並進の女
ハイスクールから帰ってトレーニングをする時は、気分を切り替える必要がある。
まるで弛んでしまっているからだ。ハイスクールは緊張感とは無縁の場所だからな。ブルマと一緒に帰ってくると、さらに緩むし。一緒に帰らない時はその対極だが、その時は別の意味で気分を切り替える必要がある。…極端なやつだよな、ブルマも。
幸いにしてこの日は前者の方だったので、俺はテラスで茶を飲みながら、ブルマと帰路にしていた会話を続けていた。
「提出日は同じなのね。じゃあ、2、3日中にタイトルだけ考えておいて」
「書くのはブルマなんだから、ブルマの書き易い内容でいいぞ」
「何言ってんの。タイトルくらい自分で考えなさいよ。人それぞれの傾向ってものがあるでしょ」
レポートの話だ。俺とブルマはクラスは別だが、出される課題はどのクラスも同じなので、自ずとこういう会話をすることになる。
ハイスクールに通い始めて数ヶ月経つが、俺は未だにレポートを書いたことがない。初めにブルマに相談して代筆すると言われて以来、そのままだ。もともと俺をハイスクールに連れ込んだのはブルマなのだが、課題はやってくれるしサボリは勧めてくるしで、さっぱり俺をハイスクールに染めようとはしない。一体何のために、俺をハイスクールに連れ込んだのだろう。…気まぐれなのかな。
「できるだけ早く考えるよ。ごちそうさま」
半ば惰性で答えながら、俺は席を立った。だいたい引き締め終わった。後はブルマと離れれば、切り替え完了だ。
そう思って外庭へと向かったのだが、テラスを出てからいくらも経たないうちに、後ろからブルマの声が聞こえてきた。
「ねえ、ヤムチャ」
振り返ると、ブルマがすぐ近くまできていた。珍しいな。たいがいいつもは俺が去ってもお茶を続けるか(遠目に見える)、部屋に引っ込むかしているのに。
「明日、ショッピング行きましょ。そろそろあんたの服買い足さなくちゃ」
こういう話も、いつもはテラスでするものなのに。なんとはなしに頭を掻きながら、俺は仕方なく事実を述べた。
「ごめん、明日はダメなんだ。野球の試合に出る…かもしれないから」
「『かも』って何よ。明日のことなのにわからないの?」
一転して眉を集めて、ブルマは言った。俺はさらに事実を告げた。
「たぶん出ることになるとは思う。地区予選の準々決勝なんだけど、相手チームが強豪らしくてな。打者を一巡させてから俺を使うかどうか考える、って話だ」
「何それ。すっごいご都合主義ね」
「まあな」
確かにそうではあるだろう。でも、最初から俺に頼ろうとしない分だけ、空手部やラグビー部よりはプライドがある。…と、思いたい。
ブルマは眉を戻さなかった。それでも、それ以上明日の予定について言及してはこなかった。俺が安堵の息を吐いた時、その言葉が飛んできた。
「あんたって本当に調子いいんだから。何でもかんでも安請け合いしちゃってさ」
俺は再び頭を掻いた。…相変わらずはっきり言うなあ。まあ、あながち的外れでもないか。俺の考えはちょっと違うけど。
「そうか?途中からなら俺も時間を取られずに済むし、向こうもそれがいいって言ってるんだから、一挙両得じゃないか」
「そういうのを調子がいいって言うのよ」
ブルマはさらに眉を寄せた。とはいえ、怒っているわけではなかった。呆れているのだ。隠せないのか隠そうとしていないのかはわからないが、そういうのはブルマは本当にわかりやすい。
話はここで終わった。だがブルマは足を止めようとはせず、そのままずっと外庭までついてきた。おもむろに近くの芝生に腰を下ろし、俺が型を始めても、しばらくは動こうとしなかった。
ブルマが俺のトレーニングを見に来るなんて、ずいぶん久しぶりのことだ。まだ何か話したいことがあるのかな。
気構えながら体を動かす俺とは反対に、ブルマは一向に動こうとはしなかった。まあ、邪魔であるわけはないが。…いや、やっぱりちょっと気になるな…
ややもしてプーアルがやってきた。それと入れ替わるように、ブルマは黙って去って行った。その後姿を横目に見ながら、俺は体を動かし続けた。ともすれば首を擡げてくるその思いを、努めて意識の外に追いやりながら。
ブルマの言葉はいつもはっきりしている。喜怒哀楽もすごくわかりやすい。
でも、それにも関わらず、何を考えているのかが、今ひとつわからないんだよなあ…


C.Cにはお茶の時間が多い。休日など、午前・午後・夜半と、3回もある。ママさんは本当にお茶の時間が好きだ。
最も、人によっては、必ずしもお茶であるとは限らないようだが。例えばブルマにとっては、午前のお茶は朝食だ。時刻は10時を回っているが、ブランチでもなく朝食だ。なぜなら起き抜けだからだ。
そしてその時、俺はブルマとはほとんど話をしない。ブルマが起き抜けだからだ。起きたばかりのブルマは、どことなくボーっとしていて、いつもに比べると口数も少なくて、まだ半分寝てるんじゃないかと思わせることすらある。
だから翌日のこの時も、俺はブルマとは挨拶を交わしたくらいで、さしたる話もしなかった。そうしていつものように、一足先にお茶を切り上げ、テラスを後にした。だがいつもとは違うことに、珍しくすでに着替えを済ませていたブルマが、外庭へと向かう俺の後をついてきた。
「なんか用か?」
足を止めてそう訊ねると、ブルマはなんとなく不貞腐れたような顔をして、そっけない口調で答えた。
「別に。散歩してるだけよ」
明らかに不機嫌だ。やっぱりあれかな…
「買い物に行きたいのなら、明日か来週にでも…」
昨日は怒っていないように見えたけど、一晩経って怒りが再燃したとか。あり得そうなことだ。
俺が唯一の心当たりを口にすると、ブルマはさらに顔を顰めた。
「そんなんじゃないわよ。ただ歩いてるだけだったら」
その態度に俺も眉を顰めた。とても言葉通りには受け取れない。なんかじわじわと怖いぞ…
俺が返す言葉に困っていると、ブルマは俺を置いてさっさと先を歩き始めた。その足の向く方向を見て、俺の心に不審が湧いた。
…外庭?また来るのか?
外庭に着くと、ブルマは昨日と同じ場所に腰を下ろした。思った通りではあるのだが、俺の不審は消えなかった。
ブルマが俺のトレーニングを見に来ること自体がやっぱり珍しいことだし、しかも怒っている時にそんなことをしたことは、これまで一度だってない。怒っている時のブルマは、いつだって俺を避ける一方だ。
これで気にならないわけはなかったが、とりあえず俺はトレーニングを始めた。それが習慣だし、今の俺がすべきことだからだ。
ブルマは黙って座り続けていた。ブルマから寄越される視線には、まったくと言っていいほど険はなかった。でも顔を見れば、怒っていることは明らかだった。
ブルマにしては中途半端なその怒り方に、言葉を探しながら手を止めかけたその時、プーアルがやってきた。
「ヤムチャ様、野球部のマネージャーの方から、お電話です」
それはなんら訝る必要のない、もう一つの思った通りの展開だった。

「呼ばれたよ」
窓越しにテラスで様子を窺っていたブルマとプーアルにそう告げると、待ってましたとばかりにプーアルが答えた。
「荷物取ってきますね」
そうしてあっという間に、おそらくは俺の部屋へと飛んで行った。その後姿を見送る俺の耳に、今度はブルマの声が入ってきた。
「どこの球場?急ぐの?エアカー、スポーツタイプの方がいい?」
「イーストエリアの…、…ブルマも来るのか?」
妙にきびきびとしたその口調に、俺は思わず訊ね返した。途端にブルマの声が高まった。
「何よ!あたしが行っちゃいけないって言うの!?何か来て欲しくない理由でもあるわけ!?」
俺はすっかり気圧された。ブルマの態度が怖過ぎる。読めなさ過ぎる。わけがわからなさ過ぎる…
どうして来るんだ。いや、来るのは構わないのだが、怒っているんじゃなかったのか?
そう言えば、前にもこんなことがあったな。いい加減、俺が慣れるべきなのだろうか。ブルマの支離滅裂さに。…そうかもな。
「おまえ、あまりヤムチャを苛めるなよ。おれも行ってやるからよ」
テーブルで最後のサンドウィッチに手をつけていたウーロンが、すかさず口を出した。
「あんたは来なくていいのよ!!」
ほとんど慣例とも言えるこのブルマとウーロンのやりとりに、俺の心も定まってきた。…そうだな。そろそろ俺も慣れるべきだよな。
「ヤムチャ様、用意できまし…」
「よし。じゃあ行く…」
やがて、プーアルがバッグを手に戻ってきた。だがその声は、それを受けて2人に呼びかけようとした俺の声ごと、当人たちの声に掻き消された。
「ほら、さっさと行こうぜ」
「何であんたが仕切るのよ!!」
他者をまったく寄せ付けない勢いで繰り広げられるブルマとウーロンの応酬を目の前に、俺は思った。
…この2人の押しの強さに慣れるということは、俺が引けということなんだろうな、やっぱり。

球場は西の都郊外の、イーストエリアの端にあった。
「ヤムチャ様、がんばってくださいね!」
「がんばるけど、野球はスタンドプレイなしだからな」
プーアルの声に軽く答えて、エアカーから飛び降りた。あまり時間がない。ブルマはめいっぱい飛ばしてくれたけど(ちょっと怖かった)、それでもギリギリセーフといったところだ。
スタンドに人は疎らだった。まあ、地区予選だし。それにこう言っちゃ何だけど、この野球部は地味だからな…状況は2対0。むろん後攻だ。であればこそ、俺が呼ばれたのだ。俺がプレイヤーズベンチに入り込んだ時には、すでに3番がバッターボックスに立っていた。5番と交代ということだから、体を慣らす余裕もない。やれやれ。本当にブルマの言う通りご都合主義、いや、それを越える行き当たりばったりの采配をしているよ、ここの野球部の監督は。この野球部が弱いのは選手のせいじゃないような気がするぞ。
「ごくろうさま、ヤムチャくん」
「おー、来たか。頼むな」
2年生のマネージャーとやはり2年生の5番の選手が、軽やかに俺に視線を寄越した。この雰囲気なんだよな。緊張感というか、さっぱりプライドの感じられないこの雰囲気。嫌味がなく気持ちもいいのは結構なことだが、ちょっと闘志に欠けるよな。雰囲気がいいと言えば聞こえはいいけど、なあなあが過ぎるんだよ。俺は1年生で部外者なんだからさ、少しは悔しがってもらわないと。まあ、やりやすいけど。だからつい引き受けちまったんだよな…
間もなく3番の選手がベンチに帰ってきて、キャプテンでもある4番がバッターボックスに入った。おもむろにメットを被ってネクストバッターボックスへと向かいかけたところ、ふいにベンチから呼び止められた。監督にではない。先のマネージャーにだ。
「がんばってね。ヤムチャくんが5番なら、4番も気楽に打てるわ。期待してるからね!」
バットもろとも俺の腕を握り締めながら、敢えて名前を言わず背番号で、彼女は言った。その理由は知っている。彼女はその4番と付き合っているからだ。俺だけではなく、部員全員が知っている。部内恋愛はあまり好ましい結果を生まないと聞いたことがあるけれど、この部では人間関係に限ってはそういうことはないらしい。このマネージャーもうまいこと、分け隔てなさ過ぎるくらいに、部員と親密にやっている。そのぶんがすべて、試合の戦績に響いているような気が俺にはすごくするのだが、まあ関係ないことだ。俺は部外者だからな。
俺は余計な口を挟まずに、ボールをスタンドに放り込むことだけを考えていればいい。おそらくこのレベルの試合なら、それは可能なはずだ。

俺の思った通り、それは可能だった。だからこそ呼ばれたわけでもある。俺は3度バッターボックスに立って、1人をホームベースに帰し、自身は2度ホームベースを踏んだ。後の1度はバットを振ることの出来ない打席だった。俺は完全に面目を施した。結果は2対3。俺が来た時のスコアは2対0だったのだから、こう言っちゃなんだが、俺様々だ。こんなことでいいのだろうか、この野球部は。そして俺自身も。
もう少し手ごたえのある試合がしたい。今回に限らず、他の部の助太刀をした時にも、いつもそう感じていた。ハイスクールに留まらない。都には、手ごたえというものがなさ過ぎる。…ある一人の人物を除いては。
試合後のミーティングも終わり、部員たちがパラパラと控え室に消え出した頃、プーアルとウーロンがやってきた。わざわざ何かの鳥に変身して。俺が訳を問う間もなく、ウーロンが口を開いた。
「ブルマのやつ、めちゃくちゃ機嫌が悪いぞ。理由はわからないけどよ。とにかくおれたちは先に帰るから。まあがんばれよ」
「なんだそれは。どういうことだ。…『がんばれ』って、おい、ちょっと…」
言うが早いかウーロンは行ってしまった。俺を困惑させたまま。やつの変身能力には時間制限があるからな、おそらくそのためだろう。プーアルだけが俺の元に残った。
「ブルマが機嫌悪いって、どういうことだ?」
「それがよくわからないんです。とにかくすごくイライラしてて…それで、ウーロンが怖いから先に帰ろうって」
俺はますます困惑した。プーアルはともかく、ウーロンにもわからないものを、俺がわかるはずもない。一つだけ心当たりがあるにはあるが。でも、昨日は全然怒ってなかったのに。とは言え、今朝は確かに怒っていた。やっぱり再燃したのだろうか。…ま、しかたのないことかもな。
ふと頭を掻きかけて、途方に暮れたように俺を見るプーアルの目に気がついた。俺は内心苦笑しながら、プーアルの心を自由にしてやった。
「おまえはウーロンと一緒に先に帰ってろ。俺はブルマと帰るから。エアカーのカプセルは持っているのか?」
「はい、それはウーロンが。でもヤムチャ様…」
「あまり気にするな。ブルマの不機嫌は今に始まったことじゃないさ」
ことさら俺はそう言った。一応、事実ではあるよな。だからと言って、平気なわけでは全然ないが。だが、それをプーアルに言う必要はない。こいつには関係のないことなんだから。
再三促すと、ようやくプーアルは去っていった。その後姿を尻目に、俺はプレイヤーズベンチを出た。
手ごたえのあり過ぎる彼女の元へ行くために。俺の唯一望まない手強さを感じるために。

ブルマはすぐに見つかった。もはや人のほとんどいなくなったスタンドに、一人腰を下ろしていた。膝の上に頬杖をついて、どことなく眉を顰めて。幾分遠く、まだ声の届かない距離にその姿を認めて、俺は軽く首を捻った。
確かに怒っているように見える。でも、それにしては…
俺はブルマの右斜め前から、歩を進めていた。たぶん、ブルマも俺に気がついているはずだ。こういう時いつもなら、睨みを利かせてくるとか、そっぽを向くとか、とにかく何かしら反応してくるものなのに。それが今は、宙に視線を預けたままだ。無視してる?…いや、もしそうならさっさと席を立っているだろう。少なくとも、俺の知っているブルマの怒り方はそうだ。
今朝の怒り方も、どこかいつもと違ったし。どうも、昨日のことが原因とは思えないな。俺、他に何かしただろうか…
一体何と声をかければいいものか。言葉が見つからないうちに、俺はブルマの席へ辿り着いてしまった。思わず息を呑みかけたその時、ブルマが顔をこちらへ向けた。
「もういいの?着替えは?荷物は?」
「あ、いや、それはこれから控え室で…」
拍子抜けしつつも心は竦むことができるのだということを、俺はこの時初めて知った。
「さっさとやっちゃってよ。あたしは中に入れるの?」
「控え室の外までなら…」
話せば話すほど、俺にはブルマのことがわからなくなった。醸している雰囲気は明らかに怒っているのに、口調はそうじゃない。
怒り口調ではあるのだが、なんというか、普段遣いの怒り口調だ。ケンカしている時のものとは、まったく違う。ウーロンに理由がわからなかったのも頷ける。どこか一貫していない。俺も初めて見る態度だ。
ともかくも、俺たちは控え室へと向かった。ブルマは一見普段と変わりない素振りで、俺の隣を歩いた。そうして、控え室へと続く一筋の廊下の途中でおもむろに口を開いた。
「ねえ、あのマネージャーってどんな人?」
「マネージャーって、野球部のか?」
「他に誰がいるのよ」
苛立たしげにブルマが口を尖らせた。俺は少し用心しながら口を開いたが、言葉を選ばなければならないほど、マネージャーのことを知っているわけでもなかった。
「どんなって言ってもな。2年生で、キャプテンと付き合ってて、…あ、キャプテンって4番の人なんだけど。後はまあ、面倒見がいいって言うか、フレンドリーっていうか」
瞬間、ブルマの眉がつり上がった。俺は思わずブルマの傍から飛び退りかけた。…何だ?俺、何かマズいこと言ったか?向きを変えた足の先に、控え室のドアがあった。ブルマは黙ってその向かい側の壁に背を凭れかけた。それで、俺も黙って控え室のドアを開けた。
「わからん…」
ドアを閉め、思わず放った呟きに、マネージャーの声が被った。
「おつかれさま。準決勝も頼むわね」
先輩兼マネージャーの期待の目に晒されて、俺は一瞬言葉に詰まった。とは言え、考えを改める気は毛頭なかった。
「今日の試合が最後です。次からは遠慮します」
「どうして?全国大会に出られるかもしれないのに」
だからこそだ。そう俺は言いたかったが、他の部員の目もあって、それは控えた。
「俺は経験が浅いので、これ以上は無理です」
これ以上付き合っていると、芋づる式に全国大会にまで駆り出されてしまいそうだ。さすがに、そこまでは付き合いきれない。それに、全国大会でまで俺の付け焼き刃が通用するとも思えないし。…正直言うと思えるのだが、思いたくない。だってなあ。それじゃ、張り合いなさ過ぎだよな。
隣接するロッカールームに移動して、俺は出来るだけ手早く身支度を整えた。あまり長居したくはない。この野球部は雰囲気はいいのだが、それだけにうっかり引き摺り込まれてしまいかねない。というか、すでにそうなったんだからな…
「じゃあ、失礼します」
「あっ、ちょっとヤムチャく…」
背後にマネージャーの声を聞きながら、控え室のドアを開けた。これ以上話をしたくはない。このマネージャーはどうも苦手だ。笑顔と体で押してくるところがちょっとな。俺の一番苦手なタイプの女の子だ…
「…ふー。待たせ…」
後ろ手にドアを閉めながら声をかけると、ブルマが壁から体を離した。その口が動きかけたのを見た瞬間、背後のドアが開いた。
「待って、ヤムチャくん。次の試合だけでいいから!」
振り向く間もなく、マネージャーの声が飛んできた。…おいおい、いい加減しつこいぞ。
「前もって連絡くれなくてもいいから。少しでも気が向いたら絶対来てね!」
勘弁してくださいよ…
笑顔で俺の右腕を拘束するマネージャーに思わずそう返しかけた時、もう片方の腕が引っ張られた。
「ヤムチャ!!」
俺は瞬時にマネージャーの存在を忘れた。そうして、左腕に絡みつく女の子の顔を凝視した。それが誰だかわかってはいても、すぐには信じられなかった。
ブルマは掬い上げるようにして、俺を見ていた。俺の左腕を両腕で抱え込むように抱きついていた。俺を突っぱねるその視線。それとはまったく対照的に、俺を引き寄せようとするその体…
「さっさと行くわよ!」
一瞬睨みつけるようにマネージャーの方を見ると、即座にブルマは歩き出した。有無を言わさぬ雰囲気に足を動かされながら、一足遅れて俺の思考が動き出した。
何だこれは。一体どうなってるんだ。
どうして俺、抱きつかれてるんだ。…気のせいか?いや、気のせいじゃない。これはどうしたって抱きつかれている。だって、腕に当たる感触が柔らかいし。…いや、それはこの際置いておいて。それは努めて考えないことにして…どうしてブルマは抱きついてるんだ。
「何よ。何か文句あるの!?」
ふいに怒声が飛んできた。俺の顔のすぐ下から。睨めるように見上げる瞳。それにも関わらず、依然離そうとはしないブルマの腕。
さっきのあのタイミング。あからさまに見せつけるようなあの仕種。これは…
…ひょっとしてヤキモチか?
そう考えると辻褄が合う。少しわかりやす過ぎるけど。
いつもはよくわからないけど、今日はバカにわかりやすい。対象が一人だからかな。ひさしぶりに見るわかりやすさだ。
どことなく安心している自分を、俺は自覚した。ブルマはわからないことばかりだからな。時々でもこうやって、わかりやすい行動をしてもらえると、すごくありがたい。本当はもっとわかるといいんだけどな…
「ちょっと、何笑ってんのよ」
再び怒声が飛んできた。まったく身に覚えのないその言葉に反論するため、俺は一時思考を止めた。
「え?いや、笑ってないよ」
「嘘!絶対笑った!」
言い張るブルマの声には、知性の欠片もなかった。いつも怒っている最中には、そういったものを覗かせるものだが。文句とか罵言とか、とにかく多少は頭を使った言葉を。
「本当に笑ってないって…」
「笑ったわよ!あたし見たもん!」
でも今は、ひたすら同じ言葉を繰り返すのみだ。その声に俺も感化され始めた。
そうかな。笑ったかな。そんな覚え全然ないけど。でも、そうだな。笑ったかもな。だって…
頑なに怒りを示す、ブルマの表情。あくまで鋭くあろうとするその声音。それなのに巻きついて離さない両腕。俺の目線の下にある、赤く染まった頬。
怒っているのにかわいいなんて、そんなことってあるんだな…

球場の外に出ると、途端にブルマは腕を離した。変わってるな。人目を気にするのなら、むしろ球場の中でこそ気にするべきだと思うのだが。とは言え、俺は正直なところ安堵した。
その方がブルマらしいと思ったからだ。これがC.Cに着くまでずっとひっついてくるとか、エアカーの中でもいちゃついてくるとか、あんまり急に変わるようなら、よっぽど何かあるんじゃないかと思わなければならないところだ。どうやら気の迷いではなかったらしい。
手元の時計に目をやると、ちょうど昼を回ったところだった。外れた心当たりのことを思い出して、俺は言ってみた。
「街の方に寄ってくか?買い物したいって言ってただろ」
エアカーの運転席に乗り込みながら、俺の顔も見ずにブルマは答えた。
「いいわね。でも、一度うちに帰ってからよ。シャワー浴びなきゃ一緒になんか出かけないわよ。あんた、埃っぽいったらないわ」
苦笑しつつも、俺は再び安堵した。よかった。別人格でもなかった。
「おかげで、あたしまで埃っぽくなったわ」
自分でしたことをまるっきり棚に上げて、偉そうにブルマは言った。そしてイグニッションスイッチを入れた。
拍手する
inserted by FC2 system