尠進の女
一体、誰に怒ってるんだか。
心の真ん中でそんなことを思いながら、俺はブルマの話を聞いていた。
「まったく、何考えてるのかしらね」
それは、俺が知りたいよ。
再び心に呟いた。今度はその片隅で。どうも、都に来てからというもの、俺は独り言が多くなったような気がする。
「ウーロンたら、ひとの顔を見るたび、あんなことばかり言って。他にすることないのかしら」
「なさそうだな」
そしてきっと、相槌を打つことも上手くなった。
天気のいい昼下がり。昨日に引き続き俺はブルマに誘われて、ハイスクールを抜け出した。そして、カフェへとやってきた。急に思い立ったらしい。…ひどい話だよな。
どうして思い立ったのかなんて、まるわかりだ。昨日、俺が言ったからだ。思い出させたからだ。…俺が言わなかったら、ずっと忘れていたのかな。
「もう!他人事みたいに言わないでよ!」
ふいにブルマが声を荒げた。俺はすぐさまコーヒーを啜るのを止め、顔を上げた。その途端、空いた口にスプーンを突っ込まれた。
シルバーのパフェスプーン。乗っていたのは、ストロベリーパフェの白いクリーム。ブルマの好きなイチゴは含まれていない。
「ブルマおまえ、俺がクリーム苦手ってこと知って…」
無理矢理クリームを飲み込んで俺が言うと、ブルマはしれっとした顔をして、スプーンを俺に突きつけた。
「なーによ。『あの時』は食べてたくせに」
それはがんばってたからだよ。
喉に残るクリームの香りと共に、俺は言葉を呑み込んだ。…言えるか、そんなこと。
ブルマのためにがんばっていたなんて。ブルマはそんなこと、まるっと忘れ去っていたんだぞ。
…ひどいやつだよな、こいつ。

甘さとは無縁の雰囲気で甘いものを平らげて、俺たちはカフェを出た。カフェのドアを背に、俺は本日の首謀者に声をかけた。
「で、これからどうするんだ?」
ブルマからの返事は、少々俺の予想を裏切った。
「…歩きながら考えるわ」
言葉とは裏腹に、足を止めながら呟いた。珍しいな。ブルマが言葉を濁すなんて。しかも遊びに意欲的ではないなんて。いつだって強引で、ほとんど問答無用の勢いで俺を引っ張っていくのに。…俺、何かしたかな?
した覚えは全然ないけど。でも、さっきちょっと怒ってたしな。朝から普通に話をしてくれたから、昨夜の捨て台詞は八つ当たりだと思っていたのだが。違ったのだろうか。
できるだけさりげなく、ブルマの顔を窺った。ブルマはそれほど強くはない視線で、でも明らかに俺を見ていた。その瞳の色に、俺は心当たりがあった。
あー…はいはい。…手ね。
俺が静かにブルマの手を取ると、ブルマもまた静かに握り返してきた。どうやら当たりだったらしい。…よかった、気づいて。
それにしても、わからないな。
怒ってるんだかいないんだか。機嫌がいいのか悪いのか、さっぱりわからん。
怒っていたら、こんなことをしたがったりはしないよな。そうは思うんだけど、実際にブルマを見ていると、そう思えなくなる。
やっぱりまだ、どことなく不機嫌そうな顔をしている。カフェを出てから、口数も少ないし。雰囲気的にはあまり怖くはないけど。でも、ブルマは怒るとすぐ無視を始めるからな…
俺の危惧をよそに、ブルマは歩き出した。行き先は告げぬまま。俺は黙ってそれに従った。
もし怒っているのなら、そのうち何か言い出すだろう。ブルマは呑み込んだりは絶対にしない。だから、俺はそれを待とう。
気を強く、長く持って。

俺は少々神経を磨り減らして、C.Cへと帰った。…磨り減らすに、留まった。
結局、最後までブルマは怒らなかった。C.Cのゲートを前にゆっくりと手を離してさっさと先を歩いていくブルマの後姿を目にした時、安堵の気持ちともう一つの感情が、俺の心に湧き起こった。
…なんか、悪いことしたな。
せっかくデートしてたのに、俺はブルマを疑ったまま過ごしてしまった。でも、ブルマがいつになく大人しいから…いや、ブルマのせいにするのはよくないな。心当たりはないんだから、俺が堂々としていればいいんだ。でもなあ…
心の中で呟き続ける俺とは対照的に、ブルマは快活にリビングのドアを潜った。
「あー、喉渇いた!」
無人のリビングで誰にともなく声を上げて、キッチンへと向かった。自然な動作でストロベリーソーダを弄ぶブルマを見て、俺は態度を改めた。
…まあ、ブルマは気づいていないみたいだから、いいか。
「ブルマさん、ヤムチャちゃん、おかえりなさ〜い。今、ウーロンちゃんたちとお茶を飲むところだったのよ。テラスにいかが?」
そこへさらに、ベランダから自然に甲高い声が飛んできた。俺は完全に平常心を回復させて、ブルマと共にテラスへと向かった。

「おまえら、またサボったのか」
テラスに顔を出すなり、ウーロンが呟いた。いつもとは違う一音をそこに認めて、俺は思わず苦笑した。
おまえ『ら』か。
もう完全にバレてるな。ウーロンも鋭い…いや、違うか。
「別にいいでしょ。放っておいてよ」
その素振りすら見せず、ブルマが言い返した。…こいつだよな。
まったく、少しは否定しろ!昨日も思ったことだけど、あけすけ過ぎるぞ。それで助かることもあるけど。困ることの方が断然多いよな。
「それで、今日はどこへ行ったんだ?」
ブルマの素っ気なさにも構わず、ウーロンが言葉を続けた。いつも通りの気の入らない口調で。ブルマもまた、同じようにそれに答えた。
「別に。なんとなくブラブラしてただけよ」
「隠すな隠すな。どうせおまえらのことは、おれらみんな知ってるんだからよ」
「本当だってば!」
俺はというと、プーアルがコーヒーに砂糖を落とす音を間近に聞きながら、この日常の光景を眺めていた。
ウーロンもなあ。一体何がしたいんだろうな。俺たちが問題ないと言えば信じないくせに、ケンカしてれば文句を言うし。…ただ遊んでいるだけなのか?そうかもしれないな…
その兆候が見え始めた。俺がカップを口につけた時、軽く眉を顰めながらウーロンが呆れずにはいられない文句をつけ出した。
「ちっ、つまんねえなあ、おまえら。もう少し色気出せねえのかよ。おれが教えてやろうか?」
「死んでもお断りよ!!」
「そうかよ。何もしないままできない歳になっても知らねえぞ」
いきなり飛び出したウーロンの横言に、俺は啜ったコーヒーを飲み込めなかった。…何てこと言うんだ、こいつ!俺だけならまだしも、傍にはママさんもいるんだぞ!
ママさんはというと、俺の心配をよそに、常と変わらぬ手つきでパイにナイフを入れていた。聞こえなかった…のかな。それとも大人の対応…?どちらにしてもありがたい。安堵しながら息を整えだした時、強い視線が肌に刺さった。
大人な女性の、その子どもから。…俺を見るな、俺を!っていうか、そこはわからないフリをしとけ!ブルマおまえ、女だろ!
「あー、お茶が不味い!ごちそうさま!!」
唐突にブルマが会話を終わらせた。さりげないとはとても言えない、不自然な口調で。同時に荒々しくチェアを後ろに蹴り飛ばした。立ち上がりざま、真に女の子らしからぬ表情を閃かせた。
「いーだ!」
結局ブルマは一口もカップには口をつけぬまま、テラスを出て行ってしまった。呆れと呆然に包まれて後姿を見送る俺に、ウーロンが呟いた。
「なんだおまえら、またケンカしてんのか」
「あのな…」
俺に擦りつけるな、俺に。
まったく、ウーロンもなあ。…完全に遊び道具だな、俺たち。

「今日はいいお天気ねえ」
2杯目のコーヒーを飲み干した時、ママさんが空を見上げて笑った。
「そうですねえ…」
何の気なしに俺はそれに倣った。雲一つない青い空。都は晴れていることが多いけど、特に今日の空はよく見える。清々し…くはないな、心情的には。でも、少しそういう感じであることは確かだ。
「荷造りするかな…」
ハイスクールをサボったぶん、今日は時間に余裕があるし。ブルマはきっと部屋に篭ってしまっただろうし。あまりブルマに見せつけたくはないからな…
「おっ、部屋の整理すんのか?だったらおれも付き合うぜ」
俺の呟きを拾ったらしいウーロンが、珍しく意欲的な姿勢を見せた。俺は一瞬不思議に思って、次に牽制しておいた。
「ありがたいけど、礼はなしだぞ」
怪しげな頼みとか、人に言えない相談事もな。
「そんなもんは気持ちで返してくれりゃいいんだよ」
俺の内心の呟きまで拾ったのかどうかはわからない。だがとにかくウーロンは、非常に殊勝な台詞を口にして、俺の部屋までついてきた。


「必要そうな物はボクが纏めますから、ヤムチャ様は私物を整理してください」
「ああ、頼むよ、プーアル」
さりげない笑顔と共に、プーアルがウォークインクロゼットの中へと消えた。やがてカチャカチャと、ハンガーを纏めているらしい音が聞こえてきた。骨惜しみしないやつだな。そこがプーアルのかわいいところだ。
俺はとりあえず手近な不用品を整理しようと、ミニクロゼットの引き出しを開けた。部屋の整理とはいっても、しばらくは着なさそうな服を片付けるくらいだ。俺の私物なんて衣類くらいしかないからな。そう時間はかかるまい。
さっそく動きにくい服が数着出てきた。それをしまい込むべきか否か俺が判断に迷っていると、ウーロンが妙にひっそりとした動きで、俺の隣にやってきた。
「あ、おい、何…」
そしていきなり引き出しの底に両手を突っ込んで、派手派手しく掻き回した。溢れ出したシャツを数枚床に放り投げて、隅から隅まで引っ掻き回すと、ようやく手を引っ込めて嘯いた。
「ちっ、ここじゃねえのか。おまえのことだから、とっぱじめに隠しにかかると思ったんだけどな」
「は?」
俺は思わず頓狂な声を上げた。ウーロンの言うことがまったくわからなかった。
「どうせ持っていかねえんだろ。3年も寝かせておいたらカビちまうぜ。おれにくれよ」
「一体何の…」
話をしているんだ。
「しらばっくれるなって。エロ本だよ、エロ本。グラビアでもいいけどよ。いろいろあるだろ、そういうの」
俺の言葉を遮ってそう言うと、ウーロンはまんじりと俺の顔を見つめた。いきなり飛び出したウーロンの横言と横柄な態度の両方に、俺は一瞬返す言葉を失った。…おまえなあ。おまえの言う『気持ち』ってそういうものかよ!
この場にブルマがいなくてよかった。俺は心底そう思った。
「…期待しているところ悪いけど、そんなものないぞ」
何とか喉から否定の言葉を絞り出した。それに対してウーロンは、しれっとした顔で言い放った。
「ないわけないだろ、男の部屋に。特におまえみたいなやつのよ」
それは一体どういう意味だ。
憮然とする俺をよそに、ウーロンはじろじろと部屋を見回した。おもむろにベッドへ近づくとその横に寝転がって、今度はその足元を引っ掻き回し始めた。
「おまえは単純だからな。おれの勘では、きっとベッドの下なんかに…」
「ないって…」
呆れ笑顔で答えた俺を無視して、ウーロンはベッドの下を弄り続けた。…骨惜しみしないやつだな、こいつも。こういうことに関しては。
「すみません、ヤムチャ様。このボックスを動かしてもらえませんか」
ふとウォークインクロゼットの中から、一番の働き者の声がした。俺は軽く我に返って、プーアルの声に応えてやった。3つ目のボックスをクロゼットの外へ持ち出した時だった。
「何やってんの、あんたたち」
ドアの方から声がした。顔を上げるとブルマがどことなく気の抜けたような顔つきで、部屋を見回していた。不意を衝かれて、俺は一瞬言葉を探した。その隙にウーロンが俺に先んじた。
「よう、ブルマ。おまえも手伝えよ。ヤムチャのやつ、らしくもなくうまいこと隠しやがっ…」
「荷造りだ、荷造り!」
俺は慌ててウーロンの声を掻き消した。こいつ、どうしてそういうことをブルマに…絶対わざとやってるだろ、それ。
途端にブルマが眉を顰めた。それで俺は、自分が一つミスを犯してしまったことに気がついた。
…少しはっきり言い過ぎた。できるだけ刺激しないようにしたかったのに。まさか怒りはしないだろうが。ブルマ、どうするかな…
「足元、気をつけてくださいね、ブルマさん。まだ始めたばかりで、散らかっていますから」
ブルマが反応するより早く、ウォークインクロゼットの中から、働き者の声がした。プーアルの声に促されて、俺は自分の取るべき態度を決めた。
ここはさりげなく振舞うべきだ。あまり大げさにしない方がいい。別に今すぐ出て行くわけではないのだから。
果たして俺の思考が届いたのだろうか。ブルマは何も言わずに、黙ってベッドの端に腰を下ろした。胸を撫で下ろしつつも、俺は少し注意して様子を見ていた。
「で、あんたは何をしてるわけ?」
ブルマの視線はもっぱらウーロンへと向いていた。荷造りそのものには、あまり興味がないらしい。
「それがよ、ヤムチャのやつ絶対に持ってないって言い張ってよ」
「何を?」
「男のロマンをだよ。こいつほど女に不満が溜まっているやつも…」
「わっ!」
平然と言い放つウーロンの声を、俺は再び掻き消した。今わかった。ウーロンの腹が。俺本人に出させるつもりなんだ。俺がそれを隠そうとするところを押さえるつもりなんだ。
「何でもない、何でもないから!ウーロン、本当にないから…」
だから、火のないところに煙を立てるのはやめてくれ。
「マジかよ。つまんねえやつだな、おまえは」
完全な呆れ顔でウーロンは言った。立ち上がって俺を見る目つきは、蔑むようですらあった。何と思われても構わない。わかってくれさえすれば、それでいい。
ともかくも俺は部屋の片付けを続行することにして、先ほど持ち出したボックスに手をつけた。ミニクロゼットは後回しだ。ブルマの前であれを検めようとは思わない。まだ一度も着ていないものもあるし。もうこの上はひたすら無難に振舞おう。それが最善の策だ…
「よし。あたしも手伝ってあげるわ」
おもむろにブルマが言った。妙に気合の入った声音で。腕まくりの素振り(捲る袖などないが。例によってチューブトップだから)すら見せて。俺は思わず目を瞬いた。
まったく期待していなかったからだ。ブルマはこの手の片付けものは苦手なんだと思っていた。ましてや俺が出て行く手伝いなんて…
驚く俺をよそに、ブルマは颯爽とも言える足取りで、ウォークインクロゼットの中へと消えた。部屋の中央で道着をたたんでいたプーアルが、後を追うように入っていった。
「2人で同じことをやっても能率悪いから分担しましょ。あたしシューズボックスね。それからこっちのチェストと…」
「助かります、ブルマさん」
ウォークインクロゼットの中の働き者が2人になった。どうやら本気でやるつもりのようだ。意外だな。思っていたより理解してくれていた…
…のかな?

それなりに順調に、俺はボックスを片付け続けた。窓の外から漏れてくる小さな街の喧騒と、背後から聞こえてくる大きな物音を耳にしながら。
…ウーロンだ。
わかってくれたはずのウーロンは、再び行動を開始していた。俺の視線をまったく気にすることもなく、本棚やチェスト、デスクの脇なんかを漁っていた。
呆れるほど骨惜しみしないやつだな、こいつは。こういうことに関してだけ。まあいい。本当にないんだからな。もう放っておこう。幸い、ブルマはクロゼットに篭っていることだし…
そこまで考えて気がついた。…そういえば、ブルマは?
慌ててウォークインクロゼットを覗き込むと、奥のほとんど使っていないチェストの前に、へたり込むように座っているブルマの後姿が見えた。見えないその口から、篭ったような呟きが発せられた。
「う〜…」
それを耳にしても、俺は苦笑せずに済んだ。よくわかっていたからだ。
「ブルマ、もういいよ。疲れたろ?」
後ろに立って声をかけると、ブルマはくすんだ目で俺を見上げた。その瞳には、疲れの色がありありと浮かんでいた。そうだろうな。ブルマは自分の部屋だって、常に整理整頓しているというわけではないのだから。
俺はある衝動に駆られて、この場にプーアルと特にウーロンがいることを恨めしく思った。少し下がって菫色の後ろ髪を視界の隅に追いやりながら、ポケットの中で拳を握った。
「後は自分でやるから。あまり根を詰めるな」
そう言った瞬間、ブルマが眉を顰めた。
本当に唐突に。俺、何もしてないのに。それで、俺は悟った。
ブルマは棚上げしただけだったのだということに。そうだよな。何も思わないわけはないよな。ブルマの性格ならなおさらだ。俺の締めの言葉は、ブルマにとっては始まりの合図だったというわけだ。
ブルマの瞳がきらめいた。ともかくも俺は聞く覚悟だけは充分に持って、ブルマの口が開くのを待った。
「あ、ボクが出ます」
研ぎ澄まされた意識の中に入ってきた声は、ブルマのものではなかった。視界と感覚の死角から飛んできたその声に、俺はプーアルがブルマと一緒にいたことを思い出した。現実感が回復すると共に、クロゼットの外から鳴り続けるキーテレホンの音が聞こえてきた。
「おーい。メシだぞー」
キーテレホンの音が止んで、ウーロンの声が聞こえた。やつの存在もまた忘れかけていた。そこにいるということは重々承知していたはずなのに。だってなあ…
ふいにブルマが立ち上がった。俺は一瞬身構えて、すぐに構えを解いた。ブルマがクロゼットを出て行ってしまったからだ。何も言わぬまま。睨みつけることさえしないまま。少しだけ荒っぽい足取りで、無言で部屋を出て行くブルマの後姿がドアの向こうに消えた時、プーアルが心配そうに呟いた。
「どうかしたんですか、ブルマさん」
「…うん、ちょっとな」
溜息と安堵の息の両方を吐きながら、俺はそれに答えた。


「今日はすてきな夕暮れだから、テラスでお食事よ」
そう言うママさんの声に反対する者は、誰もいなかった。
その通りだったからだ。桃色に染まる空。やや薄いその色に染まる花びらのような雲。落ちかかるサックスブルー。テーブルを彩るキャンドル。季節の花の香り。
この上なく雰囲気を楽しんでいる人間とどうでもよさげな目つきをする人間の混在する中、明らかに不満そうな素振りを見せている人間が一人いた。
…ブルマだ。
キャンドルに照らされた瞳には、その陽炎が揺らめいていて、当然のように眉間に皺が寄っていた。フォークとナイフを構えながらも食事を始めようとする気配はまったくなく、今にも爆発しそうな雰囲気を漂わせておきながら、尖った口から出てくる言葉と言えば、篭ったような呟きだけだった。
「う〜…」
どうしたんだろう。こういうの好きそうなのにな。
建前上、そう思った。本音では、考えていた。
怒っている…んだよな?
怒られるようなことをしたとは思っていないが。現実に、さっきちょっと怒りかけてたしな。結局黙って出て行ったから、気のせいだと思いたかったのだが。でも、ブルマは怒るとすぐ無視を始めるからな。それにしても…
危惧する俺の隣では、ウーロンが身を竦めてブルマを見ていた。今度は何も言うつもりはないらしい。賢明な判断だ。俺はそう思ったが、安堵するには至らなかった。
ある痛みに耐えながらメインの皿にナイフを入れた時、突然ブルマがカトラリーをテーブルに放り投げた。そして目の前のグラスを掴むと、入っていた水を一気に飲み上げた。
「…ごちそうさま!」
間髪入れずにそう叫んで、チェアを後ろに蹴り飛ばした。このあからさまに不自然な台詞と動作は、当然みんなの目にするところとなった。
「あらブルマさん、お食べにならないの?」
「食欲がないのよ」
結局ブルマは一口も料理には口をつけぬまま、食卓を離れてしまった。雑然とした気持ちで後姿を見送った俺に、ウーロンが呟いた。
「おまえらってよ、一体いつの間にケンカしてるんだ?ちょっと目を離すとすぐケンカしてるよな」
「やっぱりケンカしてると思うか?」
「何だよおまえ、自分でわからないのかよ?」
「いや…」
わからないも何も、まだケンカはしていない。そう…『まだ』。だが、それこそが問題であるように、俺には思えた。
「そうだな。じゃあ行ってくるよ」
少しだけ考えて、俺は自分もカトラリーをテーブルに置くことに決めた。すでに空気はみんなに伝わってしまっている。今さら体裁を繕えるはずもない。というか、そんな場合ではない。
「がんばれよ」
言葉とは裏腹に淡々とした口調で、ウーロンは言った。矛盾した性格だよな、ウーロンも。
いつもは茶化してばかりいるくせに、最後には決まってこういうことを言う。それがなぜかはわかっている。だからこそ矛盾している。
ブルマが怖いなら、初めから大人しくしていればいいのに。なあ…

食卓に背を向けると、興味と同情、それと僅かな心配の視線が背中を刺した。だが、俺は気にしなかった。すでにさっき一身に浴びたところだ。今はただただ考えていた。
どうもわからない。一体、ブルマはどうしたんだろう。
怒っている…んだよな?でも、それにしてはどこかおかしい。なんというか、間接的に過ぎる。一言足りないというべきか。いつもなら絶対に、もっと何か言ってくるのに。それに今日は昼から、行動の切れも悪い。俺をサボりに引き込んでおきながら、何をさせるわけでもなかったし。いつだって強引で、ほとんど問答無用の勢いで俺を引っ張っていくのに。…ひょっとして見限られたかな。それで荷造りにも積極的だったのだろうか。でも、昨日はデートだ何だとうるさく言っていたよな…
…さっぱり、わからない。
思考は堂々巡りに陥りかけた。だが実際に繰り返されることはなかった。リビングへと続くベランダのドアに手をかけた瞬間、それは唐突に止まった。同時に俺の足も止まった。
リビングにブルマがいたからだ。テラスを背にして、ソファに座り込んでいる。いつもは、すぐに自分の部屋に篭ってしまうのに。もう少し考えを纏めようと思っていたのに、その時間がなくなってしまった。
とにかく俺は、開けかけていたドアを押した。リビングへ数歩を入り込んだ時、ふいにブルマが頭を振った。次の瞬間、俺の疑念がまた増えた。
「何よ?」
ブルマの声が聞こえたからだ。てっきり無視されるものだと思っていたのに。本気で怒っている時にブルマの方から水を向けてくることなんて、これまでなかった。
「座りなさいよ」
硬直しかけた俺に向かって、ブルマはさらに一言呟いた。ソファの一席を――自分の隣を手で叩きつけながら。それに逆らう勇気は俺にはなかった。
俺が隣に腰掛けると、ブルマが小さな鼻息を漏らした。
「さっき、何してたの?」
そして、唐突に切り出した。さっぱり脈絡の読めない話を。
「さっきって…」
「夕食の前。部屋を出る前、何か隠したでしょ。一体何よ!?」
俺に向けられたブルマの瞳には、キャンドルによらない炎が青々と燃えていた。奇妙なことだが、それを見て、俺の心は落ち着いた。ブルマが怒っているということが、はっきりわかったからだ。とはいえ、なぜ怒っているのかということには、さっぱり心当たりがなかった。
さっきと言ったって、俺はほとんどブルマと話をしていない。隠すようなこともない。ミニクロゼットは…それならそうと言うだろうしな。
俺がひたすら記憶を弄っていると、ブルマが業を煮やした。それはわかったのだが、言うことはさらにわからなかった。
「ポケットの中よ!」
ポケットの中…
心の中で復唱して、次の瞬間、俺は考えることを止めた。
完全にわかったからだ。ブルマが誤解しているということが。
「あー…ああ、あれは…」
「言えないことなの!?」
続くブルマの言葉が、俺の結論を補強した。いや、それともわかっていて怒っているのだろうか。俺が逡巡したことを。あの時はそれほど注意して見ていなかったからな。気づかなかった。
「そんなことはないけど…」
「じゃあ、教えなさい。隠すつもりがないなら、ちゃんと行動で示しなさい。あんた態度悪過ぎよ!!」
ブルマの言葉は、まったく正論だった。そうなんだよな。わかってはいるんだ。
心当たりはないんだから、悪いことをしたわけじゃないんだから、堂々としていればいいんだ。…悪いことじゃないよな?俺たち、付き合ってるんだし。口に出していけないわけもない。でも、ブルマが…いや、ブルマのせいにするのはよくないな。でもなあ…
「今?ここでか…」
俺は現実的な見地から反論を試みた。すぐそこにみんながいる。背を向けているとはいえ、とても適当な状況とは言い難い。
「あったりまえでしょ!!」
ブルマの返事は、俺の予想を裏切らないものだった。そう言うだろうと思っていた。ブルマには配慮ってものが、まるでないんだからな。昼にも思ったことだけど、あけすけ過ぎるんだよ。本当に困るよな。
そう考えつつも、俺は口を閉じた。…そんな文句など、言えるはずもない。
まあいいさ。万が一見られても、所詮は一時の恥だ。もうすぐ俺はここからいなくなるんだからな。といっても、C.Cと縁が切れるわけではない。それはわかっている。…気休めだ。
そんなわけで、俺は先ほど感じた衝動を行動に移した。先ほどとはまったく異なる心境で。
「ん?」
途端にブルマが呟いた。ひどくクリアな声音だった。ブルマとしては珍しく目を丸くして、また呟いた。
「…あんた、何してんの」
「何って…」
俺は思わず言葉に詰まった。というよりも、躊躇した。…そんなの、見ればわかるだろ。そこまで言わなければダメなのか?
「どうして頭撫でるのよ!あんた、あたしをバカにしてるの!?」
その隙にブルマが俺に先んじた。…わかっているなら、訊くなよ。っていうか、どうしてそこで怒るんだ。
「まさか、そんな。俺はただ感謝して…」
いたんだよ。…さっきはな。
「どうして感謝するのよ!」
「だって、嬉しくって…」
俺が言葉を続けても、ブルマは怒り続けた。どうしてわからないんだ。だいたい、どうして怒るんだ。俺が頭を撫でちゃいけないのか?自分はいろいろせがんでくるくせに、俺がやったら怒るのか。一体どういうことなんだ。というか、いちいち繰り返さないでほしいな。恥ずかしいじゃないか…
そう思った時だった。ブルマがいきなり俺の腕を掴んで、力任せに引っ張った。そして、すでに実行しかけている台詞を、声高く叫びたてた。
「ヤムチャ!行くわよ!」
引っ立てられる上半身を慌てて下半身で追いかけながら、俺は現実的な見地から水をかけてみた。ブルマの行動が、まったくパターンから外れていたからだ。
「行くってどこに…」
「あんたの部屋!」
ブルマの答えは明解だった。俺の疑念がまた増えた。
なぜ俺の部屋?怒っている時に、ブルマがこんな風に俺の部屋に来たがったことなんてなかったはず――
だが俺は、拒もうとは思わなかった。
…そんなこと、できるはずもない。


ドアを開けて自分の部屋のありさまを目にした時、俺は一瞬現実に引き戻された。ベッドがひどく荒らされていたからだ。どうしてなのかはわかっている。
…ウーロンだ。
あいつもしつこいな。ないって言ったのに。俺のベッドが清浄なのが、そんなに気に入らないのだろうか。
俺が安堵したことに、ブルマはその乱れを直しただけで、乱れている理由については一切訊いてこなかった。…まあいい。ブルマが気づいていないのならそれでいい…
…そう、ブルマが問題だ。
俺は目の前の女の子に意識を戻した。ブルマはそれなりの状態になったベッドに、身を投げるようにして無造作に座り込んだ。そしてやっぱり無造作に、その隣を手で叩きつけた。脳裏を掠める記憶を努めて意識の外に追い出しながら、俺はその場所に腰を下ろした。
「一体どういうことなのよ。ちゃんとわかるように説明して!」
眉間に皺を寄せ口を尖らせて、ブルマは言った。俺は一瞬言葉に詰まった。というよりも、躊躇した。だが、ブルマの瞳の中にあるものを改めて確かめて、即座にそれを捨てる決心をした。
もういい。言ってしまおう。デートは終わったことだけど、これは今の話だ。なにより、ブルマが怒っている。恥ずかしがっている場合ではない。
「…だって、ブルマ片付け苦手だろ」
まずは前提となる事実を一つ、俺は挙げた。途端にブルマの目つきが険しくなった。
「悪かったわね」
不貞腐れたように呟いて、片頬杖をついた。横目で睨めるように俺を見た。…そりゃあ、俺だってこんなこと言いたくないさ。でも本当のことだし。何より言わないと話が繋がらない。
「それなのに荷造り手伝ってくれただろ。すごくがんばってやってたよな。だから嬉しくなって…なんとなく頭を撫でてやりたい気持ちになって。でも、あの時はプーアルたちがいたから」
その痛みに耐えながら俺がここまで話しても、ブルマの俺を見る目つきは変わらなかった。理解の欠片も感じられない、くすんだ青い瞳。…ああ、わかったよ。もう全部言ってやる。
「…それでも我慢できない感じだったから、ポケットで手を封じたんだ」
今度こそ俺は口を閉じた。やっぱり、ブルマの俺を見る目つきは変わらなかった。でも、俺はそれを不快に感じずには済んだ。すぐに気づいたからだ。
ブルマの頬に赤みが差して見える。明らかに照れている。ちょっとかわいい…
まだいくらか構えて様子を見ていると、ブルマが片頬杖を解いた。もう瞳に険はなかった。ようやくわかってくれたらしい。安堵の息を吐きながら完全に構えを解いたその時、ブルマの手が腕に触れた。体をこちらに向けて、窺うように俺を見ていた。僅かに咎めの入り混じった、上目遣いのあの瞳で。あー…
「…あのさ。その。そういうことは、ここではちょっと…」
意識して目を逸らしながら俺が言うと、ブルマが俺の片耳を引っ張った。しかたなく視線を戻すと、瞳に浮かぶ咎めの色を強くして、あっけらかんとブルマは言った。
「なんで?今は誰もいないわよ」
それが問題なんだよ。
さっきから思ってたんだけど、ブルマって…………鈍いな。いや、機微がないと言うべきか。俺だってそんなこと考えてないけど…ウーロンにあんなこと言われちゃあな。
俺は再び目を逸らした。ブルマからの視線が喉元に突き刺さった。その痛みが、俺の認識を強くした。…ブルマはやっぱりわかっていない。いや、わかっていてやっているのだろうか。どちらにしても…
除けきれなかったブルマの手が、俺の腕を強く掴んだ。それで俺は、現実を受け入れることに決めた。
ブルマにそうされてしまう前に、俺の方からキスをした。やっぱり、こういうことは男の方からしないとな。…それが悪あがきに過ぎないということはわかっている。
どうせ俺の負けだ。俺はブルマに逆らえない。この瞳に、逆らえない。
弱いよな。いや、ブルマが強すぎるんだ。
まあ、幸せだからいいか…

息をつかせる間を、俺は計っていた。まだあまり慣れてないから。そして、そのタイミングが訪れる前に気がついた。
いつもと違うあることに。いつもと違うその感覚に。
俺が唇を離すと、ブルマが窺うように俺の顔を覗き込んだ。俺はさらにその顔を覗き込んだ。
ブルマの頬が赤かった。そりゃあ、キスの後はいつも少し赤いけど。でも、今はいつもよりもさらに…
「ちょっとヤムチャ、あんたね…」
「ブルマおまえ、なんだか熱いな」
一部分だけでは決めつけられない。事実を確定させるために、俺はブルマの手を軽く除けた。合わせた額から、常にない火照りが肌に伝わってきた。…やっぱり。
「おまえ、絶対熱あるぞ」
熱いのは唇だけじゃなかった…


納得のいかなさそうな表情でブルマは医務室までの廊下を歩き、惰性的とも言える手つきで簡易救急箱から体温計を取り出し、事務的な仕種でそれを肌に当てた。そして無造作に呟いた。
「37度」
先の感触と昨日の感触の両方を思い出しながら、俺は現実的な反論を試みた。
「そんなものか?もっとあるように感じたぞ」
「あたし平熱低いから」
わかったようなわからないようなことを、ブルマは言った。いや…俺にならわかるか。いや、やっぱりわからないな。唇の温度なんて知るか。
体温計をデスクの隅に放り出すと、ブルマはベッドに、身を投げるようにして無造作に座り込んだ。そしてやっぱり無造作に、その隣を手で撫でつけた。俺は今度は躊躇なく、その場所に腰を下ろした。少しだけ背中を屈めてブルマを見ると、頬に微かな赤みがあった。
今まで全然気づかなかった。部屋にいた時はあまり顔を見ていなかったし、食事時は薄暗かったからな。でも…
「自分で気づかなかったのか?」
現実的な見地から、俺は軽く咎めてみた。普通、自分で気づくよな。少し管理意識が低すぎるんじゃないだろうか。
ブルマはまったく顔色を変えずに、淡々と俺に答えた。
「んー…ちょっと気分が違うなとは思ったけど。でも、単なる遊び疲れよ、きっと。他におかしなところはないし」
「…なるほど」
笑い飛ばすようなブルマの声は、俺の心に深く響いた。今や俺はすっかり腑に落ちていた。
熱のせいか。それなら納得だ。熱があると、どことなく気だるくなったりするからな。それで大人しかったんだな。そうか、熱のせいか…
っていうか。
それでもあんなに強いのか…
「ねっ、ヤムチャ。肩抱いて!」
突然ブルマが俺の腕を引っ張った。有無を言わせぬいつもの態度で。それで、愕然としかけていた俺の心は現実に返った。同時に、少し優しい気持ちにもなった。何ともないとは言ったけど、やっぱり辛いんだな。すぐ強がるんだからな。そのくせ甘えてきたりして。矛盾してるよな。でも、ちょっとかわいい…
現実的な対処として、俺は腕を伸ばした。ブルマの肩に指を触れたところで、気がついた。
ブルマの瞳に。仰ぐように俺を見上げる、瞬きもしないその瞳に。濃い青闇に星を浮かべて、きらきらと輝くその瞳に。
うっ。
ブルマおまえ、何だその目は。もう訴えてるとかいうレベルじゃないぞ。あからさま過ぎだ。っていうか、おまえ病人だろ。少しは自重しろ!
現実的な対処として、俺は目を閉じた。ブルマの瞳を視界から消すために。
…ブルマの求めに応じるために。
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