無進の女
コーヒーに砂糖を3個落とした。ことさらゆっくりとそれを掻き混ぜていた俺に、ブルマが不思議そうな顔を向けた。
「あんた、そんなにのんびりしてていいの?」
何のことを言っているのかはすぐにわかった。俺はただ事実だけを伝えた。
「ああ、クラブは全部やめたんだ」
「やめた?」
その瞬間、ブルマは本当に意外そうな顔をした。それを見て、俺もまた意外に思った。
俺がクラブの試合に出ることを、ブルマは嫌っているように思っていたのだが。俺の気のせいだったのかな…
どちらにしても、俺がやめたのはそのせいではないけどな。
「やっぱり武道に専念したいし。正直、物足りなかったし」
レベルが低いんだよ。薄々わかってはいたことだけどさ。
でも、今回空手の大会に出てみて、それがいっそうはっきりした。クラブは素人の世界だ。まるっきり時間の無駄だった。
まあ、それも参加したからこそわかったことだ。何事も経験だよな。
「武道会まで半年しかないからな。今はそれだけに集中するよ」
半ばは自分に向けて、俺は言った。これにもブルマは疑問符で答えた。
「武道会って何?」
「天下一武道会だよ。あれ?言ってなかったか…」
言い終える間もなく、緊張が走った。ブルマの瞳に映る色が濃くなった。刻まれる眉間の皺。
「聞いてないわよ!!」
思わず首を竦めた。…本当に声大きいんだからな。
「武道の大会なんだ。世界で一番レベルが高いと言われている…武道家はみんなそれを目指すんだ」
「聞いたことないわね。どこでやるの?参加費用は?参加規定は?学生OKなの?」
容赦なくブルマは畳みかけた。この子を怖いと思ってしまうのはこういう時だ。別段悪いことをしたわけでもないのに、妙に後ろめたい気分になってしまうんだよな…
だからといって、嘘をついたり誤魔化そうとは思わないけど。
「そこまではまだ調べてないんだ」
俺だって、つい最近知ったばかりなんだからな。
俺が答えるとブルマは大きく溜息をついて、呆れたような声音で言った。
「いいわ、あたしが調べてあげる。その代わり、1つ条件があるの。その大会に出ること、誰にも言わないで。特にハイスクールのやつらには」
「どうして?」
今度は俺が疑問符をつける番だった。そりゃあわざわざ吹聴することではないけれど、隠すようなことでもないと思うのだが。
「どうしても!わかった?絶対よ!」
「いいけど…」
今ひとつ腑に落ちぬまま俺は答え、手元のカップを空にした。
余程のことがない限りは、この子に逆らわない方がいい。それが2ヶ月ブルマと過ごして、ただ1つはっきりと知り得たことだった。
「じゃ、俺トレーニングするから」
言いながら立ち上がった。テラスを出る俺の背中に、険を含まない声が届いた。
「がんばってね」

よくわからない子だな。
外庭の真ん中で体を解しながら、相変わらずテラスに佇むブルマに目をやった。
ものすごくわかりやすい子だと、最初は思ったものだけど。確かに、怒りの兆候なんかはすごくわかりやすい(というか、わかるようになった)んだけど…
たいしたことでもないのに、すぐ怒るし。しかもすごく迫力あるし。…普段はかわいいのに。その『普段』がだんだん少なくなってきているように思うのは、俺だけだろうか。
「なあ、プーアル」
タオルを手に俺の傍らに浮かぶプーアルに訊いてみた。
「ブルマのことどう思う?」
「そうですね…」
小首を傾げるプーアルが、言葉を選んでいるわけではないということが、俺にはわかった。こいつは俺に対しては、いつも遠慮なく発言する。それが従順であることと相容れないわけではないということも、俺にはわかっていた。
「少し怖いですね。すぐに怒るし」
やっぱり、こいつもそう思っていたか。
「でも、ヤムチャ様が好きなら、それでいいんじゃないですか」
「そうだな」
プーアルの言葉に、少しだけ心を落ち着けて、俺はトレーニングを開始した。


「5月7日。開催場所は南国パパイヤ島の武道寺」
4日後、夕食の後のリビングで突然そう突きつけられて、思わずブルマの顔を見返した。
「何の話だ?」
「天下一武道会よ!あんた参加するんでしょ?」
僅かに険を含んだその声に、心の中で呟いた。
主語がないのでわからなかったよ。
この子、感情ははっきりしてるんだけど、言うことがいまいちわからないんだよな。端折りすぎというか、一足飛びというか。もう少し説明してほしいと思うことが度々あるんだが…脳の回転が違うのだろうか。確かに頭はいいみたいだしな。
「パパイヤ島ってどこだ?」
「南国にある離島よ。ここからだと2〜3時間はかかるから、前泊した方がいいかもね」
俺の具体的な質問に、ブルマは明確に答えた。こういうところは非常にしっかりしている。だから、俺もスムーズに考えを進めることができた。
「そうなると旅費に加えて宿代もかかるわけか」
路銀のことは考えていたが、宿泊費のことは考えていなかった。これまで、そういうものに金を使ったことがなかったから。
まあ、手持ちで賄えるだろうけど。荒野で溜め込んだ金はまだ充分に残っている。都に来てからさほど金を使っていないからな。
なんとはなしに俺が呟くと、その、俺に金を使わせない彼女が、またもやそういう発言をした。
「いいわよそんなもの、うちで出すわ。あんたからだけお金取ったりしないわよ」
「そういうわけには…」
この子とこの子の両親には、もう充分世話になってしまっている。せめて個人的な経費くらいは自分で賄わないと…
そう言いかけて、ふと気づいた。
「あれ?ブルマさんも行くのか?」
『だけ』って言ったよな、今。
俺の素朴な疑問は、すぐさま解消された。背筋に走る緊張感。色を増す瞳。ほとばしる声――
「あんたね!これだけ手間かけさせておいて、置いてけぼり食わせる気!?」
思わず一歩を退けかけた俺の耳に、続くブルマの声が入った。
「費用は持つわよ。でも、条件があるわ」
逆らえない瞳が、俺を見据えていた。
「…な、何?」
「今度の日曜、遊園地行こ!」

やっぱり、よくわからない子だな。
ブルマがバスルームへと消えて、俺は心の中で一人ごちた。
あれって、遊びの誘いだよな。所謂デートってやつか。それはわかるけど、どうしてそれが条件になるんだろう。
どう考えても釣りあっていないと思うが。絶対、ブルマの方が損をしていると思うんだが…
「あいつも天邪鬼な性格だなあ」
俺とブルマの会話が終わったと見るややってきていたウーロンが(たぶん気を利かせてくれている。…のだと思う)、呆れたように呟いた。
「デートしたいなら、したいとはっきり言やいいのによ」
そうだよな、俺もそう思うよ。
前にも同じようなことがあったな。あれは初めてケンカした時か…そしてあの時も、俺は同じようなことを思った。
こんなことでいいのか、と…だって、交換条件って、相手の負担になるからこそ、条件だろ。
俺、全然負担じゃないし。やっぱり、ブルマの方が損をしていると思うんだが…
「おまえも苦労するな」
続けて発せられたウーロンの声に、俺は同意しなかった。
そうでもないよ。楽なもんだ。
確かにあの子は怖いけど。負担になるようなことを言われたことはないからな。


俺がそれを知らされたのは、前日の昼休みだった。
空手衣を部室に取りにくるよう、空手部員の一人に告げられて、俺はまったく狐に抓まれた。
「俺、クラブやめたんだけど」
退部届けも出した。もう一週間も前の話だ。
部員は俺の言葉にはさして反応を見せず、平然として答えた。
「それはわかってるよ。でも明日は全国大会なんだ。おまえは西の都代表なんだから」
「何の話だ?」
「おまえ、のんきだなあ。大会優勝者だろ。代表がこんなのだと知ったら、負けたやつらが泣くよな、本当」
俺は言葉を失った。よもや、そういうシステムになっていたとは。まったく知らなかった。
「がんばれよ。俺たちも応援に行くからな」
「ちょ、ちょっと…」
笑って去っていく部員の後姿を視界におさめながらも、俺の意識は、一人の女の子しか捉えていなかった。
…苦労しそうだ、これは。

「ええー!!何よそれ!!」
俺がそれを告げると、思っていた通りの大声量が返ってきた。構えていたにも関わらず、やっぱり俺は身を竦ませた。
「約束したのに!嘘つき!!」
「ごめん。本当にごめん!」
俺は平身低頭した。まったく、そうするしか他になかった。
どう見たって俺が悪いからだ。…俺自身はそうは思っていないけど。そういうことになっているならなっていると、早くに教えてほしかった。
「どうしても外せないんだ。空手の都代表ってことになってて…」
「クラブはやめたんじゃなかったの!?」
「そうなんだけど。全国大会らしいから…」
「もうー!!」
俺の説明に、ブルマはまったく理解の色を見せなかった。気持ちはわかる。俺自身、そうなんだからな。
これ以上何と言えばいいだろう。俺がそう考えていると、唐突にブルマが話題の軌道を変えた。
「どこでやるのよ!?時間は!?」
「イーストエリアの武道館で…って、ひょっとして来るのか?」
「当たり前でしょ!!」
何で?
いや、来るなとは思わないよ。でも、こんなに怒ってるのに…納得したようには全然見えないのだが。それに、都大会には来なかったよな。だから、まったく興味ないんだと思ってたんだけど。
俺が訝っていると、ブルマがまたもや話題を転化した。
「それから。その『ブルマさん』っていうの、やめろって言ったでしょ!いい加減、呼び捨てなさいよ!」
そうは言われてもな。なかなか難しいよな。特にこういう時は。
だって、ブルマ本当に怖いんだもんな…


全国空手道選手権大会。名前だけ聞くとたいそうな大会だ。
会場に溢れる熱気と歓声。観客席を埋め尽くす、色気のない野郎どもの軍団。高まる緊張感…
悪くない雰囲気だ。だが、巻き起こる熱狂の中で、俺は思っていた。
やっぱり、レベルが低い。
動き自体は悪くないんだけど、スピードがないんだよな。目を凝らさずとも、皆の動きが見えてしまう。
考えてみれば当然だ。ここにいる人間は、学業の傍ら空手道に足を突っ込んでいるのだから。武道を本分としている俺とは、スタンスが違うのだ。
比較的ガタイのいい観客の中で、一人異彩を放っている華奢な体を見つけた。こういうところに女の子がいると、すごく目立つな。もはや見慣れた菫色の髪――ブルマだ。…本当に来たんだな。
あまり時間を取らせるのも悪いから、さっさと終わらせるとするか。

表彰台。優勝トロフィー。
それらを得ること自体は、悪い気分ではない。こんなもの無意味だと切り捨てるほど、驕ってはいない。だが、夢中になるほどじゃない。まあ、空手部の連中は喜んでくれているから。務めを果たした、ってところだな。
一頻りその声に答えトロフィーを預けて、空手部の連中と別れた。ひどく目立っているその人間のところへ行くと、ブルマは少し驚いたような目で俺を見た。俺が何か言うより早く、ブルマが口を開いた。
「あんた、なかなか強いじゃない」
俺は苦笑しつつ、それに答えた。
「大きな声じゃ言えないけどな。…レベルが低いんだよ」
こんなこと、他の人間に言えば嫌味としか取られないだろうけど、ブルマならわかるだろう。悟空を知っているブルマなら。
俺はそう思っていたのだが、ブルマは軽く俺の心を裏切った。ブルマは険の欠片もない声で、笑いながら言った。
「そんなことないでしょ。あんたが強いのよ」
この言葉を聞いた瞬間、俺の心は充足した。少し温かい気持ちになった。だが…
「そう思ってくれるのはうれしいけどな。本当のことだ」
…やっぱり、そうなんだよな。

「おめでとうございます、ヤムチャ様!」
「おまえ結構やるんだな」
その時、どこからかプーアルとウーロンがやってきて、俺は自分の心をしまい込んだ。
プーアルにまで吐露しようとは思わない。プーアルは俺の活躍を純粋に喜んでくれている。その気持ちを否定したくはない。
ではなぜブルマには言ったのかというと、それは単にタイミングの問題だ。
きっと、ただそれだけだ。




しかし、その言葉は大言壮語だった。それを俺は、数ヶ月後に思い知らされることとなった。
天下一武道会、初戦敗退。一方的敗北。文字通り、なす術もなかった。
…レベルが低いのは俺の方か。

最も、この思いは俺を苛みはしなかった。負けたことはむろん悔しいに違いないが、それの意味するところを、俺は知っているつもりだった。
それに、出番のない武道会は、決して退屈ではなかった。すべての試合が俺を魅了した。特に悟空の魅せた決勝戦は強烈だった。その事実が、俺の気持ちを後押しした。
武道会が終わり、悟空が去ってしまっても、その気持ちは消えなかった。

武道会からの帰路は、少々アクシデントに見舞われた。ブルマが飛行機のカプセルを紛失してしまったため(意外とドジなんだよな、こいつ)、急遽エアポートへと足を伸ばした俺たちは、キャンセル待ちという名の退屈を持て余すこととなった。
プーアルとウーロンはロビーのソファで寝入ってしまっていた。それに白けた目を向けながらもブルマが大きな欠伸をしている様を、俺は見てしまった。
「寝てもいいぞ。2人とも起きている必要もないし」
欠伸を噛み殺しながら、ブルマは俺の好意を両断した。
「女の子がこんなところで寝られるわけないでしょ」
そういうものか。女の子って面倒なんだな…
なんとはなしに下りたった沈黙を、ふいにブルマが破った。
「案外おもしろかったわ、武道会。あたしは武道なんて全然わからないけど、それでもね」
それはよかった。そう俺が言おうとした時、次の言葉が耳に飛び込んだ。
「ま、正直言って、あんたにはもう少し活躍してもらいたかったけど」
俺は身を縮こまらせた。本当にキツイんだからな、こいつ。
まあ、それもだいぶん慣れたけど。俺自身そう思ってもいるしな。
俺の隣で依然顔は前に向けたまま、ブルマは続けた。
「でも、あんたが弱いとは思わないわ。ただ世界のレベルに届かなかった、それだけよ。あんたはまだ16歳なんだから、これからでしょ」
「俺もそう思ってるよ」
正しくは、そう願う、といったところか。だが、どちらでも同じだろう。
俺はまだまだ強くなる。なってやる。なれるさ。
俺より強い人間がいる限り。限界がこの世にない限り。
生きている限り。きっとなれるさ。


西の都に帰り着き、再びハイスクールの日々が始まって、武道会の余韻は消えた。
と思ったのは、間違いだった。
至極普通に登校し、至極普通にハイスクールのゲートを潜った俺は、普通ではない数の人間たちに取り囲まれた。
「ニュース見たぞ。すごいな、おまえ」
「おまえって、本当に強いんだなあ」
どうやら、武道会の結果がマスコミで報じられたらしい。クラスメートはおろか、ハイスクールの大半の人間が、武道会での俺の結果を知っているようだった。知らない人間が次から次へとやってきて、『ベスト8進出』という表向きの事実を褒め称えた。
だが俺の心は浮き立たなかった。当然だ。とても褒められるほどの試合内容ではないということは、自分自身がよく知っていた。
「いや、俺なんかまだまだだよ。あんなのすごくも何ともないよ」
苦笑しつつ、俺は答えた。みんな甘いよな。本当に、甘い。
褒めればいいというものじゃない。それは時としてひどい皮肉になるのだ。
まあ、それを口に出す気はないが。俺は大人だからな。
「何言ってんだ。高校生が天下一武道会に出場するなんて、すごいことだぞ」
俺は高校生じゃなくて、武道家なんだよ。
多くの言葉を、俺は呑み込んだ。呑み込みながら、その甘さを持たない人間を返り見た。そして、瞬時に悟った。
轟然と燃え盛る青い瞳。俺を見据えるその目つき。引き結んだ口元。
怒っている。…何で?
「ブルマ?どうかした…」
訝りながら差し出した俺の手を、ブルマは即行で払った。思わず呆然とした俺に、怒声が降り注いだ。
「あたし帰る!!」
帰るって…今来たばかりなのに。
その言葉を、俺は呑み込んだ。呑み込みながら、エアバイクで飛び去るブルマを見送った。
web拍手
inserted by FC2 system