僅進の女
夜のトレーニングを半分終えてリビングへと赴くと、ママさんがキッチンでお茶の準備をしていた。手伝いへと飛び去るプーアルを横目にしながら、俺はソファに腰を下ろした。
目の前には、のんびりと雑誌を読んでいるブルマ。俯くその顔を見ながら、俺は切り出した。
「…あの、週末の約束なんだけど。ホラー映画を観に行きたいって言ってただろ。俺、空手で前々日から合宿に行かなくちゃならなくて…」
そこまで言った時、ブルマが顔を上げた。僅かな険と共に、その言葉が返ってきた。
「クラブはやめたんじゃなかったの?」
「そうなんだけど、どうしても外せないんだ。師範代と一緒に稽古をつけることになっていて…俺、一応全国大会優勝者だから。それで…」
ブルマの瞳に見え隠れする怒りの片鱗に、俺は言葉を選んだ。たぶん大丈夫だろうと思ってはいたが、それでも気が咎めた。
ブルマが読んでいた雑誌を閉じた。それはそれは大きな音を立てて。言葉を続け損なった俺に、静かな怒声が降りかかってきた。
「それでまた、あたしとのデートを潰すってわけね」
半ば目を閉じながら、ブルマは言った。閉じたばかりの雑誌を、ソファの隅に放り投げた。
「いいわよ、わかったわ。もうあんたとは約束しないから!」
「そんな…」
戸惑いながらも、俺は内心で首を捻った。ブルマの態度が意外だった。
ひょっとして怒るかもしれないとは思っていたけど。怒り方がいつもと少し違うように感じるのは、俺の気のせいだろうか。
「当日には帰ってくるから。…それで映画の回を遅らせてもらえないかと…直行すれば間に合うから」
俺が何とか後を続けると、ブルマの瞳に炎が宿った。
「何?デートはするってわけ?」
「うん」
「だったら最初からそう言いなさいよ!」
まったくいつもの怒声が降ってきて、俺は反射的に首を竦めた。その瞬間キッチンから、コーヒーセットを乗せたトレイと共ににぎやかな声がやってきた。
「ハーイ、お茶が入ったわよ〜ん。あらブルマさんてば、怖いお顔。怒ってばかりいちゃダメよ〜」
にこやかな笑顔と共に、コーヒーポットを掲げてみせるママさん。
その仕種に場の雰囲気が軽くなりかけた時、続いてやって来たウーロンが水を差した。
「おまえら、またケンカしてるのか…おまえも、いつもいつもよく怒るよな」
「ケンカじゃないっつーの!」
再びブルマが怒声を吐き出して、俺は今度は心の中で肩を竦めた。
頼むよ、ウーロン。頼むから混ぜっ返さないでくれよ…せっかく、(何とか)収まりかけたんだからさ。
「砂糖はいつもと同じでいいですか、ヤムチャ様?」
いつも通りの明るいプーアルの声に俺が自分を取り戻しかけた時、ウーロンがブルマの放り投げた雑誌を抓みあげた。
「げー。何だこれ。おまえ、グロいもん読んでるなあ」
「グロくなんかないわよ。医学雑誌よ」
「おまえ、こんなのばっか読んでるから怒りっぽくなるんだ。もう少し女らしい物、読んだらどうだ?」
「余計なお世話よ!」
ほとんどわざととしか思えないケンカを、ウーロンは売り続けた。当然の結果として、ブルマの声が荒いだ。俺は溜息をつきながら、ママさんの切り出したストロベリータルトの皿を、ブルマの前に押し出した。
すると、怒声を発していたはずのブルマが、一瞬にして口を噤んだ。そして無言のうちに、フォークを手に取り皿に向かった。俺は思わず目を瞠った。
…すごくわかりやすいな。本当にイチゴが好きなんだなあ…
「あ、おいしい」
瞳に燃える怒りの炎をさえ和らげながら、ブルマは呟いた。好物に目がないって、こういうことを言うんだな…
「ヤムチャ様、どうぞ」
ふとプーアルにコーヒーを差し向けられて、俺は完全に意識を戻した。タルトを一切れ口に運んだところで、さらに現実を認識させるべく、イチゴ好きの娘を持つ母親から声をかけられた。
「ヤムチャちゃんは?お味はどーお?」
「ええ、おいしいですよ」
俺より遥かにハイペースでタルトを頬張るブルマを視界に入れながら、俺は答えた。


物事って、案外引き摺るもんだなあ。
そう思いながら、C.Cのエントランスに足を踏み出した。
なんとなく空手部のポイントゲッターになって、なんとなく全国大会で優勝して、気がつけば稽古をつける側に回っている…こんなことでいいんだろうか。都会って甘いな。
「じゃあ、行ってくるよ。明後日には帰るから」
俺が軽く声をかけると、眉を顰めてブルマが言った。
「明後日の約束、忘れないでよ」
ウーロンは何も言わなかった(こいつは女の子がいないとなると、途端に興味を薄れさせるのだ)。
「がんばってくださいね、ヤムチャ様!」
いつものように張り切るプーアルに、俺は苦笑を返した。
「ただの稽古づけだよ」
偉そうな台詞を吐きながら。

全国大会出場者や有段者を対象とした『特別空手合宿』とやらは、西の都より100km強程離れた西の平原の、とある山の麓で行われた。
とは言っても、全然静かなところではない。部分的には観光スポットともなっている、人里離れているとはとても言えない場所だ。まったくもって、上辺の雰囲気だけでしかない。本当に都会人って甘いな。
その山の麓の道場で、俺は都では随一と言われている(らしい)師範代にできるだけ接触しないよう気をつけながら、その他の黒帯を相手に組み手などをしていた。
師範代と会話をすると、最後には必ずと言っていいほど誘われるからだ。一戦やらないか、と。俺はその申し出を何とか慇懃に断り続けた。
これは誰にも言えないことなのだが、師範代より俺の方が実力が上なのだ。軽く体を解している段階で、俺にはそれがわかった。一方の師範代はと言えば、そんなことは微塵も感じていない。決定的な差だ。
だから、俺は師範代を避けることにした。範士や達士はともかくとして、いくらなんでも師範代に勝ってしまうわけにはいかない。そんなことになったら、どれほど場の雰囲気が損なわれることやら。合宿は3日間もあるのだ。どうしてそんなに耐えられようか。
まったく、疲れるイベントだよ。あー、早く帰りたい。

「ありがとうございました!」
挨拶と共に礼。各々師範代、範士、達士への礼。
幾つもの礼を経て、ようやく3日間が終わった。…疲れた…
3日間も人を避け続けるというのは、大変な労苦だな。それが身に沁みてわかった。避けられることはあっても、避けることなどなかったからな…
閑散としつつある道場の片隅に、俺はしばらく無言で佇んでいた。感慨というには程遠い、僅かな思いを胸に抱いて。
これでもう空手衣を着ることもないだろう。至極短い間ではあったが、一応礼は尽くしておくか。仮にも武道だしな。
この思考が仇となった。最後の最後に、俺は師範代に捉まった。

再び道場を、人が埋めだした。道場外に、空手衣を脱いだ人間の群れ。道場内試合場周囲に、空手衣を身につけた人間の群れ。傍らには審判役の達士。俺の正面に師範代…
非常にまずいことになった。
これはほとんど試合も同然だ。まだ練習中に交えておいた方がよかった。
無論、勝つわけにはいかない。かと言って、あっという間に負けるのもまずい。範士や達士たちには、それなりに力を示してしまった。仮にも全国大会優勝者なんだから、弱いはずもないし。
しょうがないな。優勝者の沽券に関わらない程度に善戦して負けるか。長引きそうだな、これは…
3日間の内で最も気を引き締めて、空手衣を正した。その瞬間、頭を過ぎった。
ブルマとの約束。――C.Cに寄らず直行すればギリギリ間に合うはずの、映画の約束…
「す、すいません。電話を一本かけさせてもらえませんか…」
まさに試合場に一歩を踏み出しかけた師範代を、俺は何とか止めた。
場の雰囲気?そんなもの知ったことか。

背中に集中する視線を努めて無視して、俺はC.Cに電話をかけた。長い通信音の後に耳に入ってきたのは、にぎやかな女性の声だった。
「ハ〜イ、こちらC.Cで〜す」
「あ、ママさん。すいません、ブルマいます?」
「あらヤムチャちゃん、おひさしぶりね。元気かしら?」
3日間しか空けていないのにも関わらず、安否を気遣う明るい声。常ならば微笑ましいところだが、この時はまったく感覚が異なった。
「はい元気です。もうすぐ帰ります。それでブルマは…」
「ブルマちゃんならテラスにいるわよ。ヤムチャちゃんを待ってるわよ〜。いつ帰ってらっしゃるの?」
「もうすぐ帰ります。ブルマに代わってもらえませんか」
「お茶の時間に間に合うかしら?今日はチェリーパイを焼いたのよ。お好きかしら?」
「はいたぶん。それよりブルマに…」
「甘いのはお好きじゃなかったかしら?リークパイも焼こうかしら」
「あの、そろそろブルマに…」
延々と続くママさんの朗らかな声にも、俺の忍耐力は尽きなかった。しかし時間が尽きてきた。ようやく待受音を耳にした頃には、反対側の耳に俺を待ちきれない声が届き始めていた。
「ヤムチャさん、師範代がそろそろどうかと」
「あ、はい、すみません、もう少し待ってください」
1分程して待受音が止んだ。相手の第一声は待たず、俺は即座に用件を切り出した。
「ブルマごめん、少し遅れそうなんだ。急に模擬試合をすることになって…」
「は?」
「本当にごめん。終わり次第帰るから」
ブルマからの返事は聞けなかった。眉を顰めた達士の声と腕に引かれて、俺は電話を手放した。

一撃を放ちそうになっては身を反らし、勝ちを踏みそうになっては、身を離す。思いのほか、試合は長引いた。
…これは完全に遅刻だな。いや、映画だから遅刻じゃなくてキャンセルか。ブルマ怒ってるだろうな…
そう思った時、うまい具合に隙が作れた。師範代の足が胴にきた。俺はそれを避けなかった。
当然だ。この瞬間を待っていたのだからな。
礼の後の割れるような拍手の中、俺は師範代にお褒めの言葉を頂いた。
「君は本当に強いな。きっと私よりも強くなるよ。このままがんばってほしい」
俺はもう空手衣は着ないんですよ。
その言葉は呑み込んだ。引き止められるに決まっている。これ以上の面倒はごめんだ。
「ありがとうございました」
師範代に最後の礼を尽くしながら、心の中で呟いた。
これでやっと帰れる。…気を引き締めて帰ろうっと。

C.Cに帰り着いた頃には、予定時間を軽く一時間はオーバーしていた。テラスにいたウーロンとプーアルが、それぞれの表情で、俺を出迎えた。
「おかえりなさい、ヤムチャ様!」
「遅かったな。ブルマのやつ、カンカンだぞ」
そうだろうな。
「おかえりなさい、ヤムチャちゃん。夜のお茶はご一緒しましょうね〜」
にこやかな笑顔を見せてのんびりとやってきたママさんに、俺は苦笑をしつつ、土産を預けた。
そして、いよいよ気を引き締めた。

閑散としたリビングに、無言で雑誌を捲る人間が一人。
「あ…えーと…ただいま…」
言葉と共に俺がリビングのドアを潜っても、ブルマはぴくりともしなかった。
…怒っている。当然だ。
その正面のソファに腰を下ろすことを躊躇して、俺は第二声を何とか発した。
「ごめんブルマ。どうしても外せなくて。急に師範代と模擬試合をすることになって…」
俺は言葉を探した。どうしたら納得…いや、してもらえるわけないよな。
約束を破ったのは、俺なんだから。ブルマは怒って当然だ。
「俺、一応優勝者だし。それで相手にせざるをえなくって…」
とりあえずの説明をしながらも、俺は内心で首を捻った。
ブルマの態度が意外だった。
きっと怒鳴りつけられるだろうと思っていたのに。鼓膜を破らんばかりの大声量を覚悟していたのに。
怒っているのは間違いない。しかし、どこかいつもと違う。そう感じるのは、俺の気のせいだろうか。
「本当にごめん。埋め合わせはするから…」
そう言った途端、ブルマの瞳に炎が燃え上がった。
「当ったり前でしょ!!」
手にしていた雑誌を床に放り投げ、瞬時にソファから立ち上がった。いつもの大声量が部屋に響き渡った。
「ドタキャンしておいて、埋め合わせもなしなんてありえないわよ!明日!明日行くわよ!!」
「う…うん…」
「わかったら、さっさとどっか行って!」
とても許してくれたとは思えない声音で、ブルマは言った。
俺はそれに逆らわなかった。

どうすればいいんだろうな…
ブルマとケンカするたび陥る心境に、俺はやはり陥っていた。
許してくれた…わけじゃないよな。ブルマはまだ怒っている。それは明らかだ。あの瞳を見れば、一目瞭然だ。
でもデートはするんだよな。どういうことなんだろう。よくわからないな。
一体どういった雰囲気のデートになるんだろう…もはや、想像することすらできない。
だからと言って、暗鬱たる気持ちになったり、ましてや断ろうなどと考えたりは、俺はしなかった。
それがなぜなのかは、すでに自分でわかっていた。

夜のトレーニングを半分終えて、リビングへと足を向けた。ママさんとお茶の約束をしていたからだ。
そうじゃなくとも、いつも行くけど。休憩も兼ねられるし、みんなでテーブルを囲むこの時間が、俺は好きだった。夕食時とはまた違ったくだけた雰囲気。いつしか俺のトレーニング時間に合わせてくれているママさんの心遣い…
それに、ブルマとも顔を合わせられるし。…甘いかもしれないけど。
「やあ、ヤムチャくん。ひさしぶりじゃのう」
今日は珍しく、ブリーフ博士もいた。
この人はあまり、家族の団欒などに気を配ってはいないようだ。始終C.C内をうろつきまわっているわりには、リビングにはあまり顔を出さない。かと言って、忙しいというわけでもないらしい。よくわからない人だ。
ブルマもよくわからないし。ママさんも、ある意味ではよくわからない。おもしろい家族だ。
リビングのドアを潜った途端、ソファに座っていたブルマと目が合った。と思った瞬間、ブルマが目を逸らした。
やっぱりまだ怒っているな。当たり前だよな。
溜息と苦笑を同時に俺が浮かべかけたその時、ブルマの横でウーロンが呟くのが聞こえた。
「おまえ、かわいくねえな…」
ブルマの眉がぴくりと動いた。それを目にして、俺は心の中で首を竦めた。
頼むよ、ウーロン。放っておいてくれよ。ブルマが怒るのは当たり前なんだから。
それでもデートはしてくれるんだから。俺はそれで充分なんだから…
「トレーニングお疲れ様、ヤムチャちゃん。お茶にしましょ」
その時、心遣いの塊の人が、非常にいいタイミングで言葉を発した。ママさんは本当にムードメーカーだ。…タイミングさえ合えばだけど。
コーヒーの湯気がリビングを席捲し始めた。ブルマが乱暴に雑誌を床に投げ捨てた。俺はあえて気にしないことにして、ブルマの正面のソファに腰を下ろした。
俺が土産に持ってきた菓子を、ママさんが取り分け出した。ブルマがふいに声を漏らした。
「何これ?」
俺は黙ってコーヒーを啜った。ママさんがブルマの問いに答えた。
「ヤムチャちゃんのお土産よ。ストロベリーブラウニーですって」
「イチゴ好きだろ」
一言だけ言い添えた。
機嫌を窺っているわけじゃない。これで取り成そうなどとも思っていない。ブルマが怒るのは当然だし、すぐに機嫌が直るわけもない。
ただ、ブルマはイチゴが好きだから。すごくおいしそうに食べるから…
ブルマが眉を寄せた。…外したかな?俺がそう思った時、ウーロンがまたブルマにちょっかいを出した。
「気に入らないなら、おれが食うぞ」
本当にこいつもなあ。チャレンジャーというか、なんというか…
口論の勃発を、俺は予感した。だが、ブルマはウーロンのケンカを買わなかった。
「食べるわよ」
そう言って、フォークを菓子に刺した。そしてすぐに口に運んだ。
「あ、おいしい…」
眉間の皺はそのままに、呟いた小さな声が、耳に入った。
俺は安堵の息を吐いて、二口目のコーヒーを啜った。


翌日、俺は約束の時間よりだいぶん早めにリビングへと行った。ブルマとの映画の約束だ。
昨日は俺が遅れて潰してしまったんだから。これで俺がブルマより遅く行ったのでは、ブルマでなくとも怒るだろう。
プーアルの淹れてくれたコーヒーをのんびりと啜っていると、例によってウーロンがやってきた。そしてやっぱりそういう台詞を吐いた。
「おいプーアル。ヤムチャの世話もいいけどよ、おまえは準備できたのか?」
一体何の準備なのかなど、もはや訊くまでもない。苦笑しつつ俺がプーアルを仰ぎ見ると、プーアルは軽く目を瞠っていた。
なるほど、ウーロンの独断か。プーアルは言わば共犯者として、いつも利用されているんだな。まあそうだろうな、プーアルは俺の邪魔をしようなどとは考えないだろうからな。
さて何とプーアルに言ってやるべきかと俺が考えていると、タイミングよく(悪く?)ブルマがやってきた。そしてウーロンとプーアルを一瞥するなり、声を荒げた。
「だから、どうしてあんたたちまで来るのよ!」
ブルマにも、もうわかっているらしい。…まあ、そうだろうな。これで3度目だしな…
ブルマの言葉を、ウーロンは真正面から受け止めた。そして、ほとんどわざととしか思えないケンカを、またもや売り始めた。
「おまえ、いい加減おれたちを外すのやめろよ。いいじゃねえか、ホラー見て抱きつく柄でもないだろ。あんなグロい本読んでるくせによ」
…いい加減慣れてはきたけど。やっぱり止めてほしいな…
一応デートなんだからさ。そういうこと言われると、なんとなくやりずらいじゃないか。
確かに俺も、ブルマがそういう柄だとは思わないけど。
「あれは医学雑誌よ!」
「医学だろうが何だろうが、グロいものはグロいんだよ。なあプーアル?」
ウーロンが、ここ最近ブルマが熱心に読んでいた雑誌を、マガジンラックから取り上げた。捲られた1ページを見て、プーアルがおずおずと同意した。
「医学って結構スプラッタなんですね…」
その態度に俺も興味を惹かれた。プーアルの言はいつも率直だ。それを知っていたからだ。
俺が軽く頭を振ると、プーアルがそのページを俺に向けた。瞬時に俺は口に出してしまった。
「うーん、これは確かに…」
正直言って、女の子の読むものではないな。物の見事にホラーチックだ。少なくとも、これから観にいく映画の予告編よりはスプラッタだ。
気づいた時には遅かった。すでにブルマの瞳には、炎が燃え上がっていた。
だが、俺の予想とは裏腹に、ブルマはなかなか寛大な怒声を吐いた。
「ウーロン!あんたは絶対にあたしの隣には座らないでよ!」
ブルマはブルマなりの表現で、またもやウーロンたちの同行を許した。ひょっとすると、ウーロンはかなりのやり手なのかもしれない。


ウーロン、プーアル、ブルマ、俺。シアターでの席の占め方は、もはや定位置だ。まあ妥当なところだろう。
昨日封が切られたばかりというそのホラー映画は、スプラッター系ではなかった。描写があってもほとんどが血しぶきで、グロテスクというほどのものではない。少なくとも俺にはそう思えた。最も、俺は血には慣れているので、多少常人と感覚が違うかもしれないが。
だから、ブルマがそうしたことの理由が、初めはわからなかった。映画が始まり小一時間ほど経った頃、おもむろにブルマが頭を膝の上に落としたのだ。
「どうかしたのか?」
多少の訝りと共に発した俺の言葉に、ブルマは弱々しい声音で答えた。
「…脳貧血よ…」
『脳』貧血?
ブルマの使った言葉の意味が、俺には正直わからなかった。だが、二言目の言葉の意味は、訝りようもないものだった。
「…横になりたい…」
言いながら、ブルマは席を立った。そして、すぐに床に手をついた。シートの前の狭い通路に寝転がりかけている体に向かって、反射的に声をかけた。
「大丈夫か?」
ブルマからの返事はなかった。
腕を掴んでも、顔を上げようとしない。体を持ち上げても、俺に掴まろうともしない。
胸に抱くというよりは、ほとんど引き摺るようにして、俺はブルマをロビーへと連れ出した。

ロビーは閑散としていた。まったくと言っていいほど無人。上映中だからな。そういう意味ではよかった。
比較的空気のよさそうな出入り口付近のファブリックスツールに、ブルマを寝かせた。そして脳裏を探った。
貧血って、どうすればいいんだっただろうか…
温かくするんだったよな。それと頭を下げさせる…或いは足を上げさせる。
ブルマの足元に座って、その足を腿の上に乗せた。着ていたシャツを被せかけたところで、ブルマが薄っすらと目を開けた。
「いらないわ」
そう言った声は、思ったよりもしっかりしていた。安堵の息を吐きつつ、俺は答えた。
「でも温かくしないと…」
「寒くないからいいわよ」
なおもしっかりとした口調で、ブルマは言った。俺は少し冷静になって、ブルマの衣服を目で検めた。
確かに、今日はわりと温かそうな服を着てるよな。
いつもより丈の長いキャミソールに、膝下まであるパンツ…
珍しい格好してるなとは思ったんだ。ひょっとして、こうなることを見越して…いたわけはないよな。
そうだったら、来ないだろうし。来るとしても、ウーロンは外すだろうし。
「何かできることあるか?」
俺の問いに、ブルマは答えなかった。それで俺は、ブルマをそっとしておくことにした。
対処法なんかに関しては、俺よりブルマの方が詳しいに違いない。医学雑誌を読んでもいたし。してほしいことがあったら、きっと自分で言うだろう。そういう遠慮は、ブルマはしない。…と思う。
「はぁー…」
ややもして、ブルマが大きく息を吐いた。同時に頭を持ち上げた。
「大丈夫か?」
芸のない俺の問いに、ブルマは頷きながらも意外な言葉を返した。
「あんた、もう席に戻っていいわよ。話はだいたいわかるでしょ。結末観てきなさいよ」
俺は思わず眉を顰めた。
気が強いとは思っていたけど。こんな時にまで、そうすることはないじゃないか。
少しは頼ってくれたって…そりゃあ、俺には何もできないけど。それとも、まだ怒ってるのだろうか。
「そういうわけにはいかないだろ。…女の子を一人置いていけるか」
半ば無意識のうちに、俺は言葉をボカした。たぶん気恥ずかしかったのだと思う。
理由はよくわからないけど。ただなんとなく…
…なんとなく、ブルマから目を逸らした。なんとなく手を組んだ俺の横耳に、ブルマの呟きが聞こえてきた。
「…格好つけ」
「何とでも言え」
本当はわかっていた。
俺はブルマが心配なんだ。だから傍にいたいんだ。でも、ブルマは俺を離そうとするから…昨日だってどっか行けって言われたし…
何だろうな、俺。ひょっとして、拗ねてるのか?元はといえば俺が悪いのに。…こんな感じ初めてだな…
「何か飲むか?」
自分と空気の両方を切り替えたくて、ブルマに訊ねた。
らしくない。自分でもそう思えたからだ。
「イチゴのフレッシュジュースが売ってたぞ」
俺が言うと、ブルマの口元に笑みが浮かんだ。そして少し緩めた口調で、からかうように言った。
「あんた、あたしにはイチゴさえあげとけばいいと思ってるでしょ」
「そんなこと…」
…ちょっと思ってたけど。
だって、イチゴ好きだって言ってたし。実際、いつも食べてるし…
「他の物がいいんなら…」
「イチゴでいいわ。でも、ストロベリーソーダにして」
きっぱりとブルマは言い切った。なんらの躊躇もなく。
…結局、イチゴにするんじゃないか。
そうは思ったが、口にはしなかった。俺はブルマに逆らえない。逆らえるはずもない。
それがなぜなのかは、自分がよくわかっていた。

ブルマのストロベリーソーダを右手に、自分のアイスコーヒーを左手に。ショップを後にした俺の目に、立ち上がるブルマの姿が見えた。
人目も憚らぬ大きな伸び。と言っても、人はほとんどいないけど。
「立って平気なのか?」
言いながらストロベリーソーダを差し出した。ブルマはそれをしっかりとした手つきで受け取りながら、俺の言葉にはぞんざいに答えた。
「ぼちぼちね」
…わかりやすいな。本当にイチゴが好きなんだなあ…
しかし俺の予想を裏切ったことに、ブルマはすぐにはソーダに口をつけず、ぐるりと辺りを見回して俺を見た。
「ねえ、ちょっと背中貸してよ」
「背中?」
スツールに下ろしかけた腰を浮かせながら、俺は訊ね返した。
「背凭れがほしいのよ。あたしの後ろに座ってよ」
「いいけど…」
躊躇なく言われたブルマの言葉に、俺は素直に従った。どだい逆らえるはずもない。
「あー、楽ちん」
躊躇なく当てられたブルマの背中とその言葉に、俺は心の中で呟いた。
微妙だ…
よくわからないけど、なんかすごく微妙だ。感触もそうだし、ブルマの態度もすごく微妙だ。
それほど人目を憚ることをしているとは思わないし、不本意ではないのだが。…いや、不本意かな。ブルマの態度は不本意だ。
「おいしい〜」
まったく何事もないかのように、俺の背中でソーダを飲み続けるブルマ。
どうしてそんなに平然としてるんだ。もう少し、なんかさあ。少しは何かを感じてくれたって…
やっぱり、俺拗ねてるな。でも、しょうがないよな。
俺より何よりイチゴの方を、ブルマは大事にしてるんだもんな…

そうこうしているうちに、上映終了のベルが鳴った。ほどなくして、ウーロンとプーアルが出てきた。心配そうな目を覗かせるプーアルとは対照的に、ウーロンは背中合わせの俺たちを一目見るなり、呆れたように呟いた。
「おまえら、またケンカしてたのか。こんなとこまできて、ケンカするなよな」
いつもなら聞き流すウーロンの戯言だが、この時の俺にはそれは無理だった。だって、どうしてそうなるんだ。俺たちはただ普通に――俺にとっては少し違うが――してただけなのに。
「ケンカなんかしてない!!」
「ケンカなんかしてないってば!!」
瞬時に叫んだ俺の声に、ブルマの声が被った。思わずブルマの顔を見た。ブルマもまたそうしていることに俺が気づいた時、驚いたようなウーロンの声が耳に届いた。
「なんだよおまえら、2人して。何かあったのか?」
「何にもない!!」
「何にもないわよ!!」
また被った。
何だろうこれは。…いや、実際ケンカはしてないし、(ブルマにとっては)何にもないんだから、ブルマがこう言うのは当たり前だよな。いつもだって、たびたびウーロンに似たような台詞を返しているし。…らしくないのは俺の方か。
ブルマの顔を見つつ考えていた俺の耳に、明らかに訝っているウーロンの声が届いた。
「怪しいな、おまえら…」
今度は俺は叫ばなかった。正直言って否定できない。ブルマはどうか知らないけど。
それに、こういったようなことは俺はやはり得意ではない。誤魔化す、というか、あしらう、というようなことは。ブルマと互角にやりあうことのできるウーロン相手なら、なおさらだ。
だから、俺は手を引いた。すると俺の予想を裏切ったことに、ブルマもまた黙った。訝る俺の耳に、やはり訝っているらしいウーロンの声が入りかかった。
「一体何が――」
瞬時に、ブルマがそれを制した。
「何もないわよ。それより飲み物買ってきて!!」
一刀両断。おまけに話も挿げ替えている。誤魔化しきれているとはとても思えないが、とにかく強い。…語気が。やはりこういうことはブルマに任せるべき――
「あたしフレッシュジュース!イチゴのね。ヤムチャ、あんたは!?」
ふいに語気荒く話を振られて、俺は言葉に詰まった。
「いや、俺は…」
ほとんど素に戻って、俺は断りかけた。今飲んだばかりだし。だが、ブルマはそれを許さなかった。
「こういう時は便乗しなさい!」
なぜか俺を睨みつけるその瞳に、果敢にもウーロンが突っ込んでいった。
「こういう時って何だよ」
「何でもないわよ!!」
今や和らぐ余地さえ感じられない口調で、ブルマは続けた。その声に逆らう気は、俺にはまったくなかった。
逆らえるはずもない。…怖過ぎる。
「うーん、じゃあ俺も同じもの…」
喉は全然渇いていないが。たまには俺もイチゴを味わってみるか。ブルマの好きなものだしな。
「じゃあ、ストロベリージュース2つね。キャッシュはプーアルに持たせるから。早く行ってきなさい!!」
完全なる怒声が、ウーロンとプーアルを追い立てた。俺は心の中で首を竦めながら、それを見送った。
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