。あいつのことを。
その対象が、俺の部屋にやってきた。一週間ぶりに――半年ぶりに。そうと知っても、俺は安堵したりはしなかった。
こいつはいつもは了解なんか取らないんだ。俺が文句を言っても、勝手に入ってくるんだ。つまりはそういうことだ。一線を引いているんだ。
薄々どころか完全に解ってはいたが、やはりショックだ。こいつがそんな態度を取ったことなど、これまでなかったからな。
コンソールを操作し、ドアを開けた。いちいち新鮮で嫌になる。
「ハイ」
微かに笑ってブルマは言った。部屋に足は踏み入れずに。
「…どうした?」
真意がわからず訊いた俺の言葉にブルマは答えず、さっさと部屋へ入ると、かつての定位置に腰を下ろした。ベッドの上。壁を背に。俺は正直ほっとした。
自分もその隣に座り込みながら、少しだけ緩んだ気持ちで、横目で傍らのブルマに視線を走らせた。
…やっぱり綺麗になってる。
男ができると綺麗になるとか聞いたことあるけど。俺がいない間に綺麗になったっていうのは、どういうことなんだ一体。
まさかこいつが浮気したなんて、微塵も思ってないけど。傷つくよな、実際。
「ねえ、ヤムチャ。この前言ったことって本当?」
ふいに柔らかな声でそう聞かれて、俺は今度はまじまじとその声の主を見た。
立てた両足を両腕で抱え込んで、膝の上に顔を乗せながら、斜め目線で俺を見ている。少し上がった口角に一瞬気を取られて、俺は慌てて目を逸らした。
「…ああ」
やっとの思いでそう言った。あの時自分を駆り立てた強い衝動は、もうやってこなかった。
間が開いた。長さなどわからない。再びブルマが呟いた。
「ねえ、ヤムチャ」
すでに声から柔らかさは消えていた。まったくいつもの平常とした声だった。
「キスする?」
瞬時にブルマを見返した。戯れを含んだ瞳。おもしろそうに見る目つき。やっぱり上がった口角。
何を考えているのか、さっぱりわからない。こいつがどう感じているのか、俺はまだ何も聞いていない。
怒っているのかどうかも。許してくれたのかどうかも。それとも流したのか?伝わったのか?
何もわからないままに、気づけば俺は、やっぱりブルマに口づけていた。
だって、そうしたかったから。ずっと、そうしたかったから。

柔らかな体とその唇を腕の中に収めて、俺の心は寛がなかった。
わかっていたからだ。ただ感情に流されただけだと。
これからどうしよう…
なんか引っ込みつかなくなってしまったけど、話は全然終わっていない。というか、していないような気もする。そもそも、何について話せばいいのかすらわからなくなってきた。
要するに、俺の理性はどこかへ行った。恥ずかしながら、そういうことだ。
一瞬、唇が離れた。と同時に、頬に触れた――ひんやりとしたブルマの手。あいつはそれを俺の右頬に添えながら、俺の目の前で、握った右手をおもむろに開いてみせた。
一粒の飴がそこにあった。
脈絡のなさに俺が固まりかけたその隙に、あいつはその飴を自分の口へと入れた。
大きな咀嚼音、ついで飲み込まれる音が聞こえた。今度は俺が息を呑む番だった。
「……!!」
俺が言葉を見つけるより早く、ブルマは俺から離れ窓際へと飛んでいった。窓に映る自分の姿をためつすがめつした挙句、呆然としている俺へ視線を投げつけて、こう言った。
「かわいい?」
俺はまったく声を出すことができなかった。ブルマはさらに畳みかけた。
「ちょっと、ヤムチャ!かわいいかって訊いてるの!」
その怒声で我に返った。
…何を言ってるんだおまえは。
かわいかったらどうだっていうんだ!一体これはどういうことなんだ。
「…今食べた飴のせいか?」
どう考えてもそうに違いないとは思いながら、俺は訊いた。目の前に佇む少女に。
一体何歳くらいなのだろう。女の子の身長というものは俺にはよくわからないが、10代であることは間違いない。10代前半?いや、もっと前だな。ひょっとすると1桁…
「そうよ。これはね『ビミニ・キャンディ』って言って、食べると年齢が半日の間約半分…」
得々と語りながらブルマはベッドへと戻ってくると、俺の膝元に座り込み、その瞳を俺に向けて言った。
「『愛してる』って言って」
「は?」
「『愛してる』って言ってよ。チチさんには言ったんでしょ」
一瞬完全に虚を突かれながらも、俺の心は再び凍りついた。
…こいつにはもう、そうとしか思えないんだな。
ならば、俺もこいつの目線に立ってこいつを解くしかないか…
射抜くように見る瞳に、俺は相対した。
「…どうすればいいんだ?」
「『愛してる』って言うのよ、あたしに。心を籠めてね」
ブルマの瞳は真剣だった。俺はその言葉を咀嚼した。
これはやっぱり、今言えってことだよな。…こいつにか?この子どものブルマにか?
正直、すんなりと受け入れる心境に、俺はなれなかった。だって、俺だって初めて言うのに…それが、いくら本人であるとはいえ、子ども相手だとは。
「どうして子どもの姿なんだ?」
当然、俺は訊いた。
ブルマは『わざわざ』子どもの姿になったのだ。一体、それにどんな意味があるというのだろう。俺にはまったくわからなかった。
「あんたが本当にあたしを愛しているかどうか知るためよ。いいじゃない、チチさんだって子どもだったんでしょ」
その後半部分に、特に俺は反論できなかった。どうやら俺は自分で思う以上に、苦境に立たされているようだ。
…それにしても、そんなに信用できないのだろうか。
ブルマの真意が、俺にはわかりかけていた。
こいつは今回のことをダシにしているに過ぎない。俺がこいつのことをどう思っているのか、それが知りたいだけなのだ。
自分がどんな姿であっても――例え子どもの姿であっても、愛することが出来るのか。それを俺に問いかけているのだ。
いや、まったくのダシというわけでもないかな。今回のことで考え直した、というところだろう。
まったく、『口は災いの元』って本当だな。それと『身から出た錆』か…


「いい?ちゃんと心を籠めてよ。適当に言ったら承知しないからね。目の前のあたしに、心を籠めるのよ」
念を押されずともわかっていた。事の大変さが。
しばし、沈思黙考した。
…果たして口説けるだろうか、こいつを。チチさんにそうしたように。
チチさんを納得させたように、こいつを納得させられるだろうか。
それは無理であるように俺には思えた。
こいつは、俺の本気は信じないが、嘘は見抜く。そういうやつだ。なればこそ、これまでケンカを繰り返してきた。胸を焦がす愛の言葉も、赤の他人のものであれば受け入れるかもしれないが、俺の口から出れば疑うだろう。まして…
俺は目の前の少女を見た。期待に満ちた瞳で俺を見上げるブルマの姿を。
かわいいよな。今よりもっと大きく見える青い瞳に、こまっしゃくれた口元。すっきりとした眉目…こいつ、子どもの時も今もあまり変わんねえな。
そう。子どもではあるが、明らかにブルマだとわかる。きっとこの子をしか知らない人間にも、大人のブルマが同一人物だとわかるだろう。
俺は目を閉じた。今は少女のブルマではなく、大人の、いつものブルマを見たかった。
だが、それは叶わない。それをさせないことによって、こいつは俺を量ろうとしているのだ。
目を開けて、ブルマを見た。その言葉を口に出してしまう前に、俺は最後の自問をした。
俺はこいつを愛しているんじゃなかったのか?

息と共に答えを吐いた。自分自身に対する答えを。
「無理だよ」
どんな姿でも愛することができるなんて、嘘だよ。だって子どもだもんな。そんな気持ちになれないよ。
世話を焼くことは出来るし、かわいがることだって出来るけど…それ以上は無理だよ。

息を吐いたから下を向いたのか、下を向くために息を吐いたのか。どちらにしても、俺はブルマの顔を見なかった。
…こんな風に終わるなんて、思ってもみなかった。諦めつかないよな。浮気でもされた方がまだマシだ。
でも、たぶん説き伏せられない。こいつはきっと無形の愛を信じている…


「よーし!合格!」
大人びた子どもの声がして、俺は思わず顔を上げた。相変わらず瞳を輝かせ続けるブルマの顔が、そこにあった。
「じゃ、遊びに行こ!どうせ半日はこのままだし。遊園地!この姿なら子ども料金だから」
俺の肩を叩きながら、先ほどまでの緊張感など欠片も感じさせない声音でブルマは言った。言うとすぐに、俺の腕を取った。
「は?」
俺は間抜けな声を出しながら、自分の下にある瞳を見た。
「遊園地!あんた好きでしょ?」
無邪気な子どもの姿をしたブルマは、そのこまっしゃくれた口から、大人顔負けの口調で続けた。
「その前にシャワー浴びてきてよ。あんた汗臭いわよ」
「その間にあたし着替えてくるから」
「30分後ね!時間厳守よ!」
ひさしぶりに聞く機関銃声は、次の一言で締め括られた。
「そうだ、さっきの言葉だけど。そのうち言ってね。あたしが忘れた頃に!」

そして、勢いよく俺の部屋を飛び出して行った。
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