寡進の女
「2番にラテ2つ、5番にミルクティとアイスティ、6番がコーヒーおかわりね」
「了解。…えぇと…」
『了解』と言いつつも、俺は一瞬手を止めた。いくら運ぶだけだといっても、こうも立て続けだとな。記憶回路がパンクしそうだ。
「それと1番にもコーヒーのおかわり。そうしたら交代してね。ご苦労様」
「了解」
助かった…そう思いながら、今度こそ本当に了解した。
作り置きできる菓子と飲み物だけのカフェ。もう昼時だというのに、そんなところに人が切れ目なくやってくる。みんな昼メシ食わないのか?そりゃあおかわりするのだって自由だけど、学祭初日で時間潰しもないだろうに。…何なんだろうな。
ともかくもすべて運び終えてバックヤード(とされているスペース)へと引き下がると、クラスメートの波の間に、俺の昼食相手の顔が見えた。開いたクラスのドアから身を乗り出して、こちらに向かって手招きしている。
「ブルマ、ちょうどよかった。今一度上がると…」
「ちょっと、ヤムチャ!何その格好!!」
俺が人の波を泳ぎ切った途端、ブルマが叫んだ。そのあまりの剣幕に、俺は一時周りの目も忘れて、ただただ答えた。
「何って…ウェイターだけど」
「ウェイター!?どこの世界にそんなウェイターがいるのよ。おまけに何よ、その髪は。何おっ立ててんのよ!!」
電光石火の勢いで、ブルマは俺の髪に掴みかかった。クラスメートのみんなが大変苦労して、30分もかけて纏め上げた俺の前髪を。
「いててて…痛い、痛いって!!」
ひとしきり掻きまわして、それでもさして髪型に変化がないとわかると(かなりガッチリ固められたからな)、ようやくブルマは手を離した。
「あんた絶対騙されてるわよ。とにかく、早く着替えてきてよ。もう終わったんでしょ?」
前半はともかく後半部分には俺は同意したかったが、そうできないわけがあった。
「それが午後からも顔出せって言われてて。…あ、少しだけなんだけど」
瞬時にブルマの眉が上がって、俺は髪を掻きかけていた手を止めた。…昼からはブルマと一緒に見て回る約束をしていたんだよな。でもまさか、それを理由に断るわけにもいかないし…
「ヤムチャくん、お疲れ様。次は2時からお願いね」
その時ふいに背後からクラスメートの声が飛んできて、俺は僅かに身を縮めた。
…会話、聞かれていたな。ブルマは声が大きいからな…
「…ああ、わかってるよ」
言いながら、一歩を踏み出しかけた。とりあえずここから離れたい。これ以上話を聞かれてしまう前に。
その刹那、ブルマが動いた。強引に俺の右腕に絡みつき自分の方へと引きながら、すでに実行している台詞を吐いた。
「行くわよ、ヤムチャ!」
「お、おい。ちょっとブルマ…」
俺は再び周りの目も忘れて、ただただブルマの名を呼んだ。

廊下の角を曲がって俺のクラスが見えなくなると、ブルマは何も言わずに俺の腕を離した。
一体何なんだ。前にも似たようなことがあったよな。でも、あの時とは全然状況が違うし…
立ち止まったブルマの前で、俺はすっかり放心していた。ふと、胸元を弄られる感覚で、我に返った。
「…おい、ブルマ、何してるんだ」
「何って、ベストを脱ぐのよ。もちろんジャケットもね」
淡々と言い放ったブルマの手は、すでにベストの3つ目のボタンにかかっていた。その時になってようやく、俺は自分たちが周囲の好奇の目に晒されていることに気づいた。
「ああ、そういうことなら自分でやるから…」
理由を訊ねることも忘れて、逆撫でしないようできるだけ優しくブルマの手を払った。人前でこういうのはちょっとな。それにしてもどうしたんだろう。妙にかいがいし…いや、そういうのとは少し違うな。俺、脱がせてくれなんて頼んでないし。…そんなに変かな、この格好。意外と似合うもんだと自分では思ってたんだけど。
ジャケットとベストを脱いで、少しだけネクタイを緩めると、ブルマはまじまじと俺を見てから、ぽつりと呟いた。
「ま、いっか」
…ちっともよくない。
何が何だかわからない。そりゃあ、脱げと言われれば脱ぐけど、少し言葉が足りなすぎるぞ。それに…
「これ、クラスに置いてくるよ。邪魔だから」
順番が違うよな。脱いだ衣裳を示しながら俺が言うと、なぜかブルマは眉を寄せた。
「は?そんなこと後にしなさいよ」
「いや、だって」
後って…今、邪魔なんだよ。
ブルマの言葉に、俺も思わず眉を寄せた。なんとはなしに目が合って、俺が少しばかり怯みかけた時、背後から女の子の声がした。
「ちょっとブルマ、何やってんのよ。交代の時間よ」
その瞬間、ブルマが身を竦めた。見慣れないその仕種に思わず目を瞠っていると、声の主がずいと出てきて、ブルマの腕を引っ張った。
「早くしてよ。今、誰もいないんだから。客が減るでしょ!」
俺がさらに驚いたことに、ブルマはその叱咤の声に何も言い返さず、なんとも情けなさそうな顔をした。だがそれも一瞬のことで、次には眉をつり上げて、俺のネクタイを引っ張った。
「もう!ヤムチャ、あんたのせいよ!責任取ってもらうからね!!」
女の子の腕がブルマの腕を、ブルマの腕が俺の腕を。奇妙に連結した俺たちは周囲の視線に晒されながら、ブルマのクラスの方向へと、廊下を走った。


ブルマのクラスは薄闇に装飾されていた。壁と窓を覆い隠す暗幕に、足元だけを照らすライト。囁くような効果音と、迷路を形作るように置かれたパーティション――ははあ、お化け屋敷か。
「1時半までだからね。ちゃんとやってよ!」
そう言い捨てて、女の子は去って行った。なし崩し的に受付スペースに連れ込まれて、俺はだいたいの状況を掴んだ。
…ブルマのやつ、またサボろうとしていたな。ブルマのクラスの出し物なんて全然気にしていなかったけど、もっと気にしておくべきだった。危うく、俺がサボらせる形になるところだった。
「一時半までなんだな?それなら俺も付き合えるから…」
あてがわれたデスクの横にいつまでも立ち尽くすブルマに、そう声をかけた。すぐに返事が返ってきた。
「当たり前でしょ!これで逃げたら怒るからね!」
まさしくすでに怒っている。と言いたいところだが、その声にいつもの鋭さはなかった。今ひとつ張りのない、どことなく逡巡している感すらある声音。…気のせいかな。或いは、俺が慣れ過ぎたのだろうか。
ともかくも用意されていた椅子の一つに、俺は腰を下ろした。するとブルマも、渋々といった感じで椅子を引いた。のろのろと俺の隣に腰を下ろすブルマの様子を見て、俺は思った。
…少し、近づきすぎなんじゃないか?
今にも触れそうな距離なんだが。そりゃあ、嫌なはずなんてないけど。でも珍しいな。ブルマの方から、特に校内でこんなにくっついてくるなんて。いくら昼食時間とはいえ、受付なんだから人が来ないわけはないのに。
「ネクタイ曲がってるわよ」
ふいにブルマが呟いた。片頬杖をつきながら。
「ああ…、さっき引っ張られたから」
腕と一緒にネクタイも引っ張られた。ほとんど必死とも言える勢いだった。
思い出しながらそれを口にすると、途端にブルマの瞳に炎が宿った。椅子ごと体を動かし、俺に詰め寄るようにして、大声を張り上げた。
「何よ、あたしのせいだっていうの!?」
「あっ、いや、いやいやいや…」
「あんたが悪いんでしょ!!」
「ああ、うん。うん、そう…」
さっぱりわけがわからないが、ここはとりあえず折れておくことに、俺はした。ブルマが怖い。なんだかひどく気が立っている。いつになく過敏になっている。そんなに受付するのが嫌なのかな。ブルマがお化け屋敷を嫌いだということは知っているが、たかがクラスの出し物、遊園地やテーマパークのものとは全然違うのに。1クラスぶんの面積の中で迷うはずもないだろうし、だいたい受付の仕事なんだから、置き去りも何もないだろう。トラウマにしたって、少し神経質すぎるぞ。普段はどちらかというと雑な方なのにな。
俺が首を傾げた時、クラスのドアが開いた。楽しそうな笑い声を響かせながら、お化け屋敷のチケットをひらつかせるカップル。そういえば、前にウーロンが言ってたっけな。お化け屋敷はカップルの入るものだって。
女の子の差し出したチケットを、ブルマは黙って受け取った。そしてやっぱり黙って、お化け屋敷の入り口を指し示した。この素っ気なさ過ぎる対応にも、カップルはさして気にした様子を見せず、仲良さそうに手を繋いでお化け屋敷の中へと消えていった。
ふーん、なるほど。こんな学祭の手作りお化け屋敷でも、本質は変わらないというわけか。
「子どもっぽいわよね、お化け屋敷なんて。入るカップルの気が知れやしないわ」
チケットを目の前のボックスに放り込み、自分の椅子を俺の方へと寄せながら、ブルマが吐き捨てるように呟いた。
「うーん…」
…俺たちも入ったんだけど。どうやらブルマの中では、すっかりなかったことになっているようだ。まあ、あれは成り行きだからな…
「まあな。でも定番なんだろ?」
逆撫でしないようできるだけ優しい声音で、見知った事実を口にした。俺のクラスでも、最後までお化け屋敷の企画が残っていたからな。
「定番だから何だっていうのよ」
素っ気なく呟くと、ブルマはデスク端のスイッチを押した。するとあたりの照明が部分的に落ちて、今までより1トーンは部屋が暗くなった。ブルマの肩が、俺の腕に当たった。
…何だろう。さっきから、ブルマの怒りが増すごとに、俺との距離が縮められているような気がするのだが。どういう現象なんだ一体。普通、逆じゃないのか。
そうこうするうちに次の客がやってきた。今度は女の子の2人連れ。なぜか溜息をつきながら、ブルマはその子たちのチケットを受け取った。
「ったく、みんなヒマなんだから…」
言いながら、苛立たしげにデスクを指で叩いた。それから両頬杖をついて、再び溜息を吐いた。俺との距離は相変わらず近かったので、その肘はデスクの上で組んでいた俺の腕に当たり、息もまた腕に届いた。
…なんか、すごく不自然な格好だ。っていうか、狭いぞ。
多少の胸の高まりと、それよりは遥かに大きな不審を俺が感じていると、お化け屋敷の出口から楽しそうな声が聞こえてきた。先のカップルが出口から顔を覗かせた。女の子の方が、ブルマに負けない素っ気なさで言い放った。
「途中でカラーリップ落としたの。探してきて」
「はぁ!?」
「最後の四つ辻の行き止まりのところよ。仕事でしょ。見つけてきてよ。あたしもうすぐ当番なんだから、早くして」
どことなく反発するように話す女の子とブルマの会話に、俺はふと気づいた。
…なんか、この2人、雰囲気悪いな。初対面にしては口調が妙にキツイ。ブルマは不機嫌だからまあわかるとして、女の子の態度がちょっと…
傍観者に徹したい気持ちがむくむくと湧いてきた。だが、俺の彼女の方がそうさせてくれなかった。
「ヤムチャ、あんた探して」
無造作にそう水を向けられて、俺は軽く目を瞠った。
「俺?」
「客を入れちゃったから、灯りを点けるわけにいかないのよ」
「…うん?いいけど…」
いいけど、理由になってないな。灯りと俺が探すことに何の関係があるんだ。
ともあれ俺はブルマの言葉を実行した。探し物をするくらい何の苦でもないし、どちらかというとこの2人の傍にいたくない。どういう知り合いなのかは知らないが、軽く一触即発の気配だ。
そんなわけで、俺はさっさと席を立った。そして、さっさとお化け屋敷の出口から通路へ入り込んだ。と同時に、体を引かれた。振り向いて見るとなぜかブルマがそこにいて、右手で俺のシャツの後ろを引きながら、左手で俺の体を押していた。
「なんだ、ブルマも来るのか?」
「何よ、あたしが行っちゃいけないの!?」
依然俺のシャツを掴んだまま、ブルマが小声で怒鳴った。
「あ、いや、そうじゃなくて…ブルマは受付にいた方がいいんじゃないのか?」
探し物くらい一人で出来る。そもそもそのために言いつけられたのだと、俺は思っていたのだが。
「あんなやつらと一緒にいるのはごめんよ!」
今度は小声ではなく、ブルマは怒鳴った。やっぱり何かあるんだな。
とはいえ、それを追求する気は、俺にはなかった。傍観者に徹したい気持ちが再びむくむくと湧いてきて、俺はブルマのしたいようにさせることにした。

出口から最後の四つ辻までは、僅かに十数m。その間、ブルマはずっと俺のシャツを掴んでいた。
そんなことしなくても、置いていったりしないのに。よしんば置いていったとしたって、一本道なんだからはぐれるはずはないのに。ずいぶん過敏なトラウマだな。
落し物をしたというその場所は、さして広くもない袋小路だった。薄暗くはあったが、足元はわりあいはっきりと見えた。何も落ちていないことが、一瞬にして見てとれた。三方を取り巻く暗幕はすべて天井には達しておらず、足元に隙間があった。おそらくパーティションだろう。
「この向こうはどうなってるんだ?通路ではないみたいだが」
「さあね。よくわかんない」
こともなげにブルマは言った。自分のクラスのことなのに、なぜわからないのか。それを訊ねる気には、俺はならなかった。だいたい察しがついたからだ。…きっとまたサボってたんだぞ、こいつ。思えば、学祭の準備に参加している気配など、全然なかったからな。
隙間の向こうを探るため俺が床に屈みこむと、ようやくブルマは手を離した。そう、この時までブルマは俺のシャツを掴み続けていた。さすがに俺の心にも疑心が湧き始めた。
…なんとなく、置き去りのトラウマとは違うような気がするんだよな。それなら最初から入らなければいいんだから。遊園地の時は、入ってしまった後だったからしかたがないとして、今の態度はどちらかというと、非常に考えにくいことながら…
暗幕のかかった一面の向こうは壁だった。伸ばした指先が壁に当たると共に小さな物にもぶつかって、ころころと転がる音がした。すかさずそれを掴んで膝をついた瞬間、ブルマが小さく叫んだ。
「ぎゃっ!」
そして、ちょうど立ち上がったばかりの俺の胸に飛び込んできた。
それはほとんど必死とも言える勢いだった。ブルマは自分の視界を塞ぐように、俺の胸元に強く頭を埋めていた。両手が背中に食い込むように回っていた。
「…おい、ブルマ…」
俺の心はすっかり固まってしまった。…この体勢のこともある。でも、それ以上に…
「…おまえ、ひょっとして怖いのか?」
「うるさいわね!」
ブルマは怒鳴ったが、その声には明らかに鋭さが欠けていた。依然顔を埋めているため、言葉がくぐもってもいる。これが肯定以外の何ものでもないということぐらいは、俺にもわかった。
「うーん…」
菫色の髪を視界に収めながら、俺は唸った。なんとも微妙な気持ちだった。ブルマにも怖いものがあったとは。しかも、ずいぶん普通のものじゃないか。それにしても、一体何が怖いというのだろう。暗闇なんかを怖がっている素振りは、これまでまったくなかった。お化けだって、作り物だとわかりきっている。だいたいこいつ、科学者の娘なのに…
かつてない強い興味が心を占めた。まったく吟味しないまま、俺はそれを口にした。
「なあ、お化け屋敷の何がそんなに怖いんだ?」
「このバカ!」
瞬時に罵声が返ってきて、俺は少しだけ首を竦めた。これは答えてくれそうにもないな。まあ、そんな予感はしてたけど。それにしてもなあ…
女の子に抱きつかれているにしては、自分でも信じられないほど、俺は冷静だった。あまりに非現実的すぎて、感情が追いついていかないようだ。
「あのさ、そろそろ離れてくれないと出られないんだけど」
「うるさいわね!あたしだってそうしたいわよ!」
相変わらず俺に顔を見せずに、ブルマが叫んだ。しかしその怒声には、いつもの俺を怯ませる威勢がまったくなかった。さっきからずっとだ。しかも怒っているくせに、体は決して離さない。両手は俺のシャツを掴んだまま完全に凝り固まっているし、顔だって伏せたままだ。
…なんだかおもしろいな。いや本当に、ひどくおもしろい。
その時ふいにぼそぼそと人の話し声が聞こえきて、俺は少し前から抱いていた懸念を思い出した。今ここには客がいるのだ。それと、お化け役の人間も。ブルマが弱みを見せるのは決して悪くないことなのだけど、…この姿を他人に見られるのはちょっとな。出口までは僅かに10数m。お化け屋敷の外に出さえすれば、たぶんブルマも平気なんだろうから…
物理的に状況を打開することに、俺は決めた。実のところどうしようか迷い続けていた両手を、今は迷うことなくブルマの足に伸ばした。
「きゃあぁぁあ!!」
途端にブルマが叫び声を上げた。それと同時に、腕を離した。
「あんた、何触ってんのよ!!」
「いや、少し体を持ち上げようと…」
持ち上げて、運び出そうと。ただそれだけなんだけど。
「信じらんない!!」
今や顔をすっかり上げて、ブルマは俺を睨みつけた。眉間に皺を刻みながら、俺の体を出口の方へと押し出した。
「さっさと出るわよ。ほら早く!」
そして来た時と同じように、俺のシャツの後ろを引いた。
押しながら引く。怒りながらも俺から離れようとはしない。
未だ矛盾しているその態度に、俺はまたもやおもしろい気持ちになった。


「あー、お腹空いた」
受付を終えてクラスの外へと出た途端、何事もなかったような顔をして、ブルマは大きく伸びをした。
切り替え早いな。今の今までさんざん怖がっていたくせに。受付デスクに戻ってからも、時間いっぱい俺にひっついてたくせに(今ではその理由もすっかりわかった)。…まあ、こんなもんか。
「何か甘いもの食べたいわね。とりあえず外行くわよ」
呟くように言い切って、ブルマが階下への階段を降りかけた。大変言いにくいことであったが、俺は言わねばならなかった。
「俺、クラスに顔出さないと…」
「えぇー!?」
声と表情の両方で、ブルマは俺を咎めた。…さっきも言ったんだけどな。もうすっかり忘れられてるな。まあ、しょうがないか。
「たぶんほんのちょっとだけだから。終わり次第すぐ行くから。それまでどこかでメシでも…」
「あんた、あたしに一人でごはん食べろっていうの!?」
「あ、いや、えーと…」
俺は完全に言葉に詰まった。ブルマが怖い。怒る理由はわかるし、俺も腹を括ってはいるのだが、それでも怖い。さっき見せた弱々しさは、俺の幻覚だったのかもしれない。
「本当にすぐ終わらせてよ!」
怒りを振りまきながらも、ブルマは足の向きを変えた。その眉は上げたまま、自分のクラスへ向かいかける俺の後についてきた。矛盾した態度だ。だが、俺の心は緩まなかった。ブルマの醸す空気が怖い。やっぱりさっき見たブルマは俺の白昼夢…
「あんた、背中からシャツが出てるわよ」
廊下の角を曲がった時、ふいにブルマがそう言った。俺は思わず素で答えた。
「ああ…、さっき引っ張られたから」
ということは、お化け屋敷にいた時からずっとか。全然気づかなかった。自分では冷静なつもりだったけど、そうでもなかったってことか。っていうか、夢じゃなかった…
「何よ、あたしのせいだっていうの!?」
どう考えてもそうだと思う。しかし、もちろんそれは口にしなかった。口を噤む俺の横で、ブルマがさらに叫びたてた。
「しょうがないでしょ!だって、あれは…あれは…」
どことなく鋭さを欠いた声音で。珍しく語尾を詰まらせて。
「ああ、うん。うん、わかったから…」
無理に理由つけなくていいから。もう充分わかったから。
やっぱり、あれは夢じゃなかった。そして、今のブルマの態度は照れ隠しの八つ当たり以外の何ものでもない。それがはっきりわかったが、ここはとりあえず折れておくことに、俺はした。
つい数分前までは一人でいられないほど怯えていたというのに、今は一変してこの態度。今や俺は、わかり過ぎるほどわかっていた。
ブルマはお化け屋敷が怖いということが。そして、それ以外には怖いものなどないということが。結局、ブルマの苦手なものは、現実には存在しないものなのだということが。
その時、クラスのカフェが見えてきた。クラスメートの目につく前に、ブルマの怒声を抑えておく必要があると、俺は踏んだ。
「もうわかったから。…あー、そうだ、ストロベリーマキアート奢るから。それ飲みながら待っててくれ」
「何その言い方!あんた、あんまり調子に乗らないでよね!」
ブルマ自身の声が、俺の思いを助長した。首を竦めながら、俺は再び口を噤んだ。

2時のカフェは、まったくカフェらしかった。埋まるテーブル席。そこかしこから立ち上るコーヒーと紅茶の香り。食後のお茶か。それはいいけど、ここハイスクールだぞ。学校の祭りって、そんなにも寛ぐものなのか?
のどかな雰囲気の中でただ一人、不貞腐れたようにテーブルに頬杖をついている人間がいた。…俺の彼女だ。
「じゃあ、ストロベリーマキアートな。あ、イチゴケーキあるけど食べるか?」
「当然!」
一言の元に言い切られて、俺はブルマのいるテーブルを離れた。結構やることが溜まっていたからだ。ほとんどコーヒーのおかわりだけど。みんな寛ぎ過ぎだよな。
「1番にストロベリーマキアートとイチゴケーキ頼むよ」
俺が言うと、バックヤードにいたクラスメートが、少しだけ驚いた顔をした。
「ヤムチャくんはオーダー取らなくていいって言ったじゃない」
「うん、そうなんだけど…」
俺は言葉を濁した。…そこにブルマが座っているということは黙っておこう。そういうのはちょっとな。男としては恥ずかしいからな。
「2、3、5番がコーヒー、6番が紅茶のおかわりね。だいたい一巡したら上がっていいわよ」
「了解」
昼前とは違って単調なオーダーに安心しながら、俺はストロベリーマキアートが出来上がるのを待った。
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