欠進の女
いつもと同じ感覚で一緒に昼食を認めようと、ブルマのクラスの集合場所へと行った俺は、同クラスの女の子から意外な言葉を返された。
「ブルマなら来てないわよ」
「来てないって…いないってことか?朝からずっと?」
「そうよ。知らなかったの?」
まったく、知らなかった。
そもそも知りようがない。俺とブルマのクラスはもともと離れている上に、今日は体育祭で、視界の中は人だらけ。おまけに俺は全種目の競技に駆り出されていて、さっぱり収拾つかない状態なのだから。
とは言え、心当たりはあった。今日の昼食はママさん気合いの賜物の豪華三段重ね弁当なのだが、俺が預かるよう登校中にブルマに言われたのだ。さては、最初からサボるつもりだったんだな。
しょうがないな。でも、せめて一言言ってくれればいいのに…
溜息をつくと共に貝になりつつあった俺の目の前に、女の子が心なしか上ずった声で顔を覗かせてきた。
「ねえヤムチャくん。ひょっとして、ブルマとケンカしたの?」
「…え?いや、違うけど。何で?」
反射的に俺が答えると、その子は眉を下げて無愛想に去っていってしまった。…何だ?
時々、今と似たような台詞を言われることがある。例えば、放課後になってもブルマが俺のクラスにやってこなくて、俺が探し歩いている時。前触れもなくブルマが授業をサボって先に帰ってしまったことを知らされる時。…一体、何なんだろうな。
首を捻りながらも、さてこの大きな弁当をどうしようかと考えていると、グラウンドの片隅にプーアルとウーロンの姿が見えた。
一見何ということもないように思えるが、ここは高等部のグラウンドだ。あいつら、何してるんだ。
「あっ!ヤムチャ様ー!」
俺が声をかけるより早く、プーアルが視界を占領した。軽くその身を抱きとめたところで、ウーロンの冷ややかな声が耳に飛んできた。
「やっといやがったな。早く飯食おうぜ。腹ペコペコだよ」
少しだけ眉を寄せて、俺は言葉を返した。
「おまえたち、どうしてここにいるんだ?」
「プーアルが、おまえと飯食いたいって言い張るからよ。ブルマのやつはどこだ?」
「いや、それが…」
事のあらましを、俺は話した。とは言っても、先ほど自分が言われた台詞を伝えただけだが。それに対する2人の態度は、先の俺のものとはまったく違っていた。
「たぶんそんなことだろうと思ったよ」
「じゃあ、あれはやっぱりブルマさんですね」
俺は完全に眉を寄せた。軽く促すと、2人はいとも簡単に俺の不審を解いてみせた。
「高等部屋上に誰かいるんじゃないかって、プーアルが言うんだよ」
「時々何かが光るんです。たぶんエアバイクだと思うんですけど」
「おまえ、ずっとここにいたんだろ。気づかなかったのか?」
まったく、気づかなかった。
そもそも気づきようもない。屋上に目をやっている暇なんてなかったからな。今日は朝から地面を見ているばかりだ。さすがに全種目は引き受け過ぎだったか…
俺は頭を掻きながら、2人と共に屋上へと向かった。

屋上へと続くドアはマニュアルロック式だった。しかし俺たちはそこで足止めされずに済んだ。すでに開いていたからだ。
「ブルマ?いるのか?」
「お弁当持ってきましたよ」
「面倒くさいからさっさと出てこいよな」
言い捨てたウーロンの言葉に、不機嫌そうな声が被った。
「ドアちゃんと閉めて。大きな声出さないでよ」
ペントハウスの陰から、やはり不機嫌そうにブルマが顔を覗かせた。…本当にいたのか。
プーアルが早速、弁当を広げだした。その傍らに座りかける俺を見下ろして、ブルマがこともなげに言った。
「ヤムチャあんた、ひょっとして友達いないわけ?」
「え?いや、いるけど。何で?」
ブルマはこれには答えず、俺の向かい側に腰を下ろした。そして飯ものには目もくれず、いきなりデザートのストロベリーパイを摘まみだした。
本当にイチゴ好きだな…
何度目かの確認をする俺の前で、ブルマは早々と一切れを平らげ、次なる疑問符を打ち出した。
「どうして、ここにあたしがいるってわかったのよ?」
苦笑を噛み殺しながら、俺は答えた。
「エアバイクが光ってたぞ。最初に見つけたのはプーアルだけどな」
「高等部校舎は日向だから、すぐ気づきましたよ」
俺は全然気づかなかったがな。
心の中でそう反駁した時、ウーロンがブルマにケンカを売り出した。
「おまえって抜けてるよな」
「うるさいわね」
いつものようにそれを買いながらも、ブルマが不本意そうな表情でエアバイクに視線を飛ばしたことに、俺は気づいた。その心情に共感を覚えて、俺は少しだけ心を軽くした。
考えてみれば、プーアルは哨戒・索敵役だったからな。目がよくて当然だ。
俺はなんとなく懐かしい気持ちになって、プーアルの注いでくれた一杯目の茶を啜った。そしてプーアルの注いでくれた二杯目の茶を、ブルマに手渡した。
数ヶ月前までは、この茶を一人で啜っていたんだよな。変われば変わるものだな…
以前は、人を見れば強奪を考えていたものだが。今は一緒にスポーツをしたりしているんだからな。
「どうして体育祭に出ないんだ?クラスのやつらが探してたぞ」
自分を今の環境に引っ張り込んだ張本人に、俺は訊ねた。もとよりこれはブルマの環境であるはずだが、ブルマはあまり楽しんでいないように見える。なぜだろう。
ブルマはきっぱりと、一言で答えた。
「嫌いなのよ」
「どうしてだ?」
ブルマが都会の環境に馴染んでいないとは思えない。どう見ても生粋の都人だよな。
ブルマはまたもや、一言で答えた。やや言い澱みながら。
「…トラウマなのよ」
「トラウマ…?」
半ば独り言で、俺はその言葉を繰り返した。
ブルマの口からこの言葉を聞くのは、これで2回目だ。俺にはさっぱり縁のない言葉だ。都人ならではのことかもな。
「おまえ、いい加減なこと言うなよ。体育祭がトラウマって、何だよ」
いつだってブルマに突っ込んでいくウーロンが、やはり今日も突っ込んでいった。…こいつ、本当に豪胆だな。普通こういうことは、それとなく聞き流すものだと思うのだが。
「あんたたちにはわからないわよ」
ある意味では至極当然のことを、ブルマは言った。トラウマは、それを持つ本人にしかわからない。自明の理だ。
しかし、その後に言ったことが、わからなかった。
「いいわよね、男は」
俺たち3人を一瞥して発せられたこの言葉に、俺は答えられなかった。

適度に昼食を認めて、俺はグラウンドへと戻った。
ブルマを連れ出すことはしなかった。ブルマの意思は固かったし、その理由は本人にしかわからないことだ。そもそも、ブルマに逆らえるはずもない。それはプーアルとウーロンも同じだった。
ブルマの『トラウマ』に関しては、あまり深くは考えなかった。これまで知らされなかったことでもあるし、おそらくお化け屋敷の件と同じように、避けられない程のことではないのだろう。日常に密着するようなトラウマであったなら、あれほど強くはいられない。…と思う。ブルマは本当に強いからな…
それが悪いことだとは思わない。別段いいことだとも思わないが。ブルマはブルマでいいんだ。俺はそう思う。

閉祭式が終わった途端に、他クラスの女の子に声をかけられた。ブルマのクラスの子だったような気もする。
「ヤムチャくん、途中まで一緒に帰らない?」
時々、こんな風に女の子に誘われることがある。俺はいつもと同じように言葉を返した。
「いや、ブルマと帰るから」
言ってしまってから気がついた。
「ブルマ?だって今日は来てないでしょ」
そう、対外的にはそうなっていたということに。
結局、ブルマは体育祭が終わるまで、屋上でサボっていた。随時屋上の光を確認することで、俺はそれを把握していた。だが、他の人間は最後まで気づかなかったらしい。やっぱりプーアルは目がいいな。
気づけば俺に注がれる不審の目が二つから数十個に増えていて、俺はかなり慌てた。
ヤバイ。ヤバ過ぎる。せっかく最後までバレなかったのに、ここで俺が口を滑らせてしまったのでは、ブルマの努力が、いや怒力が俺に向けられる。それはもう絶対に間違いない。
「あ…えーと、その…来てはいるんだ。来てはいるんだけど…貧血!そう、貧血で校内で休んでいたんだ」
「貧血〜?」
「そう、『脳貧血』でさ!時々起こすんだよ」
俺が胸を撫で下ろしたことに、俺の言葉は案外素直に信じ込まれた。どうやら『脳貧血』という言葉がよかったらしい。ただの貧血ならば、ブルマの場合ありえないと誰もが思うところだが、『脳貧血』という微妙に聞き慣れない言葉に、周囲の人間は騙されてくれた。それに、実際に一度起こしているんだから、あながち嘘でもないだろう。…と考えることに、俺は決めた。
「じゃあ、そういうことだから!」
『脳貧血』とは一体何なのか。それを訊かれる前に、俺はどうにかグラウンドから脱出した。
何せ、俺も知らないんだから。逃げるに如かず、とはこのことだ。

再び屋上に顔を出した時、プーアルとウーロンがすでにそこに来ていた。そして何やら、揉めていた。
「…って言ってるでしょ。あんたたち先に帰ってなさい。あたしのことはいいから」
「そんなこと言って、後で怒るくせによ」
「怒らないってば!」
まったく説得力のない口調で『怒らない』と叫んでいるブルマ。どうやらまたケンカを売ったらしいウーロン。その傍らで途方に暮れているプーアル。
「どうしたんだ?」
当然の質問を、俺はした。ウーロンが不貞腐れたように、それに答えた。
「おー、ヤムチャ。ブルマが帰らないって言い張るんだよ」
「どうしてだ?」
体育祭が終わるのを待っていたんじゃなかったのか?
訝る俺の声に、ブルマの怒声が重なった。
「帰らないなんて言ってないでしょ!後から一人で帰るって言ってんのよ!」
「何が違うんだよ」
「大違いよ!今帰ったらサボりがバレるでしょうが!まだこんなに人がいっぱいいるのに!」
ブルマの怒声は、ウーロンにというよりは、グラウンド周辺に散らばる人間に対してのものであるようだった。
「おまえ、人がいなくなるまで待つつもりかよ。手際悪いサボりだなあ」
「放っといてよ!」
だが、確実に攻撃対象はウーロンに変わりつつあった。まったく、ウーロンのやつもなあ。…怖いもの見たさなのかな。
「エアバイクはバレバレだし、帰りのことは考えてないし。おまえって本当に無計画…」
「うるさいわね!」
内容的には押されているにも関わらず、あくまで強気でブルマは叫び続けた。俺は内心苦笑しながら、偶然手にした助け舟を漕ぎ出した。
「『脳貧血』ということにしておいたよ。だから見つかっても大丈夫だろ」
ブルマの怒声が止んだ。ウーロンが呆れたように俺を見た。
「おまえ、甘いなあ…」
「そんなことないだろ」
言わば保身の結果だ。特に機転を利かせたというわけじゃない。
ペントハウスのドアへと向かいかけた俺の隣にブルマがやってきて、感心とも呆れともつかない声を出した。
「あんた、本当にこういうことに関しては知恵が回るわね…」
俺より頭がいいはずの人間に褒められた。…少し気になるニュアンスだが。これは素直に喜んでいいのだろうか。
何と返せばいいのか少しだけ迷った俺の耳に、ウーロンの声が入ってきた。
「おいブルマ、エアバイクはどうするんだ。置いていくのか?」
「あっ、忘れてた」
「おまえって本当に間抜けだよな」
慌てたようにエアバイクへと駆け寄るブルマに、またもやウーロンがケンカを売り出した。心密かに、俺はその言葉に同意した。
本当に、そうだよな。
それで身を隠すはずのエアバイクで居場所がバレて、うまい言い訳も思いつけなくて。頭が良くて口も達者な人間とは思えない、間抜けさだよな。
でも、そのくらいがちょうどいいよ。
少なくとも、俺にはな。


体育祭の余韻は、翌日になっても残っていた。クラス中に、倦怠感が漂っていた。
「だりぃ〜」
「おれ、筋肉痛になっちまったよ」
そこかしこから漏れてくる不平の声。みんな都人だよなあ。俺はつくづくそう思っていた。
だって、全種目出た俺はどこも何ともないんだから。いい運動だとすら思わなかった。昨夜のトレーニングにだって、まったく支障はなかった。
「おまえ、平然としてるなあ」
「どういう体してるんだよ」
ただ黙って座っているだけで、賞賛(?)の言葉をかけられる。俺はまったく苦笑するほかなかった。
プーアルですら、筋肉痛になどなってはいなかった。都の人間って軟弱だよな。こんなことで、先々生きていけるんだろうか。他人事ながら心配に…は全然ならないが。
でも、自分のことが心配になることはある。俺、こんな温い環境にいていいんだろうか…
その思いが顔に出ていたとは思いたくないが、クラスメートの一人が唐突にこんなことを言った。
「いいよなー、おまえは。運動神経はいいし、頭のいい彼女はいるし。ずるいよなあ」
やや嫌味を孕んだ明るい声。本気で咎められているわけではないのはわかるのだが、部分的に首を傾げるところが、俺にはあった。
「ブルマに何の関係があるんだ?」
「おまえ、成績はおれらとどっこいのくせして、授業中全然困ってないじゃねえか。課題とかやってもらってるんだろ」
傾げていた首を、思わず竦めた。…バレてやがる。
「今だって何もやってないし。おまえが授業の前に慌ててるところ、見たことないもんな」
今度は首を捻った。…さっきから首が忙しいな。
「何の話だ?」
「おまえ、5限目の化学の問題、当てられてただろ」
最後に俺は首を掻いた。…完全に、忘れていた。

ハイスクールでの昼食は、だいたいブルマと一緒に食べる。『だいたい』というのは、そうじゃない時もあるからだ。…ケンカしてる時とか。
外庭や裏庭、体育館裏などのあまり人気のない場所に、ブルマは行きたがる。だが、だからと言って色気のあることをしたがるかというと、そうではない。
「これあげる」
裏庭の芝生に腰を下ろし、弁当箱を開けた早々ブルマは言った。そして、俺の弁当箱にナッツと何かの炒め物を放り込んだ。
よくあることだ。3日にいっぺんはあるかな。嫌いな食べ物を、ブルマはとことん避ける。克服しようなどとは露ほども思わないらしい。
まあ、いいけどな。ブルマは未発達という感じではないし。むしろ発達しきっているような気もするし…
「あーあ、つまんないっ」
何かの揚げ物にフォークを刺しながら、ブルマが叫んだ。俺はそれに答えなかった。
いつものことだ。ほとんど毎日言ってるな。ブルマは大いに退屈を、ハイスクールに感じているらしい。らしいというよりほぼ確実だ。それを裏づける台詞を、ブルマは今日もまた吐いた。
「あたし、午後は化学実験室にいるから。授業が終わったら迎えに来て」
言うなり何事もないかのように、何かのローストを口に放り込んだ。俺は思わず訊ね返した。
「午後全部サボるのか?」
6限目のサボりを校内で過ごす時に限って、ブルマはそれを俺に教えてくれる。帰路を一緒に歩くためだ。どこか外へ行ってしまう時は教えてくれない。一人で勝手に行ってしまう。…本当に勝手だよな。
それにしたって2限続けてサボるのは、いくらなんでもあからさま過ぎ…
「数学と物理だもの。自習の方がまだマシよ」
言うべきかどうか迷っていた俺の忠告は、返されたブルマの言葉に、存在そのものを消した。
すごく説得力があったからだ。『それはしかたがないな』という言葉を呑み込むことに苦労さえした(さすがに肯定するのはちょっとな)。ブルマは独力で、オリジナルのメカを組み上げることが出来るほどなのだ。今さら、数式なんか教えられたくないだろう。
俺が体育祭やクラブに対してそうだったように、ブルマも物足りなさを感じているんだろう。ただフィールドが違うだけだ。俺がサボらないのは、単にサボる気にならないだけであって、感覚は同じだ。
俺が、味はいいのだが今ひとつ正体のわからない都風の一品を弁当箱の中から摘み上げた時、ふとブルマが言った。
「あんたも一緒にサボる?絶対バレっこないわよ」
少し心楽しい気持ちになった。ブルマに誘われたのは、これが初めてだ。おそらく気まぐれに違いないが。ブルマはいつだって気ままで気まぐれなんだ。近頃、それがだいぶんわかりかけてきた。
「いや。俺、今日の化学、当てられてるから」
だから、俺も気ままな気持ちで断った。たまにはサボってみるのも悪くない。そうは思ったが、いきなり午後を全部サボるのはちょっとな…俺には荷が勝ち過ぎだ。
「どの問題?答え教えてあげるわよ」
ブルマはさして気分を害した様子もなく、笑い飛ばすように話題を変えた。…ひょっとして機嫌いいのかな?少し勿体ないことしたかな…
「たぶん3節の最後のページのどれかだな」
「アバウトね〜」
俺を軽く貶しながら、ブルマはポケットからカプセルを一つ取り出した。それを素早く紙とペンに戻すと、何を訊くこともなくすらすらと答えらしきものを書き出した。それが5問ほども続いたので、さすがに俺は声を高めてしまった。
「すごいな。全部覚えてるのか?」
「さっき授業でやったばかりだから」
まるで何事もないかのように、ブルマは書き続けた。化学はわりと真面目に授業を受けているらしい。
それにしてもこれは…フィールドだけじゃなく、レベルも違うかもしれないな…

俺は化学があまり得意ではない。苦手というのとは少し違う。ただ、わからないだけだ。
俺は基本教育は受けはしたものの、その後はずっと荒野の生活で、専門的な学問にはまったく触れていないからな。化学と言えるものの中で俺がわかることと言えば、薬莢の中身くらいだ。
その不得意な化学の授業をつつなく終えて、少し後ろめたい気持ちに俺はなっていた。
…ブルマに悪いことしたかな。
せっかく誘ってくれたのに。あんなに『つまんない』って言ってたのに。ブルマは俺のフォローをしてくれているのに。ブルマが誘ってくれることなんて、もう2度とないかもしれないのに…
最後の思いに強く背中を押されて、5限目後の休み時間、俺は人目を忍んでこっそりと教室を抜け出した。休み時間なんだから、こそこそする必要はないはずなのだが…あんなに堂々とサボり宣言できるなんて、ブルマは豪胆だな…
化学実験室のある2階の東端は、まったく人気がなかった。隣の教室はおろか、正面のラバトリーにさえ、誰もいない。なるほど、サボるにはうってつけの場所だ。
「ブルマ、俺…」
ドアのコンソールに向かって呼びかけようとして、言葉に詰まった。マニュアルロック式か。しかも起動されていない。本当にいるのかな?
しかたなく俺は旧式の慣例に則ることにした。ノック3回。続いて呼びかけ。
「…おい、ブルマ…」
ブルマがいることはすぐにわかった。コンソールが起動されたからだ。だが、コンソール越しに返ってきたその声は、まったく予想外のものだった。
「名前呼ばないでよ。授業なら出ないわよ」
突っぱねるように尖った声音。どう聞いても突っぱねているその言葉。
完全に面食らいながら、俺は失いかけた言葉を絞りだした。
「そうじゃなくて…その、俺もちょっと休もうかと」
「マジ?…そんなこと言って、引き摺り出す気じゃないでしょうね?」
俺に答えるブルマの声は、猜疑に満ち満ちていた。俺は思わず呟いてしまった。
「なんだよ、自分で誘ったくせに。本当に」
勝手なんだから…
慌てて途中で口を閉じた。ヤバイ。ヤバ過ぎる。
これじゃケンカしに来たようなものだ。せっかく機嫌よさそうだったのに。
幸いにして、この言葉の後半部分はブルマの耳には入らなかったようだ。数十秒間息を呑んでいた俺のもとに、ブルマからのお許しの言葉が届いた。
「周りには誰もいない?さっと入ってね」
俺はブルマの言葉を実行した。出来るだけ素早く、開けられたドアを潜った。いつまたブルマの気が変わらないとも限らない。
「用心深いなあ」
だいぶん表現を変えて、俺は文句を言った。面と向かってブルマに文句を言うのはこれが初めてだ。正直かなり勇気がいったが、やっぱりちょっと納得できない。だって、俺は誘われたはずなのに。しかもたった一時間程前のことなんだぞ。
「当ったり前でしょ」
わざとらしく腰に手を当て口を軽く尖らせて、ブルマは言い放った。俺はそれに言い返さなかった。いや…
正直に言おう。…安堵した。怒られなくてよかった…
ひとまず入室の問答はここまでにすることにして(ここが引き時だ)、俺は実験室内をぐるりと見回した。デスクの一番端、窓際の辺りにブルマの座っていた痕跡があった。引かれたスツール。デスクの上に散らばる幾本かの試験管、大きさの違う3つの壜。窓から入る風に戦ぐ、俺にはまったく理解不能な何かの設計図…
「何してたんだ?」
「何しに来たの?」
俺の放った質問は、ブルマの今さらな質問と完全に被った。俺は思わず頭を掻いた。
『何しに来た』とは、またご挨拶だな。誘ったくせに…
「サボりに来たんだよ」
「何ってサボってたのよ」
今さらな質問には、今さらな答え。そう思って返した俺の言葉は、ブルマの返事とまた重なった。しかも、ブルマの返事も今さらだ。
何なんだろうな、これは。この前も同じようなことがあったな…
少しばかり照れくさくなって、ブルマから視線を外した。窓の外に、他クラスの体育の授業風景などを認めながら、俺は思っていた。
ひょっとして、微妙だっただろうか。
あまり深く考えずに来てしまったが、傍目から見たら密室だよな。俺たちはこんなの全然慣れてるけど。一緒に住んでて、密室も何もないからな。
…ま、バレなければ平気か。
結論を出すと共に窓を閉めた。僅かに騒がせていたグラウンドからの声がなくなって、室内はすっかり静かになった。唯一音を立てているデスクの上のブルマの手を見ながら、窓を背にスツールに腰を下ろした。
「こういうところでいつも何してるんだ?化学実験室なんかでやることあるのか?」
「いっぱいあるわよ。炎色反応を見たりとか、単結晶を作ったりとか。金属樹を作ったこともあるし」
たわいのない俺の質問は、他愛のない返事で報われた。
炎色反応はわかる。単結晶もなんとなく想像がつく。だが金属樹なんて聞いたこともない。やっぱりレベルが違うよな。
こんな風に、ブルマの頭のよさが垣間見えることはよくある。だが劣等感は湧かない。フィールドが違うだけだということがわかっているからだ。ただ、説明してほしいな、とは思う。とは言えたいして興味もないので、訊き返したりはしないが。
俺のこの思いは、どうやら中途半端に顔に出ていたらしい。苦笑めいたものを浮かべながら、ブルマが壁際の棚にスツールを押しやった。
「いいわ、見せてあげる」
言いながらスツールの上に立ち、棚の最上段から何やらいろいろ取り出した。微妙に色の違う粉末の入った同形の壜。それと同じ数の試験管。試験管ばさみ。すでにデスクの上にあった3つの壜。それらを一箇所に集めると、バーナーの元栓を開けた。
何だか、授業みたいになってきた。サボりってこういうものだっただろうか。『自習』とブルマが言っていたのも、あながち間違いではなさそうだ。
「カーテン閉めて」
ブルマの声に従うと、室内は薄い暗闇となった。これでますます怪しくなった。傍目には。俺はというと、そう考えられるほどに冷静だった。
何と言えばいいのだろう。ブルマは俺に絶対的な安心感を抱かせる。その行動においてではなく、精神的な感覚において。ブルマ個人の仕種にドキリとさせられることはあるが、その他の、例えば今みたいな状況的な部分でハラハラさせられることはない。…うまく言えないな。
とにかく、それが他の女の子と決定的に違うところだ。だから俺はブルマと一緒にいられるし、いたいとも思うのだ。
緩んだ心でそんなことを考えている俺の目の前で、ブルマは非常に手際よく動いていた。試験管に液体と何かの粉末を入れて、バーナーで加熱し始めた。何やら怪しげな泡が立ってきたところで、素早く何かの固体を放り込んだ。その途端だった。
火花が散った。次の瞬間、花火のような鮮烈な光が試験管から溢れ出した。
試験管の底にまばゆく輝く白色。間にイチゴの色を挟んで、周囲を照らす深い紅色。
「何だ、これ?」
思わず腰を浮かせかけた俺の耳に、ブルマの簡潔な説明が飛び込んだ。
「炎色反応よ。授業でやったでしょ」
「やったけど。こんなにきれいだったかな」
「授業では燃やすだけだからね。でも、こうした方がずっときれいよ」
そう言うブルマの声は、穏やかだった。時折篭らせる険どころか、気の強さも気まぐれさも気ままさも、何も感じさせない優しい声音。瞳に映るイチゴ色。口元に表れる素直な感情。まったく楽しんでいるだけとしか思えない、その表情。俺は、ブルマのその顔に見覚えがあった。
俺が都に来たばかりの頃。C.Cに住み始めたばかりの頃、ハイスクールに通い始める前の頃。『夢』という言葉と共にブルマが俺に見せた、花が咲くようなあの笑顔。俺が初めて目を逸らせなかった、あの時の笑顔の一歩手前の表情だ。ここのところ賑やかなブルマばかり見ていたから、あの頃のことは少し忘れかけていたんだけど。あれは夢じゃなかったんだな。
ふいにブルマの瞳の色が変わった。鮮やかな黄色に。気がつけばブルマは一本目の試験管を手放し、次の花火を持っていた。その次は紫。そして黄緑。瞳の色は目まぐるしく変わったが、ブルマの表情は変わらなかった。まったく夢中だな。そして自然体だ。
やっぱり変わってるな、ブルマは。
こんなことをしている時が、一番自然だなんて。メカや試験管を弄っている時が、一番いい顔するなんて。
「もう一回やってみる?」
光が消えて、再び部屋が暗くなった時、ブルマが言った。俺は率直に、自分が一番見たいと思うものをリクエストした。
「最初のがもう一度見たいな。あれが一番きれいだった」
あの光を見ている時のブルマが、一番かわいかった。…イチゴ色だからかな。
「リチウムね。オッケー」
ブルマは即座に快諾した。その瞬間、俺は見たかったもの以上のものを、見てしまった。
俺が初めて目を逸らせなかった、あの花を。ブルマの顔に広がる花笑みを。
やっぱり、あの色が一番好きなんだな。イチゴ色だしな。…そしてやっぱり、俺はイチゴに負けてるな。でも、悔しくなんかない。…いや、ちょっとは悔しいか。よくわからないな。まあ、いいか。
それがブルマなんだからな。そう思うことにしよう。

6限目終了のチャイムが鳴った。俺はこの時ほど、授業が終わるのが惜しいと思ったことはなかった。授業は別段嫌いじゃないけど、好きでもなかったのに。
ブルマと同じクラスだったなら、さっきみたいな顔がもっと見られただろうにな。…いや、違うか。ブルマは授業をサボってるんだったな。忘れてた。
いわば一時の夢か…
夢の終わりを自らに噛み締めさせるべく、カーテンを開けた。ほとんど同時に、後ろでスツールを動かす音がした。
大小様々な壜を、ブルマが一度に棚の最上段に戻そうとしていた。まったく安定させずに壜を両腕に抱きかかえながら、強引にスツールに上ろうとしている。荒っぽいなあ。さっき見せた繊細さと手際のよさはどこへ行ったんだ。
当然のように(というか、当然だ)揺れるスツールを、俺は押さえようとした。だが、スツールはそれを待ってはくれなかった。
「きゃっ」
甲高い叫び声を上る人間にさせながら、スツールが傾いだ。バランスを崩し背中を反らせたブルマが、腕を伸ばし強引に壜類を棚の中に押し込んだ。さらにブルマはバランスを崩し、スツールの傾きは決定的なものとなった。
「おい、ブルマ!」
呆れたな。自分より化学薬品かよ!
心の中で文句をつけながら、落下地点に駆け込んだ。ブルマはそれを待ってくれた。薬品を棚に押し込んだ数秒が、その余裕を与えてくれた。――もちろん皮肉だ。そうしなければ落ちずに済んだだろうからな。…本当に間抜けなんだから…!
腕を広げて俺に向かって落ちてくるブルマを、真正面から受けた。止めることはできなかった。落下により増えた重みに耐えかねて、俺はブルマを抱いたまま、背中から床に倒れ込んだ。
「あーっ!!」
「大丈夫か!?」
ブルマの叫びに呼応しようとした俺の言葉は、声にならなかった。
物理的、心理的、両方の理由によって。俺の上半身に覆い被さるブルマの体。口を塞ぐ、薄布一枚に半分だけ隠されたブルマの肌。男にはない2つのふくらみ。柔らかなこの感触。発達しきったブルマの…
…こ、これは…!
すっかり固まっていた俺の耳に、ブルマの怒声が飛び込んできた。
「…ヤムチャ!あんた、いい加減に放しなさいよ!!」
同時に俺の心を押さえつけていたブルマの肌がなくなった。俺はようやく呪縛から解き放たれた。
少しだけ顔を上げた。ブルマの姿が目に入った。俺の腹の上に座り込むブルマの顔は、ある意味ではすごく自然体だった。
つり上がった眉。憤怒に燃える青い瞳。口元に溢れる怒りの感情――ブルマは怒っている時の方が多いからな。これが自然体ではないと、どうして言えるだろう。
「な、何だ?どうしたんだ…」
至近距離の顔に向かって呟いた。ブルマは俺との距離を0にするばかりの勢いで、被さるように食ってかかってきた。俺は再び、後頭部を床につけた。
「何考えてんのよ、あんたは!一体何してたのよ!!」
「何って、ブルマを助け…」
「どこがよ!」
今にも触れそうな距離で動かされる唇。俺を見据える青い瞳。押さえ込むように俺の上に被さる体。
すごく怪しい状態だ。傍目には。しかし現実はそれとは真逆であるということを、俺はよく知っていた。
「あのな、ブルマ…」
とりあえず離れてくれ。誰か来たらどうするんだ。
そう思いながら、ブルマの肩に手をかけた。体を引き離そうと思って。目の前にいるのがさっきまでのブルマであったなら、こんな冷静な行動は取れなかったに違いない。…浮き足立つには、今のブルマは怖過ぎだ…
「な、何しようとしてんのよ!」
ブルマは瞬時に身を起こした。俺の手を振り除けながら。
どうやら油を注いでしまったらしい。頬までも紅潮させ、怒り溢れんばかりのどもりさえ加えて、ブルマは叫んだ。
「あ、あたし帰るから、試験管洗っておいて!それから、しばらく校内で話しかけないでよ!!」
言うなり、ポケットからカプセルを取り出した。荒々しくそれを窓際に投げ捨てると、ものすごい音を立てて窓を開け放った。
「バカヤムチャ!!」
現れたエアバイクに飛び乗ると、その罵声と迫力に思わず放心しかけた俺の前から、ブルマは颯爽とも言える素早さでいなくなった。
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