仄進の女
それは武天老師様の元で修行を始めて、1ヶ月を過ぎたある夜のことだった。
「ではみなさん、お先に失礼します」
言いながら軽くリビングを眺め回して、俺は自室へ引き取るべく階段へと足を向けた。ここカメハウスでは俺は新参者、同時に武天老師様とクリリンにとっては末弟子にあたる。だが、特にそれらしく扱われているということはない。
「うむ、よう休めよ」
「おやすみなさい、ヤムチャさん」
顔をテレビに背中を俺に向けたまま武天老師様が、キッチンから顔を覗かせてランチさんが、気軽な口調でそう答えた。答えなかった兄弟子が、俺の後についてきた。
「おれももう休みます。老師様、ランチさん、おやすみなさい」
さして広くもない階段を、クリリンと2人肩を並べて上った。何か意があるわけではない。ただなんとなく、俺とクリリンは時々気が合うのだ。
「じゃあヤムチャさん、また明日」
「ああ、おつかれ」
簡潔に言い合って、互いの部屋のドアを開けた。後ろ手にドアを閉めた俺の頬を、涼やかな夜風が弄った。開け放した窓の向こうに広がる薄闇。その中に浮かび上がる一点の光に、俺はその時初めて気がついた。
「満月か…」
満月を見ると思い出す。ここにはいない、もう一人の兄弟子のことを。悟空――あいつは今、どこでどうしているのだろう。
俺に初めて土をつけた少年。満月を見ると大猿に変身する稀有な特質の持ち主。天下一武道会でまざまざと見せつけられたその強さ。圧倒的な技の数々。そしてそんな悟空に土をつけた老人…
『孫くんごはんの時間よーーー』
ふいに脳裏に声が響いて、俺は目を瞬かせた。自分の思考が意外だった。
なぜここでブルマが出てくるのか。あいつは関係な…くはないか。そうだな。ブルマと悟空は姉弟みたいなものだし。あの時だって、ブルマのあの一言がなければ、悟空は目を覚まさなかったかもしれない。
それでも、少々軌道がズレていることは確かだ。俺は今、武道のことを考えていたのだから。これまでずっと、そのことだけを考えて過ごしていたのだから。
そう、俺はカメハウスへ来てから今日まで一度も、ブルマのことを考えなかった。考えるどころか、思い出しもしなかった。夢にも出てこない。夢など見ないのだから。
俺は毎日、次の瞬間のことを考えて過ごしていた。朝、体をほぐし終えた後の、次の瞬間。50軒目の家に牛乳を配達した後の、次の瞬間。全身土塗れになって一つ穴を掘り起こした後の、次の瞬間…
すべての修行をこなし一日を終えた後には、一瞬にして意識を失った。そして次の朝となった。
それが俺の修行生活だった。のだが…ここにきてブルマのことを思い出したというのは、多少は余裕が出てきたということかな。少なくとも慣れてはきたのかもな。
――ブルマはどうしているかな…
改めてそう考えながら、俺はブルマには決して言えない事実を、自分の記憶から消しにかかった。
満月を見ていたら、悟空を思い出した。悟空のことを考えていたら、ブルマを思い出した。
「順番が逆だ」とブルマが知ったら言うだろう。下手をすると本気で怒るかもしれない。
これは自分でも忘れてしまった方が得策だ。


「お疲れ様です!ヤムチャ様」
ある日修行を一区切り終えてカメハウスへ戻ると、プーアルがいた。俺は何気なく答えた。
「プーアル、来てたのか」
「はい。お昼過ぎに」
プーアルは頻繁にカメハウスへやってくる。来る時間はまちまちだが、顔を合わせる時間はだいたい決まっている。お茶か食事の時間だ。
クリリンはともかく、俺はまだメニューをこなすだけで手一杯で、それ以外に時間が取れないのだ。一度など、プーアルが陽の落ちた後にやってきて、俺がそのことに気づいたのが翌日の朝食の時間だったことがある。プーアルはさして気にしていない様子だったが、俺は軽く自己嫌悪に陥った。さすがに少し情けなかったのだ。
そんな状態だったから、ブルマに釘を刺しておいたのはやはり正解だったと思えた。プーアルにさえそうした方がよかったかもしれないと思い始めたほどだ。せっかく来ているのにほとんど無視してしまっているというのは、かわいそうだからな。第一プーアルだから文句を言わないものの、これがブルマだったらと思うと…
そんなわけでブルマを思い出してからも、俺はしばらく刺した釘を抜くことをとどまっていた。だが、その日夕食の時間に、武天老師様が言ったのだった。
「のう、ヤムチャ。時におぬしのがあるふれんどはどうしておるのかのう」
「は?」
完全に虚を突かれて俺が一瞬押し黙ると、老師様は箸で宙に円を描きながら付け足した。
「ほれ、あのパイパイの大きな…」
「ああ、ブルマのことですか」
この形容でブルマのことだとわかるのもどうかとは思うが…まあ、事実なんだからしかたがない。
老師様は箸を手にしたまま、サングラスの奥から、俺には窺い知れない鋭い光を閃かせた。
「おぬしがここへ来てから、まだ一度も顔を見せないではないか。いかんのう。人間関係を疎かにしてはいかんぞよ。技を磨く修行を通じて人格を研磨する、それが武道じゃ。そしてわしの流儀は、己を磨くことによって自身の人生を充実させようというものじゃ。修行に身を入れるのは結構なことじゃが、それで他のことを蔑ろにしてしまっては本末転倒というものじゃぞ」
「はあ…」
武天老師様がこのような話をされるのは、非常に珍しいことだ。俺がここに来た初日には少しはそういう話をされたが、修行が始まってからはまったくと言ってもいいほどなさらなかったのに。…俺、何かまずいことしたかな。
「幸いにしてここは常夏じゃ。開放感溢れる夏の地じゃ。山じゃ。海じゃ。修行に興味のない者でも、楽しく過ごせるだろうて」
「ははあ…」
構えさせられたわりには、老師様の話は一向に重くなる気配がなかった。…いや、それとも煩悩の話をしているのだろうか。
老師様の意図を量りかねて、俺の箸は自ずと止まった。気づけば隣にいるクリリンもまたそうして、不思議そうに俺と老師様の顔を見比べていた。
ふいに老師様が眉を顰めた。
「おぬし鈍いのう…」
「は?」
「そうじゃ、おぬしには入門テストをしておらんかったな。ではこれをもって入門の証としてやるぞい」
一転して膝を打ったように老師様が笑った。その台詞を耳にして、俺はまた一つわからないことが増えた。
「なあ、クリリン。入門テストって何だ?」
俺が小声で訊ねると、クリリンは妙にしかつめらしい表情で、しかしきっぱりと答えた。
「『ピチピチギャルを連れてくる』というものですよ。それでおれと悟空が連れてきたのがランチさんです。ヤムチャさん、ブルマさんに気を抜かないよう言っておいた方がいいですよ」
「……」
ともかくも、師匠の言葉には逆らえない。それで俺はプーアルに、ブルマに釘を抜いたことを伝えるよう頼んだ。
クリリンの助言は添えずに。ブルマがあれ以上気を強く持ったら、どんなことになるやら知れないからな…




青い空。遠くに見える入道雲。いつもと同じ常夏の陽気。
ブルマたちがやって来るというその日、俺はいつもと同じように修行をしていた。おそらく到着するのは昼過ぎだろう。プーアルが来るのがいつもそれくらいの時分だし、今日もやはりそうするとプーアルが言っていた。だが、時刻がわかったからといって、俺の修行メニューが変わるはずもない。クリリンの言っていたことを信じるとすればなおさらだ。武天老師様は俺のことを心配しているわけではないのだからな…
だが、そのいつもの修行は、常ならぬ声によって妨げられた。
「きゃあぁぁあぁぁあぁぁーーーーー!!!!!」
耳をつんざくような悲鳴が意識の中に響き渡って、俺は瞬時に飛び起きた。ふと視界の片隅に、やはり俺と同じように飛び起きた様子のクリリンの姿が見えた。なんとはなしに目が合って、2人同時にハンモックを降りると、一足先に目を覚ましていたらしい師匠の声が聞こえてきた。
「少しくらいつつかせてくれんか。減るもんじゃなしいいじゃろ」
「減るわよ!あたしの純潔が!!」
それに答えているのは、その師匠が呼べと言った俺の彼女――
「あ、ブルマ…」
「来てたんすね、ブルマさん。お久しぶりです」
クリリンが声をかけると、ブルマがこちらへ顔を向けた。その瞳は、青く激しく燃え立っていた。
「あんたたちねー!」
久しぶりに聞いたブルマの声は、荒々しい怒声だった。
「ちゃんと師匠の行動に責任持ちなさいよ!それでも弟子なの!?」
瞬時に呪縛が、次いで理解が心の中に重なった。…早くも何か起こったらしい。素早すぎます、老師様…
思わず固まりかけた俺の隣で、兄弟子が先に動いた。
「は、はい、すみませんブルマさん。…武天老師様、修行修行!!」
「そ、そうだな。…老師様、早く次の修行をお願いします!」
少しだけ自分を情けなく思いながら、俺もそれに続いた。
「なんじゃおぬしら、2人して。修行ならおぬしら勝手に…」
「ダメです!!老師様がいらっしゃらないと。ご指導ください、老師様!!」
俺とクリリンはどちらからともなく老師様の腕を掴んで、カメハウスから――ブルマの傍から離れ始めた。後ろ向きに引き摺られながらも老師様は師匠風を吹かせて、俺たちに脅しをかけてきた。
「おぬしら、力が有り余っとるようじゃのう。メニュー追加してみるか?それとも甲羅の重さを倍にした方がよいかのう」
だが、俺もクリリンも老師様を拘束する腕を緩めはしなかった。
クリリンはどうか知らないが、ようやく慣れかけてきた俺にとって、ここでハードルを上げられるのは正直言ってキツイ。しかしその思いを超える心理的重圧が、俺の心にのしかかっていた。
瞳に燃え立つ炎。つりあがった眉。間髪入れず口から出てくる怒りの言葉――
久しぶりに見たブルマの姿は、相変わらずの怖さだった。

武天老師様は少しだけ、先の言葉を実行した。俺たちが幾分早く昼寝を切り上げたせいもあり、修行時間が長くなったのだ。いつもより余計に汗を掻いてカメハウスへと戻った俺たちを、プーアルとランチさんがいつもの笑顔で出迎えた。
「お疲れ様です、ヤムチャ様!」
「みなさん、お疲れ様です。お茶の用意出来てますわ」
リビングへ足を踏み入れると、コーヒーの香り漂う中、ブルマがさしたる違和感もなくソファに座り込んでいた。ウーロンもまるで我が家のような寛ぎで、テレビを見ていた。…こいつら、遠慮ってものがまるでないな。C.Cにいた頃とまったく変わらぬ雰囲気だ。
「よう、邪魔してるぜ」
思い出したかのようにウーロンが言った。ブルマは何も言わなかった。まあ、そうだろうな。さっき顔合わせたしな。あんなことの後で、挨拶も今さらないだろう…
「お飲み物、温かいのと冷たいの、どちらになさいます?」
いつものようにランチさんが言った。いつもとは違う答えを、俺は返した。
「あ、冷たいのお願いします」
「おれもアイスで…」
俺とクリリンの返事を、武天老師様が楽しそうに笑い飛ばした。
「ほっほっ。おぬしらもまだまだじゃのう」
誰のせいですか、誰の。
クリリンと2人、目を合わせて溜息をついた。まったく困ったお人だ、武天老師様も。
渇いた喉にアイスコーヒーを流し込んでいると、ブルマが無造作に口を開いた。
「いい生活してるわね、あんた」
どことなく咎めるようなその口調。『いい生活』…どういう意味だろう。確かに充実してはいるが。
俺が答えに詰まっていると、ウーロンが横から口を出した。
「おまえ、ひとのこと言えんのかよ」
こちらはあきらかに咎めている。すかさずブルマが言葉を返した。
「あんた、何が言いたいのよ」
「ここで言っていいのかよ」
「言われて困ることは何もないわよ」
「…図太い女だな、おまえ」
不機嫌に不機嫌で答える会話。無謀に突っ込んでいっては、やはり負けの漂うウーロン。相変わらずだな。それにしても、一体何の話をしているんだ。
2人の空気に慣れているはずのプーアルも、慣れていないカメハウスのみんなも、呆気に取られたように2人を見ている。俺はちょっと恥ずかしくなってきた。
「俺、ちょっと体慣らしてきます。武天老師様、お先に失礼します」
なおも続けるらしいブルマとウーロンを横目に、不思議そうな視線を他のみんなに向けられて、俺はカメハウスを後にした。まったく困ったやつらだ、あいつらも。
どこにいても同じ調子で。進歩ってものがまるでないんだからな…


その後夜が更けるまで、俺はブルマとほとんど口をきかなかった。夕食の際になんということのない会話を幾度かしただけだ。その他の時間は、俺はずっと外で修行を続けていた。しかたがないよな。これが俺のここでの生活だ。でも、きっとブルマは怒っているだろうな…
そう思いながら最後の修行を終えかけて、カメハウスの前、武天老師様が監督がてらいつも腰掛けている岩のところへとやってきた俺は、ふと異変に気がついた。武天老師様がいない。なぜか杖だけが、捨てられたように岩の横に転がっている。
「クリリン、老師様を見かけなかったか?」
俺よりも数周早くメニューを終えて後ろからやってきたクリリンに、俺は訊ねた。
「さあ…途中にはいませんでしたよ」
「変だな。ハウスに戻ったのかな。でもどうして杖がここに…」
その時、カメハウスの横手から、明るい鼻歌が聞こえてきた。聞き慣れたランチさんのキッチンソングではない。水の音に混じって流れてくる、くぐもった女の子の声…
「ヤバイ、クリリン!ブルマが風呂に入ってる!!」
「まさか武天老師様…!」
俺たちは甲羅を脱ぐのも忘れて、ハウスの横手へと走った。バスルームの小窓から漏れてくる光と共に、それが目に入った。
小窓の下に自らの甲羅を脱ぎ捨てて、それを足場に窓へと手をかけようとしている武天老師様…俺は思わず声を荒げた。
「老師様、何やってるんですか!」
「ブルマさんにバレたら大変ですよ!!」
少々ピントのズレたことを、クリリンは言った。だが、それを咎めることは俺にはできなかった。なにしろブルマは本当に怖いからな…
武天老師様は俺たちをちらと一瞥しただけで、すぐに視線を小窓へと戻した。
「何、ちょこっと見るだけじゃ。余命幾ばくもない老人のささやかな楽しみを邪魔せんでくれんかのう」
「老師様、元気じゃないですか!おれたちよりずっと強いじゃないですか!」
「いやいや、寄る年波には勝てんよ」
本当にそう思うのなら、そっちの方も控えていただきたい。俺はそう思ったが、さすがに口には出せなかった。
「修行!老師様、修行がまだ残っています!お願いしますから、あちらに…」
俺が言いかけた時、鼻歌が止んだ。くぐもった訝り声が、小窓の中から聞こえてきた。
「ちょっとー、誰かそこにいるのー?」
俺とクリリンは慌てて自分の口を塞いだ。一人老師様だけが、飄々として口を開いた。
「もう2ヶ月目じゃ。おぬしもだいぶん慣れたじゃろ。わしがいなくても…」
「何言ってるんです。老師様がいなけりゃ話になりませんよ!なっ、クリリン!」
「そうですよ、老師様に指導していただかないと。おれたち、まだまだなんですから!」
クリリンが老師様本人の言われた言葉を返すと、老師様は小さく舌打ちした。その時、僅かな隙ができた。俺とクリリンはほとんど同時に、老師様の腕を取った。
これも修行の賜物…
皮肉な言葉を心の中で呟きながら、俺たちは老師様を後ろ向きに引き摺って、カメハウスから――ブルマの傍から離れ始めた。

気力と体力の双方を使い果たして、俺はカメハウスへと戻った。昼間に続いて最後の修行も、定量オーバーとなった。ブルマが風呂から上がったと思えるまで帰るわけにいかなかったからだ。そしてブルマの風呂は長い。まったく疲れる一日だ。
やっぱり、ブルマに釘を刺しておいて正解だった。もしこれが修行当初だったなら、老師様を抑えるだけの余力が俺にあったかどうか。今だってギリギリなのに。
一日を終えた後のカメハウスは賑やかだった。特にみんなで何かをするわけではないし、ここはもともと賑やかな雰囲気ではあるのだが、いつにも増してその空気が色濃かった。テレビを前にあまり深入りしたくのないある共通の話題で盛り上がっている武天老師様とウーロン。呆れたようにそれを後ろで見ているウミガメ。盛んにキッチンとリビングを往復しているランチさん。俺とランチさんの間を行ったり来たりしているプーアル。クリリンはバスルームへ、ブルマは寝室へと消えていたが、それでも十分に密度が高く感じられた。俺はC.Cにいた頃のお茶の時間を思い出した。いや、ホームシックではない。そうではなくて…
クリリンと入れ替わりに風呂へ入り、自室へと続く階段を上りかけると、少しだけ空気が静かになった。階下から漏れてくる声を聞きながらドアへ手をかけようとして、俺はふと気づいた。
ドアが僅かに開いている。隙間から光も漏れている。ランチさんが掃除…しないよな、こんな夜中に。だいたい、キッチンにいたはずだ。
「おかえり」
俺の疑念はすぐに解消された。ブルマがパジャマ姿で部屋にいた。窓に添うようにその際の床に腰を下ろして、ちらりと俺の方を見た。…起きてたのか。てっきりもう寝たのかと思っていた。
何も文句を言われないなんておかしいなとは思っていたが。だって、今日一日放っておきっぱなしだったからな。…つまり、まだ一日は終わっていなかったというわけだ。
俺は少し構えながら、ベッドの端に腰を下ろした。だが、俺の予想に反して、ブルマは黙って窓から外を見ていた。その横顔の瞳も燃え立ってはいなかった。ブルマにしては珍しく、大人しげにさえ見えた。
俺が首を傾げかけた時、ブルマが呟くように口を開いた。
「ずいぶん遅くまでやってるのね。いつもこんななの?」
「ああ…まあ、だいたいこんな感じかな」
俺は嘘をついた。いつもはもっと早くに終わるとは、とても言えない。ブルマが来ている時に限ってどうしていつもより遅いのかと咎められるに決まっているし、理由を言えばさらに怒られるに違いない。…まったく、武天老師様も困ったお人だ。
「ふうん」
ブルマは曖昧に頷くと、それきり言葉を切った。それを幸いとして、俺も黙った。この話題は続けたくない。リスクが高すぎる。それと平行してもう一つ、とりたてて雄弁になる気にはならない理由が、俺にはあった。
…なんか、久しぶりっていう感じが全然しないんだよな。
そりゃあ、たった一ヶ月強といえばそれまでだけど。でも、ここに来るまではずっと一緒にいたんだから、結構な環境の変化のはずなのに。それにしては違和感がなさすぎる。どうも、ウーロンが2人に増えただけというか。ママさんがランチさんに代わっただけというか。ブルマが少しは何かそれっぽいことを言うかと思っていたんだけど、それもないし。まったく変わらん。C.Cにいた頃とおんなじだ。
そんなことを考えながら、俺はシャワーに濡れた後ろ髪をタオルで拭っていた。いつもと同じように。いつも一日の修行の後でそうするように。C.Cにいた頃トレーニングの後でそうしていたように。
ブルマは窓枠に片頬杖をつきながら、どことなく怪訝そうに俺を見ていた。俺が前髪にタオルを移すと、その口元が緩んだ。なぜか満足気な笑みを浮かべて、数瞬窓の外に視線を飛ばした。それから急にどこか遠くを見るような目になって、そうかと思うと数度目を瞬かせ、再び俺に向き直った。そして深い溜息をついた。
なんだなんだ。まるで一人百面相をやっているようでもあるが。何か意があるのは確かなようだが…
「あの…」
「ねえ」
疑問を感じながらとりあえず発した俺の声は、ブルマからの呼びかけと完全に被った。同時に、俺をまっすぐに射抜く瞳をそこに認めて、俺は心を怯ませた。
「何?」
「いや…」
間髪入れずブルマから問い返されて、俺は言葉に詰まった。…それは俺の訊きたいことだ。
おぼろげなデジャビュが、じわじわと心の中に広がった。重なる言葉。強い視線。いくつかの似たような思い出。だが、そのどれとも少しずつ違っているように、俺には思えた。
「ねえ、ヤムチャ」
片頬杖を解きながら、ブルマが目線を上げた。俺の中で、僅かに時間が逆行した。ブルマと過ごしたあの時間。それを肌で思い出しかけた時、ギシリと大きくドアの軋む音がした。思わず腰を浮かせた俺の耳に、聞き慣れた住人たちの声が入った。
「さっぱり動きませんね」
「つまらんのう」
「だから言ったろ。あいつらはこんなもんなんだって」
「いえいえ、こういうことの気は長く持ちませんと…」
「そろそろお茶をお持ちしてもいいかしら」
俺が立ち上がった時にはすでに、ブルマがドアに手をかけていた。そして声をかける間もなく、勢いよくドアを開けた。ドアが開くと同時に、雪崩れ込むように床に膝をつく一同の姿が目に入った。
決まり悪そうに口元をひくつかせているクリリン。それとは対照的に、まったく動じていない様子の武天老師様。すでに半分、体の逃げかけているウーロン。あまりいつもと変わらない困り顔のウミガメ。頬に手を当て驚きの仕種を取りながらも、あくまで雰囲気は朗らかなランチさん。そして唯一まともに困惑している様子のプーアル…
どうしてみんなそんなところに。いや、それはもうわかっている。…それにしたってランチさんまで…
「みんな、一体何やってんのよ!」
本当に少しだけ動揺を覗かせて、ブルマが叫んだ。一応は他所宅だと思っているらしい。それでも十分に傍若無人な態度だけど。
「いえ、あの、その、お2人がケンカしているんじゃないかと心配になりまして…」
答えたのはクリリンだった。通常、ここはウーロンが突っ込んでいくところなのだが。役回りが変わったのだろうか。しかし結局、同じようなことを言われているな。この2人、思考が似てるのか?それともやっぱり、俺たちはそう見えるという話か?
「余計なお世話!!」
ブルマが再び叫んだ。その言葉に、俺は首を捻った。いつもと反応が違うな。ここは否定するところだろ。それだと、まるでケンカしていたように聞こえるんだけど…ケンカ、してないよな?ブルマは怒っていなかったし。俺だって何もしてないし…
「あんた、修行怠けてるんじゃないの?煩悩ありすぎよ!…さあ、散った散った!!」
蜘蛛の巣を振り払うように片手を振ってブルマが言うと、みんなは足早にドアの前から姿を消した。カメハウスのみんなはあまりブルマの怒声に慣れていないからな、その反応も素直なものだ。ウーロンはそれに引き摺られた、といったところか。
みんなの足音が階下へ遠ざかると、俺に背中を向けたままブルマが言った。
「じゃあね。おやすみ!」
荒々しくも鋭さの欠けた声音で。どことなく含んだところのあるような口調で。
変わってないと思ってたけど、少し違うかな。性格が変わったわけではないのだが、なんとなく…
ドアが閉められた。程なくして廊下の向こうから、別室のドアを開ける音がした。
「あーあ!」
何かをなじるような大きな叫びが、耳に届いた。
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