未満の女
初めてできた俺の恋人は、一風変わっている。
…と思う。

「ヤムチャ!ただいまー!!」
遠くから華やいだ声が聞こえてきて、俺は顔を上げた。C.Cのポーチからこちらに向かって子犬のように駆けてくる、一人の女の子の姿が見えた。
「やあ。おかえり」
端的に俺は答えた。ある事実を隠して。
名前を、まだ呼べないのだ。
ここに来るまでは呼べていた。のだが、C.Cに来たら、なんとなく気圧されてしまって。
こんなすごいところのお嬢様だなんて、思いもしなかった。全然そんな素振り見せなかったから。それはウーロンも同じだったようだが、やつは気にもしていない。…俺とは立場が違うからな。
「ケーキ買ってきたの。お茶にしましょ!」
目の前で咲いた女の子の笑顔に、俺は逆らえなかった。
少し前までのものとは、また違った理由で。

「ここの環境変数なんだけど、うまく当てられないのよ」
「これはパーティションを分割した方がいいよ。まあ、ソースネクストするだけでもいいとは思うがね」
これが娘と父の会話。16歳の女の子が父親にする話。
理学、工学。物理、数学、化学…俺にはまったく縁のない世界に、ブルマはいた。
「そっか。じゃあパーティション分割でやってみるわ。よし、ケーキ食べよっと」
だが、そう言って振り向いた笑顔に、とっつきにくさはまったくなかった。ブルマはそれまでの会話など微塵も感じさせない雰囲気で、テーブルの上のケーキを物色しだした。
「あたしこれね!それとそっちのストロベリータルト」
「おまえ2つも食うのかよ。太るぞ」
「放っといてよね」
確かに、放っておいてもよさそうだ。
毒づくウーロンを横目に、俺はそう思った。
小さな顔、ほっそりとした手足。華奢な、それでいて女らしさを感じさせる体つき。
さらさらとした菫色の髪。大きな青い瞳。形のいい唇。
ひょっとしなくとも、すごくかわいいんじゃないだろうか。…俺、ラッキーかも。
「ねえ、お茶飲み終わったら、あたしの部屋に来ない?」
ふいにそう声をかけられて、我に返った。
「何だよ、ヤムチャだけかよ」
俺が答える間もなく、ウーロンが口を出した。
「あら、あんたも来たいの?」
「おっ、いいのか?」
「言っとくけど、寝室は見せないわよ」
「ちっ」
思わず笑ってしまった。わかりやすいな、ウーロンは。
だが、その笑みはすぐに消えた。大きな青い瞳がこちらをじっと見ていることに気づいたからだ。
俺は目を逸らしながら、僅かに残るコーヒーを啜った。

足を踏み入れた瞬間、ウーロンが呆れたように呟いた。
「おまえ、ほんまもんのメカキチだな…」
あらゆる家具の上を侵食するパーツ。デスクの上には、製作途中と思われるメカが数台。床に置かれた、エンジン部分の剥き出しになったバイクにエアカー。
それがブルマの部屋だった。
「そっちはダメよ。寝室だから」
ブルマの指差す方向に、薄桃色のベッドがちらりと見えた。目聡くそちらへ向かっていたウーロンが、首を竦めた。
…二面性だな。
俺は女性自体をあまり知らないので断定はできないのだが、これは一般的に言う『女性の多面性』とは違うよな。やっぱり変わってるよな、この子。
聞けばドラゴンレーダーも、この子が作ったというし。なんというか、たいしたもんだ。
なんとはなしにデスクへと近寄った。数機のメカの横に、一枚の紙片があった。何やら丹念に書き込まれているが、まったく読めない。…何語だろう、これ。
「設計図よ。それ、あたしの夢なの!」
俺の心中の問いに、背中越しの声が答えた。
「夢?…どんな夢?」
「ナ・イ・ショ!」
花笑みが咲いた。俺のすぐ隣で。俺は今度は目を逸らせなかった。
どことなく温かい空気が流れた。
「ケーッ!ペッペッペッ」
遠くでウーロンが鼻を鳴らす音が聞こえた。


不思議だな…
青い空。緑の木々。
遠く聞こえる街の喧騒。今までいた荒野とはまったく対照的な都。
遥か遠い存在だったはずの女の子。俺とは全然違う世界に住んでいる女の子。
なのに、なぜか違和感が湧かないんだ。
正直、まだ少し気圧されている感はあるけど。でもそれは違和感とは違う。
本当に不思議だ…


「ヤムチャ!」
呼びながら駆けて来た。いつもより大きなその声に、俺はいつものように顔を上げた。
「やあ。おかえ…」
「髪切りにいくわよ!」
唐突にそう言われて、思わずブルマの髪を見た。今日は高く結い上げられた、菫色の長い髪。
「髪切るの?それ似合ってるのに…」
まあ、俺も別段長い髪が好きというわけじゃないから、口出すつもりはないけど。
でも、そんなこと何も言ってなかったのに。あれか?女心となんとやらというやつか。
「あたしがじゃないわよ。あんたがよ!」
は?
…俺!?
「何で俺!?」
最後の反復は口に出して言ってしまった。
「何でって、ダサイからよ!!」
ダサイ!?
「でも俺、ずっとこれなんだけ…」
「今までいたところなら、それでよかったかもしれないけどね。都じゃそうはいかないのよ!!」
俺の語尾は、完全にブルマの声に掻き消された。
何だ何だ、何だ急に。昨日まで、まったくそんなこと言ってなかったのに。
思わず目を寄せてしまった俺の耳に、次なる言葉が飛び込んだ。
「その次は買い物ね。その服どうにかしなきゃ。そうしたらハイスクールに行くわよ!」
服?ハイスクール?
どうなってるんだ、一体。女心…?いや、でもそんなの俺には関係ないよな。
「よし、じゃあ行くわよ」
「え、今から?」
いくら何でも急すぎる。そもそも話がさっぱり見えない。
そう俺が思った時だった。
「何よ!嫌なの!?」
ブルマの声音が変わった。
声音だけじゃない。瞳の色も。眉の形も。口元も。顔色も。雰囲気も。周りの空気さえも――
俺が完全に凝り固まっていると、ブルマがその言葉と共に時を動かした。
「あたし着替えてくるから。その間にシャワー浴びといてね」

ブルマの姿がC.C内へと消えて、俺はようやく自分を取り戻した。
こ…怖かった…
今一瞬、ものすごく怖かった。何というのかな、…人が変わった。あんな顔、初めて見た。
…人の瞳って、燃えるんだな…


「う〜む…」
すでに10分間、俺は鏡に映る新しい自分の髪型を眺めていた。
涼しい。…涼しすぎる。
傍らでじっと待つプーアルに、率直に訊いてみた。
「本当にこれでいいと思うか、プーアル?」
「はい、お似合いですよ、ヤムチャ様!」
そうかなあ…
なんか、いまいち気合いが入らないのだが。軽すぎるというか…
正直、人前に出たくない気がするが、いつまでもカッティングルームに篭っているわけにもいかない。そろそろ席を外さないと、美容師の視線が痛い。
ほとんど渋々、俺はヘアサロンのロビーへと移動した。ソファの上で雑誌を読んでいたブルマが、立ち上がってその瞳を輝かせた。
「かっわい〜!!」
「か、かわいい?」
「うん、かわ…あ、じゃなくてステキよ。すっごくステキになった!」
…遅いよ。
少しだけ不貞腐れかけて、視線を戻した。ブルマはきらきらと瞳を輝かせて、俺の短くなった頭髪を見ていた。プーアルに話しかけるその声も、華やいで聞こえる。
同一人物…だよな。
さっきはどう見ても魔女に見えたけど。…俺の気のせいだったのかな。
一時は炎が燃え立ったように思えた瞳も、今はきれいな青氷色。白い肌に映える形のいい唇…
そうだよな。きっと見間違いだよな。こんなにかわいいんだもんな。
「さ!じゃあ次はショッピングよ!」
その声に引き摺られて、俺たちはショッピングエリアへと繰り出した。




聞き慣れないベルの音が鳴り響く。
「じゃあヤムチャ、また後でね」
「ああ…」
短い髪。トラッドなスタイル。そしてハイスクール。
数週間前の自分からはまったく想像できない世界に、俺はいた。
不快というほどではないが…女の子って、こんなに強引なものだったのか。
プーアルとウーロンは小等部の方に行っている。高等部には俺一人。この年になって一人が嫌だと言うわけもないが、正直、俺は視線が痛かった。
やっぱり、この髪がな…慣れないというか、どうにも後ろめたい感じだ。
服もちょっと…似合っていない上に俺らしくないと思うし。
だいたい、ハイスクールってやつ自体が、どう考えても俺に似つかわしくないと思うんだ。
要するに、俺は浮いていた。それは周囲の様子からも明らかだった。
とにかく視線が痛い。特に女の子。もともと俺は女からの視線を痛いと感じる性質ではあったが、今日はいつにも増して痛い。なんか集団で取り巻かれてるし。遠巻きなのでまだなんとかなっているが、3限目を迎えて、すでに俺は休み時間恐怖症になりつつあった。
3限目終了のチャイムと共に俺が溜息をつきかけた時、その声が聞こえた。
「やっほー、ヤムチャ」
明るく輝く青い瞳。にこやかに笑いかけるその表情。
この時の俺には、ブルマがまるで天使のように見えた。
「どう?もう慣れた?」
「いや、まだちょっと…」
永遠に慣れないような気がするよ。
言い澱む俺とは対照的に、ブルマは率直に言い放った。
「お昼休みに校内案内するから。誰とも約束しちゃダメよ!」
笑顔と共に放たれた少し強気のその声は、俺の心を明るくした。
かわいいよな、素直で。すごく好かれてるって感じするよ。
「じゃあね、また後でね」
軽く手を振りながら、俺の天使は行ってしまった。
俺は溜息を呑み込んで、その後姿を見送った。


「ここが美術室。で、隣が…」
4限目の後の、昼休み。一緒に昼飯を認めて、ブルマに先導されるまま、俺は校内を練り歩いていた。
近景半分、ブルマ半分。それが俺の視界を占めているものだった。
悪くないな、という気がしてきた。この子の世界に片足を突っ込んでみるのも、悪くない。
この子といると気が楽だし。どうしてかはわからないけど、俺にとってこの子は他の女の子とは一線を画している。
正直、まだ少し気圧されてはいるし、緊張感もあるけれど、決して不快な感覚ではない。それにこの子かわいいし…やっぱり、俺ラッキーかも。
俺はさらに視界を狭めた。その時、完全に死角だったその方向から、囁くような声が聞こえてきた。
「あの、ヤムチャくん…」
俺の名を呼ぶその声に、反射的に振り返った。まったく見知らぬ女の子がそこにいた。俺はすっかり固まった。
用件を問い質す声も出ないうちに、その子が何かを差し出した。俺はまたもや反射的にその行為に反応した。
「ちょっと、ヤムチャ!」
ブルマの声が廊下に響き渡った。瞬間、その子が駆け出した。まったく何も言わぬまま。
一体、用があったのかなかったのか。それすらもわからない。…都の人間って、不躾だな。
俺が内心その子を咎めていると、ブルマが耳元で声を上げた。
「あんた、何ラブレターなんか受け取ってんのよ!」
「え?いやだって、くれたから…」
反射的にそう答えて、ブルマの言葉を反芻した。
ラブレター?これが?…俺が?
…そんなことあり得るのか?
だって、俺さっきここに来たばかりだぞ。あの子と今初めて会ったんだぞ。それは向こうも同じはずだ。それでラブレター…よくわからない心情だ。だいたい、一体何を書くっていうんだ。
「さっさと捨ててよ、そんなもの!」
「じゃあ一度読んでから…」
はっきり言って、興味あるな。わざわざ手紙に認めるほどのこと、俺何かしただろうか。
それに、ラブレター自体にも興味がある。こんなのもらったことなかったからなあ…
視界を手元の封書が占領した。その時だった。
「女ったらし!!」
音が響いた。頭の中に。まったく初めて聞く音。それを発したのがブルマの右手であることに気づくまで、俺はかなりの時間を要した。
「最ッ低!!」
反射的に触れていた(らしい)自分の左手の下を確かめた。…頬?俺、叩かれたのか?…何で?
「ちょっとブルマさん…」
「話しかけないで!!」
都に来て初めて呼んだブルマの名は、物の見事に突っぱねられた。…怒ってる?何で?
俺を置いて先へ歩いていくブルマを、訳もわからず追いかけた。いや、訳がわからないからこそだ。
「あの、ブルマさん…」
いつしか俺たちは外へ出ていた。2度目に発した俺の言葉に、ブルマが振り返った。瞬間、俺は自分の目を疑った。
瞳に燃え立つ炎。つりあがった眉。口元に溢れる怒りの感情。何者をも寄せ付けないその雰囲気。熱していながら寒すぎる周りの空気――
こ…怖〜〜〜…!!

俺が我に返った時、すでにブルマはいなかった。遠く光るエアバイクの反射光を眺めながら、俺は思わず呟いた。
「…三面性…?」
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