亢進の女(前編)
徐々に白んでくる空。地平線に現れる光。振り払われる冷気。小鳥のさえずり…
「ふわぁ〜あ…」
2度目の欠伸が出た。早朝トレーニングの途中で。
昨夜はよく眠れなかった。というより、寝かせてもらえなかった。
「おまえ、本当に物好きだな。尊敬するよ」
「本当にお部屋はいらないの?遠慮なさらなくてもいいのよ。そうだわ、お祝いのケーキを焼こうかしら」
「わしのコレクションを貸してあげよう。勉強になるよ」
延々と続く冷やかし(?)の嵐。俺以外にとっての団欒の時間。二の句どころか、何も言えなかった。肩に乗るプーアルの体さえ、重苦しかった。なんとかリビングを引き取るまでの数十分、それがどれほど長く感じられたことか。ウーロンは部屋にまでついてくるし。…本当に参った。
「ふあぁあぁ…よし!」
両手で頬を叩いて、欠伸を引っ込めた。強引に気を引き締めてトレーニングを再開した時、外庭の端にブルマの姿が見えた。左手の木立に沿って、こちらへ向かってゆっくりと歩いてくる。
「おはよう。早いな」
まったく構えずに、俺は声をかけた。今ひとつ頭が働いていなかったせいもある。でもそれを別にしても、ブルマの機嫌はよさそうに見えた。
「目が覚めちゃったのよ」
俺の感覚を裏切ることなく、ブルマはさっくりと答えた。寝惚けているわけではないらしい。徹夜明けのような雰囲気にも思えない。ふと空を仰ぎ見ると、まさに朝日が昇りきるところだった。珍しいな、ブルマがこんなに早起きをするなんて。しかも機嫌よく…
ブルマはそのまま立ち木の根元に座り込んだ。珍しいはずのその行為が、なぜかすごく自然なことのように思えて、俺はそれ以上観察するのをやめた。ブルマは左手で右肘を支える格好で片頬杖をつきながら、どことなくぼんやりと宙を見ていた。その腕が解かれるのを俺が横目に認めると同時に、再び口を開いた。
「ねえ、ヤムチャ」
「うん?」
やはりさっくりとしたその口調に、俺は構える必要を感じないまま、素直に答えた。
「今日、午後から遊びに行かない?」
少しだけ意表を突かれて、型をやっていた体を崩した。今日は平日。休校日でもない。ブルマがサボりを口にすることなど珍しくもないが…
手早く思考を巡らせて、ブルマの傍へと行きかけた。だが一歩を踏む前に、ブルマ自身が俺の行動を遮った。
「ちょっと誰よ、そこにいるの!?」
唐突に叫んだかと思うと、腰を上げて木立の間へと視線を飛ばした。その視線の先を追うと、伸びかけた草をかさかさとざわめかせて、木立の陰からウーロンが姿を現した。
…こいつ、なぜそこに。というか、いつからそこに。それにしたっていい加減しつこいというか、…地獄耳か?
半ば呆然と俺が立ちつくしていると、やはり立ちつくしていたブルマに向かって、ウーロンが嘯いた。
「おまえ目聡いな。っていうかやらしいな」
「それはこっちの台詞よ!」
最もなことを、ブルマは言った。俺はまったく頷くしかなかった。
ブルマの怒声にも、ウーロンは引かなかった。特有の白々しい口調で、いつものように言葉を続けた。
「おまえ、いつもはギリギリまで寝てるくせして、こんな時だけ早起きしやがって…」
「あんたたちのせいでしょうが!!」
まるっきり自分に当てはまっていることを、他人に冠して話すウーロン。それに怒りを掻き立てられるブルマ。
一体どうやって2人を治めようかと俺が考えていると、ブルマがふいに背を向けた。ウーロンを相手にするのはやめたらしい。
「あ、おいブルマ…」
それはいいのだが、俺にも顔を向けぬままポーチの方へと歩き始めたので、俺は反射的に声をかけた。まだ話が途中だ。続く言葉は纏まりきっていないけど。ウーロンのいるところで話すのも少し微妙だが…
ブルマが足を止めた。緩やかに振り向いたその顔は、怒ってはいなかった。だが次の瞬間、それは呆気なく崩された。
「べーだ!」
言いながら赤目を剥くと、わざとらしく舌を出して、ブルマは再び顔を背けた。そして、来た時より遥かに早い足取りで、外庭を出て行った。思わず目を丸くした俺の隣で、ウーロンが呟いた。
「あいつ、かわいくねえな…」
さっきまでブルマがウーロンに向けていた台詞を、表現を変えて俺は心に呟いた。
…誰のせいだ、誰の。

「みなさん、行ってらっしゃい。お気をつけてね」
にこやかに笑いかけるママさんの声を無視して、ブルマは一人さっさとポーチを出て行った。なんとなく声をかけ損ねてその後を追った俺は、ゲートを潜ったところでブルマが小さな欠伸を漏らしたことに気がついた。
やっぱりというかなんというか。早起きし過ぎだな。これは本当に午後からサボりそうな気配だ。…今のうちに少し言っておくべきだろうか。あまり聞き入れてもらえる気もしないけど…
「しょうのないやつだな、あいつは」
俺の隣に並びかけながら、ウーロンが白けた口調で言い放った。
「もうすぐおまえがいなくなるっていうのによ。いつまでもかわいげのない態度取りやがって」
…誰のせいだ、誰の。
再び心の中で呟いて、俺はどことなくツンとした雰囲気で一人先を歩く菫色の髪に視線を戻した。
確かに俺も、今のブルマの態度がかわいげのあるものだとは思わない。朝食の時も、ずっと眉を顰めながら素っ気なさを保っていた。…しかしなあ。昨夜に続いて今朝もだぞ。それでにこにこしてろって言う方が無理なんじゃないか?少なくとも、ウーロンがそれを言うのは絶対に間違っていると俺は思うが。…ウーロンにも今のうちに言っておくべきだろうか。言って変わる気はまったくしないけど。
…どうも不安だな。ブルマとウーロンをこのままにして武天老師様のところへ行くの、少し…いや、だいぶん不安だ…
結局ブルマは一度も後ろを振り向かないまま、ハイスクールのゲートを潜った。
「おまえも大変だな」
まったく心配していない口調で呟いて、ウーロンは小等部のゲートを潜った。それを追いかけるプーアルを横目に、俺はブルマを追いかけた。

エントランスを通り抜け、クラスに面する廊下のロッカーに手をかけた時、唐突にブルマが言った。
「あんた、体より頭を鍛えた方がいいんじゃないの?」
怒っているというよりは、呆れを漂わせた口調で。さっくりと切って捨てるような言い方に、虚を突かれつつも他方では気を緩められて、俺もさっくりと答えた。
「それはブルマにまかせるよ」
「あたしはもうクリアしてんのよ!」
すぐに返事が返ってきた。事実に裏打ちされた、不遜な台詞が。…この無造作さ、遠慮のなさ。どこまでも自分を信じて疑わない不敵な性格。
「あたしはあんたのことを言ってんの!あんた、考えなさすぎよ!」
「そうは言ってもな…」
すでに俺の不安は形を変えていた。…そうだよな。ブルマがウーロンに負けるわけがないよな。そして、ウーロンがへこたれるとも思えない。そういう意味では、2人の仲は問題ない。それよりも、今の自分の身を心配した方がよさそう…
俺のこの思いは、次の瞬間増大した。ブルマに答えながら開けたロッカーの中から、ドアの動きに合わせるようにひらひらと一通の封書が舞い落ちてきたのだ。空中を踊りながら目にちらつくハートの刻印…
…ヤバイ。ひさびさにきた。
咄嗟に掴んで、急いで背中に隠した。ロッカーのロックは確かにかけていた。どうやら隙間から入れられたらしい。果たしてこれで、ロックの意味があるのだろうか。ちゃんと名前が書いてあるといいんだけど。じゃないと心の準備ができん…
「…何してんのよ、あんた」
「え?」
咎めるようなブルマの声で、我に返った。ブルマは自分のロッカーには向かわずに、片眉を上げて、背中に回した俺の右腕を凝視していた。
「何か隠したわね。見せなさいよ」
「い、いや、これは…」
刻一刻と険しくなるブルマの顔から目を逸らしながら、俺は文字通り降って湧いた災厄の元を――ラブレターを――シャツの中に潜り込ませかけた。その時、背後から聞き慣れたクラスメートの声がした。
「よっ!モテる男は辛いね〜」
悪意のない冷やかし。悪気のない冗談。少しだけ入り混じった、他人のトラブルを楽しむニュアンス――それに俺が肝を冷やした瞬間、ブルマに右腕を掴まれた。力を篭めた時には遅かった。すでにラブレターを握った俺の手は目前の宙に晒されて、差出人の名前さえ読むことができた。
「あんた、まだこんなことやってるの!?」
眉をつり上がらせて、ブルマが叫んだ。その大声に耳を侵されながらも、俺は何とか事実を口にした。
「やってるって…これは勝手にロッカーに入れられて…」
「じゃあどうして隠すのよ!!」
…だって、見せたらきっと怒るから。見せなくても、知られただけでも怒るような気がしたし。
その言葉は呑み込んだ。そんなこと言ったら、もっと怒られる。これは確実だ。
俺が口を噤むと、ブルマの瞳がきらめいた。こんな場面じゃなかったら見惚れたに違いない、吸い込まれそうな深い青…
「バカ!」
一瞬それに気を取られた俺の耳に、かつて聞いたものと同じ罵声が飛び込んできた。
「女ったらし!!」
俺は反射的に顔を腕で覆った。だが、予想していた平手は飛んでこなかった。俺を真正面から睨みつけると、投げ捨てるように俺の腕を放して、ブルマは廊下の彼方へと走り去った。

呆然とブルマの後姿を見送ってそのまま亡羊としているうちに、予鈴のチャイムが鳴った。ラブレターをポケットに突っ込んで、俺はクラスのドアを開けた。耳が少しずきずきしていた。
…やっぱり怒ったな。しかも、あの時と違わぬ大声量で。
続いて本鈴が鳴り、授業が始まった。半ば惰性でテキストを捲りながら、俺はさして色褪せていない記憶を掘り起こした。
ハイスクールに通い始めた初日。初めて貰ったラブレター。あの時も、俺はブルマに今と同じように怒られたっけ。あの時は、どうしてブルマが怒るのかわからなかった。ただ『叩かれた』という事実がショックで、そのことばかり気にしていた。でも、今ではわかっている…たぶん。何がどうしてブルマは嫌なのか。それがわかっている…と思う。少なくとも、あの頃よりはずっと。
しかし、それにしたってなあ――
自分に分がないことを自覚してはいても、釈然としない気持ちが俺にはあった。
――『女たらし』はないだろう、『女たらし』は。口からでまかせもいいところだ。バカと言われるのもヤキモチを焼かれるのも(あまり焼かれた覚えもないけど)それなりに受け止めるが、『女たらし』はひどいよな。早いうちに取り消してもらうべきだな。
そう気持ちを固めたのが4限目の体育の時間。着替えを済ませ自分のクラスへと戻る途中の廊下の角で、俺は足を止めた。
すぐ目の前にブルマがいた。まさしく出会い頭。思わず目を瞬かせた俺の前で、ブルマは判りやす過ぎるほどあからさまに踵を返した。
「あっ、おい、ブルマ…!」
ほとんど無意識のうちに、俺はブルマを呼び止めた。意外なことに、ブルマは素直に足を止めた。振り向き加減に強い視線を寄せられて続く言葉を探し始めた俺は、半瞬の後にその行為を遮られた。
「ヤムチャくーん、これ食べて!」
背後から聞き覚えのあるクラスメートの声がした。振り向く間もなく横から、俺の手に仄かに香ばしい匂いを発するペーパーバッグが押し付けられた。
「調理実習で作ったクッキーよ。絶対食べてね!」
言い終えるが早いか、女の子は駆け出していた。口を開いた時には、もう遅かった。すでに女の子は俺の声の届かない距離にまで達していて、先ほどまで窺うように俺を見ていたブルマの顔は、憤怒の表情に変わっていた。
「もう…!」
ブルマの言葉は聞き取れなかった。俺の頭と耳の中は、ある一つの音に占拠された。すっぱりと空気を切り裂く、鈍く鋭い痛みを伴うその音を、俺はよく知っていた。ブルマがそうした理由も。そうされるに至った、客観的な理由も。
それでもやっぱり俺は呆然として、駆け出すブルマの後姿を見送った。殴られた左頬に指を当てた。感覚は鈍かった。

思考を停止させながらクラスへ一歩を入り込むと、俺の机の周りに数人の男子が寄り集まっているのが見えた。その顔ぶれには、ある一つの共通点があった。心の中に嫌な予感が沸き起こった。
「よっ、色男。待ちかねたぞ」
俺が近づくと、中の一人が大仰な仕種で椅子を引いた。恭しくもわざとらしい笑顔で、前の席のやつが嘯いた。
「おまえがなかなか来ないから、代わりに受け取っておいてやったぜ」
俺の予感は的中した。ホワイト、イエロー、ピンク。リネン、ペーパー、ビニール。パッケージは違えど大きさはほとんど同じ、プレゼント風の包み。それが両手の指の数ほど机の上に並べられて、一つの同じ匂いを発していた。
調理実習。クッキー。…あー、もっと早くに気づけばよかった。
俺は溜息をつきながら、いらぬ世話を焼いてくれたクラスメートに釘を刺した。
「あのさ。しつこいようだけど、俺こういうものは…」
「食えないっていうんだろ。大丈夫、ちゃんとみんなで食うって言っといたから。さ、食おうぜ」
俺の声は流された。あっという間に俺の机は半ダースほどのイスに囲まれて、その上に座る野郎どもが、どことなく似通った幾種類かのクッキーを口に放り込み始めた。勝手に減っていく災厄の元に安堵しつつも、少しだけ違和感を感じて、俺は誰にともなく呟いた。
「こういうことしていいのかな…」
「くれるやつがいいって言うんだからいいんだよ。うーん、これちょっと苦いな」
「それよりこの白いやつ、何だと思う?なんかネトネトするんだけど」
「ヤバくね?それ」
「いや、女の子の作った物というだけで、おれは満足だよ」
俺の声はまたもや流された。場はすでに、問答無用のクッキー味比べ大会と化していた。…まあ、いいか。きっとブルマのあの様子では、昼食の誘いには来ないだろうし…
証拠は10分ほどで隠滅された。そのまま惰性で弁当を広げだした数人のクラスメートに、俺は訊ねてみた。
「なあ、俺って『女たらし』に見えるか?」
一応、客観的な意見を聞いておこうと思ったのだ。クラスメートはまったく表情を変えずに、無造作に言い放った。
「おっ、おまえやっとやる気出したのか。遅ぇ〜」
「よーし、合コンやろうぜ、合コン。おまえがここにいるうちに。根こそぎ声かけてさ」
「いや。そうじゃなく…」
慌てて打ち消した俺の声は、まるっきり無視された。
「別にたらし込まなくたっていいからさ。おまえにゃ無理だろ。おまえはいてくれさえすればいいんだ」
「うん、むしろその方がいい。おまえは何もしない方がいい」
「おまえは好きなだけ彼女の尻に敷かれてろ」
「……」
俺はまったく返す言葉が見つからなかった。
わかりやすいよな、男って。…わかりやすいけど、反応に困るぞ。
しかしこれで、他人の目から見ても俺が『女たらし』ではないということがはっきりした。そうだよな。ラブレターだって滅多にもらわなくなったし。物は時々渡されかけるけど、ちゃんと断ってるし。食べ物は野郎どもに回してる(回されてる?)し。やっぱりブルマの言葉は、謂れなき暴言だ。絶対に撤回してもらうべきだ。
再び気持ちを強くした時、そもそもの原因を放置していたことに気がついた。朝ロッカーから出てきたラブレター。差出人が声をかけてこないのをいいことに、ポケットに入れたままだった。たいていは半日も経った頃に返事を催促されるものだが…
その面倒を待つつもりは、俺にはなかった。改めて見たラブレターの差出人の名に、心当たりはなかった。ロックのかかったロッカーに無理矢理突っ込まれた無礼。それに義理を感じる理由も、またなかった。

目には目を。歯には歯を。ロッカーにはロッカーを。
古来よりの慣例に従ってラブレターを処分した俺は、そのままブルマのクラスへと向かった。このいざこざをC.Cにまで持ち込みたくはない。ウーロンあたりが悪化させてくれそうな気がすごくする。それに昨日の今日でもうケンカというのがな…どうにも知られたくない事実だ。
昼休みに俺がブルマのクラスに行くことなど、ほとんどない。昼食の誘いはいつもブルマからだ。おそらくまたブルマのクラスの子に、例の台詞を言われるに違いない。…今日は否定できないな。さて、何と言って誤魔化そう…
俺は努めて小さなことに頭を悩ませながら、廊下を歩いた。ブルマに言うことはだいたい決まっている。問題は聞き入れてもらえるかどうかだが…今それを突き詰めて考えても、気が滅入るだけだ。
『おまえは好きなだけ彼女の尻に敷かれてろ』
先のクラスメートの言葉が頭に響いた。…やっぱりそうなのかな。
ふと目をやった窓の外に、それが見えた。このハイスクールには一人しかいない、菫色の髪。内庭をただ一人、中等部校舎の方角へと歩いていく。そのまましばらく見ていると、やはりブルマは中等部の校舎へと消えた。数瞬の後、非常階段の隙間に菫色がちらつき出した。
屋上か。ブルマの行動も、いい加減ワンパターンだな。わかりやすくていいけど。
努めて気楽に構えて、踵を返した。菫色の髪を横目に追いかけながら、その行き先へと向かった。

屋上へと続くドアはマニュアルロック式。本来ならば到底開けられない代物だが、俺はなんなくドアを潜った。すでに開いていたからだ。
もちろんブルマが開けたのだ。そうとわかっていても――いや、だからこそ――俺の気は緩まなかった。可能な限り静かにドアを開けた。
「ブルマ…?」
返事はなかった。姿も見えなかった。おかしいな。確かに上っていったのに。一頻り屋上を眺め回して首を傾げかけたところで、ふいに気がついた。
微かに感じる人の気配。脳裏に甦る、まったく色褪せていない新鮮な記憶――ペントハウスだ。
すぐさまペントハウス側面の梯子に手をかけた。思った通り、ブルマはペントハウスの屋根の上にいた。
梯子の方に足を向けて、横向き加減に仰向けて。顔の横で両手を揃えて、両足を無造作に投げ出して。長い睫と半開きの唇を隠すこともなく、深い寝息をたてていた。風に流れる横髪。覗きすぎている太腿…
熟睡してるな。やっぱりというかなんというか…早起きし過ぎだな。日の出と共に起きるなんて、慣れないことをするからだ。しかし、それにしたってなあ――
俺の緊張の糸はすっかり切れていた。俺に緊張を強いておきながらそれをあっさり断ち切った女の子の様相に、むしろ文句をつけたい気持ちになっていた。
――隙あり過ぎだよな。どうして内側からロックをかけておかないんだ。こんな気の抜いた格好で昼寝して、来たのが俺だったからいいようなものの…まったく、能力あるくせに間抜けなんだから。今まではそれでいいと思っていたけど、これからは…ブルマをこのまま一人にするのは…
乱れたブルマの足を軽く正して、俺はその隣に腰を下ろした。その時、昼休み終了のチャイムが鳴った。一瞬腰を上げかけて、すぐに思い直した。
いいさ。ハイスクールももう終わりだ。最後に1限サボるくらい、何の問題もあるまい。
頭上に広がる青い空。遥か遠くに見える雲。…空はどこで見ても同じだろう。でも雲は…
風が戦いだ。ブルマの口に入る横髪を指で除きながら、その隣に寝転がった。
もう少し思考を纏めたい。でも、今ひとつ頭が働かない。昨夜よく眠れなかったから。というより、寝かせてもらえなかったから。
「ふわぁあ…」
ふいに欠伸が出た。早い話が、俺も眠たくなってきた。
…少し寝かせてもらうとするか…




「きゃあぁぁあぁぁっ!!」
大声量が響き渡った。頭と耳の中の両方に。
「ちょっとあんた、何してんのよ!」
それがブルマの声だということはわかった。だが、そうとわかっても、俺にはどうすることもできなかった。
耳が痛い。頭がガンガンする。…そんなに大きな声出さなくても聞こえてるって。すぐ隣にいるんだからさ…
薄く開けた目の中に、青い瞳が飛び込んできた。深さの知れない水の色。見る者の心を引き摺り込む海の色…
「手離してよ!あんた何でここにいるの!?一体どうやって入ってきたのよ!何で横で寝てんの!それに今触ったでしょ!ひとが寝てる隙に何してんのよ!!」
響き渡る機関銃声の中から、かろうじて最初の一語を拾い上げた。頭上にきらめく青い瞳から自分の手へと視線を落とすと、確かにブルマの言う通りだった。
俺の右手がブルマの左手を拘束していた。…あー、さっき掴んだパイソンはこいつの手だったのか。
俺が手を離すとブルマはすばやく起き上がって、燃え立つ瞳で俺を睨みつけた。
「ちょっと!聞いてんの!?」
「あー…ああ、ええと…」
未だ目覚めない体を無理矢理起こした。刻一刻と色を増すブルマの瞳を見ながら、俺は頭の中の靄を払いにかかった。えーと、手を離して…それから何だっけ?
「話をしようと思って来たんだ。ブルマが階段を上がっていくのが、廊下から見えたから。ドアは開いてたぞ。昼休みに来たんだけど、昨夜あまり寝てなかったもんだから、眠くなっちゃって。触ったって…それはブルマが髪の毛食べてたから…」
最後の一件のみ少々自信を弱くしながら、俺は答えた。なにしろ記憶がない。寝ていたから。でも、その後は何もしていないと思うんだけど。
「…あっそ」
どことなく気の抜けた声でブルマは言い、瞳の色を和らげた。どうやら納得したらしい。それで俺も納得することにした。本人がいいとしたのだからいいのだ。それよりも今は耳が痛い。こいつ、本当に声大きいんだから…
「もういいわ」
とはいえ今ではブルマの声は、決して大きくはなかった。内心こっそりと胸を撫で下ろした俺の耳に、続く言葉が入った。
「さっさと出てって。あたしは5限目が終わるまでここにいるんだから。あたしが先に来てたんだからね!」
言うが早いか、ブルマは言葉を実行し始めた。俺をペントハウスの屋根から突き落とそうと、力任せに押してくるブルマの顔を背後に見て、俺はようやく目が覚めた。
「いや、待て待て。ちょっと待て…」
ここで追い出されるわけにはいかない。このままうやむやのうちに流されてしまいそうな気が、すごくする。いい意味で流してもらえるのならありがたいが、そうではなくて…
「話がしたいんだ。さっきのことで」
「話すことなんか、あたしには何もないわよ」
感情を内包したようなブルマの声を聞いて、俺は確信を深めた。
やっぱりな。このまま無視に入る気だ。あれが始まると長いんだ。そんなに長いケンカをしているヒマは、俺にはないぞ。こいつだってそれを知ってるはずなのに。
だいたい、ちゃんとした理由があるならともかく、誤解なんだ。そりゃあブルマからしたら、おもしろいはずがないのはわかるけど。でも、少しは話を聞いてくれたって…
「俺にはあるんだよ。あのな。…ラブレターはちゃんと返したから…」
俺は一気に核心をついた。ブルマが落ち着いているうちに、さっさと言ってしまおう。再燃されたら、口を差し挟むこともできなくなるからな。
「…返した?…どうやって?」
予想していた台詞を言うブルマの表情は、予想していた以上に険しかった。だが、俺は怯まずに済んだ。事実を示せばいいだけだ。
「ロッカーに入れておいた。俺が気づいたんだから、相手だって気づくだろ」
「…って…」
俺が言うとブルマはもごもごと口を動かし、言葉にならない呟きを発した。そして半拍の後に再び口を開いた。
「クッキーは?」
「…ああ、クッキー…」
思いのほか早く次の問題に移られて、俺は思わず口篭った。自分の行為に少々罪悪感を感じていたこともある。
「あれは他の野郎が食った。いつもそうなんだ。相手に言うのは忘れたけど、同じクラスの子だから、たぶん知ってると思う」
それでも口に出すことはできた。多少の罪悪感など、ブルマの怒りを買うことを考えれば、ないも同然だ。
ブルマはしばらく何も言わなかった。ようやく口を開いたかと思うと、大きな溜息を吐いた。苛立たしげな顔をして、右手で目を覆い隠した。
「ブルマ?どうかした…」
「頭痛いの!あんたのせいよ!」
小さく叫ぶと、ふいに胸元に倒れ込んできた。2度目の溜息が首筋に届いた。
「大丈夫か?」
俺が肩に手を回すと、ブルマはさらに深く体を沈めた。両手で体を抱えながら、俺はブルマの顔を覗き見た。
僅かながら下がった眉。瞑るように伏せた目。力の入らない口元。瞳の色は読み取れないが、怒ってはいない…ような気がする。これは、わかってくれたと見ていいのだろうか。
たぶんそうだな。納得できなかったら怒るだろうし。怒るとなったら、こんなに大人しくしているはずはないからな。どんなに気分が悪くとも、ブルマは怒る時は絶対怒る。
そう思いながらも、俺は易きに流れそうになる心を抑えた。念には念を押して、そっとブルマの髪に触れてみた。
落ちかかる横髪を、耳の後ろにかけてみた。今度はブルマは怒らなかった。うん、大丈夫だ。よかった…
俺が安堵の息を吐いた時、ブルマがおもむろに身動ぎした。凭れる体はそのままに、顔だけを上向けた。俺を見つめる瞳には、怒りの色も痛みの影もなかった。
遠くに5限目終了のチャイムが聞こえた。俺の心はあらゆる意味で解き放たれた。
「よし。じゃあ行くか」
俺はまったく自由な心で、軽くブルマの肩を叩いた。やっぱりブルマは怒らなかった。あー、なんかいいなあ、こういうの。
それっぽいっていうか。あるべき形というか。…そら見ろ、俺は尻に敷かれてなんかいない…
「ちょっと。ちょっと、ちょっとヤムチャ!」
ふいにブルマが声を上げた。ペントハウスから下りかけた俺の腕を引っ張りながら、強い視線で俺を見ていた。
「ねえあんた、本当にしないつもりなの?」
「何を?」
意表を突かれながらも、俺は訊ねた。ブルマは口を尖らせて、さっくりとした口調で言い放った。
「仲直りのキスよ。普通するでしょ、こういう時は」
「……」
俺は返す言葉が見つからなかった。
なんて雰囲気のないやつなんだ。いくら何でも率直過ぎだ。…そう言う気持ちはわかるけど。でも、それにしたってなあ…
だが、俺はその思いを呑み込んだ。ここで俺がそれを言ってしまっては、きっと元の木阿弥だ。せっかくわかってもらえたのに。
そこで俺は少し表現を変えて、自分の思いを口にしてみた。
「今?ここでか?もうすぐ6限目が始まるし、それにもしかすると人が…」
「いいじゃない、どうせあんたはもうすぐいなくなるんでしょ」
ブルマの言葉に、俺は再び絶句した。
…こいつ、無造作に言ってくれるな。まるで何とも思っていないかのように。…本当に思ってないのかな。確かに今生の別れというわけではない。悟空のように行方が知れなくなるわけでもない。会おうと思えばいつでも会えるわけだが…
それでも、俺は少し淋しいかな。こんなに女の子を身近に感じたことなど、これまでなかった。物理的にも、精神的にも。だからといって、いつまでもそれにしがみつく気はないが。俺はブルマが好きだ。でも、それだけでやっていけるほど、人生は単純ではない。ブルマと武道は別ベクトルの問題だ。
俺が考えている間、ブルマは一言も口を差し挟まなかった。会話そのものを忘れ去ってしまったかのように、黙って空を見つめていた。珍しく物憂げに見える瞳の色は、だが次の瞬間掻き消えた。かと思うと、いきなり横髪をぐしゃぐしゃと片手で掻き回した。
…一体、したいのかしたくないのか。雰囲気があるのかないのか。さっぱりわからん。
とはいえ、ブルマのことでわかっていることが一つある。未だ鮮明なその記憶を思い出しながら、そっとブルマの頬に触れた。仰ぐように俺を見るブルマの瞳を見ながら、その唇に口づけた。
すると言ったらブルマはするのだ。そして、こういうことは男の方からするべきだ。
…と思う。

「ん…」
囁きが漏れた。俺はまた一つブルマに言われたことを思い出して、ブルマの顔を傾ける手を離した。ブルマはどことなく緩んだ瞳で俺を見ていた…俺の気のせいじゃなければ。その目を見て、俺は再び心配になった。
「おまえ、あまり授業サボるなよ」
「辞める人間に言われたくないわね」
躊躇いが入る前にと口にした俺の台詞は、ブルマの言葉に瞬殺された。というより、たぶん伝わらなかった。そうだな。ブルマにははっきり言わなければダメだ。遠回しに言っても、きっと誤解されるだけだ。
「あのな。俺はおまえを心配して言っているんだ。おまえは一人だと…」
隙だらけなんだから。本当に一人ならばそれでも構わないが、そうではないんだから。今日みたいに。一昨日みたいに。…性格と能力が釣り合ってないよなあ、こいつ。
ブルマが顔をほころばせた。咲き誇る寸前の花のようなきれいな笑顔。見惚れかけた俺の耳に、少しズレたブルマの返事が入った。
「安心して。カメハウスに行く時はサボらないから」
俺は思わずブルマを抱いていた腕を外してしまった。言わねばならない重大なことを、一つ思い出したからだ。事としては単純で、俺としても含むところがあるわけではないのだが、きっとブルマは怒るだろう。なんとなくだがブルマの怒るツボが、少し分かるようになってきた。
「それなんだけど…カメハウスにはしばらく来ないでくれないかな」
言った途端に、ブルマの顔が強張った。覗きかけていた花笑みは、一瞬にして絡みつく棘となった。
「えぇー!?なんでよ!しばらくってどのくらいよ!?」
耳を押さえたい衝動に必死で耐えながら(そんなことをしたらますます怒られる)、俺は可能な範囲で包み隠さず理由を言った。
「武天老師様の修行に慣れるまで。…1ヶ月。いや2ヶ月くらいかな」
「2ヶ月も!?」
再び大声量が耳を襲った。思っていた以上に大きいブルマの怒声を我が身に浴びて、俺は一瞬考え直した。
取り消すべきかな。ブルマを怒らせてまで守るべきものだろうか。
武天老師様の修行は厳しい。それに手こずる自分の姿を見られたくないと思うのは、高すぎるプライドだろうか。…いや、そんなことはない。当然の感覚だよな。
俺は何とか自分を守った。この上は、せめて怒りを和らげることとしよう…
「…いや、きっともっと短いよ。武天老師様の修行は厳しいけど、がんばるからさ。時期が来たらすぐに連絡するから…」
「当たり前よ!」
さらに飛んできた大声量を、肯定的に捉えることに俺はした。これはきっと、ブルマなりの了解のしかただ。ウーロン相手にブルマがこういう口をきく時、俺はいつもそう感じていた。我が身で受けるとそうは思えないというのが正直なところではあるが…
俺が口を噤むと、ブルマも黙った。そして非常に険しい瞳で俺を見た。俺は再び自分の心と戦った。
俺がほとんど自分に負けそうになった時、ブルマがおもむろに口を開いた。
「しょうがないわね。本当にちゃんと連絡してよ。2ヶ月経っても音沙汰なかったら、捨てるからね!」
「はは…」
俺は思わず苦い笑いを漏らした。2ヶ月がタイムリミットか。そういう捉え方をするとは思わなかった。自分で言ったこととはいえ、失敗したな。少し長めに言っておくべきだった。でもまあ、ブルマの気の短さではこれが限界か。2ヶ月だって充分長い方だよな。
「肝に銘じておくよ。さて、そろそろ戻るか」
「ダメ」
ブルマの気が変わらぬうちにと切り上げかけた俺の言葉は、即座にブルマに否定された。
「あたしはここにいるわよ。だからあんたもいなさい」
冗談なのか本気なのかわからない口調で、ブルマは言い切った。捕まれた腕を離せずに、俺は答えた。
「でも、もうすぐ6限目が始まるぞ。2限も続けてサボるわけにはいかな…」
「いいじゃない。あんたどうせ辞めるんでしょ。最後くらい付き合いなさいよ」
「最後って…まだ明日も明後日もある…」
「じゃあ明日も付き合いなさい。そうね、遊園地。明日は遊園地に行くわよ!」
ブルマの言葉につけ入る隙はまったくなかった。こいつ、どうしてこんなに強いんだ。さっきまで隙だらけだったくせに。
「真面目を通したって、辞めるんだから意味ないわよ」
唖然としながら、俺はペントハウスの屋根に腰を下ろした。確かにブルマの言う通りだ。言う通りなのだが…
なんかちょっと違うよな。一緒にいたいと思ってくれるのは嬉しいが、それならもっと引き止めるとかさ。引き止められたら困るけど。そうされないのはすごくありがたいけど…
「ねえ、もう一回キスして」
俺の隣に座り込むなり、唐突にブルマが言った。俺はそれに逆らわなかった。
逆らえるはずもない。ブルマは一人だと隙だらけだが、他人に対してはえらく当たりが強いんだ。
…逆だったらいいのにな。




武天老師様の元へと発つ日、空はいい天気だった。絵の具を溶かしたように人工的な都会の青空の下で、俺は世話になった人たちに見送られた。
「さようなら、ヤムチャちゃん。ヤムチャちゃんがいないと、ママさみしいわ〜。早く帰ってきてね」
「そうだね。部屋はいつでも空けとくからね。なんだったら、娘の部屋に転がり込んでも構わんよ」
「クソ親父!!」
温かな別れの言葉に、俺はすぐには答えられなかった。理由は聞いての通りだ。
俺の代わりに声を返してくれた俺の彼女は、つかつかとポーチを出て行くと、よすぎる手際でポーチ横にカプセルを放り投げた。
「さあ、さっさと行くわよ」
そして現れたエアクラフトのキャノピーを開けながら、早々と言い切った。…ブルマって、本当に俺のこと好きなのかな。なんだか早く別れたくてしょうがないようにすら思えるのだが。
「プーアル!ウーロン!早く乗って!!」
肝心の俺の名は外して、ブルマが叫んだ。…複雑な心境だ。カメハウスまで送ってくれるというのはいい。だが、なんかこいつ俺のこと無視してないか?いや、送ってくれるのだからそうであるはずはないのだが、なんというか…
「それじゃあ、博士、ママさん。お世話になりました。行ってきます」
別れの挨拶をまっとうしようとする俺の襟首を、見えない腕が掴んだ。
「ヤムチャ!早く!」
「はいはい…」
いつも通りのブルマの怒声に聞こえないよう返事を返しながら、俺はエアクラフトに乗り込んだ。
そして今日までの自分の家を後にした。
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