際遇の女
「ブルマなら、もうとっくに帰ったわよ」
放課後、ブルマのクラスの女の子に素っ気なくそう告げられて、俺は小さく溜息をついた。
…またか。
いい加減に慣れてはきたけどさ。やっぱり一言言っていってほしいよな。俺が予定を話し忘れていると怒るくせに、自分はさっぱり話さないんだから。それにしても、いつ帰ったんだろう。全然気づかなかった。ブルマのエアバイクは結構エンジン音がでかいのに。
「ヤムチャくん、ひょっとしてブルマとケンカ…あっ、ヤムチャくん?」
その子に二の句を告げられてしまう前に、さっさとその場を後にした。放課後に俺がブルマを探していると、みな決まってそういうことを言う。その思考回路は今ひとつわからないけど、言動はだいぶん読めるようになってきた。
身に覚えのないことを言われるのって、結構な不快だよな。…ちょっと、窘めてみようかな。

一人帰路に着きC.Cのゲートを潜ると、遠目にブルマの姿が見えた。こちらにその背中を向けて、テラスでお茶を飲んでいる。
「ただいま。ブルマ、おまえ今日はどこへ行っ…」
冒険の第一歩を踏み出そうとして、その陰に隠れていた人物に気がついた。黒い髪、黒い瞳。俺と同じ特徴を持つくせして、俺より遥かに強い小さな少年…
「悟空?悟空じゃないか!」
俺の勇奮心は、一瞬にしてどこかへ飛んでいった。
「おっす!」
「帰ってくる途中で会ったのよ」
その一言で、ブルマの帰った時間の目星がついた。テーブルの上に散乱する皿。山を成すチキンとラムの骨。空になったバターケース。積み重なるパイ皿。…2食は食べてるな。昼食とお茶か。
「元気そうだな。相変わらず食ってるなあ。…どうしたんだ?ずいぶん急じゃないか。何かあったのか?」
俺の問いに対する答えは、かろうじて意味の伝わる音声だった。
「ホラあえつにあんもねえよ。ウルマがほふってけってうるはいか(オラは別に何もねえよ。ブルマが送ってけってうるさいか)…ぅげほっ!!」
「当たり前でしょ!あんたのせいなんだからね!!」
パイを口に詰め込んでいた悟空の腕を、ブルマが小突いた。途端に咽始めた悟空の前に、俺は慌ててカフェオレボールを差し出した。そしてそれが空であることに気づいて、慌ててピッチャーからミルクを注ぎ入れた。
「サンキュー、ヤムチャ」
一気に飲み干し、大きな息を吐きながら、悟空は笑った。隣にいるブルマはというと、まったく対照的な顰め面。…どうやら何かあったらしい。俺の訊ねたものとはおそらく全然違った意味で。
その時、ウーロンとプーアルがテラスに姿を現した。各々その手に大きなトレイを抱えている。切り分けられていないローストビーフ。山盛りになったサンドウィッチ。香ばしい匂いを放つ数種のパイ。まだ食うのか…そう俺が思った時、最後に続いたママさんがにこやかな笑顔を振りまいた。
「おかえりなさい、ヤムチャちゃん。じゃあ、お茶にしましょ」
「えぇ!?これからですか!?」
思わず俺は叫んでしまった。…マジか!?じゃあ、今までのは1食か!!
ほとんど呆然と悟空を見返した。悟空は握りこぶし大のヨークシャープディングを、2つ続けて口に放り込んだところだった。その幸せそうな笑い顔とは対照的な咎め顔で、ブルマが俺を斜め下から掬い見た。
「何よその態度は。あんたを待っててあげたんでしょ」
「いや、だって…」
「だって、何よ!?」
瞬時にブルマに睨み返されて、俺は言葉を呑み込んだ。『てっきり2食食ったのかと思ったよ』――言ってもなんら差し支えないはずのその台詞を。
「おまえ、本当によく食うなあ…」
あくまで肯定的に悟空に向かって呟いて、チェアに腰を下ろした。パイが切り出され、コーヒーポットから液体が注がれ始めた。再び一から始まった食欲の嵐の中で、ふと思い出した。
…俺、窘めようとしてたんだった。

信じられないことに、場はそのままダラダラと夕食にまで縺れ込んだ。本当に、悟空の食欲は超人的だ。この小さな体のどこに、この量が収まるんだろう。
俺がこの世の不思議を一つ感じ始めたその時、悟空がようやく箸を置いた。
「ぷはぁ〜、食った食った。ごっそさん!…おっ、もう夜か。いっけねえ。オラ行かねえと」
「いいじゃない。泊まっていきなさいよ。それで明日、泳ぎに行きましょ!」
気のいい言葉と共に、まったく脈絡のないことをブルマは言った。俺は思わず問い返した。
「明日って、明日はハイスクールが…」
「いいわよ、そんなもの。せっかく孫くんが来てるのに、ハイスクールなんか行く手はないわよ」
何もなくたって行ってないだろ。
それを言おうかどうか迷っていると、ウーロンが違う角度からツッコミを入れた。
「おまえ、こんな季節に泳ぐのかよ」
今はシーズンオフだ。西の都は年中温暖な気候ではあるが、常夏というほどではない。
「ホテルの屋内プールよ。招待状がきてるのよ。傘下の会社がパドルホイールを納品したホテルから」
ブルマは見事にウーロンの言葉を封じ込めた。パドルホイールが何なのかは知らないが、俺にも訊く気など起こらない。聞いてもどうせわからないに決まっている。
「でもオラ、東の山に行かねえと」
思い出したように呟いた本人の言葉さえも、ブルマは封じ込めた。
「いいじゃない、一日くらい。これだけ遠回りしておいて、いまさら急ぐなんてなしだわよ」
「遠回り?…あ、ひょっとして悟空、道に迷ってたのか?」
悟空に会って4時間強。ようやく話が本人のことに及んできた。なにしろ悟空は食べ続けで、まともに口を挟む隙もなかったのだ。
「迷うも何もこの子、東の山に行こうとして、西の平原へ向かってたのよ」
「相変わらずグローバルなやつだな…」
思わず呆れ口調で呟くと、悟空が不思議そうに顔を上げた。
「ぐろーばって何だ?」
「世界的なバカってことよ」
ブルマが即座にそれに答えた。…いや待て、嘘を教えるな。俺の言葉を曲解するな。
「おまえ、それはないだろう…」
「この場合は間違ってないわよ」
それはそうかもしれないけど…
うっかりそう言いかけたところで、ウーロンに話を引き戻された。
「おまえら…、…まあいいけどよ。明日はおれも行くからな。おいていくなよ」
白々しい目で言い放ったウーロンの横で、プーアルが窺うようにこちらを見ていることに、俺は気づいた。
「いいよ。みんなで行こう。全員同じ用事で欠席する方が、むしろ自然だろう」
「はい、ヤムチャ様!」
俺だって、別にハイスクールが大好きというわけじゃない。ただ、ブルマが度を越えてサボるので、少し宥めたかっただけなんだ。でも、それもしばらくおあずけだな。こうも堂々とサボりの計画に加担しているようではな…
それにしてもさっきから、ことごとく宥めが阻止されているな。そういう星回りなのだろうか。


気づいた時には寝息が聞こえていた。いつしか喋らなくなっていた悟空は、いつの間にか寝入っていた。リビングのソファの上で、ブルマの腿に片足を投げ出して。
「もー、孫くんてば、本当にガキね。まだ8時よ」
「疲れたんだろ」
いくら強いと言っても、悟空はまだ子どもだ。体だってこんなに小さい。事実今は、遊び疲れた子どものようにしか見えない。
俺が言うと、ブルマはわざとらしく顔を顰めてみせた。
「疲れたのはあたしの方よ。エアバイクまで壊されちゃってさ」
「壊された?悟空にか…で、悟空はどこに寝かせるんだ?」
言いながら、悟空の体を揺さぶろうとするブルマの手を止めた。俺が悟空を抱え上げると、プーアルがドアコンソールへと飛んでいった。開いたドアから、すかさずブルマが一歩を踏み出した。
「2階の客室。…まあ見てってよ。ひどいんだから」
俺の半歩前を歩きながら、僅かに怒りを含んだ軽い口調でブルマは続けた。俺の心に、単純な疑問が湧いた。
「それじゃ、どうやって帰ってきたんだ?」
「負ぶってもらったのよ」
こともなげに言い放ったブルマの言葉に、思わず目を瞠った。ほとんど同時に客室に着いた。ドアコンソールを操作するブルマの後姿を、まじまじと見つめた。
負ぶった?悟空が?この7頭身をか…さだめし大変だっただろうな。一体どうやって負ぶったのか、想像もつかない。
「おつかれさん」
心の中でそう呟きながら、悟空をベッドに横たえた。

俺はそのまま廊下の奥へと、ブルマの後について歩いた。今日はもうトレーニングをする気は起こらなかった。どことなく気が緩んでしまっていた。ブルマ言うところの『せっかく孫くんが来てるのに』というやつだ。
ブルマの部屋に一歩を踏み入れると、ブルマはポケットを弄って、取り出したカプセルを部屋の中央に投げつけた。目の前に現れた、見慣れているはずのエアバイクの見慣れない姿に、俺は思わず息を吐いた。
「これはまた派手にやったな…」
ひしゃげたフレーム。潰れたボディ。完全にスクラップだ。ブルマの運転は荒いけど、いつだって本人だけは安全そうにしているのに。一体、何やったんだ?エアバイクで悟空と戦ったのか?
「外見もそうだけど、肝心のエンジンが死んだわ。直すのに一体何日かかるか」
わざとらしく腰に手を当てて呟いたブルマの言葉に、俺は心底驚いた。
「直す?これをか…」
俺が呟いた時にはすでに、ブルマはツールボックスを開けていた。何本もあるレンチを次々と手に取りそれを床に並べていく様は、どことなく楽しそうにすら見えた。…ブルマも悟空に甘いな。これがもし壊したのがウーロンであったなら、これほど冷静に対処しただろうか。もし俺だったら…ちょっと自信ないな。
「ミドルスクールの頃から乗ってるから」
微かに笑みを浮かべながら答えたブルマの言葉の意味を、俺はおそらく正確に理解した。…ミドルスクールの頃からサボっているというわけだ。
それで思い出した。悟空に会う前に決意していた行為のことを。
「…あのさ。できたらサボる時は、前もって教えてくれないかな」
言った途端にブルマの顔が強張った。レンチを持つ手を止めて、下から掬うように俺の顔を見た。再び去りかける勇奮心を、俺は何とか押し留めた。
「帰る直前でもいいから。せめて一言…」
そんなに無理なことを頼んではいないと思うんだけど。
そうは思いながらも、俺は正直後悔し始めていた。ブルマの態度がやっぱり怖い。まったく、悟空に対する態度とはえらい――いや、えらいというほどのことはないか。ちょっとかな――違いだ。
一瞬、ブルマが俯いた。俺は始まりを予感した。すでに逃げ去った勇奮心をなじりかけた時、ブルマの声が響いた。
「教えたら一緒にサボってくれる?」
「え…」
ブルマの言葉とその表情に、俺は完全に虚を突かれた。ブルマは笑っていた。常になく優しい表情で。
「冗談よ」
さらに笑ってそう言うと、ブルマはレンチをエアバイクに差し込んだ。その横顔を、俺はしばらく見つめていた。




「きゃあぁぁあぁぁあぁぁーーーーー!!!!!」
翌朝。早朝トレーニングを半分ほど終えてC.Cのエントランスへ足を踏み入れた俺は、この世のものとも思えない悲鳴を聞いた。
それがブルマの声だということはわかった。取り急ぎリビングへと走っていくと、そこにはブルマはいなかった。ただプーアルとウーロンが、首を傾げて俺を見た。
「あ、ヤムチャ様…」
「おまえ一人か?ブルマは?」
なぜ俺に訊く?
「ここにいないのなら、部屋じゃないのか?今、悲鳴が聞こえたぞ」
訝りながらそう返すと、ウーロンが不審と不躾の綯い混ざった目を向けた。
「おまえじゃないのか。おれはまた、てっきりおまえが何かやったのかと」
「俺じゃない!」
反射的に怒鳴りつけてしまった。こいつ、何かというと俺とブルマのケンカへと持っていきやがって。だいたい、こんな朝っぱらから何をするというんだ。そもそも俺は、こんな朝早くにブルマと顔を合わせることすらないんだぞ。
「部屋へ行って様子を見てきた方がいいでしょうか…」
「おれはやだぞ、こんな時間のあいつに声をかけるなんて」
ウーロンの言葉の意味はわかった。朝のブルマは非常に怖い。特に起き抜け。まだ部屋にいるということは、間違いなくその状態だ。とはいえ、あの悲鳴を放っておいていいものか。しかし、防犯システムに異常はない。それにキーテレホンもこないことだし…
俺が葛藤していると、リビングのドアが開いた。荒々しい足取りでブルマが、それを追いかけるようにして悟空が、俺たちの前に姿を現した。
その取り合わせに納得と不審を抱きながら、俺は声をかけた。
「悟空、おはよう。ブルマ、さっきの…」
「父さんはどこ!?」
はずだったのだが、それは2人の耳には入らなかったようだった。ブルマは大きく頭を振ってリビングを見渡し、悟空は不思議そうな顔をしてブルマに纏わりついていた。
「パパなら会社に行っちゃったわよ〜」
キッチンから顔を覗かせてママさんが言うと、ブルマが苛立たしげに舌を打った。
「逃げたわね…」
「逃げた?何かあったのか?…それと悟空、おまえどこにいたんだ?組み手やろうと思ってたのに」
湧いたばかりの不審とすでに湧いていた不審の両方を、俺は口にした。悟空がそれに答えた。
「オラ、ブルマの部屋に…」
「あんたは余計なこと言わなくていいの!」
はずだったのだが、それはブルマの怒声に掻き消された。また何かあったらしい。…悟空も災難だな。
おそらくプーアルとウーロンもそう思ったことだろう。だが本人は平然として、ブルマを相手にしていた。
「ブルマ、おめえなんかおっかねえぞ」
「あんたが悪いんでしょ!」
「なんだよ。オラ、なんかしたか?」
「わかってないのが一番問題なのよ!」
「おめえ、何言ってんのか全然わかんねえぞ」
「あんたがガキだからよ!」
放っておくと明日まで続きそうだ。おそらくウーロンもそう思ったに違いない。
「何があったか知らないけどよ。プールは行くんだろ?何時頃行くんだ?」
そう言って、2人の声を止めた。その言葉のニュアンスに、俺は思わず苦笑した。
俺がブルマと言い合いをしていると、すぐケンカと取るくせに。悟空とブルマの場合はそうじゃない。まあ、気持ちはわかるけど。この2人、姉弟みたいだもんな。
「あたしはいつでも行けるわよ」
非常に珍しい台詞を、ブルマは口にした。いつもは一番最後に支度を済ませるものなのに。だいぶん気が乗っているようだ。しかし、それにしては不貞腐れた顔をしているな。
…一体、何があったんだろう。


ホテルへの道程は、俺がエアカーの運転をした。ブルマは悟空の相手をするのに忙しそうだったからだ。
「このえあかってやつ鈍いな。人はいっぺえいて目が回りそうだしよ。オラ筋斗雲で行っていいか?」
「この田舎もん」
後部座席の悟空の顔をちらとも見ず、俺の隣でブルマが呟いた。ウーロンがにやけ口調で嘯いた。
「おまえは筋斗雲に乗れないんだもんな」
「あら、あんたは乗れるの?」
一瞬にしてウーロンは黙った。やぶへびの典型とも言えるこの会話に、俺はうっかり笑いかけた。そこを、すかさずブルマに見咎められた。
「何笑ってんのよ。あんただってご同類でしょ?」
軽く睨みつけられて、俺も黙った。…そうだな。正直言って自信はないな。プーアルは乗れそうな気がするが…元盗賊という事実さえなければ。
このたわいのない想像は、俺の心を少しだけしみじみとさせた。
俺も悟空に似て、わりと孤独に育ったものだが。悟空と違って、世に染まることを拒めなかった。今は荒野にいた頃よりは荒んでいないと思うけど、それでもやっぱり邪念はある。
「改めて考えると、筋斗雲に乗れるってすごいことだよな…」
邪気がないって、一体どういう心なんだろう。悟空はいつも、何を考えているんだろう。
思わず呟いた俺の言葉に、ブルマが素っ気なく答えた。
「何も考えていないだけよ」
それは思いがけなく、俺の心中に対する答えともなった。

ホテルへ着くとブルマを除く俺たちは4人は、プールに向かうより先に、スイムショップへと足を向けた。悟空の水着を買うためだ。
「なあ、なんで泳ぐのに服着るんだ?」
「服じゃなくて水着。おまえ、水着知らねえのかよ」
「でも、オラいっつも裸で泳いでたぞ」
本人はこう言っているが、さすがにそれを尊重するわけにはいかない。ビーチになら、そういう人たちもいるかもしれないけどな。ここではそれは犯罪なんだよ。
「この田舎もん」
先にも耳にした台詞を、今度はウーロンが呟いた。それに苦笑しながら、努めて易しい言葉を使って俺が言って聞かせると、ようやく悟空は納得した。
「ふーん。それでブルマも着てたんか」
「なんだって?」
ぽろりと零した悟空の言葉に、またもやウーロンが食らいついた。悟空は何の躊躇もせず、それに答えた。
「朝オラがブルマの部屋行ったらさあ、あいつそれ持ってたんだ。ハダカでさあ」
「すっ裸か?おまえ全部見たのか?…お、おい悟空、その話もっと詳しく聞かせろよ」
「何を?」
「だから胸の形とか…」
「ムネってあのシリのことか?」
あまりにも無邪気に答え続ける悟空の声に、俺は返って冷静になった。
「やめろウーロン!悟空もそれ以上喋るな!」
とはいえ耳に耐えられるはずはなく、スイムショップのど真ん中で、俺は2人を叱りつけた。奇妙な保護者気分を味わいながら。ウーロンの恥知らずは今に始まったことじゃないが、悟空もたいがいだよな…
それにしても、それであの仏頂面か。
朝に見たブルマの様子を、俺は思い出していた。まさしく苦虫を噛み潰したとしか言いようのない、あのふくれっつら。それと、耳をつんざくようなあの悲鳴。ブルマがああいう顔をすること自体は珍しくもないが、あんな悲鳴を上げさせるほど隙なくブルマを困らせることができるのは、悟空くらいのものだろう。
「なあ、このパンツなんかでっけえぞ」
「ぴったりですよ、悟空さん」
悟空はというと、俺の叱責に堪えた様子もなく相変わらず飄々として、ショップの店員に水着を着させられていた。
『何も考えていないだけよ』
…確かに、ブルマの言う通りかもしれん。

たかが水着を買うだけなのに、結構時間を食ってしまった。ブルマ怒ってるだろうな…
そう構えながらプールへと行ったのだが、そこにブルマの姿はなかった。案内されたスペースに陣取って、ウェルカムドリンクに口をつけてもなお、現れなかった。
「遅いな、ブルマ」
ジンジャーの香りのするソーダにライムを搾りながら俺が呟くと、ウーロンが白々しい声で答えた。
「女の着替えは長いからな」
「そうは言っても、もうすぐ一時間だぞ」
水着に着替えるだけで、こんなに時間がかかるものだろうか。特にブルマのいつもと変わらぬあの軽装で。
「この風呂、気持ち悪いな。水が流れてくるぞ」
いち早くドリンクを飲み終えた悟空が、プールに飛び込むなり目を丸くしてそう言った。
「風呂じゃないって…」
体を洗わないよう注意すべきだろうか。悟空に続いてプールへ飛び込むプーアルとウーロンを見ながら、俺が腰を浮かせかけた時、ようやくブルマがやってきた。
「あんたたち!レディファーストを守りなさいよ!」
叫ぶなり、半分残っていた俺のドリンクを飲み干した。しかし、俺の気になったのはそこではなかった。
「遅かったな。…泳がないのか?」
ピンクのチューブトップにデニムのショートパンツ。ブルマはまだ服を着たままだった。
「支配人に捕まってたのよ」
「どういうこと…お、おいっ…!」
今ひとつわからないブルマの言葉を訊き返そうとして、俺は喉を詰まらせた。いきなりブルマがデニムのジッパーを引き下ろしたからだ。慌てて逸らしかけた俺の目に、それが映った。ブルマのその部分を包む一枚の布。脇を紐で締められたレモンイエローの…
「何?」
「い、いや…」
不審そうなブルマの瞳に見つめられて、俺は今度こそ本当に目を逸らした。
…あー、びっくりした。下に着てたのか。そういえば、さっき悟空がそんなことを言っていたな。すっかり忘れていた。…本当に、びっくりした。
「ちょっと、あんたたち!普通、主賓は待つものでしょー!」
続いてチューブトップも脱ぎ捨て同色のビキニを覗かせると、ブルマは悟空たちのところへと駆けていった。その後姿を見送りながら、俺は溜息をついた。
紛らわしいことしないでくれよ。せめて一言言ってから脱いでくれ。悟空も問題だが、ブルマもブルマだよな。悟空が無垢なら、ブルマは無神経だ。
「ヤムチャ、あんたも早く来なさいよー」
俺の足を止めた張本人から、そう声が飛んできた。続く息を呑み込んで、俺は腰を上げた。

「あたしドリンク飲んでくるから。孫くんがおかしなことしないか見張っててね」
軽くひと泳ぎしただけで、そう言ってブルマは水から上がってしまった。ま、女の子なんてそんなもんか。周りを見ても、豪快に泳ぎまくっている女の子なんていないしな。
ウーロンは浮き輪にはまり込んだまま一向に体を動かそうとはせず、ひたすら目を泳がせていた。…やつが何をしているのかは、だいたいわかる。プーアルも浮き輪にはまり込んでいたが、こちらは本来の使い方だ。問題の悟空はというと、端から端まで全力で泳いでいたかと思えば(ちなみにブルマに思いっきり叱られていた)一転して水中に逃げてみたり、犬のように頭の雫を振り払ってみたりと、今ひとつ落ち着きがない。水と戯れていると言えば聞こえはいいが、プールの楽しみ方が今ひとつわからないというのが、実際のところのようだ。
「悟空、飛び込みやらないか」
そこで俺は、悟空にも楽しめそうな遊びを一つ提案してみた。プールの飛び込みくらいで悟空がスリルを味わえるとも思えないが、水面でぱちゃぱちゃやるよりは、遥かに悟空向きだろう。
飛び込みゾーンはプールの中央にあった。船の形をした飛び込み台へと俺が漕ぎだすと、悟空は素直についてきた。と、ふと動きを止めて、波間に浮かんだままのウーロンとプーアルの顔を見た。
「おめえたちはやらねえのか?」
「おれはおまえらほど頑丈じゃないんだよ」
「ボクもちょっと…」
2人がそうくるだろうということは、俺にはだいたいわかっていた。お遊び用飛び込み台とはいえ高さは5mと中級だし、年齢制限も設けられている。初心者お断り程度の危険性はあるというわけだ。
「そうだな、おまえたちはやめておくのが無難だな。俺たち以外には無理だろう」
「ふーん」
なおもピンとこないらしい悟空を、プーアルとウーロンの声が促した。
「ボクらはここで見てますから」
「がんばってこいよ〜」
2人の姿を尻目に飛び込みゾーンに泳ぎ着くと、そこに人は疎らだった。悟空は、上がった船の縁から、物珍しそうに下を覗きこんでいた。きょろきょろと落ち着かなげなその様子に、俺は説明する必要を感じた。
「この舳先から下のプールへ飛び込むんだ。姿勢は流線型で手を揃えて頭から入水…、…まあ、いいか。おまえなら何の心配もないよな」
だが、途中で諦めた。理由はわかってもらえるだろう。そもそも、この手のことで俺が悟空に講釈を垂れるなど、おこがましい話だ。
「俺が先にやるから、まあ見てろ」
偉そうに俺は言ったが、実のところ俺もやったことはないのだ。以前、水泳部のやつに少しだけ聞いたことがあるだけだ。でも、話を聞いていた限りでは、案外簡単そうに思えるんだよな。
「よっ」
一声放って、舳先を蹴った。助走はいらない。跳力だけで充分だ。

青い水。迫る水面。
5mの高飛び込みは、なかなかに心震えた。想像していたよりも、遥かに爽快だった。実際に飛んでみると、端で見ていた時よりもずっと高さを感じる。少しばかりやったような気分にもなる。長いようで短い落下の合間に、俺は軽く回転を入れてみた。うん、やっぱり簡単だ。少し慣れれば、もっといろいろ出来そうだな。
「ぷはぁ」
一瞬の後に水上へ顔を覗かせると、遠目におそらくは歓声を送っているプーアルの姿が見えた。片手を上げてそれに応えながら、ゾーンの外側へと体を泳がせた。
「悟空、いいぞー」
やはり片手を上げながら船の上へと声を投げると、すぐさま悟空が舳先から飛び出してきた。
水に飛び込むというよりは、まるで空を飛ぶように。一瞬上へと体を投げて、次の瞬間には丸めた体を両腕で抱えた。1、2、3、4、5回転。さすがだな。やはりおこがましかったようだ――
びったーん!!
その思いは最後に消えた。大きな激突音と共に、悟空は着水した。『入水』ではなく『着水』。
「悟空!大丈夫か!?」
悟空は答えなかった。ただただ大の字になったまま、水上にうつ伏せていた。プーアルが文字通り飛んできた。さすがにウーロンもやってきた。2人につられるように、野次馬が集まってきた。
「ちょっと、その子どけてよ!後がつかえてんのよ!」
頭上からそう声が飛んできて、俺は慌てて悟空の体を揺さぶった。悟空は相変わらず動かなかった。よもや死んではいないが、意識を失っているようだ。
「プーアル、監視員を呼んできてくれないか。どうも俺にはよくわからん」
一体頭を打ったのか、腹を打ったのか。…全身を打ったように、俺には見えたが。とにかく気つけ薬が必要だ。
プーアルはすぐにプールサイドへ飛んでいった。悟空を引っ張りながら飛び込み台の脇へと移動して、俺は頭上を仰ぎ見た。先ほど声を飛ばしてきた、薄情な輩に合図を送るために。そして目を瞠った。
「ブルマ?」
舳先から顔を覗かせていたのはブルマだった。じゃあ、さっき俺たちに怒鳴ってきたのはブルマか。なんてやつだ。あいつ、悟空のことをこれっぽっちも心配してないな。…いや、そうじゃない。
「ブルマ!やめとけ!おまえには無理だ!」
声のあらん限り、俺は叫んだ。当然だ。悟空ほどの者でさえ、失敗したんだからな。ましてや、ブルマの運動神経では…
「戻れ!!絶対に飛び込むなよ!!」
飛び込み台に上がっていた時は、下からの音などほとんど聞こえなかった。それを思い出して、俺はさらに声を大きくした。ブルマの姿が舳先から消えた。しかし、それは一瞬のことだった。
ブルマは再び現れた。そして勢いよく舳先から空中へと身を投げ出した。あいつーーー!!
眉を寄せながら視界に認めたブルマのフォームは、だが思いのほか基本を踏んでいた。両手をきちんと揃えて、きれいとは言えないまでも流線型を取っていた。それに安堵しながらも、俺は大きく溜息をついた。
あいつ、普段は運動を嫌がるくせして、こういう時だけ活発なんだから。…まあ、おてんばってそういうものか。
だが、ブルマの行動はおてんばに留まらなかった。思いのほかきれいなフォームで飛び込んだブルマは、思いのほか小さな水しぶきをあげて入水し、僅かに空気の泡を水面に届かせたまま、姿を消した。数瞬の後に、ウーロンがぽつりと呟いた。
「浮いてこねえな。…溺れてるんじゃねえのか?」
「たっ、大変だっ!!」
俺の声に、忘れかけていた人間が反応した。
「いっ…いちちち…おーいてぇー!」
悟空だ。額に手をやりながら、ゆっくりと立ち泳ぎ出した。どうやら衝撃から回復したようだ。俺はそれには構わず、水面下へ体を潜らせた。
悟空は大丈夫だ。それより今はブルマだ。人工プールとは言えここは水深5m、まさかの事態もあり得る。
視界はクリアーだった。遠くに見える数人の足。それと反対方向に、頼りなげに沈んでいくブルマの体が見えた。…流れるプールとはいえ、ずいぶん流されたものだ。気を失ってはいないようだが。まったく無茶するんだから…
背後から近づいて、上半身を抱え込んだ。慌てたようにもがく体に閉口しつつも安堵して、ブルマの体を引き上げた。

水面へと上がる数秒のうちに、俺はブルマの体を正面からがっちりと押さえつけた。ブルマがあまりにもがいたからだ。溺れる人間は暴れるとは言うが、それにしたって暴れすぎだ。こんな時くらいおてんばは引っ込めていてくれよ…
水中なので、溜息はつけない。その衝動に耐えながら水上へと顔を出すと、途端にブルマが悲鳴を上げた。
「きゃあぁぁあぁぁ!!いやっ!!放して!早く!!」
俺は反射的に眉を寄せた。だって、俺は助けてやったのに。盛大に感謝しろとまでは言わないが、その反応はないだろう…
「胸!」
緩めかけた腕の中で、ブルマがさらに叫んだ。顔が真っ赤だ。照れているのか?こんな時に…
呆れが首をもたげた。宥めかけて目を落とした。一瞬、それが完全に俺の心を捉えた。
レモンイエローに包まれていたはずのブルマの胸。ウーロンの知りたがっていた胸の形。それがまったく何も隔てずに、俺の肌に密着していた。…な、何だ。どうして脱いでいるんだ!?
「ビキニ外れたの!ちょっと、見ないでよ!!」
俺は慌てて目を逸らした。そういうことはもっと早くに言ってくれ…!
「背中向けて!人が近づいてこないか見張っててよ!!」
ブルマに言われるまでもなく、すでに俺はそうしていた。ウーロンならいざ知らず、俺にはそうしないだけの勇気はない。というか、耐えられない。…過去に一度経験済だ。
それにしてもいつから…全然気づかなかった。
…いや、ちょっとは気づいていたかもな。ひょっとしてあれはと思う感触が、掌に残っている。…いや、いいんだ、思い出さなくて。いいんだ、反芻しなくって…
「ねえ、プーアルはどこ?タオル持ってきてもらいたい…」
言いながらブルマが俺の肩に触れた。答えようとした俺の耳に悟空の声が入ってきた。
「おーい!!ブルマーーー!!!」
もう完全にいつもの声だ。さすが悟空、回復が早いな。
「ちょっと孫くん!大きな声出さないでよ!人が見てるじゃないの!!」
「これおまえんだってウーロンが言うんだけど、本当かーーー?」
悟空の声とその仕種に、俺の心は再び固まった。
にやけ笑いを浮かべたウーロンを傍らに、ブルマの派手なレモンイエローの水着を大仰に振り回す悟空…
おそらくは俺と同時にそれを見たブルマが、慌てたように大声量を吐き出した。
「あっ、それそれ!あたしの水着!孫くん、それ返して!!それと、大声出さないでったら!!」
「なんでだよーーー!!?」
「なんでじゃないでしょ!!あたしは今裸なのよ!!」
おまえら、そういう会話はもっと小さな声でやれ!!
「孫くんは後ろにいて!ヤムチャは前見てて!絶対に人を近づけさせないでよ!!」
言われるまでもなくそうしながら、俺は今度こそ溜息をついた。
…おまえが一番人を寄せつけてるよ。本当に神経が荒いんだから…


「腹減った…」
ふいに悟空が呟いた。ブルマとウーロンは呆れた顔をしていたが、それを咎めはしなかった。そうだな。俺も…腹は減っていないけど、疲れた。なんだかすごく疲れたよ。
ほとんど満場一致で、プールを引き上げることとなった。いったんブルマと別れてチェンジングルームへ入ると、ウーロンが顔を輝かせて話を振ってきた。
「なーなー、ヤムチャ。見たんだろ?どんなだった?」
「思い出させないでくれ…」
ウーロンもたいがい無神経なやつだよな。とっくにわかっていたことだけど。…こいつ、どういう男なんだ。
「ということは見たんだな。くっそー、おれだけかよ、見てないの。神様って不公平だよな〜」
いいや、神様はよく見ているよ。
うっかり喉元まで出かかった。俺、少しメランコリックになってるな。だって、本当に疲れたんだ。気分を害したわけじゃないけど。だからこそ余計に疲れるよな。
着替えを済ませてロビーへ行くと、すでにブルマが待っていた。隅のソファに腰を下ろして、退屈そうに足をぶらつかせている。
「あんたたち、遅いわよ」
「悪い。でも…」
普通だと思うんだけど。遅いというなら、プールへ来た時のブルマの方が、遥かに遅かった。一時間も待ったんだぞ。それはまあいいのだが、この違いは何なのだろう。さっきは一体、何をしていたんだ。
「でも、何よ?」
「あ、いや、別に…」
うっかり零していた言葉を慌ててしまいこんだ。寄せた眉はそのままに、ブルマが歩き出した。半歩遅れてそれに続きながら、悟空が不思議そうに俺の顔を見上げた。
「ブルマ、なんで怒ってるんだ?」
「ん?いやなに、何でもないよ」
俺が言うと、ウーロンが無造作に合いの手を入れた。
「そうそう。こいつらはいつもこんなもんだ」
俺が声を失った時、ブルマが急に足を止めた。その背中に軽くぶつかって俺も足を止めると、ブルマの前にいた見慣れない男が口を開いた。
「お嬢様、お帰りでございますか」
慇懃な態度の中年男性。胸元に支配人のバッジ。そうだ思い出した。『支配人に捕まった』とか言ってたな。
「ところで、お嬢様が気分を害されていたとお聞きしたのですが、何か不手際でも…」
『お嬢様』…
この聞きつけない言葉に、俺は思わず放心した。いや、ブルマがお嬢様だということは知っている。最初は俺もそのように思っていたし。しかしなあ…
「あ、いえ、何でもないのよ」
そのお嬢様は、あきらかに引きつった笑いを、無理矢理に浮かべていた。頬に添えた掌も、どことなく白々しく見える。…そうだよな。無理あるよな、やっぱり。
「ですが悲鳴をお上げになられていたと…」
我に返った俺の耳に、続く支配人の言葉が入った。『悲鳴』………………あれか。あの時か。
思わず深い溜息をついた。…まったく、みんなして思い出させてくれるなよ。あまり困らせないでくれ…
「ちょっと、ちょっとヤムチャ」
ふいにブルマが俺の左腕を小突いた。顔は正面の支配人へ向けたまま、視線だけを俺へと寄越した。
「何とかしてよ。この支配人、話が長いのよ」
…いや、俺に振られても。一体何を言えっていうんだ。………………本当に無神経なんだから…
しかし、その無神経の上をいく者がいた。俺の右隣に。何を考えている風でもなく、悟空が唐突に口を開いた。
「あれはブルマが水着ってやつを脱…」
「黙らっしゃい!!」
瞬時にブルマが悟空へと腕を伸ばした。俺を後ろへ押しやって。顔の形が変わるほど頬と口を抓り上げられた悟空と、それをしているブルマとを、当人たちを除く全員が驚きの目で見つめた。
「ひててて、ひてーよ、ウルマ〜」
「じゃあ、そういうことで…」
依然ブルマにその頬を抓られたまま、悟空はフロアの端にあるエレベーターへと引き摺られていった。わざとらしい笑顔で付け足されたブルマの台詞は、全然フォローになっていなかった。
「…あ、えっと。じゃあ、そういうことで…」
ブルマの台詞を復唱しながら、残された俺たちもエレベーターへと走った。支配人は呆然と、エレベーターの中で何やら言い合い始めたブルマと悟空を見ていた。あー、恥ずかしい。エレベーターに乗っても、俺は後ろを振り向かないぞ。
エレベーターが動き出しても、ブルマと悟空の言い合いは続いていた。
「どうしてあんたは余計なことばかり言うのよ!」
「何だよ。オラ何か言ったか?」
「言ったでしょ!あたしが水着を脱いだっ――」
俺は慌ててブルマの口を押さえ込んだ。エレベーターが中途の階に停止したからだ。いくらなんでも、他人の前でこんな会話を続けられてはかなわない。
本当に、こいつら2人揃って無神経姉弟だな…


今日はいろいろと意外な日だ。
「フレンチ?こんななりで大丈夫なのか?」
「平気よ。カードを見せればたいてい入れてくれるわ」
「おれ、堅苦しいのは嫌だぞ」
「あたしもそれが嫌でここを選んだのよ」
俺とウーロンの言葉をことごとく論破して、きびきびとブルマは店へ入って行った。ホテル一階にあるフレンチレストランに。
「いらっしゃいませ、お嬢様!」
まだドアも開け切らぬうちから、サービスマンの笑顔が閃いた。開けかけたドアを彼の手に預けながら、ブルマが淡々と言葉を紡いだ。
「個室は空いてる?できれば、隅の部屋がいいんだけど」
「はい!すぐにご用意いたします!」
カードを見せつけるまでもなく、フロアマネージャーが満面の笑顔で俺たちを一番奥の個室へと案内した。ブルマ言うところのレディファーストで一番先を歩きながら、ブルマが振り向き加減にウィンクを寄越した。
それで何となくわかった。支配人か招待状。そのどちらかから身元が割れているに違いない。そうじゃなければ、こんなカジュアルな服装の女の子をお嬢様扱いするわけがない――お嬢様の概念を変えるべきかな、俺は。
「オーダーの量が多いんだけど、大丈夫かしら?」
引かれた椅子に座りながら、ごくごく自然な口調でブルマは言った。それでさらにわかった。個室なら、皿の数を気にされることもない。…店の人間以外には。
「はい!ごゆっくりお召し上がりくださいませ!」
またもや満面の笑顔で、フロアマネージャーは答えた。それを見て俺もまた、笑みを零した。…驚くだろうな、きっと。
「じゃあ、Cコース5人前と、アラカルトを全部…そうね、前菜と一緒に持ってきてちょうだい」
「は…?」
ブルマがそう告げた途端、フロアマネージャーの笑顔が消えた。マネージャーが驚いたのも無理はない。Cコースは皿数が一番多い上に、メインのアラカルトだけで20種近くあるのだから。
「だから、メニューにあるアラカルトを全部。他は後で追加するわ」
「は、はい!かしこまりました」
軽く睨みを利かせながらブルマが繰り返すと、フロアマネージャーは慌てたように言い捨てて去っていった。やや音をたてて個室のドアが閉められると、ブルマがいかにも参ったというように、手を額に当てた。
「コース20人前って言った方がまだよかったかしら…」
だが、その口から出た言葉は、否認しかけていた俺の認識を新たにさせた。
見た目ほど堪えていない。態度は厳しく取っているが、結局のところ悟空に合わせてしまっている。
…やっぱり、ブルマは悟空に甘いな。


「あ〜、食った食った。ごっそさん!じゃあ、オラ行くな」
大きな腹を片手で叩いて、元気に悟空が言い放った。豪胆だなあ。でも不思議と腹は立たない。それは悟空がまだ子どもだから。…だけではないだろう。
「もう行くのか。まだ陽は高いんだし、もう少しいいじゃないか」
軽やかに笑うその顔に向かって、俺は言った。組み手もしたいし。それに、なんとなくおもしろいものを見ているような気分でもある。
その興味対象の片割れはというと、悟空の言葉をまったく気にした様子もなく、早々と手を振った。
「気をつけてね。言っとくけど、東はあっちだからね。太陽の昇る方よ」
苦笑したのは、俺とプーアルそれにウーロンだけだった。言われた当の本人は飄々として、己の純真さを見せつけた。
「サンキュー。じゃあな、みんな。筋斗雲よーーーい!!」
一声の元に現れる、淡い紫色の雲。筋斗雲――悟空の資質の象徴だ。
ちぎれたような小さな雲に、悟空は軽やかに身を乗せた。小さな主に応えるように、筋斗雲が一瞬揺れた。
『何も考えていないだけ』、そうブルマは言った。確かにそれも一面だろう。だがそれなら、なぜ悟空を染めようとはしないのか。俺にはいろいろ言ってくるのにな。
これは嫉妬ではない。だって、俺はそれが嫌ではないのだから。ただなんというか…やっぱり、おもしろいものを見ているな、という気分だ。
「バーイ」
「気をつけてな」
「また来いよー」
「さようなら、悟空さん」
みんなの声に答えたのは笑顔だった。悟空を乗せた筋斗雲は、一瞬にして空の彼方へと飛び去った。後に残るのは、ただひとすじの淡い紫色の軌跡。そして、それをいつまでも見ている同じ色の髪…
「何?」
ふいにその菫色が振り向いた。一瞬虚を突かれながらも、俺は何とか一応の事実を口にした。
「髪のここんとこ、はねてるぞ」
自分の左髪に指を当てながら俺が言うと、ブルマはぱちくりと目を瞬かせて、鏡合わせにその部分を弄った。俺は笑いを堪えることができなかった。
「そっちじゃなくて。左だよ」
らしくない間抜けさだ。まだ心ここにあらずだな。あんなに素っ気なく手を振っていたくせに。
少しだけ不貞腐れた顔つきで、ブルマは今度こそはねた髪を撫でつけた。どことなくかわいく見えるその仕種に心を緩められながら、俺はポケットの中にあるエアカーのカプセルを弄った。
拍手する
inserted by FC2 system