二度目の女
初めは呆気に取られた。次にショックを受けた。
だが、それを遥かに上回る衝撃的な事実――悟空のレッドリボン本部単身突入――を突きつけられて、それらの感覚は霧散した。
後に残っていたのは、小さな怒りだけだった。

汗と埃を捨て、適度な食事をしたためて、リビングに俺たち2人だけとなってからも、ブルマは口を開こうとはしなかった。
コーヒーから立ち上る白い湯気を通してそのふくれっつらを眺めながら、俺はしかたなく話を振った。
「で?どうして俺は殴られなきゃいけなかったんだ?」
まずはここからだよな。これを訊かないことには話にならない。
まったくわけがわからないんだ。それで『話し合おう』なんて言われても困るよ。
確かにあの日は、すでにケンカ中の状態だったけど。だからと言って、殴っていいわけはないよな。しかもいきなり、みんなの前で。俺の身にもなってくれよ。
理由があるなら言うべきだ。おそらくないと思うけど。
俺の問いにブルマは答えようとしなかった。相変わらず床の上に座ったまま、鋭い視線を寄越し続けた。俺は溜息を堪えながら、さらにブルマを促した。
「おまえが『話し合おう』って言ったんだからな。ちゃんと話せよ」
俺は流してもいいと思ってたんだ。こいつの手の早さもだいぶんわかってきたことだし。
顔に似合わず口が悪いということも。素直そうに見えて癖の強い性格なのだということも。
でもこいつ、延々と睨み続けるんだよ。またその迫力のあることといったら…一見お嬢様然としてるくせに、そこいらの男よりも怖い。
…本当に、人って見た目じゃわからないよな。
答えを待ちがてらブルマの顔をまじまじと見ていると、その瞳が光った。青く揺らめく怒りの炎と共に、怒声がほとばしった。
「あんたが浮気したからでしょ!」
は?
思いもかけない方向からの攻撃に、俺はうっかりコーヒーカップを落としかけた。慌ててカップをテーブルに戻した。
「何言ってるんだ?」
「あたし見たんだから!あんたがあの女とキスしてるところ!」
再びブルマの顔を見た。冗談ではないらしい。
言いがかりか?何のために?
「あのさ。まったく話が見えないんだけど」
女にもその行為にも、心当たりはまったくない。だいたい俺は…
ブルマが立ち上がった。右手をその位置にスタンバイさせて、ソファの上の俺に詰め寄った。
「惚けないでよ!見たって言ったでしょ。…また殴られたいの?」
脅迫紛いのその姿勢に、俺は思わず腰を浮かせた。
「ちょっとブルマさん…」
「その呼び方やめて!!」
「あ」
言われて気づいた。まったく関係のない角度から、ブルマを刺激してしまったことに。
だいぶん慣れたつもりだったんだけどな、ブルマの二人称。つい出ちまった。だって、こいつ怖すぎだぞ。
「ご、ごめん。悪かった。謝る。ごめん!」
「やっと認めたわね」
口元を歪ませさらに眼光鋭くなるブルマの表情を見て、自分の台詞が曲解されてしまったことに、俺は気づいた。
「い、いや!違う…」
「往生際が悪いわよ!!卑怯者!女ったらし!」
ブルマの放った最後の言葉に、俺の心が反応した。忘れかけていた怒りが首を擡げた。むろんその前の言葉だって不本意には違いないが、最後の言葉はそれを上回る。だって、俺がそうじゃないということは、こいつが一番よく知っているはずなんだ。
「ブルマ!」
叫ぶと共にブルマの右手を掴んだ。せめてこれを言い終えるまでは、右手は振り下ろさないでいてもらいたい。
「おまえの話はさっぱりわからないけどな、一つだけ言っておくぞ。俺は誰ともキスはしていない!」
一気に言い放った。途中で口を挟まれないように。本当に、こいつは口も手も早いんだから…
数瞬、間が開いた。説き伏せた、そう俺が思ったのもつかの間。口を尖らせ、ブルマがさらに言い募った。
「だから、したんじゃないの?」
なにが『だから』なんだ?こいつ時々、すごく呑み込み遅いよな。…本当に頭いいのかな。
普通なら怒りが増すところであろうこのブルマの反応に、俺はかえって気を殺がれた。これは説明する必要がある、そう感じた。
掴んでいたブルマの右手を下ろし、手を緩めた。それが再び振り上げられないことを確認して、ソファへと座らせた。努めて噛んで含むように話して聞かせた。
「あのな。…おまえにもしてないのに、他のやつにするわけないだろ?」
こんな当たり前のことがどうしてわからないのかなあ。…こいつ、本当に頭いいのかな。
ブルマは黙り込んだ。瞳に燃える炎が弱まった。俺が息を抜きかけた時、その声が聞こえた。
「何で?」
やや上目遣いに、俺を睨みつけている。態度と言葉の双方に俺が困惑していると、再び怒気が発せられた。
「何でよ。何でしないのよ!」
そして瞬時に立ち上がると、荒々しい足取りでリビングを出て行った。
俺はただただ呆然と、それを見送った。

「なんだあ…」
数瞬の後、我に返った。開け放されたドアに向かって思わずそう呟いた時だった。
「やっと終わったか」
「わっ!」
ドアの陰にウーロンがいた。反射的に飛び退ってしまった俺を横目に、やつは白けた顔で呟いた。
「まったくよくやるよな、おまえら。それにしても、まだキスもしてなかったのか」
「おっ、おまえ、聞いて…」
「丸聞こえだっつーの。な、プーアル」
ウーロンの視線の先を追いかけた。やはりドアの陰から、おずおずとプーアルが顔を覗かせた。
…穴があったら入りたい。俺は今まさにその気分を味わっていた。
「すみません、ヤムチャ様。聞くつもりはなかったんですけど…」
…謝らないでくれ、余計恥ずかしくなる。
半ば自棄になりながら、再びソファに沈み込んだ。プーアルが新たなコーヒーを持ってきた。俺は惰性でそれを啜った。
あー苦い。こういう時のコーヒーって、本当に苦いな。
黙って俺の隣に座り込み自分もコーヒーを啜るプーアルを、おもむろに見下ろした。それに心を落ち着かせられながら、先のブルマとの会話を反芻した。
仲直りできた…わけじゃないよな。
誤解は解けたと思うんだけど。…あ、何を誤解していたのかを訊くのを忘れた。まあ、それはいいとして。
あれ、本気で言ってたのかな。
『何でしないのよ!』
何でって…当たり前だろ。そこまで説明しないといけないのか?だいたい、したこと(してないけど)を怒っていたんじゃなかったのか?
「わからないな…何考えてるんだあいつ…」
一体どういう頭の中してるんだ。
カップの底に溶け残った砂糖ごと、最後の一口を啜った。その時だった。
「何、おまえ本当にわかんねーの?」
「わっ!」
再びウーロンの声がして、俺は飛び上がった。…こいつがいたこと、忘れてた。
俺の態度など歯牙にもかけず、ウーロンは続けた。
「おまえ、本当に鈍いんだな。…キスしろって言ってるんだろ」
「誰が?」
反射的に俺は訊いた。誰が、誰に言ってるって?
「ブルマが。おまえに。キスしろって言ってるんだよ」
一瞬、俺は完全に呆けた。
「…本気か?」
あれがそういう意味になるのか?どうしてそうなるんだ。文法おかしくないか?…こいつの妄想じゃないんだろうか。
「おまえがそう思うのはわかるぜ。今のうちだぞ、考え直すなら。まだしてないっていうのは意外だったけど、ラッキーかもな、手を切るにはな」
「そんな…」
そんなこと考えたこともないよ。
ウーロンの最後の言葉にだけは、そうはっきり答えることができる。だが、俺はそうしなかった。それ以外の言葉が、心をすっかり占拠していたからだ。
…本当に、そういう意味なのだろうか。


「おい、ブルマ。遅刻するぞ」
「放っとけよ。どうせ出てきやしないって」
「でも…」
翌朝、ブルマは部屋から出てこなかった。部屋のコンソールに向かって何度も呼びかけたが、それにも応答しなかった。
…まだ怒ってるんだな。
ブルマがハイスクールに遅刻して行くことなんて、いつものことだ。しかし、今朝に限ってはいつものことではないということは、さすがに俺にもわかった。
一緒に登校したくないんだろう。…やっぱり仲直りできてなかったか。
「おい、もう行こうぜ。俺たちまで遅刻する」
「ああ…」
ウーロンに促され、俺はC.Cを後にした。
短く刈られた後ろ髪を引かれながら。

移動教室の途中で、それを見かけた。
このハイスクールには一人しかいない、菫色の髪。ブルマだ。あいつ、ちゃんと来たんだな。と言っても、もう4限目だけど。
しかし、その髪はなぜか外にいる。予鈴はとっくに鳴ったというのに。まさか、もう帰るのだろうか。
同じクラスとまでは行かなくとも、せめて隣のクラスだったらなあ。あいつの行動もわかるだろうし、いくらか話もできるのに。
廊下の窓からしばらく見ていると、ブルマは中等部の校舎へと消えた。俺が首を捻った次の瞬間、非常階段の隙間に菫色がちらつき出した。
屋上?…サボりか。
朝は遅刻、来た途端にサボりか…大丈夫なのかな、あいつ。そりゃ、成績だけなら文句なしなんだろうけど。
「おいヤムチャ、遅れるぞ」
「ああ、今行くよ」
クラスメートに促され、俺はそこを後にした。
菫色の髪を横目に追いかけながら。


4限目の後の昼休み。俺はクラスメートの誘いを断り、ブルマがいるであろう場所に向かった。
行ってどうするか、ということは考えていなかった。というより、わからなかった。ケンカとは少し違うような気がするし。…違うと思うんだけど。
心持ち静かに屋上のドアを開けた。
「…ブルマ?」
返事は返ってこなかった。それどころか、姿さえ見えなかった。
さして広くもない屋上を一周して戻ろうとした時、それが目に入った。
ペントハウスの屋根、先ほど俺が入ってきたドアの真上。何やら赤い物の入った小さなボトルが転がっている。その奥にちらりと見える、見覚えのある靴先。
側面の梯子から屋根に上ってみると、無造作に体を投げ出し眠っているブルマがいた。
「おい、ブル…」
呼びかけて、俺はやめた。ブルマの寝起きの悪さを思い出したからだ。ただでさえ怒っているというのに寝起きときては、話などできないに違いない。
できるだけ音を立てないよう気を配りながら、その隣に腰を下ろした。起きればなおよし、起きなくとも構わない。別に用があるわけではないのだから。
風の吹くまま、気の向くまま。遮るもののない青空の下で、いつしか俺はそんな気持ちになって、ブルマの寝顔を見ていた。

かわいいな。
そう思っていた。…最初は。こいつのことをまだよく知らなかった頃は。
実際かわいかったし。明るくて、華やかで、いかにも女の子って感じで。…いつからかな、こいつの機嫌が悪くなったのは。俺がハイスクールに行き始めた頃からかな。自分で行かせたくせにな。勝手なもんだよな。
それにしても不思議だ。
俺はいつからこいつのことを、好きだと思い始めたのだろう。いつの間に、ただ漠然としたかわいさを感じなくなったのだろう。…そりゃ今だって、顔はかわいいと思うけどさ。怖すぎなんだよ、こいつ。
その怖い彼女の声が、空に木霊した。
『何でしないのよ!』
そしてもう一つ、相反する友人の声。
『ラッキーかもな、手を切るにはな』
そんなこと、考えたこともなかったよ。
だいたい、そんな雰囲気ないしさ。いつも一緒っていうのも、かえってタイミング図りにくいよな。
…ああそうだよ、考えたことあるよ、前者に関してはな。最初の頃は結構考えてたな。こいつのことをよく知らなかった頃は。女の子と付き合うなんて初めてだし、そりゃ夢だって見るさ。でも…
再びブルマの顔を見た。まるっきり気の抜けた寝顔。穏やかな表情。
かわいいよな、やっぱり。いつもこういう顔してればいいのに。
その時、一陣の風が吹いた。心の中に。ふとその考えが首を擡げた。
…今してみようか。
どうせしろって言われてるんだし。でもやっぱりタイミング図れないし。やり方もよくわからないし。言わば予行練習だ。他人にするのは問題かもしれないけど、本人なんだから構わないだろ。
そっと唇に触れてみた。微かに漏れる寝息。…相手は眠っているというのに、なぜか俺は目を閉じて、唇を合わせていた。
…甘い。
なんか、イチゴみたいな味がする。フレッシュイチゴというよりは、もっと強い濃厚な味。
思わずブルマの唇を見つめた。その前に添えられた左手に、赤い欠片が握られていることに気がついた。
「あ、これか…」
足元にそれと同じものが入っているボトルを見つけて、それを取り上げた。イチゴの形をした、厚さ5mm程の真っ赤な食べ物。
一つだけを齧ってボトルを元に戻すと、屋上を後にした。


妙だな。
一人リビングで食後のコーヒーを啜りながら、俺は考えていた。
ブルマのことだ。屋上でのことではない。その後のことだ。
ブルマは夕刻遅くにC.Cに帰ってきた。正規の授業を受け、助っ人の打ち合わせのためクラブに顔を出した俺よりも遅く。
まさかあのままずっと眠っていたのだとも思えないが、もっと妙なのはその態度だ。
全然怒っていないみたいなのだ。それどころか、昨夜のことに触れさえしない。まったく何事もなかったかのような態度。むしろ機嫌がいいくらいだ。
何かあったのだろうか。ひょっとして気づかれたか?いや、それならそうと言うよな。黙って呑み込んだり狸寝入りしたりなんて、あいつはしないだろう。
答えの出ぬまま思考が停止しかけたその時、当人がやってきた。俺と同じようにコーヒーと、例の赤い食べ物の入ったボトル(昼見た物よりさらに大きい)を抱えて、俺の座っていたソファの、空いていた反対側に腰を下ろした。
やっぱり変だ。昨日なんか、『話し合おう』って言った本人のくせして、床の上に座ってたんだぞ。確かにこいつは気分屋なところあるし、怒っているよりずっといいけど…
不審がられない程度に俺はブルマに視線を走らせ、一見なんということのない話題を振った。
「なあ。それ何なんだ?その、イチゴみたいなやつ」
結構なペースで口に運んでいたその一片を宙にかざすと、ブルマは笑って答えた。
「これ?イチゴみたいじゃなくてイチゴよ。『ドライストロベリー』。イチゴを乾燥させたやつ。今ハマってるの。あんたも食べる?」
「いや…」
もう食べたよ。
マズくはなかったけど、俺には少し甘すぎたな。何ていうか、女向けの味だ。
しかし、これでわかった。こいつ、気づいてないな。…意外と鈍いんだな。
なぜだろう。どことなくおもしろくないような気分に、俺はなった。俺のしたことにまったく気がついていないブルマに、少しだけ腹が立った。
眠っていたんだから、当たり前なのに。そうと知っていて――というより、だからこそしたことなのに。
…そんなに下手なのかな、俺。されても気づかないくらい?
再び、一陣の風が吹いた。言わずもがな、心の中に。
…今してみようか。
いつかはすることなんだし。どうしてなのかは知らないけど、こいつも機嫌いいし。今なら誰もいないし。
…あ、このタイミングか。
俺は気づいた。自分がこれまで幾多ものタイミングを見逃していたことに。
ブルマは気づいていたのかな。いや、それならそうと言うよな。…あ、言われたんだっけ。
腹は決まった。目下一番の問題となっているブルマの行為を止めるため、俺は声をかけた。
「やっぱり、それくれるか」
ブルマの手にある赤い欠片を指差し、言った。まずはこいつの口を止めないと。…というか、気づいてなかったな、こいつ。気づいてたら口止めるだろ。本当に雰囲気ないな。それは俺だけのせいじゃないよ。
ブルマがボトルに手を突っ込んだ。そして素直にその欠片を俺に差し出した。俺は手を伸ばすことはせず、体ごとそれを受け取りに行った。
どうして気づかなかったんだろう。
屋上でのこともそうだけど。こいつ、雰囲気はないけど、隙だらけだ。
俺は手を伸ばした。ブルマの手にではなく、その頬に。目を閉じて、唇を合わせた。

あー…
全然違うな。昼間したのと。
気の抜けていない頑なな感触。時折流れ込んでくる吐息。柔らかくて、すごく意識してるのに、どこか自然に噛み合うようなこの感じ…味なんかどうでもよくなっちまうな。
やっぱり俺、好きだな、こいつのこと。すごく好きだ…

貪っていたわけではない。ただ時間を忘れた。いろんなことがどうでもよくなってしまった。
でも、人間は息を吸って生きている生き物だ。

俺が少しだけ緩めると、ブルマが勢いよく唇を外した。
「って、あんた長すぎ!!息続かないでしょうが!!あたしを殺す気!?」
思わず目を瞬かせた。まさか怒鳴りつけられるとは思わなかった。…本当に雰囲気ないよな。
「ご、ごめん。引きどころがわからなくて…」
俺はそんなに苦しくなかったんだけどな。…肺活量の差か。
「そんなもの適当にしてよ!」
「適当って?」
「あたしだって知らないわよ!」
無責任だなあ。自分のことなのに。
つまり実践を重ねていくしかないということか。…武道と同じだな。
じゃあ、もう一回…
再び俺はブルマに口づけた。忘れないうちに反復しておくのが効率的だ。それにこいつ、怒ってはいるけどさ…

隙だらけなんだよな、やっぱり。
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