漸進の女
朝日が目に眩しくなる頃、一度トレーニングを切り上げる。
腹が減るから。水分補給を兼ねて、キッチンで軽く腹に何か詰め込む。するとそのうち、プーアルかママさんがやってくる。それがいつもの休日の朝だ。
しかし、今日は違った。誰もいないキッチンでまずはコーヒーを淹れていると、なんとブルマがやってきた。
「あれ、ブルマ。おはよう。早…」
…過ぎるな。
いつもは朝か昼かわからなくなる頃になって、ようやく起きてくるのに。遊びの約束をしている時ですら、ギリギリまで寝てるのに。それが今朝は、ハイスクールのある時よりも早く起きてくるとは。一体どうし…
「寝てないのよ」
ブルマ本人の言葉が、俺の疑念を解かした。同時に心を凍らせた。
やや俯き加減に俺を見る半眼。その瞬間に備えるように、寄り集まった眉。どうしたって怒っているように聞こえる声音――…怖ッ!!
一体どうしたんだ。俺、何かまずいこと言った…いや、挨拶しただけだよな。
「コ…コーヒー飲むか?」
ほとんど反射的に俺は訊ねた。機嫌取りと言われればそれまでだが、はっきり言って今朝のブルマは怖すぎる。正直なところ間が持たない。
「いらないわ。ホットチョコレート飲みにきたのよ」
重々しい溜息と共に(なんで溜息?)そう言うと、黙々とキッチンのストッカーを漁り出した。足元や背後を移動する負の気配に耐えかねて、俺はさりげなく小鍋にチョコレートとミルクを放り込んだ。そして、意を決して話しかけた。
「俺が作るから、ブルマはリビングで待ってろ。なっ!」
「そう?悪いわね」
ブルマは素直に俺の言葉に従った。どうやら、俺に対して怒っているわけではないようだ。そうだよな、俺何もしてないし。ケンカだってしてないし。しかし、それにしては怖いな…
ホットチョコレートをブルマに手渡し、なんとはなしに一歩を下がりかけた俺の視界に、プーアルの姿が入った。
「おはようございます、ヤムチャ様…あっ」
プーアルはソファに座るブルマを見るなり動きを止めて小さく叫び、すぐさま俺のところに飛んできた。
「どうかしたんですか、ブルマさん…」
プーアルにも、この異常な空気がわかったらしい。俺はキッチンへと数歩を退きながら、声を顰めてそれに答えた。
「それが俺にもよくわからないんだ」
「悪い夢でも見たんでしょうか…」
囁きあう俺とプーアルをよそに、ブルマは黙々とホットチョコレートを飲んでいた。時折大きな息を吐きながら。ややもして、ソファに座ったままのその姿勢でうつらうつらし始めた。声をかけるべきか否か俺が真剣に悩み始めた頃、ウーロンがやってきた。
「おまえ、よく起き抜けにそんなもの飲めるな」
ここまでの緊張感溢れる空気を知らないウーロンは、開口一番リビングに蔓延するチョコレートの匂いを、いつもの調子で咎めた。瞬時にブルマの目が開いた。俺とプーアルは、さらに一歩を退いた。
「起き抜けじゃないわ。これから寝るのよ」
「これからって、もうすぐ8時だぞ。サファリパークはどうするんだよ?」
「サファリ…?」
「なんだよ、忘れたのか?おまえが行こうって言ったんだろ。オープンしたての。評判いいからって」
不機嫌に不機嫌で答える2人の会話に、俺はようやく話が見えてきた。寝不足か。怒りじゃなくて、疲れか。今ひとつ歯切れが悪い上に、遊びの予定を忘れるとは。相当疲れているな、ブルマは。
「いい加減なやつだな。なあヤムチャ、確かにそういう話だったよな」
「うーん…どうだったかな…」
ふいにウーロンに話を振られて、俺は思わず言葉を濁した。ブルマが忘れているのに、肯定するのもいかがなものか。それに正直なところ、俺も忘れていた。
「ちょっと、何それ!あんた忘れてたの!?約束したでしょ!!」
突然ブルマが立ち上がった。その語気の鋭さにまた一歩を退いた俺を横目に、相変わらずウーロンが突っ込んでいった。
「なんだよ、おまえだって忘れてたくせに」
「忘れてなんかいないわよ。ただ脳裏の外に追い出していただけよ!」
それを『忘れていた』と言うんじゃないだろうか。そう俺は思ったが、それを口に出す気は毛頭なかった。
「絶対行くわよ。あたしシャワー浴びてくるから、エスプレッソ淹れといて。3杯。リストレットでね!」
誰にともなく言い放つと、荒々しくも危なっかしい足取りでブルマはリビングを出て行った。呆然とそれを見送る俺とプーアルの横で、ウーロンが吐き捨てるように呟いた。
「ケッ、ヒステリー女」
「でも大丈夫かな。あんなにフラフラしてるのに」
俺が言うと、ウーロンが白々しい目つきで答えた。
「おまえも甘いな。あいつが自分で言い出したことだぞ。おまえなんか連絡入れたにも関わらず、あんなに怒られてたじゃねえか。ちょっとはやり返してやれよ」
「そうは言ってもな…」
エスプレッソをリストレットで3杯飲まなきゃならないような眠気で外出。そこまで体を張って遊ぶ必要はないと思うのだが。
呆れたように俺を見るウーロンをリビングに残して、俺は再びキッチンへと足を向けた。そして少し考えて、結局は3杯分の豆を挽いた。

バスルームから戻ってきたブルマは、幾分目が覚めているように見えた。機嫌ももう悪くはなかった。それでも、エスプレッソはすべてきっちり飲み切った。
…本当に大丈夫なのか?それにしても、徹夜までして一体何をしていたんだろう。遊びを忘れるほどブルマが夢中になるもの…やっぱりメカかな…
「さっ、行くわよ〜」
元気な声でそう言うと、フラつく足取りでブルマはエアカーへと向かった。それはいいのだが、その手が当然のようにドライバーズドアにかかったので、俺は大変慌てた。
「今日は俺が運転するから…」
通常、都内を走る時はブルマが運転をすることになっている。都の道は狭い上に立体交差が多くて分かりにくいので、俺は嫌いなのだ。でも、今日はそうも言っていられない。好き嫌いと生死のどちらを取るかと問われたら、誰だって後者を取るだろう。たかがドライブに体を張る気は、俺にはない。
「でも、パークへの道がわからないでしょ」
「ナビ見りゃいけるよ」
俺は何とかブルマを助手席に押し込めた。と言ってもベンチシートなので、隔離できたわけではないのだが。
街の混雑に気を取られながらも、俺はどうにか迷わずに車を進めた。実際のところ迷ったことは一度もないのだ。ただこの混雑ぶりも、精神を摩滅するんだよな…
少しして郊外へと抜けるため、首都高に車を乗り入れた。トンネルに入り込み数100m先に分岐を控えて、俺の精神的緊張は高まった。ほとんど同時に、情緒的緊張が横から襲ってきた。突然ブルマが、俺の肩に身を預けてきたのだ。
「ブルマおまえ、いきなり何っ…」
俺は思わず呼びつけた。だが、その三人称に対する反応はなかった。
首筋に触れる柔らかな髪。肩にかかる微かな吐息。まるで安心しきって閉じられている瞳…
…ブルマのやつ、寝てやがる。
緩やかなカーブと共にさらに重みが増してきて、俺は心の中で叫んだ。
冗談じゃないぞ。百歩譲って凭れてくるのはいいとして、その微妙な寝息をなんとかしろ!
すかさずバックミラーに目をやった。驚きとにやつきの綯い混ざったウーロンの顔が見えたが、それは無視した。
「プーアル!ブルマを押さえてくれ!…ハンドルが切りにくい。道がよくわからないから、オートパイロットにはできないんだ」
「わかりました。…シートクッションに変化!」
プーアルの反応は素早かった。半拍の後にその声が聞こえた。一拍の後に、俺の左側から感触が消えた。情緒的緊張を半減されて、俺は大きく息を吐いた。
あー、びっくりした。また抱きついてきたのかと思った。この道薄暗いし、そういう雰囲気と言えば雰囲気だし…
やがて分岐点が見えてきて、俺は残りの情緒的緊張を追い出しにかかった。…感触の余韻を。
「なあプーアル、後でおれと代わってくれよ」
ブルマの体を包み込むフルタイプのシートクッションに向かって、出し抜けにウーロンが言った。今やにやつきのみを浮かべた表情で。
…いいよな、気楽な立場のやつは。
バックミラーに目をやりながら、俺はそう思った。

首都高を降りても、ブルマは眠り続けていた。すやすやと気持ちよさそうな寝息をたてながら。
「おいプーアル、おまえずっと変化してて疲れないか?おれが代わってやるよ」
盛んに言い立てるウーロンをプーアルは無視していたが、俺も同じことを考えていた。そろそろプーアルも疲れてきただろう。でも、ウーロンに代わらせるのはちょっとな。しばらく直線だから、俺が代わってやるべきかな…
俺が思考を纏め始めた頃、コツリと小さな音がした。大きく伸びたブルマの腕が、ウィンドゥを叩いていた。
「…あー…よく寝たー…」
その声が発されると同時に、プーアルが変化を解いた。
「気持ちよかった〜…あら、プーアル。あんただったの」
さして迷惑そうな顔もせず俺との間に佇むプーアルを見て、ブルマが言った。バックミラーには、まさに舌打ちしているウーロン。
「サンキュー。あんた、気が利くわねえ」
「いいえ、どういたしまして」
「パークに着いたらかりんとう買ってあげるわ」
無邪気に笑いあう2人の声に俺は微妙な気持ちになりながら、外していた左手をハンドルに乗せた。

「そろそろ運転代わろうか?」
時折かけられるブルマの声に、俺は首を振り続けた。サファリパークのゲートを潜ってからも、ドライバーズシートを明け渡す気は起こらなかった。当然だ。あんなに堂々と居眠りされて、ハンドルを任せられるか。
ウーロンに運転してもらうという案は、ブルマ自身によって却下された。理由は、ベンチシートだから。ブルマがそう考える気持ちはよくわかる。というより、その想像がほとんど当たっているということを、今日の俺は視覚と聴覚の双方によって知っていた。
やがてパークのサファリゾーンに入り込んだ。ブルマに買ってもらったかりんとうを、プーアルが嬉しそうに取り出した。自分を楽しませるようにそれをためつすがめつする前で、今度はウィンドゥに頭を凭れて、ブルマがうつらうつらし始めた。まるっきり呆れた声で、ウーロンが呟いた。
「こいつ、一体何しに来たんだ」
「まあいいさ。さっきみたいに公道で運転の邪魔をされるよりはマシだ」
俺が答えると、本日3回目のにやけ顔をウーロンが閃かせた。
「とか言って、おまえ本当は惜しいとか思ってるんじゃねえの〜」
「な、何言って…それはおまえだろ!」
思わず事実を叫びたてた。ウーロンが驚いたように体をビクつかせた。それを尻目に、もう一人同じ動きをした人間を、俺は視界の中央に認めた。
ブルマだ。…しまった。起こしちゃったかな?
「悪い。うるさ…」
「きゃっ!」
侘びかけた俺の声に、ブルマの叫びが被った。それと同時に、俺の体にも被ってきた。
俺の首に固く巻きつく両の腕。俺の顔に触れる、柔らかな頬。視界の半分を覆い隠す菫色の髪。…膝に感じる、もう一人の人間の重み。
数瞬の間の後、ウーロンがにやにやとした目つきでこちらを見ていることに、俺は気づいた。その体に触れるべきかどうか迷いながら、俺は俺に抱きついている女の子の名を呼んだ。
「…おい、ブルマ…」
「あ、あぁ…」
抑揚のない声で呟きながら、ブルマがゆっくりと身を離した。そして助手席側のウィンドゥをちらと見た。そこには、今にもウィンドゥに鼻を押し付けてきそうなコヨーテの姿があった。
「あー、びっくりした。眠気が吹っ飛んだわ…」
…そうだろうか。妙にドライなこの態度。さっぱり覚醒していないように、俺には思えるのだが。
微速で進むエアカーに続々と纏わりついてくるコヨーテの集団を見ながら、ブルマがおもむろに呟いた。
「オオカミって結構迫力あるわねえ」
話が自分の領域に及んできて、俺の気はようやく落ち着き始めた。
「これはコヨーテだ。あっちのがハイイロオオカミ。ところどころにいる色の違うやつは、ひょっとしてコイドッグかもな」
「コイドッグって何?」
「コヨーテと犬の子どもだよ。オオカミも犬と交配するけどな。それにしても、ここあまりちゃんと管理してないな」
少し前までの俺にとっての常識は、知識としてブルマに受け入れられたようだった。感心とも呆れともつかないなんとも微妙な表情で、ブルマは俺を返り見た。
「あんた、やたら詳しいわねえ」
「荒野にいたんだよ。なあ、プーアル?」
俺が種を明かしてみせると、プーアルは顔をほころばせ、ウーロンはそれとは対照的な顔つきになった。
「そうですね、いましたね。懐かしいなあ」
「おれたち、そんなところを歩いてたのか…」
いよいよ話がみんなの共有するところとなってきて、場は完全にいつもの雰囲気となった。誰にも気づかれぬよう、俺はこっそりと胸を撫で下ろした。
…あー、びっくりした。まさか抱きついてくるとは。ウーロンに運転させてなくてよかった…
その可能性には気づいていないらしいウーロンの顔をみながら、そう思った。

それきりブルマは眠らなかった。どうやら本当に目が覚めたようだ。車内に響き渡る、プーアルによるかりんとうの咀嚼音も、一役買ったのかもしれない。
「あっ、プレーリードッグ。かわい〜」
ブルマが一度は、そのプレーリードッグのいた荒野に足を踏み入れていたことを思い出して、俺は一言忠告した。…今さらだけどな。
「あれは感染症を持ってるんだぞ」
「あんた、そんな夢を壊すようなことばかり言わないでよ」
そんなこと言ったって、事実なんだからな。野生動物を甞めるなよ。
だいたいどうしてプレーリードッグはかわいくて、オオカミはダメなんだ。プレーリードッグなんて、遊び相手にもならないぞ。オオカミの方がよっぽど、強くて手ごたえもあるというのに。
サファリパークは、なかなか楽しめた。過去への郷愁と、微かな望みが首を擡げた。都会の中のオアシスだな、ここは。こういうところでなら、運転も楽しめる。…来るまでが大変だったけど。
「ふわぁ〜あ…」
「尻が痛いな…」
ブルマとウーロンがほとんど同時に、帰ることを示唆した。俺は素直にそれに従うことにした。
遊びが終わっても、まだ一仕事が俺には残っているし。同じ道だから、来た時よりは楽だろうけど。
「帰りはあたしが運転しようか?」
ブルマはそう言ってくれたが、俺にはやはりドライバーズシートを明け渡す気は起こらなかった。
今、目の前で欠伸してたし。朝より今の方が元気だなんて、あるはずがないからな。疲れと生死のどちらを取るかと問われたら、誰だって後者を取るだろう。最後の最後に敢えて体を張る気は、俺にはない。
夕刻のトラフィックタイムにはまり込んで、緩やかにエアカーは進んだ。渋滞と倦怠の中で、ウーロンがつまらなさそうに呟いた。
「おれ横になるからよ。着いたら起こしてくれよな」
…いいよな、気楽な立場のやつは。
夜の帳が降りだした。首都高を抜け街中へと入り込んで、俺の精神的緊張は高まった。ほとんど同時に、情緒的緊張が横から襲ってきた。ブルマがまた、俺の肩に身を預けてきたのだ。
首元をくすぐる柔らかな髪。肩にかかる、これはどうしたって起きそうにはない幸せそうな深い寝息。まるで力の入っていないその体…
「しょうがないな。おい、プーアル…」
プーアルの声は返ってこなかった。小首を傾げながら、俺はバックミラーを覗き込んだ。ウーロンと鏡写しの体勢で、寝入っているプーアルの姿がそこにあった。
「ドライバーは孤独だな…」
誰にともなく呟きながら、オートパイロットのスイッチを入れた。そして、ともすると倒れそうになるブルマの肩に手をかけた。
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