再進の女
朝のトレーニングを30分短く切り上げて、早々とシャワーを浴びた。それから、動きにくい服を着た。
映画を観る約束を、ブルマとしていたからだ。そして動きにくい服は、こういう時に着るに限る。…本当に、ブルマの選ぶ服は動きにくいものばかりだ。こんなに動きにくい服、とても普段は着られない。かといって、着なければ怒るし。困ったもんだ。
時刻は、ちょうど午前のお茶の頃。そこで俺は、リビングではなくテラスでブルマを待つことにした。十中八九、ブルマはテラスに来るはずだ。あいつの休日は、朝食とお茶がごっちゃだからな。
その慣例自体は破られることはなかったが、部分的に俺の予想を裏切った。俺がテラスに顔を出した時にはすでに、ブルマがそこにいたのだ。見たところ身支度もすっかり整えられていて、常になくのんびりとサンドウィッチをつついていた。
珍し…すぎるな。約束の時間までまだだいぶんあるのに。こいつがこんなに早く支度を終えたことなんて、かつてあっただろうか。まさか徹夜したんじゃないだろうな…
「おはよ」
さして気もなさそうな声で、ブルマは呟いた。それに答えながら、俺はできるだけさりげなく、ブルマの服装をチェックした。うん、昨日とは違う服だ。と、思う。たぶん。正直なところ、昨日ブルマが何を着ていたか、あまり覚えてないんだよな。服なんかまるで気にしてなかったからなあ…
どことなくしみじみとした思いを噛み締めながら、ブルマの向かい側に腰を下ろした。コーヒーポットを取りにプーアルが席を外した途端に、それが降りかかってきた。
…視線。ブルマからの。気がなさそうだったわりには、すっげーーー強いぞ。…俺、何かしただろうか。
あ、ひょっとして、俺が後から来たことを怒っていたりするのかな。あり得るな。ブルマが俺より先に用意できてたことなんて、たぶん初めてだしな。それで怒るのは違うような気が俺にはするが。でも、ブルマの思考回路は明らかに俺とは違うからな…
カップにコーヒーを注ぐ音で、我に返った。プーアルの入れてくれたそれを、うっかり砂糖も落とさずに啜り込んでしまったその時、ウーロンが呆れたように呟いた。
「おまえ、何睨みつけてるんだよ。ったく、まだケンカしてんのか」
「どこが睨みつけてるのよ!失礼ね!!」
即座にブルマが否定して、俺は内心で安堵した。…違うのか。よかった…
そうだよな。俺、何もしてないし。したと言えばしたけど、それで怒られたのではかなわない。
俺の心を代弁するかのように、ウーロンが問いを返した。
「ふーん?じゃあ、今日の映画は行くんだな?」
「当ったり前でしょ!今日で終わりなんだから。あんたたち、用意はできてるの?」
「だから、それを訊いてから用意しようと思ってたんだよ」
ウーロンの返事に、俺はふと思い当たった。そうか、こいつは俺たちが仲直りしたことを知らないんだな。でもなんとなくわか…らないか。当事者の俺にさえ、ブルマは怒って見えるからな…
「もたもたしてるとおいてくわよ」
一言の元に、ブルマはウーロンとプーアルを追い払った。やっぱり、気が立ってるな。…ひょっとしてまだ起き抜けか?
2人がテラスから出ていくと共に、ブルマの不機嫌の理由も出尽くした。さて、どれだろう。これ以外のものだと手の打ちようが…これ以内のものでもないけど。つまるところ俺が行動に行き詰っていると、ブルマが隣にやって来た。そして今までの態度から一転して笑みを浮かべて、開口一番こう言った。
「ねっ、キスして」
そのあまりの脈絡のなさに、俺は危うく飲んでいたコーヒーに咽かけた。
「お、おまえ、何をいきなり…」
「どこがいきなりなのよ。少しは空気を読みなさいよ」
一体どんな空気だよ?
無茶言うよなあ、こいつ。こいつがそんな空気を醸したことなんて、一度だってないぞ。だいたいブルマ自身、空気なんて読めてないくせに。昨夜だって…
「いいじゃない、これからデートなんだし」
さらに笑顔でそう言われて、俺は思わず苦笑した。
「ウーロンとプーアルもいるけどな」
そうなんだよな。そもそも状況からしてないんだよ。まあ、あれはあれで楽しいから、俺はいいけど。
俺のこの言葉は、どうやらやぶへびだったらしい。瞬時にブルマは笑顔を捨て、同意を超えた怒声を吐き出し始めた。
「そう思うんなら、あんたもたまには断りなさいよ。だいたい、プーアルはあんたの僕でしょ!」
「そんなこと言ったって、いまさら…」
「いまさら、何よ!」
何って、いまさらだよ。どう考えたってなあ…
俺が言葉にも行き詰った時、ウーロンが戻ってきた。こいつはいつも、こういうタイミングでやってくる。というか、ブルマがそういうタイミングを狙って話を振ってきているとしか、俺には思えん。
「おまえら、またケンカしてんのか」
「どこがケンカなのよ!」
いつもと同じ調子のウーロンの言葉に、いつもと同じようにブルマが返した。それに俺は、心の中で反駁した。
どう見たってケンカだよ。実際は微妙なところだけど。
「どう見たってケンカだろ」
俺の心を読んだように、ウーロンが呟いた。そうだよな。俺だって、きっとそう思うよ。本当は違うんだけど。
「で、どうするんだ?行くのか行かないのか?」
「しつこいわね!行くって言ってるでしょ!」
慣れさえ漂わせるウーロンの言葉に、ブルマは完全に火を点けられたようだった。ブルマが怒りたくなる気持ちはわかる。ウーロンの感じ方にも頷ける。
結局、どっちもどっちなんだよな。


なんだかんだと揉めはしても、結局いつものように4人一緒に、エアカーに乗った。ブルマとウーロンの会話は、もうほとんど儀式だ。やっぱり、いまさらだよな。
そして、ブルマが不機嫌なのも、いまさらだ。…そうじゃないことだって、もちろんあるけど。そうであることの方が、圧倒的に多い。
「ところでよ、ヤムチャ。おまえ、あのじいさんのところにはいつから行くんだ?」
突然ウーロンが後部座席からそう訊いてきて、俺は軽く首を捻った。
「言ってなかったか?来月から、きっちり3年間だ」
本当に言ってなかっただろうか。正直、さっぱり覚えていないな。あの話の後、C.Cに戻ってきてから、それどころじゃなかったからな。…誰かのせいで。
まあ、ウーロンが知らないと言うのなら、本当に言っていなかったのかもしれない。こいつは言っていないことでも知っていたりするくらいだから。
「あんなじいさんで大丈夫なのかよ」
続くウーロンの言葉に、今度は呆気に取られた。こいつも言ってくれるな。そして、ブルマのやつもこっそり頷いてやがる。
「武天老師様は武道の神様と呼ばれているお方なんだぞ」
俺なんかに擁護されていると知ったら、老師様が怒るぞ。確かにお年は召していらっしゃるが、あれだけ力を示しているというのに。
ここでようやくブルマが口を開いた。一瞬疑念を溶かされながら、俺はさらに呆気に取られた。
「余計なことは教わってこないでよ」
「ナンパの修行をする時は、おれも誘ってくれよな」
「おまえら…」
何てこと言うんだ。
老師様が怒るぞ。いや、すでに怒っていたか。ブルマが直に言ってたからな。まったく、何てこと言うんだ。…確かに、一抹の事実ではあるが。いや、一抹どころじゃないかもな…
心の中でとはいえうっかり同意しかけて、俺は自分を引き締めた。危ない危ない。老師様は人の心を見通すお方だ。こんなことを考えていると知れたら、俺が怒られる。
俺が口を閉ざすと、話はそこで終わった。ウーロンはともかく、ブルマのその態度に、俺の疑念は再び深まり始めた。

シアターに着いてからの行動は、もはやお決まりのものだ。
「あたしストロベリーソーダね。スナックはいらないから、あんたたちの分だけ買ってきなさい。わかったら、さっさと行って!」
まずはブルマがこういうことを言う。するとウーロンが文句を言う。プーアルがウーロンを促して、共にスタンドへと去っていく。もう澱みないと言ってもいいくらいの流れだ。ウーロンも絶対わかっているはずなのに、いちいち文句を言う。ご苦労なことだ。
だが、いつものようにどっかりとロビーのソファに腰を下ろしたブルマが、いつもと少し違う様子であることに、俺は気づいていた。
妙に視線を絡めてくる。さっきもそうだったし、今もそうだ。そのくせ口では何も言わない。
「どうしたんだ?寝不足か?」
その隣に座り込みながら、そう本人に訊ねてみた。徹夜したわけではないようだが、どことなく元気がないんだよな。正確に言うと、キレがないと言うべきか。道中での話だって、いつもなら絶対に『そんなこと聞いてない』と食ってかかってくるところなのに。
「違うわよ」
囁くように、だがきっぱりとブルマは否定した。だが、俺の疑念は消えなかった。前にシアターで倒れ込んだことがあるし。こいつ、そういう時でも直前まで平気ぶってるんだから…
「気分が悪いんなら…」
「そんなんじゃないってば」
薄く怒気を孕んだブルマの言葉は、今ひとつ歯切れが悪かった。そのこと自体が不調の兆候であるように、俺には思われた。
「おまえ、疲れてるんじゃないのか?」
「もう、しつこい!!違うって言ってるでしょ!!」
今までの態度から一転して、ブルマは叫びたてた。唐突に飛んできた大声量に、俺は思わず腰を浮かせた。
「おまえら、またやってんのか」
どこからかウーロンの声がした。俺がその姿を視界に収める前に、ブルマが立ち上がった。
「あんたたち、いい加減にしなさいよ!いつもいつもいつもいつも、そうやって…あたしだって、いい加減怒るわよ!」
まさしくすでに怒っている。これにはさすがのウーロンも驚いたようだった。
「な、何だよ、急に」
「急にじゃないわよ!ソーダちょうだい!」
言い終える間もなく、ウーロンの手からストロベリーソーダを引っ手繰った。そして乱暴にチケットを押しつけて数歩を進むと、すでに実行している言葉を吐き出した。
「さっさと行くわよ!」
数m先から聞こえてくるその声を、俺たちは慌てて追いかけた。

映画が始まった。軽くストーリーを追いかけながら、俺は時折ブルマの顔色を窺っていた。言葉通りの意味で。
気分の悪そうな兆候はなかった。むしろ良さそうに見えた。おまけに、瞳の中の炎も消えていた。
…よくわからないな。
あの激しい怒りはどこへ行ったんだ。というか、一体何だったんだ。そりゃあ、ブルマはいつだって予兆なしに怒るけど。それにしたってさっきのは激し過ぎ…
触らぬ神に祟りなし。そう俺は結論づけた。それではいけないということはわかっているが、理由がわからないことにはどうしようもない。それに今は怒っていないんだから。…どうしようもないよな。
そんなわけで、後半はわりと落ち着いて映画を観ていた。考えてみればこんな風にシアターで映画を観るなんてことも、しばらくはないだろう。クリリンの話を聞いたところでは、武天老師様の修行はかなり厳しいらしい。娯楽がまったくないというわけではなさそうだが、ひどく偏っているような気がする。…いやダメだ、そんなことを考えては。せっかく弟子入りできることになったのに、俺がそんな風に考えていると知れたら、白紙に戻されてしまう…
なんとなく俺の気は散り散りになっていた。アクション映画でよかった。これがミステリーなどだったら、完全に置いてけぼりを食らっていたところだ。

「映画だってことはわかってるけどよ。あんなことできるやついるか?」
エアカーに乗り込んですぐに、ウーロンが何とも言えない口調で呟いた。映画の断片を思い起こしながら、俺はそれに答えた。
「悟空ならできるんじゃないかな」
むしろ、あれ以上のことをやっていたような気もする。『事実は小説よりも奇なり』というやつだ。
そして、だからこそ俺は高みを目指す気になれるのだ。希望と可能性、強さには限界がないということの、悟空は象徴だ。
「確かに、悟空さんならできそうですね…」
なんとなく纏まりかけた空気の中で、ブルマは黙ってエアカーを走らせていた。エアカーはまっすぐC.Cに向かっていた。夕刻には程遠い時刻であるにも関わらず、先の予定をブルマは告げなかった。少し意外に思いながらも、俺は正直安堵していた。おそらくプーアルとウーロンもそうであったに違いない。今日のブルマはどこか変だ。このわからなさの中で、外をうろつきまわるのはちょっとな…
C.Cへ戻るとすぐに動きにくい服を脱いで、外庭へ出た。ここからはいつもの時間。心休まるトレーニングの時間だ。
そう思っていたのだが、小一時間ほどもすると、なぜかブルマがやってきた。俺はつい、傍らにいるプーアルの顔を見た。おそらくはプーアルも同じ思いで俺を見た。
俺のトレーニング中にブルマが外庭に来ることなんて、すごく稀なことだからだ。まったくないわけではないが、今日のブルマの行動としては、警戒するに充分だ。
ブルマはやや離れた角の木立に、どことなくのんびりと身を凭れていた。とは言え視線は明らかに俺たちの方角に注がれていたので、俺は少し考えてからその隣へ行ってみた。
「どうしたの?」
先にブルマにそう言われて、思わず心の中で呟いた。…それは俺の台詞だ。
「珍しいじゃない、あんたが来るなんて」
俺はまた言葉を呑み込んだ。…それも俺の台詞だ。
尽きた言葉の続きを探していると、ブルマが溜息をつきながらその足を踏み出した。
「わかったわよ。戻るわよ。もう邪魔しないから、トレーニング続けていいわよ」
最初から最後まで機先を制して、ブルマは去って行った。一度も振り向くことなく後ろ手を振り続けるその姿に、俺がやや呆然としていると、プーアルがおずおずと隣にやってきた。そしてやはりおずおずと訊ねた。
「ヤムチャ様、ひょっとしてブルマさんとまだケンカしてるんですか?」
「いや、それはもう終わったんだが…」
終わったと、俺は思っていたが。どう考えても、そう思えるのだが。
結局のところ、俺の結論は一つしかなかった。
「俺にもよくわからないよ」
邪魔だなんて、言ってないのに。…不審に思ったのは確かだけど。だって、しかたないよな。
あいつ、わからなさすぎだもんな…

その後の数時間を、俺はごくごく普通に過ごした。ブルマもまた、そうしているように見えた。
特に怒っている様子もなく。ましてや俺を無視するなどということはなく――そうされる理由はないはずだが、いきなりそうされてもある意味では不思議ではない…今日のブルマの様子では。夕食時には、機嫌がよくさえ見えた。
さっぱりわからないな。
怒っていたかと思えば、一転してあんなこと言ってくるし。落ち着いたかと思えば、いきなり怒鳴るし。その後はまた落ち着いたようだが、見た目通りに受け止められるはずもない。感情が豊かなのはいい。気まぐれなのもわかっている。でも、それにしたって、今日は波が激し過ぎだぞ。
思考は鈍重に流れていたが、体はいつも通りに動いた。いわば習性だ。やがて夜も深まって、薄闇の中遠目に輝く都のネオンを見ながら、俺は外庭から引き上げた。もう一つの習性――夜のお茶の時間だ。
「今日はストロベリールバーブパイよ。ヤムチャちゃんはお好きかしら?」
リビングに立ち込めるコーヒーの香り。ママさん手製のパイ。いつもと同じ顔ぶれ。いつもと同じ雰囲気――いつもと違うのはブルマだけなんだよな…
そのブルマはというと、とりあえずのところは大人しく、パイをつついていた。どことなく食が進まないように見えること以外には、いつもと違うところはない。とはいえ、やはり油断はできないが。
3日ぶりほどに同席していたブリーフ博士は、思いきりよくパイを頬張ると、やがて部屋を出て行った。珍しいことにママさんも、パイが食べつくされかけたところで、中座した。
のどかな夫婦がいなくなって、部屋の空気がだらけだした。なんとはなしに顔を上げた俺は、ふとそれに気づいて、思わず体を固くした。
正面のソファの上から俺を見る、ブルマの視線。…ヤバイ。目が合っちまった。
いや、本来ヤバくはないはずなのだが。なんとなく、今日のブルマの視線はちょっと…
自分の中の間を持たせるために、コーヒーカップを手に取った。二口目を啜りこんだ時、呆れたようなウーロンの声が、俺の心に響き渡った。
「おまえ、何睨んでんだよ。仲直りしたんじゃないのか?」
「睨んでないわよ!失礼ね!!」
即座にブルマが否定して、俺は最後のコーヒーを啜った。…違うのか。よかった…
カップをテーブルに置くと共に、固まっていた心を解しかけた。しかし、それはまだ時期尚早だった。
「あーもう、邪魔っ!あんたたち、邪魔過ぎ!!」
突然ブルマが叫びたてた。それまで緩慢にパイを弄くっていたフォークを、乱暴に皿に投げ捨てた。
「何が邪魔なんだよ」
無謀とも言える勇敢さで、いつものようにウーロンが突っ込んでいった。…こいつ、わかってないのかな。今日のブルマは、絶対いつもと違うのに。
「邪魔だから邪魔って言ってんのよ!さっさとどっか行きなさい!」
俺の感覚は間違ってはいなかった。ブルマは取り付く島もない勢いで、ウーロンの存在そのものを切り捨てた。いつもは逐一ウーロンの言葉を封じ込めにかかるものだが、今は相手にする気も起こらないようだ。
「おまえ、ケンカしてるからって、おれに当たる…」
「うるさい!さっさと行きなさい!プーアル、あんたもよ!!」
仁王立ちで言い放つブルマの言葉を耳にして、俺は始まりを予感した。理由はさっぱりわからないが、明らかにブルマは怒っている。それも俺に対してだ。俺を一人ここに残すことが、その証拠だ。
俺、何かしただろうか。たぶん、映画から帰ってきてからのことだよな。努めて何もしないように振舞っていたつもりだったんだけど…
不満と不審の綯い混ざった顔つきでウーロンが、完全に気圧された表情でプーアルが、それぞれ部屋を出て行った。今や完全に無音となった部屋の中で、とりあえず第一声を受け止める覚悟を、俺は決めた。すぐにブルマが隣にやってきた。体ごとソファに座り込んで、下から掬うように俺を覗き込んだ。その強い眼差しに、俺は完全に射竦められた。
「ねえ、キスして」
「は?」
先の怒声はどこへやら、すっかり和らいでいるブルマの声に、俺の構えは一瞬にして崩された。
「『は?』じゃないでしょ!何であんたはそうなのよ。そうやってあんたがいつまでも空気を読まないから、ウーロンにああいうこと言われるのよ!」
再びブルマが怒り出した。流転するブルマの態度に、俺の心はかき回された。呆然の後に不信が、不信の後に不審が、そして最後に冷静が、俺の心にやってきた。
…一体、どういう空気だよ?
無茶苦茶言うよな、こいつも。ないものをどうやって読むんだよ?
朝には呑み込んだその思いを、俺は表現を変えて伝えてみることにした。だって、同じことを言われるの、これで2度目だぞ。少しくらい言ったっていいよな。
「俺のせいなのか?そういうことは両方の…」
「男が悪いに決まってるでしょ!」
努めて平静に言った俺の台詞は、感情的なブルマの怒声に掻き消された。…俺を男扱いする前に、ブルマに女らしくなってもらいたい。そう思うのは、願い過ぎだろうか。
「何よあんた、嫌なわけ?」
「嫌っておまえ…」
どうしてそうなるんだ。
今は空気の話をしてたんだろ。話をすっ飛ばすなよ。脈絡ないんだから…。その脈絡のなさが空気のなさに繋がっているんだと、俺は思うぞ。
俺はすっかり呆れ果てた。そして、それを隠せなかった。なぜそれがわかったのかというと、ブルマに胸倉を捕まれたからだ。それはものすごい勢いで。次には頭も捕まれて、ほとんど同時にキスされた。
信じられるか?女が男を拘束してキスしてるんだぞ。こいつ、どこにこんな力が…おまけに、やっぱり脈絡ないし。でも…
今日はイチゴの香らないその唇。にも関わらず、感じられる甘やかさ。
その感覚に襲われながら、俺は俺を戸惑わせたブルマの言葉を思い出していた。そして、今日一日の言動も。
強い視線。その言葉。『逆』ギレ。似つかわしくない落ち着き…元気のなさ。――その繰り返し…
いつしか俺の拘束は解けていた。塞がれていた口も自由になった。唇に柔らかな余韻を感じながら、それを与えた女の子の顔を見た。力の抜けた眉。血色の良過ぎる頬。物言いたげな瞳。今や完全に、俺はわかっていた。
だから、今度は俺が返した。少しだけ自分を恥じながら。

俺がその唇に触れると、ブルマは途端に大人しくなった。唇を離しても、それは変わらなかった。静かに黙って、俺の胸元に顔を埋めた。腕がすがるように背中に回ってきた。
かわいいな。すごくかわいい。かわいいけど…普通、逆じゃないか?初めからそういう態度に出てきてくれたら、俺だってきっとわかったのに…
その髪を撫でながら、俺はこれまでのことを思い起こしていた。ブルマがかわいく思えたことはこれまでにだってあったけど、こんなにしおらしいブルマを見るのは初めてだ。昨日だって少しは大人しかったけど、こんな風じゃなかった。変われば変わるものだな。…女の子って奥が深いな。
夢と現実の両方を俺が噛み締めていると、ブルマがふいに体を離した。訝る俺をそのままに、つかつかとドアへと歩み寄ると、乱暴にコンソールを叩いた。ドアが開くと同時に、その光景が目に入った。
「あらん、見つかっちゃった」
頬に手を当て困ったように呟きながらも、顔はあくまで笑っているママさん。父親の顔というよりは、まるで珍しいものを発見した学者の顔で俺たちを見ているブリーフ博士。出て行った時とは正反対に、すっかり腑に落ちた顔をしているウーロン。そして唯一まともに困惑している様子のプーアル…
おいおいおいおい。どうしてみんな、そこにいるんだ。そしてブルマ、おまえはどうしてそれがわかったんだ。
まず誰に何を問うべきか。それすら決められずにいるうちに、場は口の差し挟めない状態となった。
「やっぱり仲直りしてやがったな。どうもおかしいと思ったんだ」
「お二人ともラブラブね〜」
「おまえたち、キスはしとったんじゃな」
みるみるブルマの背中に怒りがみなぎった。俺はまったく身の竦まない思いで、それを見た。ブルマの気持ちがすごくよくわかったからだ。ブルマが怒るのを見て平気でいられるのは非常に稀だが、それが嬉しいはずもない。
「みんな、どっか行っ…」
当然のように吐き出されたブルマの怒声は、ウーロンの言葉に掻き消された。
「しかしおまえら、素早いな。いつの間にくっついてたんだ?」
「『いつの間に』とは何よ!最初っから付き合ってたっつーの!」
瞬時に否定したブルマの言葉に、俺は深く頷いた。まったくその通り。少なくとも、俺はそう思っていた。そしてブルマもそうだと言っている。にも関わらず、他人がそう思わないのは…きっと空気だよな。だって、ブルマ本当に雰囲気ないもんな。俺にだって感じられないものを、他人が感じるわけないよな…
俺の他にはただ一人、場の雰囲気についていけないらしいプーアルが、俺のところに飛んできた。なんとなく自然な気持ちでその体を肩に乗せた時、ブルマが怒声とも嘆声ともつかない癇声を発した。
「…もういい!あたしが出て行くわ!」
言うが早いか荒々しい足取りでドアへと向かった。それをまったく意に介さず、その父親が飄々とした顔で言い放った。
「で、どこまでいっとるのかね?こっそり教えてくれんかな」
「クソ親父!!」
汚くも否定できない捨て台詞を投げつけて、ブルマはリビングを出て行った。しかし、それで場が治まったわけではなかった。
「ヤムチャちゃん、ブルマちゃんと同じお部屋に住む?お部屋ならあるわよ〜」
「おまえ、本当にいいのか?もう後戻りできねえぞ」
次から次へと降りかかる頭を悩ます声に、俺はしばらく耐え続けた。
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