纔進の女
右の手刀で、切れ目を入れた。
さらに数発を繰り出して、半分ほど幹の下部を打ち減らした。反対側に回って、同じように、だが今度は幾分浅く幹を打ち減らした。
飛び上がって、幹の上部に蹴りを放った。途端に木が傾ぎだした。一度地面を蹴って、素早く後ろに飛び退った。
ドッシーーーン!!
大音響が鳴り響いて、伊吹の木が倒れた。狙い通りの庭の内側。他の木々に影響はない――
「うっ」
地に足を着けた瞬間、地面から一本の棒が飛んできた。倒れ込んだ木の、枝の切れ端。それが針状の葉と共に、右の頬を掠っていった。…そうか。少し枝を打っておくべきだったか…
「そううまくはいかないものだな…」
辺りを被う土煙が収まった。ともかくも俺は気を取り直して、2本目のターゲットを探した。まだやり始めたばかりだからな。そのうち慣れるだろう。
「…あんた、何してんの」
ふいに背後から声がした。僅かに残る塵を払うように手をひらつかせながら、ブルマがそこに立っていた。ピンク色のワンピースパジャマ姿で。
「あ、ブルマ。おはよう。起こしちゃったか。ごめん」
俺が答えると、ブルマは苛立たしげに髪についた木の葉を抓んだ。
「そんなことはいいから!」
「間伐だよ。少し庭木を整理したいってブリーフ博士が言うから。そういう季節らしいぞ」
言いながら、次の灌木へと向かった。…少しだけブルマが怖い。怒っているというほどではないが、苛立ってはいる。どうやら完全に、安眠妨害してしまったようだ。
次のターゲットもまた伊吹。2本の大木の内側に、少々強引に張り出しているやつだ。さて、どちらに転がそうか。やっぱり手前かな。
今度は左の手刀を繰り出した。入った切れ目は、先ほどより浅かった。…やっぱり左の力が弱いな。全部左でやっちまおうかな。
半分ほど幹の下部を打ち減らして、追い口を作るため反対側に回り込もうとした時、傍にまだブルマがいることに気がついた。
「ブルマはC.Cに戻ってろ。枝が飛ぶから危ないぞ」
経験に基づいた俺の警告は、ブルマの怒声で報われた。
「あんた!顔に傷ができてるわよ!!」
俺の言葉をまるで無視して、ブルマが隣にやってきた。甘さの跡を鋭く咎めるその瞳に、俺はできるだけさりげなく答えた。
「ああ、ちょっとな」
「どこがちょっとよ!」
俺は思わず足を止めた。ブルマは今や、苛立ちを通り越してはっきりと怒っていた。
「手当てしなくちゃ。ほら早く!」
「いいよ。このくらい放っておいても勝手に治る…」
「ダメよ。痕が残ったらどうするの!」
俺は文字通り、襟首を掴まれた。次には腕も掴まれて、トレーニングの中止を余儀なくされた。
大げさだなあ。心配してくれるのは嬉しいけど、本当にこんなの何でもないのに…
そうは思いつつもブルマの腕を振り解くことはできず、俺はC.Cの中へと引っ張り込まれた。

俺が連れていかれたのは、リビングではなかった。俺の部屋でも、ブルマの部屋でもない。これまで一度も入ったことのない部屋だった。
白い壁、白い天井。一辺が2mはある大きなデスクに、わけのわからない装置の数々。ブルマの部屋のメカなど比較にならないほどの、仰々しさだ。
「なあ、何だこの部屋?」
「医務室よ。あんたはまだ使ったことなかったわね」
俺の問いに答えるブルマの顔は、ひどく真剣だった。数え切れないほどのスイッチが並んだデスク脇のコンソールにブルマが触れると、デスクの一部が開いて家庭用とは思えない数の薬品が現れた。
…本当に大げさだな。嫌なわけはないけど、ここまでされるとなんだか照れくさいな。
おもむろにブルマが俺の頬に液体を塗りつけた。その瞬間、俺は思いっきり顔を顰めた。
「う…なんかすっごく染みるぞ、これ」
「男だったら我慢しなさい!」
その一言だけをブルマは言い、後は黙々と傷の手当てをし続けた。言葉で言えば単純なものに聞こえるだろうが、実際はひどく手間のかかったものだった。液体を塗りつけた後に粉末状の何かをまぶし、さらに軟膏らしきものを塗りつけた。ようやくガーゼが当てられた頃には、ゆうに15分を経過していた。
「はい、終わり。いい?怪我したらすぐに教えなさいよ」
重々しい口調でそう言うブルマに、俺は思わず反論してしまった。
「こんなの怪我でもなんでも…」
「何言ってんの!」
大声がビリビリと俺の体に響いた。…俺、何かブルマを怒らせるようなことしただろうか。手当てされているにも関わらずそう考え出した俺の前で、ブルマは再び黙然とし始めた。その沈黙があまりに長かったので、俺は心配になった。目の前のブルマと、そして我が身を。
「あの…」
俺が声をかけるとブルマはハッとしたように顔を上げ、声音軽く笑みを浮かべた。
「ああ、はいはい。もう行っていいわよ。でも、くれぐれも無茶しないでよね」
安堵の息を漏らしながらも、俺は心に呟いた。
…なんだかなあ。
『甲斐甲斐しい』を通り越しているな。ブルマって、こんなに心配性だったっけ?そりゃ、嫌ではないけどさ…でも、自分は時々傷をこさえたりしてるのに。何かが爆発したとか言って。
女の子って、わからないな…


その後、トレーニングがてら2本の木を切り倒して、俺はテラスへと足を向けた。
午前のお茶の時間だ。俺がテーブルにつくと、プーアルが驚いたように声を上げた。
「ヤムチャ様!どうなさったんですか、そのほっぺた!」
間伐に勤しんでいる間に頬のことをすっかり忘れ去っていた俺は、一瞬何のことかわからなかった。とはいえ自分の頬が派手派手しく飾られている事実と理由はすぐに思い出されて、できるだけさりげなく答えた。
「うん、何、ただの擦り傷だ。たいしたものじゃないよ」
実際、たいしたものじゃない。一週間もすれば跡形もなく消える傷だ。痛みだってまるでない。手当てされていた時が一番痛かったくらいだ。それをブルマが大げさにするから…
だが、それを口に出す気はなかった。…なんかちょっと情けないよな、そういうの。
事を大げさにした張本人はといえば、俺とプーアルの会話になどまるで興味を示さず、ただ黙々とコーヒーを口に運んでいた。
フォローしてほしいけど、してほしくない。微妙な心境に陥りながらカップに砂糖を落とした。半分ほど飲み進めた時、ブリーフ博士がやってきた。
「今日はアップルパイだね。いい匂いだね」
「ちょっと、父さん!」
ふいにブルマが声を上げた。
「あんまり人間離れしたことヤムチャにやらせないでよ。間伐くらい、外の人間を使ってやりなさいよ!」
「間伐?」
「惚けないで!父さんがやらせたんでしょ!」
娘の怒声に博士は堪えた様子もなく、ふと俺の方を見て言った。
「ああ、あれかね。どうだねヤムチャくん、はかどり具合は。大変そうかね?」
博士の言葉に、俺はありのまま答えた。
「そうでもないですよ。いいトレーニングになります。枝も落とした方がいいですか?」
「それはいいよ。材木屋にやらせるから。適当に楽しんでやってくれたまえよ」
博士はまったくのんびりと言った。俺ものんびりとその言葉を受けた。ただ一人ブルマだけが、荒々しくカップをテーブルに戻すと、大声を張り上げた。
「ごちそうさま!!」
そうしてやっぱり荒々しい足取りで、テラスの窓を通り抜けC.Cの中へと消えた。
「ブルマさんてば、怒りんぼさんなんだから〜」
呆気に取られた俺のカップにコーヒーのお代わりを注ぎながら、ママさんがおっとりとした声で言った。


4本目の木は、追い口を作ることなく倒すことができた。最後に蹴りを入れる際の力のかけ方が、なんとなくわかってきた。
…それにしても、そんなに『人間離れ』しているだろうか。
そうでもないと思うんだがなあ。悟空なんか、如意棒で月にまで行っていたぞ。『人間離れ』してるというのは、あいつほどのやつのことだよな。
確かに普通は、木を素手で切り倒すことはしないだろうが。でも、木は動かないんだから。トレーニングすれば、誰にだってできることだ。
5本目の木は、手刀の数を抑え受け口を浅く取り、蹴りに頼って倒してみた。6本目の木はそれとは反対に、手刀に力を入れてみた。7本目はどちらの力も均等に。
10本目にかかる頃には、陽が高くなっていた。額に汗が滲み出てきた。それほど疲れてはいないのにも関わらずだ。同時にどことなく集中力が薄れてきた自分を、俺は感じ始めていた。
…なんだか気だるいな。単調なせいかな。少し気分を変えるか。
外庭の他にもう一箇所、間伐を頼まれていた場所を思い出して、そこへ足を向けた。

内庭の、C.C居住部に沿うようにして生えている並木。これまでに切り倒したものとは違う種類のその中の一本に、手をかけた。
左の手刀を閃かせると、樹肌がえぐれた。切り込みは入らず、上部へ向かって樹皮が剥がれた。種類が違うと、要領も違うのだろうか。
少し手こずりながら受け口を作った。念を押して追い口も作ることにした。こちらはうまくいった。
やはり要領か。そう思いながら最後に蹴りを放とうと飛び上がって、俺は違和感に襲われた。
目を刺す太陽。肌を焼く熱。額に冷たい汗。足を掠る幹の感触――
――しまった!
気づいた時にはすでに、体は地に近づいていた。俺は受身を取れなかった。
消えかける意識の中、俺は地面に倒れ込んだ。蹴り損なった木と共に。




遠くに声が聞こえた。
「父さんが無茶なことさせるから!」
「落ち着きなさい、ブルマ」
聞き慣れた父娘の声。甲高い怒声と、それとは対照的に落ち着きはらった低い声。
「とにかく診察しようじゃないか。でも大丈夫、きっと命に別状はないよ」
「当たり前よ!」
心配しているのかそうじゃないのかわからない、ブルマの声。まるで子どもをあやすように、それを宥めているブリーフ博士の声…
…いや、本当の子どもか。
そこまで考えて、目を開けた。重苦しかった瞼が、ふいに自由になったからだ。まず視界に飛び込んできたものは、さきほど目にしたばかりの白い天井だった。
次に起こしかけた体は、だが自由にならなかった。身動ぎしかけた体が、何かの力に引っ張られた。視線を動かすと、手足と胸に数本の何かの線がつけられていて、それが医療ロボットに繋がっていた。
「…あの。博士、ブルマ…」
少々決まり悪く俺が父娘に声をかけると、ものすごい勢いでブルマが振り向いた。
「ヤムチャ!大丈夫!?」
「ああ、うん。悪い、なんか大げさに倒れちゃって…」
倒れ込む寸前のことを、俺は少しだけ覚えていた。最後の蹴りを外したのだ。正確に言うと外したのではなく、目論見を誤った。なんだか一瞬、目が眩んで。気が弛んだのだろうか。情けない…
「何言ってんの!悪いのは父さんでしょ!父さんが無茶なことさせるから…!」
聞き覚えのある台詞を、ブルマは言った。…ああ、さっき聞いたのか。重い頭の片隅で…
未だ覚めきっていないらしい頭を、軽く振った。深い青を湛えるブルマの瞳を見ながら、できるだけさりげなく俺は答えた。
「いや、少し目が眩んだだけだよ。もう大丈夫だ。すいません博士、手間をおかけして…」
「ダメ!まだ寝てなさい!!」
相変わらずブルマの口調は厳しかった。疑う余地もなく、その瞳は怒っていた。でも、俺にはわかった。
ブルマは心配してくれている。それもかなり本気でだ。
俺の心に罪悪感が沸き起こった。…さっき、悪かったな。『大げさだ』なんて思っちゃって。あれだってきっと心配してくれていたに違いないのに…
再び頭を振った時、それまで弄っていた医療ロボットのモニターから目を離して、博士が言った。
「急性胃腸炎だね。アデノウイルスだ。100%の診断結果だからね、人医を呼ぶまでもないと思うよ」
「胃腸炎?」
訊ね返した俺の声は、ほとんどブルマと被っていた。
「そうだよ。熱が40度あるね。嘔吐感とか腹痛とかはないのかい?」
「いえ、何も…」
半ば呆然と俺が答えると、ブルマが途端に大声を張り上げた。
「何それ!バッカじゃないの!?あんた鈍すぎ!!普通、熱が40度もあったら気づくでしょ!それがどうして、のんきに木なんか切ってるのよ!!この体力バカ!鈍ちん!!」
そして俺の体に被さるようにして荒々しく線を外すと、乱暴に医療ロボットに投げつけた。そのあまりの言い草に、さすがに俺も反論を試みた。
「いや、だるいなとは思ったさ。でも暑かったし、間伐し通しだったから疲れのせいかと…」
「何が疲れよ!あんなに淡々と切りまくっていたくせに!!」
「…どうして知ってるんだ?」
思わず俺は呟いた。だって、周りには誰もいなかったのに。だからこそ、少々飽きもしていたというのに。
俺の言葉は、同時にささやかな嘘を露呈することともなった。だがブルマはそれ以上何も言わず、今度は二の腕に、俺にもわかる点滴管を当て始めた。
「そんなことしなくても大丈夫…」
「何言ってるの!熱が40度もあるのよ!絶対安静よ!!」
すでにブルマの手には注射針が握られていた。俺がそれに気づいた時には、もう腕を取られていた。ブルマは何も言わずに、いきなり針を二の腕に差し込んだ。その瞬間、俺は思いっきり声を上げてしまった。
「い…いってぇーーー!!」
「男だったら我慢しなさい!」
一言の元に切り捨てるブルマの声に、俺は眉を顰めた。
普通は断り入れるだろ!おまけにその荒っぽい手つきは何だ!…こいつ、本当に俺のこと心配してるのか?
注射針の下に綿をぐりぐりと突っ込み、それをがっちりと固定すると、ブルマは淡々と言い放った。
「はい、終わり。父さんはもう行っていいわよ。後はあたしがやるから」
「そうかい。じゃあ、まかせるよ」
娘を信頼しているのか、それとも俺のことなどどうでもいいのか。どちらとも取れる口調でそう言うと、ブリーフ博士は医務室を出て行った。俺は少しだけ恨めしい思いで、その後姿を見送った。

ブリーフ博士のいない医務室は、大変騒がしかった。
「本当に40度あるわ。もう、信じらんない!」
新たに装置を起動して一本の線を俺の右足首へ繋ぐと、途端にブルマが不平を漏らした。
「こんなになるまで気づかないなんて、どうかしてるわよ…さてとTPN、TPN…あった、これね」
不平を続けながら薬品庫の引き出しを端から順番に開け放して、5つ目のところでようやくブルマは口を止めた。パックに入った点滴薬を、1ダースほど一気にまとめて持ち出した。
「あーん、重ーいっ!」
「あ、そんなの俺が持つ…」
「いいの!あんたは寝てなさい!」
両腕に抱えた小山のような点滴薬の向こうからそう言うと、危なっかしい足取りでデスクへと近づいた。どさどさと音を立てて点滴薬をデスクの上にばら撒いて、次にはフリーザーを開けた。右手に薬品瓶、左手に数本のミネラルウォーターを掴むと、一瞬躊躇して、尻でフリーザーのドアを閉めた。
荒っぽいなあ。看護者が天使に見えるというのは、あれは嘘だな。少なくとも、ブルマには当てはまらないようだ。
「はい、解熱剤。吐き気がないなら飲めるわよね。水は飲んでいいわよ。物は食べちゃダメ。熱が下がるまで高カロリー点滴を続けるからね」
言いながらコップにミネラルウォーターを満たし、薬品を数滴落とし込んだ。それを飲み切って俺は訊ねた。
「それだけか?」
「それだけよ」
「ふうん」
解熱剤と高カロリー点滴。つまり自然治癒か。たいしたことなさそうだな。あまりにもブルマが大騒ぎするものだから、気づかなかった俺がおかしいのかと思ったが…風邪みたいなもんだな、きっと。
俺がなんとなく目をやると、それに気づいたのかブルマが腰に手を当てながら、緊張感の欠片も感じられない声音で言った。
「ねえヤムチャ、あんた本当に気分悪くないわけ?」
「ああ、全然」
俺が答えると、ブルマは大きく溜息をついた。…って、何なんだ、それは。
ここは安心するところだろ。どうして溜息つくんだよ?俺が気分悪い方がいいってのか?
ブルマはそれ以上何も言わず、おもむろに壁際のスツールを引くと、ベッドの横に座り込んだ。そしてベッドの上に両腕を伸ばして、顔を伏せつつまたもや大きな息を吐いた。
「なあ、退屈だろ?俺、本当に大丈夫だから、ついててくれなくていいぞ」
見かねて俺がそう言うと、途端にブルマが顔を上げた。
「そんなこと言って、あたしがいなくなったら起きる気でしょ。そうはいかないわよ」
「そんなことしないって…」
思い切り顰めてくれたブルマの顔に、呆れを隠せず俺は呟いた。…子どもじゃないんだから。俺を何だと思ってるんだ。
「もう今日はずっとここにいるわ。何と言われても、部屋にはぜーったい戻らない!」
いきなりブルマが声を荒げた。その口調にではなく台詞に妙な引っ掛かりを感じて、俺は訊ねた。
「…何かあったのか?」
今の言い方。なんか俺のところにいたいというよりは、何か他の理由があって口実にされているような…
瞬時にブルマが立ち上がった。その瞳ははっきりと怒っていた。
「あたしの部屋はめちゃくちゃよ!窓は割れてるわ、ガラスは飛び散ってるわ、木は突っ込んでるわ、葉っぱだらけだわ、パーツはぶちまけられてるわ――あんたのせいよ!!」
言われて俺は考えた。…木。まさか、ひょっとして。いや、ひょっとしなくても。
「ご、ごめん。最後の目論見を誤ったんだ。次からは気をつけるから…」
あれはブルマの部屋の横の木だったか…!しまった。居住部横としか考えていなかった。本当にしまった。
「それでブルマ、おまえケガ――」
「ヤムチャ様!ご無事ですかー!!」
その時、ドアが開く音と共にプーアルが飛び込んできて、俺の声は掻き消された。いつものように肩へと飛んでくるその身を抱きとめようとした瞬間、両手が虚しく宙を掴んだ。
ブルマがプーアルのしっぽをがっちりと握り締めていた。おそらくは根元にかかる痛みに耐えかねて数cm後退したプーアルに、ブルマはこともなげに言い放った。
「触らないほうがいいわよ。感染するかもしれないから。あんたは体が小さいんだから、感染したら生死に関わるかもしれないわよ」
「えぇっ…!」
一声の後に、プーアルは絶句した。同時に俺も絶句した。
感染するのか!今までそんなこと、一言も言わなかったじゃないか。まるで平然として傍についていやがって。それどころか、さんざん俺に触りやがって…!
喉が一瞬にして干上がった。思わずサイドテーブルのミネラルウォーターに手を伸ばした時、ウーロンが俺に先んじた。
「そう言うおまえはいいのかよ。ずっとここにいるんだろ」
「あたしは平気よ。こんな鈍感なやつのウィルスなんか、うつりゃしないわよ」
…一体、どっちなんだ。
俺はすっかり呆然としながら、プーアルの注いでくれた(正確に言うといつの間にか注がれていた)ミネラルウォーターを口にした。ほとんど同時にブルマが言った。
「あたし、ちょっとコーヒー飲んでくる。点滴が終わる頃また来るから。あんたたち、ここで食べ物食べちゃダメよ。部屋から出たらきっちり手を洗うのよ」
俺は再び呆然としながら、その言葉を聞いていた。
一体、危険度が高いのか、そうじゃないのか。心配しているのか、いないのか。だいたい、さっき『ずっといる』って言ったくせに…
軽く混乱に陥った俺をよそに、プーアルが2つ目のスツールを壁から引いた。ウーロンが今までブルマの座っていたスツールに腰を下ろした。
「じゃあね」
軽やかに一言投げつけて、ブルマは部屋を出て行った。それを見て、俺は再び思考を固定した。
…きっと風邪みたいなものだな。そう思おう。


「冷たい女だよな、あいつ。こんな時にコーヒーかよ」
医務室からブルマがいなくなった途端、ウーロンが呟いた。
「普通は彼氏が倒れたら、寝食を忘れて看病したりするもんだろ。なあヤムチャ?」
「いや、それは…」
俺は一瞬言い澱んだ。まだ呆然が残っていたせいもある。
「ブルマは心配してくれているよ。手当てだってしてくれたし…」
かなり荒っぽかったけど。
最後の一言を外して俺が言うと、ウーロンはいつにも増して白々しい目つきで俺を見た。
「おまえ、騙されてるんじゃねえの?」
「…何てこと言うんだ…」
俺はすっかり呆れ果てた。こいつ、本当に何てこと言うんだ。仮にも俺は病人なのに。さして辛くはないから労わってくれずともまったく構わないが、それにしたって今言うことじゃないだろう。
おそらく俺は呆れ目を隠せなかった。なぜそれがわかったのかというと、ウーロンが(なぜか)嬉々としてこんなことを言い出したからだ。
「じゃあ賭けるか?」
「は?」
「ブルマが戻って来るか来ないか。おれ、来ない方に1000ゼニーな」
「おまえ…」
俺は呆れを超えて絶句した。…なんという賭けなんだ、それは。
ブルマが知ったら怒るぞ。というか、俺もちょっと怒るぞ。いくらなんでも、そこまで言い切ることはないだろう。…傷つくじゃないか。
そりゃあ『ずっといる』と言っておきながらいなくなったけどさ。…いや別に、いてほしいというわけじゃない。全然辛くないんだから、そこまでしてくれなくていいんだ。
俺の反応にも、ウーロンは態度を崩さなかった。むしろ固めて、さらに畳みかけてきた。
「信じてるんなら賭けられるだろ。当然、おまえは来る方にだよな?」
この言い方は俺の気に障った。俺の退路を断とうとしていることにではない。また俺が言い澱むだろうと思っているらしい、その口調にだ。
「わかったよ。でも、金はダメだ。そうだな…」
ウーロンの賭けを受けて立つことに、俺は決めた。一つ考えが浮かんだのだ。それはなかなか名案であるように、俺には思えた。
「…俺が勝ったら、おまえそういうことを言うのやめろよ」
「おっ。おまえ、なかなか策士だな」
俺を持ち上げながらも、ウーロンはこの提案を受け入れた。おそらく『金が飛ばなくてラッキー』などと思っているに違いない。でも構わない。俺は金など欲しくない。例え一時でも(永遠にウーロンが自重できるとは思えない)ウーロンにこのようなことを言われずに済むなら、それで充分だ。
できれば、今言わないでほしいものだが。それはどうやら無理なようだしな…


ブルマが医務室を出て行ってから、約一時間。ウーロンが勝ち誇ったように口の端に笑みを浮かべながら、スツールを下り俺のいるベッドへと近づいてきた。
「やっぱり来ないな」
「まだ一時間しか経っていないじゃないか。いくらなんでももう少し休憩するだろ」
「おまえ、気が長いな…」
「ウーロンが短過ぎるんだよ」
さして感情を篭めず、俺はやり返した。実際、感情的にはなっていなかった。焦りを感じたりもしていない。確固たる自信があるとまでは言わないが、俺にはそれなりの感覚があった。
確かにブルマはちょっとわがままだし強引だし、他人に構わない部分もあるとは思う。でもそれは『冷たい』というのとは違うような気がするんだ。情はある。ただ少し…そう少し、方向性が他の人間と異なっているだけだ。
まあ異なっているだけに、今回は見せないという可能性もあるにはあるが。それは努めて考えないことに、俺はした。すでに言い切ってしまったからな。もう遅い…
俺が少しばかり弱気になりかけた頃、おもむろにドアが開いた。同時に覗いた顔を見て、ウーロンが小さく舌打ちをした。
「何よ、あんたたち。まだいたの」
僅かに口を尖らせながら、ブルマが部屋に入ってきた。…ほらな。
ちゃんと来ただろ。思ってるほど冷たくないって。
嬉しく思いながらウーロンの顔を見ると、やつはいつも以上に白けきった顔をして、ブルマを見ていた。はは。まあ、そうかもな。
プーアルはどちらかというと俺に近い顔をして、黙ってスツールに座っていた。その後ろに設置されたモニターに近寄って、ブルマが不満そうに呟いた。
「熱が下がらないわね…」
そしてゆっくりと俺の方へとやってくると、唐突に俺の額に手を当てた。それから少し首を捻って、また当てた。…俺の額に。自分の額を。
ウーロンが軽く息を呑んだのがわかった。…俺も、ちょっとどきどきした。
「何?」
ブルマ本人はというとまったく平然とした顔をして、ブルマを凝視していたウーロンを返り見た。ウーロンは何か言いたそうにしていたが、すぐにベッドから離れて、ドアの方へと後退った。
「べ、別に…じゃあなヤムチャ、ゆっくり休めよ。プーアル、行くぞ」
これは約束を実行しているのか、呆気に取られたのか。おそらく後者だな。俺本人がそうなのだから、日頃俺たちの仲を疑っているばかりのウーロンがそうではないはずがない。…びっくりした。
ブルマがこんな『らしい』ことをするなんて。この言い方は失礼かもしれないが。だってなあ…
素直に言葉に従ったプーアルと共に、ウーロンは医務室を出て行った。2人の足音が廊下の向こうに遠ざかった頃、ブルマが俺に向き直った。やや意識の飛びかけた俺の耳に、ブルマの無造作な言葉が響いた。
「さ、ヤムチャ。あんたは寝なさい」
俺は完全に虚を突かれて、素で答えた。
「…いや、いきなりそんなことを言われても。今全然眠くないし…」
外はまだまだ明るいし。それにむしろ今目が覚めたくらいだし…
「あんたねー…」
呆れたように呟いたブルマの声は、途中から怒声に変わった。
「…どうしてそう無駄に強いのよ!看護しがいのないやつね!」
そして両腕を勢いよく振り上げて、ベッドの端を叩いた。俺は再び虚を突かれて、思わず体をびくりと震わせた。
びっくりした。というか、何なんだ、それは。
一体どうして怒るんだ。『看護しがいがない』とはどういう意味だ。弱々しい方がいいってのか?
ふいに室内にブザーの音が鳴り響いた。ブルマが点滴装置に目をやって、デスクの上から新たな点滴薬を手に取った。それを追加するのかと思いきやデスクの片隅に放り出して、壁際へと向かった。そして、そのまませかせかと薬品庫を漁り出した。何やらブツブツ独り言を言いながら、2つの瓶をためつすがめつしていた。俺は黙ってそれを見ていた。
俺の心はいつしか平静に戻っていた。看護者が天使に見えるというのは、あれは嘘だな。少なくともブルマには当てはまらない。どう見ても研究者だ。
…でも、その方が俺には落ち着けるみたいだ。
ブルマが再び点滴装置を弄り出した。なんとはなしにその手元を見ながら、俺はゆっくりと目を閉じた。
少し眠くなってきたから。こんな時間に眠ることができるなんて、自分でも驚きだが。でも、さっき寝ろって言われたし。ブルマの言に沿えそうなら、努めて沿っておくべきだ。
…その方が、怒られずに済むからな…




遠くに音が聞こえた。
何かが床にぶち撒かれた音。1、2、3…6個。またまとめて持ち出したのか。忙しないなあ。
さらに1個。それと、周期的に流れる微かな電子音…
「あぁーーーっ!!」
ふいにすべてを打ち破る甲高い大声が脳裏に響いて、俺は薄目を開けた。…頭が痛い。鼓膜もだ。どうやら夢ではなかったらしい。
夢と現実をリンクさせるため、視線を宙に泳がせた。白い壁、白い天井、白い照明、白い壁時計、白い器具、菫色の…
「…ブルマ。ひょっとして、ずっといたのか?」
白い部屋の中でただ一人有彩色を纏う女の子に、俺は訊ねた。夢ではないとわかっていたにも関わらずだ。先ほど見た壁の時計は夕刻を指していた。ほぼ2時間だ。2時間の間俺は眠り続け、その間ブルマはずっと俺の傍についていた…
「うん、まあね」
どことなく緩んだブルマの声。それとその表情に、俺は心を奪われた。
僅かに差し込む夕陽のせいだろうか。ブルマの笑顔がひどく優しげに見えるのは…
ブルマはそれ以上は何も言わず、ゆっくりとベッド横のスツールに腰を下ろした。恩を着せるような気配も、過剰に心配してみせる様子もそこにはなかった。ただ黙って大人しく、俺を見ていた。やや上目遣いのその視線に耐えかねて、俺はサイドテーブルに手を伸ばした。そして一瞬、宙を掴んだ。俺の手が届くより早く、ブルマがミネラルウォーターのボトルを掴み取って、そのまま黙ってコップに水を注ぎ出した。
…どうしたんだろう。急に甲斐甲斐しいな。おまけに、何だか妙にそれっぽいじゃないか。
ふいにブザーの音が鳴り響いて、ブルマが腰を上げた。一瞬身を固くした俺の耳に、ドアコンソールからの声が響いた。
「ヤムチャ様、お加減いかがですか?」
聞き慣れた明るい声。プーアルだ。
一拍の後にドアが開いた。プーアルは先ほどと同じように一目散に俺の元へと飛んできたが、俺の手にコップが握られているのを見て取ると、すぐに体を止めた。そして窓際に寄せられていたスツールを引っ張り出して、ベッドの横へ座り込んだ。
「あんたも律儀ねえ」
呆れたようにブルマが呟いた。プーアルと一緒に来ているもう一人の人間を見事に外した単数形で。外されたウーロンはというと、相変わらずの白けた目に興味の色を浮かべて、じっとブルマを見ていた。俺にはウーロンの気持ちが、だいたいわかった。
俺本人でさえそうなのだから、先ほどあんな賭けを仕掛けたウーロンが、そう感じないはずがない。…意外なのだ。ブルマの行動が。
なんだかんだと文句を言いながらも、結局は世話を焼いてくれている。それに、時々不意を衝いたように、それらしいことをするし。…まいるよな、こういうの。
「ブルマさん、ヤムチャ様の具合はどうなんですか?」
プーアルが心配そうに呟いて、俺の思考を破った。ブルマもどことなく同じような雰囲気を漂わせて、それに答えた。
「そうね、あまり変わらないわ。熱は…」
そこまで言うと一瞬宙を見て、プーアルの後ろに設置されたモニターに近寄った。
「あら?」
そして一言素っ頓狂に呟いた。それに続く声は、すっかりいつもの調子だった。
「何よ、熱ないじゃない。うっそ、マジ?もう下がっちゃったわけ?2時間で?…ヤムチャあんた、一体どういう体してんのよ?」
いや、いつも以上に無遠慮なものだった。一体何なんだ、それは。
ここは安心するところだろ。どうして驚くんだよ?熱ある方がいいってのか?『どういう体』って健康体だよ。それだって、鍛えているからこそのことだぞ。
俺はおそらく完全に呆けていた。だって、そうだろ。今の今まであんなに心配そうな素振りを見せていたくせに、どうして急に貶めるんだ。…ひどいじゃないか。
どうやらプーアルも俺に近い心境のようで、目を丸くしてスツールに座っていた。黙り込む俺とプーアルをよそに、ただ一人ウーロンだけが嬉々として、ブルマに向かって話しかけた。
「なあ。今度はやらないのか?」
「何を?」
不思議そうにブルマが訊ねた。平常に戻りつつある意識の中で、俺はそれを聞いていた。
「検温だよ。こう、顔を顔をくっつけてよ。そのままぶちゅーっとやっちゃったりなんかして…」
「なっ…」
俺は思わず横から声を出してしまった。
ウーロンのやつ、何てこと言うんだ。だいたい、今言うか、それを?少しは空気読め。
「やらしいわね、あんた!そういうことしか考えられないわけ!?」
「何言ってんだ。自然な流れだろ」
おまえにとってだけな。
溜息をつきかけて、ふと思い出した。さっきしたばかりの約束。賭けでもぎ取った俺の権利。…ウーロンのやつ、もう反古にしてやがる。いくらなんでも早過ぎだろ。一時的ですらないじゃないか。
「ウーロン。…そのへんにしとけよ」
せめて今日一日くらいは俺を尊重してくれ。
「な?」
「ちぇっ。わかったよ」
願いを込めて放った俺の言葉は、一応のところは受理された。おそらくはウーロンも、先の約束を思い出してくれたに違いない。いつまで覚えていてくれるのかはわからないが、今聞き入れてくれただけでもよしとしよう。…なんか俺、下手に出てるな。れっきとした勝者なのに。どうしてだろう。
ふいにブザーの音が鳴り響いた。これまでとは段違いにけたたましい点滴装置のその音は、ブルマによって止められた。同時にこれまでついていた赤いランプも消えた。ブルマが俺の右腕を取って、点滴管を外し出した。どうやら点滴はもう終わりらしい。
「プーアル、ウーロン、あんたたち、ちょっと席を外して」
「あいよ」
「ヤムチャ様、また来ますね」
理由も告げずに言い放ったブルマに、ウーロンは一言で答えた。素直に従うプーアルと共に、ウーロンは医務室を出て行った。
やっぱり、ブルマは強いな。もうすっかりいつも通りだ。

2人が出て行くと、医務室は急に静かになった。ブルマはきびきびと、そして黙々と点滴装置を片付けていた。少しだけ重苦しい沈黙に耐えかねて、俺は言葉を紡いだ。
「まったく、ウーロンにも困ったもんだな」
「そうね〜…」
肯定するブルマの声には、今ひとつ力がなかった。いつもなら機関銃のごとく文句を言い立てるのに。気にしていない…のかな。珍しい…
右足首につけられていた線をも外されて、俺の体はすっかり自由になった。一切の装置を片付けて、ブルマがスツールに腰を下ろした。
「ねえ、ヤムチャ。…えっと。どこかおかしなところはない?」
「おかしなところって?」
「だからその。気分とか。体とか…」
そこまで言って、ブルマは口を噤んだ。深い青を湛えるその瞳を見ながら、できるだけさりげなく俺は答えた。
「どこも何ともないよ」
「ふーん。そう…」
どことなく不満そうに、ブルマの声は聞こえた。でも、俺にはわかった。
忙しいやつだよな、ブルマも。言うことがころころ変わる。貶してみたり、怒ったり。…心配してみたり。『女心となんとやら』というやつだな。その典型だ。すごくわかりにくい。…言葉だけ聞いていると。
「ブルマも意外と心配性だな」
嬉しく思いながら、ブルマの髪に手を伸ばした。たぶん本人は気づいていない。きっと今も。
横で括った菫色の髪が、乱れてる。本当は、少し前から気づいていた。目が覚めた後からだ。でも、黙っていた。
だって、いくらなんでもそれを言うのはなあ。ずっとついててくれたのに。ついててくれたからこそ、乱れているというのに。
ウーロンは気づかないのかな、こういうこと。確かにブルマはキツイけど、冷たくなんか全然ないのに。…いや、ウーロンには冷たいか。でも自業自得だよな、あれは。
ゆっくりとブルマの横髪を梳いていると、その瞳の色が和らいだ。俺を見るその顔には、緊張感はもうなかった。そろそろお許しが出そうだな。
「じゃあ、起きるかな。…起きていいんだよな?」
念のため訊いてみた。勝手にこの部屋を出て行く勇気は、俺にはない。
「えっ…うん…」
ブルマは一瞬言い澱んで、でもすぐに言葉を続けた。
「いいわよ。でも、あんまり無茶しないでね。お腹の調子が悪かったら、すぐに教えるのよ。熱が下がったからって、胃腸炎が治ったわけじゃないからね。そうだ、間伐はもうやめなさいよ」
聞き慣れた機関銃声。もうすっかりいつも通りだ。
「うん。サンキューな」
ドアコンソールに向かいながら、できるだけさりげなく俺は後ろ手を振った。そのまま一度も振り返らずに、ドアを潜った。そしてドアが閉まった瞬間、大きく息を吐いた。
あー、緊張した。照れくさかった。
…怒られなくてよかった。


さて、どうしようか。
医務室を出てから、約5分。早くも俺は途方に暮れていた。
窓の外では陽が落ちかかっていた。いつもならトレーニングをしているはずのこの時間。だが、今日はやめておこう。ブルマに知れたら咎められるに違いない。心配してるんだか怒ってるんだか判断しがたい、あの口調で。
間伐もダメって言われたしな。…退屈だな。
手持ち無沙汰な気分でリビングへ行くと、そこには誰もいなかった。ベランダの端から、テラスに陣取る一同の姿が見えた。
「あっ、ヤムチャ様!」
そのままテラスへ顔を出すと、プーアルが声に喜色を響かせた。その隣ではウーロンが、さらにその隣ではこの時間としては珍しいことにブリーフ博士が、のんびりとお茶を飲んでいた。
「やあ、起きたかね、ヤムチャくん。若者は回復が早いね」
博士はだいたいのことを知っているようだった。おそらく、プーアルたちが話をしたに違いない。
「すいません博士。ご心配をおかけして…」
「いやいや、なんのなんの」
気さくな口調で博士は言い、テーブルに置かれていた缶の中からクッキーを掴み取った。入れ替わるようにウーロンが口を開いた。
「まったく素直じゃねえよな、ブルマのやつもよ。で、どこまでやった?」
「は?」
俺は思わず目を丸くした。ウーロンの言葉が、まるで意味不明だった。
「惚けんなって。バレバレだっつーの。キスしたろ?ベッドには入ったか?」
「なっ…」
一瞬、体が傾いだ。驚きのあまり、喉から声が出てこなかった。
ウーロンのやつ、何てこと言うんだ。だいたい、ここで言うか、それを?隣にブリーフ博士がいるんだぞ!
俺の心配をよそにブリーフ博士は平然とした表情で、だがやや声をうわずらせて俺たちの話に割って入ってきた。
「それは本当かね?いやいや、実に興味深い。わしにも聞かせてくれんかね」
「それがよう博士、ブルマのやつ、おれとプーアルの目の前でヤムチャに粉をかけ始めて…」
「ほほう、あの子がねえ」
「やることが白々しくってよ。おでことおでこをくっつけたりして。見てるこっちが恥ずかしいっつーの」
…恥ずかしいのはおまえの方だ。
事ここに至って、俺は少し冷静になった。ウーロンが何の話をしているのかがわかったからだ。本当にこいつは、どうしようもないな。
「あのな、ウーロン。ブリーフ博士も。…あれはただ検温をしていただけで…」
2人の好奇の視線に耐えながら、俺は事実を述べた。だがそれは、ウーロンの白けた声に撥ね返された。
「アホかおまえ。普通はそんなことのために顔を近づけたりはしねえの。だいたい、検温なんか体温計を使えばいいだろ」
「でも実際…」
言葉に詰まりかけた俺に、博士が畳みかけた。
「ヤムチャくんには深部温モニターをつけておいたはずだよ。持続的に体温を測る機械だ」
今度こそ本当に、俺は言葉に詰まった。…確かに、ずっと足に何かの線がついていた。モニターも見ていたよな…
黙り込まざるを得なくなった俺の耳に、ウーロンの呆れ声が響いた。
「何だおまえ、マジで何もしなかったのか?カーッ。バカだな〜。女泣かせだね〜」
「だ、だって…いや、でも…ちょっとは…」
言いかけて、口を噤んだ。ウーロンと博士が、再び好奇の目で俺を見ていた。
「ちょっとは?」
「い、いや。…何でも…」
俺が否定しても、2人の目の色は変わらなかった。呆気に取られたように宙に浮かび続けるプーアルに、俺は努めて視線を寄せた。
「あ、俺ちょっと水飲んでくるから…」
そして、できるだけさりげなく口にした。口実半分欲求半分の台詞を。…俺の喉はすっかり渇ききっていた。
「あっ、おまえ逃げる気か?」
背中越しにウーロンの声が聞こえた。俺の退路を断とうとするその声を、俺は無視した。すでに俺にはわかっていた。
これはやつの常套手段だ。そうやって足止めして、自分のいいように話を持っていく腹なんだ。さっきは賭け。今は場の肴。2度も続けられれば、いい加減わかりもするさ。
そこまで考えて、ふと思い出した。さっきしたばかりの約束。賭けでもぎ取った俺の権利…
俺は溜息をつきながら、現実を受け入れた。
…まったく無駄な賭けだったな。


テラスを離れC.Cの廊下を歩いているうちに、俺の心は平静に戻ってきた。
そういえば、ママさんの姿を見ていないな。午前のお茶の後からだ。買い物にでも行ってるのかな。
そんなことを考えながら、リビングのドアを潜った。そのまま隣接するキッチンへと一歩を踏み入れた時、俺の心は再び平静ではなくなった。
「ブルマ!どうしたんだ!?」
キッチンの床に、ブルマが倒れていた。力なく手足を伸ばして、体を床にうつ伏せて。
俺が駆け寄ると、ブルマが目を開けた。横向き加減に覗く瞳は、ひどく弱々しかった。
「…ちょっとね。気分が悪いのよ…」
無気力そうに呟いた。俺はすぐに思い当たった。
「まさか!うつったのか!?」
それしか考えられない。さっきまではあんなに元気だったんだ。…うつらない保証なんてどこにもないのに。強気になって甘くみるから…!
…いや、甘くみたのは俺の方か。
一瞬にして喉が干上がった。後悔の唾を呑み込んだ次の瞬間、ブルマが小さく囁いた。
「…違うと思う…」
一瞬吐きかけた安堵の息を、俺は殺した。信じていいはずがない。『そうだ』なんて言うはずないじゃないか。
数時間前の記憶を手繰った。博士は何と言っていた?嘔吐感、腹痛。俺の場合は高熱…
「違うって…」
ブルマの額に手を当てると、その下にある顔が不満そうに呟いた。少しだけ躊躇しながら、俺は検温を続行した。…かったのだが、ブルマにそれを阻まれた。ブルマは軽く頭を振ると、俺の手を振り払うように額を床にくっつけた。
…強情だなあ。そりゃあブルマが譲らない性格なのは知ってるけど、何もこんな時までそうじゃなくてもいいのに。
溜息をつきながら、ブルマの体を抱き上げた。どうも、俺では役に立たなさそうだ。
「医務室は使えるな?すぐに博士を呼ぶから」
だが、この最善と思える提案さえ、ブルマは拒否した。
「…呼ばないで。誰も。絶対に…」
耳元に吹き込まれるブルマの囁きは、本当に小さかった。一体、何だってんだ。強情にも程があるぞ。
「呼んだら絶交よ」
言い捨てるように呟いて、ブルマは目を閉じた。俺は呆然としながら、その顔を見つめていた。
どうしてそんなことを言うんだ。いくら脅し文句とはいえ…傷つくじゃないか。
しかたがなく、俺は独力でブルマを医務室へと運んだ。いや、一人だって何てことないさ。しかしなあ…
俺の時はあんなに大騒ぎしたくせに。…わがままなんだからな、もう。


ついさっきまでいたはずの白い部屋に、俺は足を踏み入れた。
白い壁、白い天井。白いベッドと白い器具はすっかり整えられていて、まるでずっと誰も使っていなかったかのように見えた。どうも違和感あるな。ここに俺が寝ていたなんて。
できるだけ慎重にブルマをベッドに寝かせた。だが、次の瞬間ブルマは俺の努力を無にするように、無造作にうつ伏せに転がった。…気持ち悪くないのだろうか。思うほど酷くはないのかな。
とはいえそれきり動かなくなったので、俺はかえって心配になった。そりゃあ、人の寝相はそれぞれだけど。
「…おい、ブルマ。大丈夫か?」
俺が声をかけると、ブルマがゆっくりと顔を横向けた。その瞳は驚くほど大人しかった。ますます心配になった俺に向かって、ブルマはぼそぼそと呟いた。
「…吐き気止め。簡易救急箱の中にある。それと本。細胞工学の…」
わかるようなわからないような言葉を。俺はその、わかる部分だけを実行した。
ブルマの視線の先にある薬品棚の上から、救急箱を取り上げた。箱を開けて俺にもわかるその薬を2粒取り出すと、ブルマが小さく口を開けた。依然顔だけを横向けたその体勢で。俺は少し躊躇しながら、その口に薬を放り込んだ。2粒目を放り込んだ途端に、ブルマが言った。
「本。細胞工学の」
「おまえ、こんな時に…」
「いいから」
囁くブルマの言葉には強気が篭っていた。そればかりか、命令口調でさえあった。まったく、こんな時にまでなあ。それにしても、コンピュータは使わないのだろうか。その種の病気ではないのかな。…ひょっとして、女の子のあれか?でも、だったら本なんか必要ないよな…
…わからん。
ともかくも、俺は本棚に向かった。わからない時はブルマに従っておこう。特にこういうことに関しては。
『細胞工学の本』とやらは、わりと簡単に見つかった。というより、探す余地がなかった。ほとんどが異国語の本だったからだ。読めるタイトルの中から細胞工学と名のつく物を選び出しそれをブルマに手渡すと、ブルマはうつ伏せのまま頭を持ち上げて、一心不乱に読み始めた。俺は黙ってそれを見ていた。
なんだかなあ。看護してる気が全然しないな。病人というより、自分自身で人体実験している科学者みたいだ。
やがてブルマが本を閉じた。枕元にそれを放り出して、再び横向き加減に転がった。俺はすぐさま本をデスクの端へと追いやった。病人はな、本なんか読まない方がいいんだ。…病人なんだよな?こいつ。
ふいにブルマが大きな溜息をついた。その顔は青ざめていた。やっぱり、どう見ても弱っている。
「どうすればいい?」
答えは返ってこなかった。ブルマはただ黙って俺を見ていた。やはりブリーフ博士を呼んでこようか――そう思った時、ブルマがおもむろに口を開いた。
「…頭、撫でて」
「頭?」
俺は一瞬狐に抓まれて、すぐに問い返した。
「背中じゃなくて?頭?」
「…何度も言わせないで」
そんなこと言われてもな。
ブルマはそれ以上(も何もまったくされていないが)説明する気はないようで、両手で枕を掻き抱くと、深く顔を沈ませた。横向き加減に片目だけを覗かせながら。本当にわけがわからないな。…言葉だけ聞いていると。
でも、俺は言われるままに、ブルマの髪に手を伸ばした。一つだけわかっていたからだ。
…ブルマのやつ、なんか甘えてるよな。さっきから。
言葉はキツイけど。まったくいつも通りだけど。でも甘えてる。そんなの見てればわかるさ。
『ブルマのやつおれとプーアルの目の前で、ヤムチャに粉をかけ始めて…』
ふと、ウーロンの言葉が脳裏を過ぎった。だが、俺の心は揺るがなかった。
…違うと思うなあ。
ブルマがそんなことするだろうか。ウーロンの言うように、よりにもよってウーロンの目の前で。考えにくいよな。というか、考えられない。それにそれを言うなら俺だって、『粉をかけた』ということになる。
でも、違うんだ。そんなんじゃない。ただあの時はなんとなく。そう、なんとなく…病人とか病み上がりの人間って、そういうところあるよな。心が緩むというか。感情的になるというか。きっと、体を動かしていないせいだろう。ブルマの場合は、具合が悪いから甘えたくなったんだろう。子どもみたいなもんだ。
でも、俺は嬉しいけど。なんか『らしい』よな、こういうの。
ややもして、ブルマが髪を流した。目を閉じて、顔を枕に埋ませた。どうやら眠るつもりらしい。その息を確かめながら、俺は掌の動きを緩めにかかった。ブルマの眠りを妨げることのないように。
今朝のようにまた安眠妨害をして、怒られたくはないからな…
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