遊進の女
月明かりの強く差す夜。夜のトレーニングを早めに切り上げて部屋で荷造りの続きをしていると、突然ドアが開いた。横目を流すと、そこにブルマが立っていた。少しだけ意表をついた格好で。初めて見る、淡桃色のパジャマ姿で。
「何これ。まだ荷造り終わってないの?きったない部屋ねー!」
開口一番そう叫んで、ベッドの端に身を投げた。そして足をぶらつかせて、部屋をぐるりと見回した。
「プーアルはいないの?」
「もう休ませた。あいつはまだ子どもだからな。夜更かしさせると体に悪い」
「ふーん…」
さして気もなさそうにブルマは言い、再び足をぶらつかせ始めた。それで俺は、それまでやっていたミニクロゼットの整理を続行させてもらうことにした。
後はここの服だけだからな。とは言っても、枚数だけはあるのだが。そろそろ部屋を正常な状態に戻さないと。それに…
「あっ!それ!」
ブルマの声が急に近くなった。気づくとほとんど一瞬にして俺の隣へやってきていて、やはり一瞬にして俺の手からシャツを引っ手繰っていった。俺がそれを察知した時には、もう遅かった。
「去年あたしが買ったやつ!見ないと思ったら、こんなところにしまい込んでたのね。どうして着ないのよ。せっかく買ってあげたのに!」
正面に俺を見据える怖い雌豹。努めて視線を上に向けながら、俺は弁明を試みた。
「いや、なかなか着る機会がなくてさ。その服、動きにくいんだよ。タイト過ぎるっていうかさ…」
「何言ってんの。ちゃんと試着したでしょ。だいたい、そういうことは買う前に言いなさいよ!」
ブルマの言葉はまったく正論だった。しかしながら、俺には俺の一論があった。
…言えなかったんだよ。あの頃は。
都風の服にも慣れていなかったし。女の子に服を見立ててもらうことも初めてだった。そもそもブルマが、有無を言わせぬ態度だった…
心に浮かぶ反駁は、尽きることがなかった。それにも関わらず、俺は口では言っていた。
「わかったわかった、これから着るから…」
脊髄反射とも言える自分の行為に、俺は軽く愕然とした。…そしてやっぱり、今も言えないというわけだ。あー、情けない。
「じゃあ明日ね!」
きっぱりと言い捨てて、ブルマは言葉を閉じた。どうやら矛を収めてくれるらしい。よかったよかった。…しかし、それにしても。
一つの現実を目の当たりにしながら、俺は訊ねてみた。
「おまえ、熱は下がったのか?」
俺が今日ブルマの姿を見るのは、これが初めてだ。ブルマは今朝から一度も部屋の外に出ることなく、ハイスクールを休んだのだ。サボりによらず。俺がここに来て初めて見た光景だ。だから、実は結構辛かったのだと思っていたのだが。
「うん、もうすっかり」
けろりとした顔で、ブルマは答えた。俺は少し考えて、その言葉を疑ってかかることにした。ブルマは調子が悪い時に限って強がるんだから。そうじゃなくとも、寝るのに飽きて起き出してきたのかもしれない。
「ちょっと、いきなり何するのよ!」
なぜかブルマが、突然怒り出した。視線を上に上げたまま、俺は事実を告げた。
「何って検温だよ」
「そういうやり方、いい加減にやめてよね!いちいち紛らわしいのよ!普通は手でしょ、手!」
さらなる怒声を吐き出しながら、ブルマが俺の額を力任せに押し返した。一瞬はブルマの額を捉えながらも目的は果たせぬまま、俺は退却を余儀なくされた。首の痛みだけを収穫として。新たなる現実を目の当たりにして、俺は思った。
…その手が汚れているから遠慮したのだが。
だが、それは言わないことにした。どうせ埃っぽい手をしている俺が悪いのだ。少なくとも、ブルマの理屈ではそうなるに違いない。
「わかったよ。手、洗ってくるよ」
「何それ!」
続く怒声を聞きながら、俺は部屋を後にした。ラバトリーへ向かう途中で、考えた。
昨日は何も言わなかったのに、今日は打って変わってあの態度。どうやら本当に回復したようだ。
…検温するまでもなかったな。

手を洗って部屋へ戻ると、ブルマは非常にリラックスした姿勢で俺を待っていた。もうミニクロゼットには目もくれずに、ベッドの真ん中でごろごろしていた。安堵の息と溜息を同時に吐きながら、ブルマとベッドを背後に置いて俺は床に座り込んだ。
途端に耳が引っ張られた。無理矢理かっぽじられた耳の穴に、小さな怒声が飛び込んできた。
「どうしてそっち向くのよ。ちゃんと隣に座ってよ」
俺は再び溜息をつきながら、ブルマの声に従った。今度はベッドの上に、ブルマを正面から見ることのないよう注意して腰を下ろした。頬杖をつきながらうつ伏せていたブルマの瞳が、僅かに和らいだように見えた。…これはブルマなりの甘え方だ。たぶんそうなんだと思う。しかしなあ…
俺は三度溜息をついて、目を伏せた。
…少し胸元が開き過ぎなんだよ、そのパジャマ。
ブルマはいつもそういう格好をしているけど、それとはまた少し違うんだよな。今日は蒸すからそのパジャマを着たくなる気持ちはわかるが、その格好で人前には出ないでほしいな。ウーロンの前なんかには特に。おまけにその姿勢。ブルマにはそういう配慮が、明らかに欠けている。
誰かそういうことを教えてやるやつ、いないのかな。…やっぱり、俺の役目なのだろうか。
荷の重さを感じ始めた俺とは対照的に、ブルマは軽やかに言い放った。
「ねえ、明日はどこ行く?」
「…またサボるのか?」
呆れを隠せず、俺は返した。だって、もう三回目だぞ。おまけにブルマは今日はハイスクールを休んだんだから、それでは四日連続でまともにハイスクールへ行かないということになる。
「いいでしょ、あんたはもうすぐ辞めるんだから」
「それはそうだけど…」
確かにそうなんだけど。まあいいか、と言ってやりたいところなんだけど。…なんか、半年以上にも渡って作られた俺のハイスクールでのイメージが、ここ数日でどんどん壊されているような気がする。『もうすぐいなくなる』ということが、いい口実にしかされていないように思える。普通、そこは悲しむべきところだろ。結構ひどいことしてくれるよな、ブルマも。
何か一言言ってやりたい。そう思って言葉を探し始めたところ、至極現実的な事柄が、一つ脳裏に浮かんできた。
「明日は長距離走大会があるんじゃなかったか?一単位分のやつ」
言った途端に、ブルマの眉が顰まった。不機嫌を隠そうともせず、だるそうに口を開いた。
「えぇー?いいわよ、そんなの…」
「いや、ダメだろ。単位分なんだから」
それこそ俺はいいけどな。どうせ辞めるんだから。
ブルマの眉間の皺は深まり続けた。ブルマはそういうの、てきめんに面倒くさがるんだよな。それでいつも――
ここで俺は思い出した。ブルマの不機嫌は、得てして観念とは逆の方向へ進むのだということを。
「おまえ天才なんだろ。天才がそんなことで留年したら親が…」
言いかけて、はたと言葉を止めた。…あの両親は、泣かなさそうだよな。
「まあとにかく、情けないぞ」
一般的な言い回しで諭すことは諦めて、ともかくも俺は言葉を纏めた。それに対しブルマは、不貞腐れたようにたった一言呟いた。
「…おべっか遣い」
「あのな…」
呆れ笑顔になっているのが、自分でもわかった。まったく、ああ言えばこう言うんだから。
「とにかく、明日はハイスクールだ。そうだな、それで…大会が終わっても万一ブルマが元気だったら、何なりと付き合うよ」
意図して篭めた俺の皮肉は、おそらくブルマに伝わった。ブルマは素早くベッドから跳ね起きると一瞬軽く俺を睨んで、すぐさまドアへと向かった。
「その言葉、忘れないでよ!!」
振り向きざま見せたその瞳には、悔しさがありありと滲み出ていた。でも、いつもの冷たい怒りの炎は見当たらなかった。そのことに安堵しながら、部屋を出て行くブルマを黙って見送った。
あー、すっきりした。言おうと思えば言えるものだな。肉体的なことでは俺に分があるとわかっているからこそ言えたことだが。あの様子では、十中八九サボらないだろう。よかったよかった。それに、部屋を出て行ってくれたこともよかった。
あの格好であの瞳をされたら、きっと本気で困ってしまっただろうからな…




翌朝、口約通りの服を着て、俺は部屋を出た。
やっぱり動きにくいけど、しかたがない。昨夜自分が少々冒険を犯したということは、よくわかっていた。これ以上がんばる気力は、俺にはない。
その感覚が正しかったということは、すぐに証明された。俺がリビングへ顔を出すと、朝食の席につく間もなくブルマが言ったのだ。
「それ、動きにくいんじゃなかったの?」
あからさまに嫌味な口調で。俺は半ば反射的に、自分の取るべき態度を選択した。
「…まあな」
おそらくここで否定すると、さらに怒るに違いない。『昨夜言ったことは嘘だったの!?』とか言って。ブルマの言うことなどもう読めている。と言いたいところだが、そうではない。経験から得た事実だ。…情けないことながら。
ブルマはそれ以上何も言わなかった。だからと言って、機嫌が直ったわけではない。オムレツにナイフを入れる手つきから、それが明らかだった。やっぱりちょっと冒険し過ぎたな。俺はそう思って、この上は現実に意識を向けさせることにした。
「ちゃんとメシ食っとけよ。長距離は体力勝負だからな」
ブルマは怒るとすぐに席を立つんだから。もうお見通しだ。…そんなことだけは。本当に情けないな。
「わかってるわよ!」
叫ぶようにブルマは答えた。とはいえ続く言葉はなく、憤然としてオムレツを口に運び始めた。ウーロンが呆れたように俺たちの顔を見た。
「おまえら、またケンカしてんのか」
「ケンカじゃないわよ!!」
再びブルマが叫んだ。手にしているカトラリーが、ひときわ大きな音を立てた。…おおこわ。心の中でそう呟きながらも、その奥底では俺は怯まずに済んだ。なんとなくわかっていたからだ。
ブルマが本気で怒っているわけではないということが。本気で怒っていたら、こんな風に会話は続かない。いつだって絶対無視だ。…まあ、怒りそのものは本物のようだが。ただ俺本人に対して怒っているというよりは、俺の言葉――たぶんあれだな、『天才』という言葉に反応したんだろう。ブルマはこの言葉に並々ならぬ拘りがあるようだからな。何か作ったと言ってはよく使う(それで俺も倣ってみた)。俺はブルマのプライドを刺激したというわけだ。
とはいえ、完全にやる気になったわけではないようだった。足はハイスクールへと向けながらも、ブルマは口では今だにこんなことを言っていた。
「やっぱり休もうかなー…だるいし」
それも、ウーロンとプーアルが小等部のゲートへと消えた途端に言い出した。やっぱり俺の言葉は、ブルマにはまだまだ効かないな。
「熱はもう下がったんだろ?」
「でも、だるいんだもの!」
「どうしてそんなに嫌がるんだ」
『だるい』というのが口実だということはわかっていた。わかっているというよりも、ブルマはいつもそう言うのだ。『ハイスクールはだるい』と。その証拠に、こんなことも言い出した。
「だって、単調じゃない。走るだけでしょ。そういう体力勝負の原始的なスポーツは、都会育ちのあたしには合わないのよ」
「でも、都会の学校でやってるスポーツだろ?」
「…うるさいわね」
俺に睨みを効かせつつも、それきりブルマは黙った。本当の意味で、俺は少しわかりかけてきた。
ブルマは事実に弱い。という事実に。




イライラを撒き散らしながらも、結局ブルマはハイスクールのゲートを潜った。始業のチャイムが鳴ってクラスメートと共に校舎の外へと出た俺は、前を歩く他クラスの生徒の中にブルマの姿を見つけて、内心で安堵した。
ゲートを潜ったからといって、参加するとは限らない。どこかの教室に篭ることもあり得る。そう思っていたからだ。どうやら観念したようだな。よかったよかった。
その感覚はさらに裏付けられた。なんとはなしにそのまま後姿を目で追っていると、ふいにブルマが振り向いた。どうやら視線に気づいたらしい。手を振りかけて、俺は思わず固まった。
ブルマが思いっきり舌を出したからだ。ご丁寧に指を赤目に添えながら。その眉は完全に寄っていた。…確かに観念はしたらしい。だからこそのジェスチャーだろう。
これは後が怖ろしいな。そう思いながら、俺は緩やかに手を振った。主に俺に注がれる、周囲からの興味の視線を誤魔化すために。

外庭の一角で軽く体を解していると、遠くで一発目の銃声が聞こえた。先発する女生徒のスタートの合図だ。コースである公道の方角へと目をやると、スクールを囲む並木の隙間から、比較的前の集団の中にいる菫色の髪が見えた。
別に足遅くないじゃないか。見たところ気合を入れているようにも思えないし。結局、単なるサボり癖なんだよな。でも、今日はそれはもう引っ込んだみたいだし。途中からサボるなんて中途半端なことは、きっとブルマはしないだろう。
考えてみれば、俺がブルマのサボりを阻止できたのは、これが初めてだ。これまでは聞く耳を持つどころか、教えてさえくれなかったのだから。ようやく教えてくれるようになったと思ったら、引き摺り込まれてしまったし。初めて取れたイニシアチブだ。今日は、実に記念すべき日だ。
奇跡的なこの事実を喜ばしく思うと共に、ある感覚が心に忍び込んでくるのを、俺は止められなかった。昨夜と先のブルマの態度を、俺は思い出していた。
…やっぱり、後が怖ろしいな。


スタート地点から女生徒の姿が完全に見えなくなって30分。二度目の銃声が響いた。とりあえず先頭を走りながら、取り留めもないことを俺は考えていた。
退屈だからだ。長距離走というこのスポーツは、確かにひどく単調だ。おまけに本気を出す必要も、このハイスクールでは感じられない。ただ走るだけ――これに関しては、ブルマの言う通りだ。
いつまでも一人で走っていてもつまらないから、ブルマに追いついてやろうかな。一緒に走ったら喜ぶだろうか。それともプライドを刺激されて怒るかな。走りながら言い合いをするのは、さすがに嫌だな。一つの賭けだな、これは。
さして必要にも迫られないその賭けをなんとはなしに棚上げにしていると、それが唐突に実現化した。コースが住宅地区を抜け人工林へと差しかかった時、前方のその木々の隙間に菫色が見え隠れしたのだ。見間違いだと思いたかった俺に対し、ブルマは軽やかに手を振った。
「やっほー、ヤムチャ」
「ブルマ。…何してるんだ…」
わかっているにも関わらず、俺は訊ねてしまった。だってなあ…
てっきり観念したものだと思っていたのに。さっきは確かにかなり前を走っていたのに。それがどうして最後尾で、しかも林の中に座り込んでいるんだ。…いや、そんなことわかってる。わかってるけどさ…
俺は呆れを隠せなかった。おそらくブルマもそれに気づいた。その証拠に少し口を尖らせて、それでもしれっとした顔で言った。
「んー、ちょっとね。足痛めちゃって。そんなわけであたし帰るから、ゴールしたら誰かにそう言っといて。あ、断っておくけどサボりじゃないわよ。棄権よ、棄権!」
「棄権って…」
一瞬、俺は流しかけた。ブルマがあまりにさらりと言ったからだ。それでも何とか、すんでのところで拾い上げた。
「足を痛めたって?」
ゆっくりと人工林から出てきたブルマは、確かに左足を庇っているように見えた。たいした怪我ではないことは一目見てわかったが、力を入れることは困難なようだ。しかしなおブルマはあくまで平然と、さらに繰り返した。
「うん。だから帰るから」
「…どうやって帰るんだ?」
意図して篭めた俺の皮肉は、だが、ブルマには伝わらなかったようだった。薄い笑みをさえ浮かべて、ブルマはきっぱりと言い放った。
「エアバイクで。今日はカプセル持ってきてるからね」
「そんなの無理だろ」
「平気よ。うちまで帰るだけだもの。それくらい片足でも…」
「ダメだ」
溜息を呑み込みながら、俺はブルマの言葉を打ち消し続けた。…ああもう、こいつはなあ…
『まだ走る』などと無茶を言わないことはいい。だけど、どうしてそうなるんだ。我慢なんかてんでしようとしないくせに、どうしてそんなところでだけ突っ張るんだ。甘やかされて育ったような性格なのに、どうしてもっと甘えないんだ。
ウーロンのよく使う形容詞が心に浮かんだ。正確には違うけどな。甘え下手って言うんだ、こういうのは。
早くもポケットを弄っているブルマの手を掴まえた。驚いたように俺を見るブルマの視線を、俺は斜め前から受け止めた。
「まずハイスクールに戻るぞ。断りを入れたら、俺が送ってってやる」
半瞬間を置いてそう言うと、途端にブルマの眉が顰まった。不機嫌を隠そうともせず、だるそうに口を開いた。
「えぇー?いいわよ。面倒くさい。あんたが伝えといてよ」
「ダメだ」
俺は再び打ち消した。さらにブルマの眉間の皺が深まった。それで俺は、一つ絶対に反論できなさそうな事実を、突きつけてみることにした。
「俺一人で説明したって、きっと信じてもらえないぞ。エアバイクで帰るならなおさらだ。ブルマのサボり癖は有名なんだからな」
言いながら、ブルマの不機嫌が怒りに変わりかけていることに、俺は気づいていた。だがそれは、努めて無視することにした。口に出した推測には、出せない続きがあったからだ。
…信じてもらえなかった場合、それはきっと俺のせいにされるに違いない。『あんたがちゃんと説明しないから』とか言って。もう目に見えるようだ。後でそんなことを言うくらいなら、初めから素直に甘えておいてくれ。その方が両者共に幸せだ。
「暴言よ!取り消しなさいよ!今言うことじゃないでしょ、それ!!」
今だから言ったんだよ。
ほぼ予想していたブルマの怒声に、心の中で俺は答えた。実際に口に出す気はなかった。一つにはわかっていたからだ。それを言えばさらに話がこじれると。それと…
努めて現実から目を背けながら、俺は自分の取るべき態度を決めた。この上は実力行使だ。それしかない。
「って、ちょっと、何するのよ!」
すかさずその身を抱き上げると、ブルマが新たな怒声を吐き出した。暴れるブルマの体と自分の心を抑えつけながら、俺はそれに答えた。
「ハイスクールに戻るんだよ。その足じゃ歩けないだろ」
「強引ーーー!!」
「何とでも――」
言いかけて、口を噤んだ。というか、言えなかった。俺はすでに気づいていた。
――出来れば、何とも言わないでくれ。あまり強気に出ないでくれ。俺を素に戻さないでくれ。かなり冒険してるってこと、自分でもわかってるんだからさ。
俺が二、三歩歩き出すと、ブルマは暴れるのをやめた。ややもして、腕が首に回された。それで、俺もようやく安堵した。
さすがにわかったからだ。ブルマが本気で嫌がっているわけではないということが。本気で嫌がっていたら、この距離なら――平手打ち?そこまで行かずとも、頬を抓るくらいはされているだろう。でも実際には、不機嫌そうに俺を見上げているだけでしかない…
っていうか、どうして不機嫌なんだ。俺は正しい処置を取っていると思うのだが。これって本当に甘え下手なのかな。何か違うような気がしてきたな…素直じゃないというのとも、たぶん違う。ブルマは感情には素直だからな。少なくとも、今のこの不機嫌は本物だ。情けないことに、俺にはそれがよくわかる。じゃあ何なのかと言えば…
…女王様気質?


「ところで、どうして足を痛めたんだ?」
ブルマの不機嫌がやや惰性的になってきたと見えた頃、俺は訊ねてみた。少し不思議だったからだ。転んだにしては、擦り傷などは見当たらない。膝を打ったような形跡もない。
ブルマからの返答は、まったく俺の想像の範囲外だった。
「落とし穴に嵌まったのよ。枯葉の下に隠すなんて、悪質極まりないわよね」
「落とし穴?」
「人工林の奥の方にあったのよ」
さも当然というような顔でブルマは言った。わかっていたにも関わらず、俺は再び訊ねてしまった。
「どうしてそんなところにいたんだ…?」
「……」
今度はブルマは答えなかった。つまりは、それが答えだというわけだ。
「しょうがないなあ…」
半ばは自分に向かって、溜息をついた。…ま、俺の影響力なんて、こんなもんだよな。その思いをダメ押すように、ブルマが口を尖らせた。
「ちょっと休もうとしただけよ。だるいって言ったでしょ。なのにあんたが…」
「ああ、わかったわかった」
例によって脊髄反射で、俺はその言葉を口にした。途端にブルマの不機嫌が甦った。
「あんた、態度がなってないわよ!ひとが怪我してるっていうのに――」
「余裕だな〜、おまえ。彼女を抱っこかあ〜?」
その時ブルマの怒声を掻き消して、背後から声がした。不意を衝かれたように、ブルマが押し黙った。俺は内心で感謝しながら、半瞬後に隣へとやってきた声の主に言葉を返した。
「ああ、ちょっとな」
時々合同授業で一緒になる、隣クラスのやつだ。歩きに徹して約10分。さすがに後続が追いついてきたようだ。
俺は事実をそう単純に受け止めた。そいつも単純に手を振って先へ行った。ただ一人ブルマだけが、いきなり激しく怒り始めた。
「ちょっとじゃないでしょ!ちゃんと説明しなさいよ!あれ、絶対誤解してたわよ。どうしてちゃんと言わないのよ!」
「別にいいだろ。いちいち説明してたらキリないぞ。ハイスクールに戻ればどうせわかることだ」
「冗談でしょ!!」
怒声と共にブルマの腕が首から外された。ほとんど同時に、耳に鈍い痛みが走った。
「どういう神経してるのよ、あんたは!もういい、下ろして!自分で歩く!」
「いて、いててて…いや無理だって、その足じゃ」
耳を引っ張るブルマの言葉が、本気なのだということはわかった。しかしだからと言って、首を縦に振れるはずもない。まったく、無茶なことばかり言うんだから。怪我した足で帰るとか、これからやってくる百人以上もの生徒に逐一説明しろとか。…確かに、まるっきり不可能というわけではないが――
「見世物になるよりはマシよ!」
「見世物?…」
無理矢理かっぽじられた耳の穴に、新たな怒声が飛び込んできた。その意味を、俺はすぐには呑み込めなかった。
「あんたはどうせ辞めちゃうからいいでしょうけどね。あたしはずっとここにいるの!あんまり恥ずかしいことしないでよ!!」
「……」
俺は完全に言葉に詰まった。一体どういう意味だ、それは。いや、だいたいわかってる。わかってるけどさ…
別に恥ずかしくないだろ。怪我人が運ばれてるだけだぞ。ものすごく元気な怪我人だけど。俺はどちらかと言うと、今のこの言い合いを他人に見られる方が恥ずかしいと思うがな。怪我人なのにちっともそれらしく見えないこととか。だいたい、自分だって腕を回してきたくせに。女王様気質と言うほど突き抜けてはいないようだな。…単なる気まぐれ?
これ以上の冒険は無理。俺はそう判断せざるを得なかった。暴れるブルマを無理矢理抑えつけることはできるけど、それだと精神的ダメージがひどそうだ。鼓膜が破れるかもしれないし。
今なお続いていた人工林の端に腰を下ろした。途端に、ブルマが新たな怒声を吐き出した。
「ちょっと!何すんのよ!」
「とにかく事情が分かればいいんだろ」
しつこく抵抗するその体を足で押さえつけながら、着けていたヘッドバンドを外した。それを片手にブルマの足へと手を伸ばすと、ようやくブルマは口を閉じた。久しぶりに訪れた静寂の中で、痛めた足首にヘッドバンドを包帯代わりに巻きつけた。思いっきり派手派手しく。これでもかというほどぐるぐる巻きに。
「これで傍目にも、怪我をしていると分かるはずだ」
後はブルマが大人しくしていてくれればな。
心中の呟きが届いたのかどうかはわからない。だがとにかく、ブルマは先ほどまでとは打って変わって大人しくなって、まじまじと俺を見た。そして感心の気配も露に呟いた。
「あんたって、こういう知恵だけは働くのよね…」
とても褒め言葉とは思えない台詞を。…いや、これはブルマなりの褒め方だ。一応解ってはいるのだが、もう少し普通に褒めてくれないものかな。
「よし。じゃあいいな。もう行くぞ」
小さな溜息を心の中で吐きながら、俺はいつまでも地面に座り込むブルマの体に手を伸ばした。今度はブルマは黙って抱き上げさせてくれた。表情はまだ幾分不機嫌そうではあったが、それでも俺には充分だった。
とにかく大人しく運ばせてもらえれば、それでいい。ブルマにとっておもしろくない状況であることくらいは、俺にもわかる。足を痛めた事実も原因も結果も、ひどく不本意なようだからな。それに、怪我人がにこにこしているというのも、考えてみればおかしな話だ。
そう俺は思っていたのだが、しばらく経って、その認識が崩され始めた。何人目かのからかう声に出会った時、それまで必ず片耳に注がれてきていたブルマの小言が、まったく聞こえてこなかったからだ。
声の主を見送りながら思わず首を傾げると、首からブルマの腕が外された。反射的に拘束を強めた俺の耳に、その音が聞こえてきた。
この上なく規則正しいブルマの寝息が。気づくと落ちかかった片手の指が、胸元のポケットに引っかかっていた。何だ何だ。嫌がっていたわりには、えらくリラックスしてるじゃないか。まったく、素直じゃないんだから…
軽く頭を振って、俺は視線を前に戻した。結局、最初に戻ってしまった。
…ウーロンのよく使う形容詞に。


それからハイスクールに着くまでずっと、ブルマは眠り続けた。
そのおかげと言っていいものなのかどうか(寝ている時は大人しいからな)、ブルマの怪我と棄権はすんなりと信じ込まれた。いや、信じ込むも何も本当のことなのだが。何しろブルマは、普段の素行が素行だから…
つかの間の眠りであったせいからかブルマはほどほど機嫌がよく、下ろした外庭の一角でさして周囲も気にせずに、エアバイクをカプセルから戻した。いや、今は周囲を気にする必要はないのだが。何しろいつもは…
「これ、タンデムできるのか?」
「能力的には。シートはちょっと狭いけど」
今日一番と言ってもいいほどの快活な声で、ブルマが笑った。時々思うことだけど、いい顔するよな、こいつ。ハイスクールから帰る時は。それにしても、このエアバイクがこんなに正しい使われ方をするなんて、今日が初めてなんじゃないだろうか。俺なんか、ブルマがこれでサボりに行くところか、ケンカしてこれで飛び去っていくところしか、見たことないからな。うーむ、感慨深い…
ふと、計器をチェックしていて気がついた。ずいぶんパーツを外してあるな。軽そうではあるが、違法じゃないのか、これ。
「ちょっと危なくないか?歩いて帰った方が…」
何の気なしに呟いた俺の言葉は、怖気あり過ぎる事態を引き起こした。咲いたばかりのブルマの笑顔が、一瞬にして凍りついた。
「冗談でしょ!!あんたが操縦を誤らなければ平気なの!自信がないならやめときなさいよ。あたし一人で帰るから――」
「あ、いや、大丈夫大丈夫」
人目も気にせずいきなり熱り立ち始めたブルマを、俺は無理矢理笑顔で往なした。…あー、怖かった。びっくりした。やっぱり寝起きだな。機嫌と不機嫌が紙一重の状態だ。
ともかくも、俺はエアバイクに跨った。ま、ブルマが捕まっていないんだから、俺だって大丈夫だろう。ここはとことん安全運転で行こう。改造車に無理矢理タンデムしてスピード違反で捕まったりしたら、目も当てられないからな。
「よっと」
小さなかけ声と共にブルマが後ろに跨った。その声には、先の怒りの欠片すらなかった。安堵しながらゴーグルを嵌めかけて、俺は次の瞬間その手をとめた。
「ブルマ、この足…」
おもむろに伸びてきたブルマの素足が、俺の腿の上で無造作に大胡坐を掻いたからだ。呆れを隠せなかった俺に対し、しれっとした声でブルマは答えた。
「ステップがないんだから、しょうがないでしょ」
どうやらブルマの理屈では、そういうことになるらしい。それで俺は、口から出かけていた次の言葉を引っ込めた。もしここで『はしたない』などと言おうものなら、きっと即座にシートから突き落とされるに違いない。
「それより、もっと前行って」
言いながら、ブルマが体を押してきた。その瞬間、背中が非常にデリケートな感触を1つ――いや2つ、体感した。
「ちょちょちょ、ちょっと待て!」
俺は慌ててシートを立った。途端に小さな悲鳴が漏れた。振り返ると、ブルマが体を半分後ろに落としながら、両手足でシートの端にしがみついていた。
「あ、悪い。…ええと、もう少し体を離して…」
「そんなことしたら落ちちゃうじゃない。早く座ってよ。さっさと帰りたいんだから」
僅かに怒気を孕みながら、だがあっけらかんとブルマは言った。子どものような視線で俺を見上げるその顔を見て、俺は言葉を失った。そして次に、いつになくタイトな自分の服装といつもと同じにタイトなブルマの服装、そして何よりブルマの感覚を呪った。
うう…俺が感じてるんだから、ブルマも感じているはずなんだが。本当にわからないのか?これも(と言っても、まだ一度もそうしたことはないが)俺が教えてやらなければいけないのだろうか。それは絶対に違うような気がするんだが…
複雑に入り混じる俺とは対照的に、ブルマは今や咎めの感情一色の瞳で俺を見ていた。とは言え、咎めているのは俺の感覚ではない。ブルマはそんなこと気づいてもいない。その証拠に、俺が頭に乗せたきりだったゴーグルを、ぐいと無造作に引き下げた。さらにグローブを見せびらかすようにひらつかせた。しかたがなく、俺はそれを受け取った。わかっていたからだ。これ以上躊躇していると、ブルマの短気が爆発するに違いないということが。そうして、エアバイクがいつもの使われ方をされるに違いないということが。
できるだけ気を逸らしながら、俺は再びエアバイクに跨った。再びブルマが無造作に、体を寄せてきた。再び感触が当てられた。ブルマに胡坐を掻かれるその前に、俺はすでに認識していた。
…ダメかも。っていうか、絶対にダメだ。こんな状態で安全運転なんかできっこないぞ…
ゴーグルの角度を直しながら、俺は自分の取るべき態度を決めた。この上は実力行使だ。それしかない。
「あのさ。…前に乗らないか?」
「は?」
一応の断りを入れてから、ブルマの体を持ち上げた。そしてそのまま、自分の前に横座りさせた。間髪入れず、エアバイクをスタートさせた。わかっていたからだ。間を置けば、ケンカまでは行かずとも、何らかの言い合いになるだろうということが。『いきなり何すんのよ!』とか言って。特に今日はそんなことばかりだ。こんな公衆の面前でそんな言い合いをしたくはない。ブルマにエアバイクを運転させるわけにもいかない。謂わば消去法的次善策だ。
口を挟む隙を与えないという一点の目的のために、スロットルを全開にした。それはまったく功を奏した。意図して起こした風圧は見事にブルマの口を閉じさせ、副作用としてその身を俺の胸元に張りつかせた。…横座りにしておいてよかった。俺はつくづくそう思いながら、スロットルを絞った。
すでに充分、高度は取った。まさか2,000フィートの高さから突き落とされはしないだろう。…と思いたい。
俺は少々心をびくつかせながら、前に収まるブルマを覗き見た。目に映ったブルマの様子は、軽く意表外なものだった。おそらくは風圧の余波のために、ブルマは小さく片目を擦っていた。それでいてそれに文句をつけるでもなく、空いた方の手の指で俺の胸元に、のの字を書いていた。
怒鳴りつけるような気配はない。苛立っている手つきでもない。…ひょっとして呆れられたかな?
やっぱり少し強引過ぎたか。自分でもそう感じてはいたんだ。でも、言い負かせるとは思えなかったし。だって、理由が言えないからな。っていうか、ブルマが無感覚過ぎるんだよ。配慮がないどころか、自分のことさえ気づいていないんだから。一緒にいたのが俺でよかったと思ってほしいな。
俺は本当にそう思っていた。それにも関わらず、気づくと口では言っていた。
「で、何にする?」
「…何の話?」
一拍の後に返ってきたブルマの声は、口調・言葉共に気の入らないものだった。その事実に苦笑しつつ、俺は先を続けた。
「何でも付き合うって言っただろ」
かなり微妙な結果だけど、約束は約束だ。いや、約束じゃなくて、売り言葉に買い言葉か。どちらにしても、ブルマの理屈ではきっとそうなっていたに違いない。…覚えていたとしたならば。
「このままどこか行くか?時間はあるし」
俺がさらに言うと、ようやくブルマは口を開いた。俺を見上げるその顔には、あからさまな呆れの表情が浮かんでいた。
「あんた、態度が昨日と違うわよ…」
「そうかな。まあいいだろ」
俺はというと、呆れを隠してそれに答えた。まったく、態度が違うのはブルマの方だ。昨夜はあんなに熱り立っていたのにな。半日経ったらもう忘れてやがる。本気で怒っている時はいいだけ引き摺るくせに、そうじゃないと途端に執着薄いんだから。…ひょっとして、ウェイト低いのかな?俺の。そうかもしれないな。だから、あまり気を遣われてないのかも。納得できる解釈ではある。
ブルマからの返事がなかったので、俺はのんびりと思考を展開し続けた。悲観する必要はないように思えた。ウェイトなんてものは、単純に高ければいいというものでもあるまい。ないわけではないみたいだから、それでいいさ。むしろその軽さが、時々楽に感じることさえあるくらいだ。これでもう少しいろいろと控えめだったなら、あまり困らせられなくてさらにいいんだけど。まあそれは、おいおい何とかなるだろう。そのうち。いつか。きっと。たぶん…
思考は自ずと纏まった。一時は故意に逸らしていた気も、今ではだいぶん戻ってきていた。そこへ唐突にブルマの声が飛んできて、俺の意識はすっかり戻された。
「どこにも行かないで。このままどこにも行かずにうちにいて…」
「うん?」
俺は少しだけ視線を落として、ブルマに先を促した。何の話をしているのかはわかっていた。執着は薄いながらも、流してしまうことはブルマは絶対にしないんだ。特に自分の権益に繋がることに関しては。まあ、わかりやすいと言えばわかりやすい…
「…それで、お茶の時間になったら、あたしに『あーん』ってして」
「…は?」
俺の予想は完全に外された。険なく零れたブルマの言葉は、まったくわけのわからないものだった。その口調の意外さもさることながら、内容が…
さんざん考えた挙句にそれか?あんなに怒っていた代償がそれか?っていうか、なんか――
「冗談よ」
おもむろに発せられた一言が、俺の思考を遮った。いや、大きく軌道修正させた。『冗談』。そうは言われても…ブルマがこんな冗談を言ったことなど、今まであっただろうか。
どこをどうひっくり返してみても、そんな記憶はなかった。似たようなことを言われたことは何度かあるが、でもどれも本気だった。誤解しようもないほどに、いつも本気だった。
「ちょっと。ちゃんと前見て操縦してよ」
次いで飛んできた冷静な声が、俺の意識を現実に引き戻した。気づくとブルマが、咎めの感情一色の瞳で俺を見上げていた。俺は慌てて視線を前に戻して、緩みかけていた手でハンドルを握り直した。
「あんまりマシンを過信しないでよ。あんた、さっきから荒っぽいったらないんだから」
「あ、うん、ごめん…」
「エンジン吹かし過ぎだったし。少しはあたしのことも考えてよ。さっきすっごく目痛かったんだからね!」
「ああ、悪かった。もうしないから…」
次から次へと浴びせられるブルマからの文句は、すっかりいつもの口調だった。いつものようにそれに答えながら、俺は自分の取るべき態度を決めた。
よくわからないな。よくわからないけど、今は操縦に徹しよう。高度2000フィート。こんな危険な状況で、これ以上言い合いをしたくはない。さっきは大丈夫だろうと思ったけど、今のこのブルマの態度を見ていると…
ちょっと…いやかなり、怪しくなってきた。




胸元の小型爆弾を呆れ笑顔でかわしながら、俺は何とか無事にエアバイクを地につけた。
C.Cには誰もいなかった。いるのかもしれないが、少なくとも見当たらなかった。自動導火装置とも言うべきウーロンがいないことに何より感謝しながら、ブルマを医務室へと運んだ。鎮静剤を飲ませさらに部屋へと送り届けて、俺は役目を終えた。
充分、元気そうだし。病気ではないのだから、これ以上できることもあるまい。
そう思い、俺は俺の部屋へと入った。武着を身につけなんとはなしに窓の外へと顔を向けた時、突然ドアが開いた。
「本当にきったない部屋!」
振り返ると、振り切ったはずの小型爆弾がそこにいた。ブルマは居丈高に構えながら、しかし僅かに体の重心を右へ寄せ、どかどかと部屋の中へ入ってきた。あまり鎮静剤が効いていないようだ。当たり前だ、まだ飲んでから10分ほどしか経っていない。
「ブルマ、あまり…」
「トレーニングなんか、亀仙人さんのところへ行けばいくらでもできるでしょ。それより今は、この部屋どうにかしなさいよ」
注意しかけた俺の声は、咎めるブルマの声に掻き消された。壁際に寄せた衣装ボックスを不機嫌そうに覗き込むブルマの姿を見て、俺は軽く肩を竦めた。
元気だなあ。少し元気過ぎるな。せっかく部屋まで運んでやったのに、わざわざ出向いてくるなんて。たぶん退屈で来たんだろうけど。でもせめて、薬が効くまでの間くらい、大人しくしていればいいのに。
「ああ、でもだいたい終わったから。あとは夜にでも少しずつ…」
答えながら、着け損なったリストバンドを部屋の隅へと転がした。気を利かせようとした俺の言葉は、物の見事に否定された。
「ダメ!先にするの!目障りなのよ。いつまでも落ち着かないったら。出て行く準備くらい、さっさと終わらせちゃってよね!」
俺は思わず眉を寄せた。ブルマの態度が、今ひとつ腑に落ちなかった。
だって、昨夜はものすごくどうでもよさげだったのに。そればかりか、途中から思いっきり邪魔をし始めたのに。それがどうして今はそんなに意気揚々と、俺を追い出しにかかっているんだ。…俺、何かしたか?
この疑問は、少々心に重過ぎた。今日はいろいろと心当たりがあったからだ。俺は悪いことをしたとは思っていないし、ブルマも本気で怒っていたわけではないと感じていたのだが…読み誤ったかな。あ、それともひょっとして、足が痛いから八つ当たりしてるのか?ありそうなことだな…
「ほら。あたしも付き合ってあげるから」
ブルマが空の衣装ボックスを一つ、俺の前へと滑らせた。部屋を出て行こうとする気配はなかった。どうやら最後の推測が当たりのようだ。やれやれ。八つ当たりで追い出されてはかなわないな。そう俺は思ったが、とりあえずブルマに付き合っておくことにした。『何でも付き合う』って言ったしな。客観的には、ブルマが俺に付き合っているわけだが。傍目には付き合っているように見えるだろうブルマに俺が付き合ってみせる…何だか、わけがわからなくなってきた。
混濁した頭にさらに困惑を加えながら、俺はミニクロゼットの引き出しを開けた。手伝ってくれるのはいいのだが、もうここしか残っていないんだよな。また一幕ありそうな気がするな…
ふいにキーテレホンが鳴り響いた。落ち着かない思考を一時止めてドア横のコンソールへ走ると、賑やかな女性の声が耳に飛び込んできた。
「おかえりなさい、ヤムチャちゃん。お出迎えできなくてごめんなさいね〜。ちょっとお買い物に行っていたものだから。おいしいお菓子を買ってきたのよ。お茶の時間にはまだ早いけど、いかがかしら?」
「あ、はい。えぇと…」
明るいママさんの機関銃声を聞きながら、俺は背後を返り見た。少しく怖い機関銃声を響かせたばかりのその娘が、妙にかしこまった表情でミニクロゼットを漁っていた。一昨日もがんばってくれてたけど、今はあの時よりさらに気合が入っているように見える。…というよりも――
「すみません、今は手が離せなくて。ちょうどブルマと荷造りを始めたところなもので…」
おそらくここで中断するなど、ブルマは許さないに違いない。俺はそう判断した。ママさんは気分を害した様子もなく、さらに明るい声を響かせた。
「あらあら、そうなの。仲良しさんね〜。ママ、お邪魔しちゃったかしら」
「いえ、そんなことは…」
「隠さなくってもいいのよ〜。ヤムチャちゃんてば、照・れ・屋・さ・ん♪」
「…いえ。あの…」
「ママ、妬いたりしないから大丈夫よ〜。じゃあ、お部屋に持っていきましょうね」
「……」
ブルマとはまったく対照的な雰囲気の、しかし聞く耳持たないという点では相通じる話しぶりで、ママさんは一方的に会話を切った。極端な母娘だな。血を引いていることは間違いなさそうだが。それにしてもママさんは、俺とブルマが何かしているとたいてい決まってああいうことを言う。ウーロンとは正反対だ。ある意味、貴重な存在かもしれないな…
テンションの高いママさんの声にかえって頭を冷やされて、俺はブルマのところへと戻った。まあとにかく、片付けてしまおう。どうせやらなければいけないことだ。そう思い機能性に欠けるシャツを一枚摘み上げたところ、ふいにブルマが声を上げた。
「あっ!それ!」
同時に軽く腰も上げた。気づいた時には遅かった。それまで異常に大人しく衣類を物色していた女の子は、一瞬にして俺の手元を鋭く咎める少し怖い猫になった。
「その服お気に入りなんだから、しまっちゃわないでよ。持ってって!」
「いや、でもこういう服は着る機会…」
「外に出ることくらいあるでしょ。まさか3年間、人里に出ないとでも言うつもり?」
横目にじろりと睨みつけられて、俺は口を噤んだ。一見、反論の余地はなかった。確かにブルマの言う通り。俺は修行はするけれど、隠居するわけではないのだからな。むしろその反対だ。より強くなって世に出るために、武天老師様のところへ行くのだ。…だからこそ、こういう服は必要ないのだが。
だが、俺は自分の一論を口にすることを躊躇した。それを言えば、いかにも深みに嵌まってしまうような気がしたからだ。俺が黙っていると、ブルマもそれきり何も言わず、おもむろにシャツを畳み始めた。新たな怒声の気配はなかった。だが、納得している風にも見えない。というより――
…何か、ブルマ、さっきから変なんだよな。
どこがどうとははっきり言えないが。どことなく仕種に違和感がある。微妙にいつもと態度が違うような気が…
なぜか俯き加減になる(これ自体がすでに変だ)ブルマの瞳の色を確かめようとしたその時、ドアコンソールから明るい声が流れてきた。
「ハ〜イ。ヤムチャちゃん、ブルマちゃん、お茶よ〜ん」
ママさんだ。俺は再び思考を止めて、ドアコンソールへと走った。
「お片づけははかどっているかしら?ヤムチャちゃんが行っちゃう日ももうじきだものね。ヤムチャちゃんがいなくなっちゃったら、ママ淋しいわ〜。それでね、これは新しいお菓子なの。ストロベリーシュトゥルーデル。まだ焼きたてよ。温かいうちに召し上がってね。お口に合うといいんだけど。後で感想聞かせてね、ヤムチャちゃん」
「あ、はい…」
様々な感情を一息に表に出して、ママさんは去っていった。俺は少々呆然としながら、お茶の乗ったトレイを手に、ブルマのところへと戻りかけた。今や完全に手を止めた後姿が目に映った。
「おい、ブルマ、お茶…」
ブルマは答えなかった。先ほど感じた違和感が、今でははっきりとした形となって俺の前に表われていた。
「おーい」
わざとらしく目の前で振ってみせた俺の手にも、ブルマは反応しなかった。トレイを床に置きながら、俺はブルマの顔を覗き見た。
…何考えてるんだろうな。
さっきから、どうも目線が遠いんだよな。ほんの時たまだけど。そして今は、思いっきり上の空だ。
訝りながら、新しいお菓子とやらにフォークを差した。初めに感じた違和感を、俺は思い出していた。ブルマがあんなかわいい冗談を言ったことなど、これまでなかった…
「ほい」
確信とほんの遊び心の両方から、俺はブルマの口元にフォークを運んだ。俺にはよくわからない加工をされた赤い果実を軽く唇に押しつけると、途端にブルマが動き出した。
「ひょっと、あにふるのよ!」
いつもの口調で文句を言いながらも、ブルマはそれを避けようとはしなかった。熱り立ってはいるものの、口はしっかり食べていた。笑い出したい思いを堪えながら、俺はそれに答えた。
「さっきやれって言っただろ」
俺がしようと思いたったのは、そのせいではないけれど。…うーん、やはりイチゴの威力は絶大だ。最高の気付け薬だな、これは。
「違うでしょ!!」
再びブルマが叫んだ。もう飲み下したらしい。次なるイチゴにフォークを差しながら、俺は続く言葉を聞いた。
「そうじゃないでしょ!あたしが言ったのは食べさせろって意味じゃなくて、かたっぽが『あーん』ってフォークを差し出したらもうかたっぽも『あーん』って口開けて…こう、もっとそれっぽい雰囲気の中で…」
「ふーん」
半ば惰性で相槌を打ちながら、2つ目のイチゴを自分の口に入れた。俺だって、そのくらいわからないわけもない。だけど、明後日の方向を見ている人間相手に、雰囲気を出したりするもんか。そんなの間抜け過ぎるだろ。
「じゃ、『あーん』」
今やすっかり目線が近くなったらしいブルマの口元に、3つ目のイチゴを差し出した。今度はブルマはそれを避けた。一瞬目を白黒させて、最初にイチゴを、次いで俺の顔を見た。
「あ…あんたは…どうしてそういうことを真顔でするのよ。恥ずかしくないの!?」
じっとりと据わった目つきで俺を睨む、少し怖い雌の猫。視線を当てつつ微妙に身を引くブルマに向かって、俺は事実を告げてみた。
「ブルマがやれって言ったんだろ」
「冗談だって言ったでしょ!」
冗談と言うわりには、ずいぶん詳しく説明したじゃないか。
その言葉は呑み込んだ。そんなこと言ったって不毛なだけだ。確実に俺が悪者にされて、下手をすれば本当のケンカになる。『あんたがわかんないからでしょ!』とか言って…
その時、ふいに気がついた。ブルマを彩る感情の薄い色に。…本当の、じゃないかもしれない。一晩越しくらいのものかも。俺はそう考えて、ブルマの前に再び3つ目のイチゴを差し出した。さりげなくその頬を確かめながら、とりあえず言ってみた。
「嫌なのか?」
ブルマに言われた通りを心がけて。感じ違いじゃないといいのだがと思いつつ。少しだけ迷う気持ちを、懐かしい記憶で補強しながら。…俺は食べさせられたことあるんだよな。あの時もブルマが言い出したんだ。
「そういうことじゃなくって!嫌とかいう以前に、あれは冗談――」
ブルマの反応は素早かった。それで俺は本腰を入れて踏みとどまることにした。理由は2つあった。1つには、ブルマの声がやや荒いできたから。もう1つには――
瞳ともう一箇所の色をまじまじと目に焼きつけながら、俺はさらに言葉を重ねた。
「嫌じゃないなら、ほら、『あーん』」
「だっ、だからぁっ!」
腰を浮かせかけながら、ブルマが怒鳴った。俺は今度は瞳だけを覗き見て、ブルマに水を向けた。
「ほら、ブルマも」
「……」
ブルマは答えなかった。もう確かめるまでもなく、俺は確信を持った。湧き上がる思いを堪えながら、さらに一声押してみた。
「ん?」
文字通りの一声に、どうにか意思を詰め込んだ。あまり無粋に畳みかけたくなかったし、そして何より…もうこれ以上、口を開けそうにはなかった。
ブルマはすっかり黙り込んだ。その口元は固く引き締まっていた。俺を見る目つきは相変わらず据わっていた。眉間に皺が寄ってもいた。だがそれらを目にしても、俺の心は怯まなかった。
だって、この色。この顔色。頬から始まったその色が耳にまで達した時、ついに俺は堪えきれなくなり顔を背けた。
「くっ…」
「…あっ」
ずっと我慢していた笑い出したい思いが、忍び笑いとなって口から漏れた。途端にブルマに気づかれた。重なるブルマの一音が、それを俺に知らせた。そうとわかった瞬間、俺は本当に我慢ができなくなった。
「くく、くくく…」
「あっ、あーっ!あ、あんた…からかったわねーーー!!」
それまでの無言を捨てて、ブルマが叫びたてた。反射的に顔を覆った手の隙間から、大口を開けて熱り立つブルマの姿が見えた。でも、俺の心はやっぱりちっとも怯まなかった。だってブルマ、顔真っ赤…
誤解しようもないほど真っ赤。絶対、怒りの色じゃないぞこれ。そんなの一目瞭然だ。俺はこれまでさんざんそれを見てきたんだからな。頬を赤らめるところだって、それなりに見てきたけど。でも、こんな風にあからさまに照れているブルマを見るのは初めて…いや、あったかな。どうだったかな。どっちでもいいか。とにかく、今のブルマはかなり…
「いや、ちょっと言ってみただけ…」
後から後から湧いてくる笑いを噛み殺せぬまま、俺は弁解を試みた。一応ブルマは怒っているみたいだから。いつもの脊髄反射だ。
「同じよ!」
ブルマは納得しなかった。まあ、そうだろうな。俺自身、本気でそう思っているわけではないのだから。っていうか、はっきり言って嘘だしな。本気で謝っても許してくれないほどなのに、嘘の言葉を信じてくれるわけがない。
「だって、ブルマがあんまり…」
「あたしが何よ!」
らしくなかったから…
俺の心はすっかり緩んでいた。今では口さえも緩みきっていた。それでも最後まで言わなかったのは、自制心のためではない。言葉が笑いに負けたから。怒鳴りながらも顔色を変えないブルマが――変えられないブルマが、あまりにも…
「あ…あんたねー…いい加減にしなさいよ!」
口をもぐつかせながら、ブルマが新たな怒声を吐いた。どことなく焦ったようなその身振りに、迫力はやっぱりなかった。でも、俺は気づいた。
ブルマの頬にこれまでとは別種の赤みが差しかかっていることに。…ヤバイ。そろそろ笑いを止めないと、これは本気で怒られる。ここらが治め時だな。でもどうすれば…
そこまで考えて、気がついた。…ヤバイ。治め方を考えていなかった。
俺が自分の浅はかさを呪った時、ブルマが俺を睨みつけた。心に寒風が吹きすさんだ。同時に、背後で僅かに風が戦いだ。
「おまえら、結局またサボったのか。そしてまたケンカかよ。廊下にまで聞こえてるぞ」
ウーロンが、勝手にドアを開けて部屋に入ってきていた。一瞬呆然となった俺の耳に、ブルマの大声が響いた。
「ケンカじゃないわよ!」
ウーロンに怒鳴りつけるブルマの頬の色は、俺を睨みつける前の赤に戻っていた。どうやら気が殺がれたらしい。…ああ、よかった。一時はどうなることかと思った。
俺は胸を撫で下ろしながら、冒険の幕をも下ろした。
あー、おもしろかった。かわいかった。タイミングよくウーロンも来てくれたし。終わりよければすべてよし。よかったよかった。
「それがケンカじゃなかったら、一体何なんだよ。おまえら、やっぱりわけわかんねえな。もう少しどうにかならねえのかよ」
「あんたにわかってもらわなくても結構よ。このガキ!」
「どっちがガキなんだよ」
いつしか俺は置いてけぼりに、ブルマとウーロンの舌戦が開戦していた。例によって、思いっきり話もズレて。呆気に取られながら少し遅れてやってきたプーアルと共に、俺は黙ってそれを見ていた。さして心も竦ませずに。ブルマの心境が、なんとなくだが俺にはわかった。
そうだよな。ケンカじゃないよな。ウーロンも、そろそろわかってもよさそうなものなのに。どう見たって、ブルマは本気で怒ってなかっただろ。今だって、どちらかと言えば惰性で怒っているに過ぎない。まあ、だからと言ってまったく怖くないわけではないが。それをわざわざ逆撫でし続けるから、ブルマも本気になるんじゃないか。ウーロンだって、俺と同じくらいブルマとケンカ…もとい言い合いをしてきているはずなのに。どうしてわからないんだろう。
「けッ、ヒステリー女」
「エロブタ!」
ブルマとウーロンの言い合いは、まるっきり子ども染みた言葉の応酬に終始し始めていた。どうやらウーロンは、本当の導火線には火を点けずに済んだらしい。俺が呆れと安堵を同時に感じ始めたその時、プーアルがおずおずと口を開いた。
「あの、ヤムチャ様…」
「ん?何だ、プーアル」
「いえ、その…」
プーアルはなかなか先を続けようとしなかった。何か後ろめたいことでもあるかのように、もごもごと口を震わせていた。こいつはいつだって俺には実直なのに。俺は不思議に思って、プーアルの顔を深く覗き込んだ。ひどく心配そうに俺を見る瞳がそこにはあった。
それでようやく気がついた。…あれ?ひょっとして、わかってるのって俺だけか?
その瞬間、言いようのない感覚に俺は襲われた。本当に、これをどう表現すればいいのだろう。傲慢に思われることを怖れず言うならば、自分が特別なものになったような感じ。優越感に似て非なるもの。
同時に再び衝動が湧き起こった。先と同じ行動への衝動は、だが先より少し目的が歪んでいた。耳につくブルマの空怒声。目に入るのは、治まりつつある頬の色…
しつこく食い下がるウーロンの声。伏せがちに俺を窺うプーアルの目。ともすれば意識の隅に追いやられていく2人に対し、俺は思ってしまった。
…こいつら、ちょっと邪魔だな。
「まあまあブルマ。ウーロンも、その辺にしとけよ」
軽く頭を振って、俺は調停役を買って出た。単に罪悪感の免罪符として。…一時はウーロンに感謝もしたはずなのに。俺も勝手な人間だよな。
「何よ、偉そうに!元はと言えばあんたが――」
途端にブルマの矛先が俺に向いた。…ヤバイ。やぶへびだったか。俺が一瞬息を呑んだその隙に、ウーロンが突っ込んでいった。
「何したんだよ、一体?」
「なっ、何でもないわよ!!」
瞬時にブルマの矛先が戻った。俺は再びウーロンに感謝して、すでに板につきつつある態度を選んだ。
「そうそう、何でもないから。ほらブルマ、菓子が冷めるぞ」
改めて、皿に乗ったイチゴの菓子をブルマに差し向けた。意識してフォークを手放しながら。さすがにこの状況であれをするのはな。冒険を超えて危険意識なさ過ぎだよな。
「あんた、本当に処置なしね!」
よくわからない文句を言いながらもブルマは皿を引っ手繰り、無造作にイチゴを口に放り込んだ。不機嫌を隠そうともしない、見事な顰めっ面で。ただ一つ、頬の色だけが今だ微かに当人の意志を裏切っていた。
うーん。惜しいなー…
未練たらしく思いを引き摺りながら、俺はコーヒーを啜り込んだ。




夕食を終えた後で、俺はようやく3日越しの荷造りを終えた。
夜のトレーニングは後回しに、もう一気にやってしまった。何だかだんだんブルマの機嫌が悪くなってきているような気がするし。ブルマにはブルマの理由が――その時々での不機嫌の理由が――きっと何かあるには違いないが、俺にとっての真実は一つだ。『怖い』。これに尽きる。慣れることと無感覚になることは、また別なのだ。
すっかり片付けられた自分の部屋は、以前とまったく同じに見えた。もともとが色気に薄かった部屋だ。初めてこの部屋に案内された時とさえ、見間違わないように思えた。違うのは、クロゼットの中身だけ。中身が片付けられただけ。俺自身の意志によらず詰め込まれていたものが、一時的に消えただけ。
…なかなか感慨深いな。
特に気が滅入るわけでもなくそう感じ込んで、俺は自分の部屋を後にした。まだ眠るには早過ぎる。今日はあまり体を動かしていないことだし、今さらだけどトレーニング…
外庭を目指したはずの俺の足は、廊下を僅かに踏んだところで止まった。視界の奥に遠ざかっていく菫色の髪が見えたからだ。もとより空に近かった心の中で、眠らせていた遊び心が目を覚ました。俺は気配を殺してブルマの背後に忍び寄り、突発的に思い立った児戯に等しいその行為を、実行に移してみた。
「わっ!」
声と手を同時にブルマの顔に被せた。ぴたりとブルマの足が止まった。俺が様子を見ていると、ブルマは目を覆う俺の両手には触れもせずに、淡々と呟いた。
「…あんた、何してんの」
「何って…」
無感情と言ってもいいその声音に、俺は返す言葉を失った。同時にブルマの感覚を疑いもした。
冷たいなあ。
少しは驚いてくれたっていいじゃないか。絶対、気づかれてなかったと思うんだけどな。よしんば気がついていたとしてもだ。こういう時はもうちょっと…そうだな、かわいく怒ってみたりとか。かわいく言い返してみたりとか。かわいく笑ってくれたりとか…
…いや、こんなもんか。
一通り想像を巡らせて、俺は記憶を顧みた。
そうだな。もしここでブルマがそんなかわいい態度を取ろうものなら、きっと俺の方が驚かされていたな。自分で考えておいて何だが、全然想像つかないな、そういうの。あのママさんの娘のくせして、ブルマはそういう性質を全然受け継いでいないみたいだから。むしろこれが上等だ。少なくとも無視はされなかったわけだし。その上怒ってもいない。自分で仕掛けた罠に自分で嵌らずに済んだ。そう思うことにしよう。
俺が手を解くと、ブルマはどことなく胡散臭そうな目で俺を見た。そして完全な呆れ声で言った。
「浮ついてるわねー、あんた」
「そうかな」
さして気分は害さずに、俺はその言葉を受け取った。一応、自覚はあった。心情としては少し違うのだが。ま、そういう表現もありかなってところだ。
「そんなことばっかりして。それより部屋の片付けしちゃいなさいよ」
「もう終わったよ」
答えた時には、すでに踵を返していた。ブルマが先にそうしたからだ。どうやらヒマを持て余していたのは、ブルマも同じであったらしい。まったく怪我を感じさせぬ足取りで、ずかずかと俺の部屋へと入り込んだ。そして一言呟いた。
「あら本当」
「信じろよ…」
呆れを隠せず、俺も呟いた。すごいやつだな、ブルマは。一言で相手の心を斬る天才だ。さっきだってそうだし。無感情な声音に、よくもそこまで心情を込められるものだよ。
…まあ、わかりやすいといえばわかりやすいけど。
先ほど感じた感慨を思い起こしながら、俺はベッドの端に座り込んだ。ブルマがゆっくりと俺の隣にやってきた。そしてさりげない口調で、実にすごいことを言ってのけた。
「信じてないわけじゃないけど。あんたの言うことって、いまいち信用できないのよね」
「それを信じていないと言うんだ…」
半ば呆れ半ば感心しながら、俺は突っ込みを入れてみた。 ブルマと付き合い始めた時からずっと感じていたことを、俺は今改めて感じていた。
はっきり言うよな、こいつ。
普通、なかなか言えないぞ。特に面と向かっては。ものすごくひどいことを言っているのに、それが実にさりげなく聞こえるなんて、すごい言葉の技巧だよな。ブリーフ博士にもママさんにもそんな要素は見当たらないから、これはもう天から授かったとしか思えない才能だ。
その才能が、花を咲かせ始めていた。ブルマは咎めている風でも怒っている風でもまして楽しんでいる風でもなく、すましきった表情で、広げた指を折り始めた。
「だってヤムチャってば、デートはすっぽかすし、キャンセルだって平気でするし、隠し事はするし、すぐ他人に流されるし、何でもかんでも安請け合いするし…」
折った指が広げられるに至っても、ブルマの言葉は続いた。一時的に言葉を休めながらも、さらに探しているようだった。俺はまったく貝になるしかなかった。
全部本当のことだ。本当の記憶だ。実際にあった思い出。完全なる事実。俺がそれらから感じていた感慨を、ブルマは別の角度から表現しているというわけだ。
だから、俺はそれほど腹は立たなかった。いや、まったく立たなかったと言ってもいい。プーアルとはまた違った意味で、ブルマは率直だ。それが、俺がブルマにとっつきやすかった理由の一つなのだ。同時にもう一つ…
客観的に見るならば、彼氏の欠点をあげつらうひどい彼女。一見すましたその顔に向かって、俺は言ってみた。
「そういう男と付き合ってるのは誰なんだ?」
今はまだ見えない片鱗を、ブルマの横顔に探しながら。初めの頃には強く感じた、最近では垣間見えるに過ぎないブルマの感情を心に思いながら。確かめたいというよりは、まったくの遊び心で。…まさか本気で問い詰めようなどと考えるわけもない。ただ…
ブルマのやつ、初めはあんなに露骨だったのに、近頃じゃわからない態度ばかり取るんだから。そのくせ自分の気が乗ってる時だけ、いきなり露骨で。男の感情も、俺の気もまったく素知らぬ顔で。機微がないにも程がある。というより、きっとどうでもいいんだろうな。って、いや、ちょっと待て。何かそれって…
単なる遊び心が深刻性を帯び出した。迷いかけた意識を現実へと戻すと、呆気に取られたように俺を見るブルマの瞳に会った。その瞳に反駁の気配はまったくなかった。…よかった。杞憂だった。
「普通、信じてないやつと付き合ったりはしないよな」
反論する気すらないらしいブルマの顔を横目に見ながら、俺は少々話の軌道を修正した。ブルマのくだけた表情が見たいという俺の欲求は、今や正反対のものになっていた。
…一回くらい、言ってみてくれないものかな。
何だってはっきり言ってくれるくせに、それだけは聞いたことがない。俺のクロゼットに記憶を詰め込んだのはブルマなのに。俺の想いを作ったのはブルマなのに。
「な。そう思わないか?」
「あんた、一体何が言いたいのよ…」
さらに俺が水を向けると、ようやくブルマは口を開いた。少し背中を丸めて俯いて、じっとりとした上目遣いを見せた。眉間に寄った皺。尖った口元。それでいて仄かに染まった赤い頬。どことなく気後れしたような瞳。うーむ、この反応。もうひと押し…
「んー…」
隣にいるのは、ちっとも怖くない雌の猫。それにも関わらず、俺は怯んだ。あんまりこういうの得意じゃないんだよな。今までこういう話したことなかったし。思えばそれも楽だったな…
「ブルマはどう思ってるのかなって思って」
「どうって…」
思いを切って俺が言うと、ブルマはらしくもなく言い澱んだ。同時に少々目が丸くなった。…あれ?ひょっとしてわかっていないのか?まさか、もっと押さなきゃダメなのか?それは俺にも覚悟を要するな…
そう思った時だった。ブルマが大きく身動ぎした。間髪入れず叫びたてた。
「ちょっとヤムチャ!」
一瞬、俺は態度を崩しかけた。ブルマの怒声に対する、謂わば脊髄反射で。でも、その瞳を一目見て、気が変わった。
そこにあるのは怒りではなかった。いや、怒りではあるのかもしれないが、いつもの本気の怒りとは全然違う。何というか、焦りとか羞恥とか――とにかくそういうもの。…ああ、これは完全にわかったな。
「…あんた、何でそういう――」
「ん?」
湧き上がる思いを堪えながら、俺はブルマの言葉にではなくその瞳に畳みかけた。途端にブルマが慌てたように言葉を切った。自分の手で自分の口を押さえるという、まったくブルマらしからぬやり方で。俺は思わず、そんなことをしても無駄だと突っ込んでやりたくなった。白を切ろうとするのなら、何よりその頬をどうにかしないとな。さっきの今で、もう真っ赤だぞ。どう見たって平常心じゃないだろ、それ。動揺してるのがまるわかりだ。
あー、かわいい。かわい過ぎる。思いがけず最初の目的が果たされて、俺の心はすっかり緩んだ。もう充分これで満足…いや、いかん。ここで引いては。せっかくここまで追い込むことができたんだ。奇跡的にな。
俺にはわかっていた。自分の気持ちがいつもと違うということが。『浮ついている』。ブルマはそう言った。それもある意味正解だ。一つの区切りを迎えた人間に訪れる高揚感と寂寥感。それが俺の背中を押していた。
いろいろな思いを噛み締めながら、俺はしばらく黙ってブルマを見ていた。あまり無粋に畳みかけたくなかったし、それにこういうブルマを見ているのも新鮮でいい…
俺は本当にそう思っていた。途中までは。ブルマの鼻の頭が赤らんで、それが耳へと達するまでは。じっとりとした上目遣いが不動のものになるまでは。だが、ブルマが顔を赤らめたまま目を伏せかけているのに気づいた時、俺の気持ちは変わった。
…往生際悪いな。
そこまでがんばる必要あるか?いつもは頭より先に口が出ているような感さえあるのに。自分の気が乗っている時は、あんなにはっきり意志表示してくるのに。いつだって一方的にねだってくるくせに。男の感情も、俺の気もまったく無視して…
「ブルマって、本当に俺のこと好きなのか?」
緩んだ口から出た言葉は、ことのほか自分の心に響いた。俺は俺のパンドラの箱を、今初めて開けていた。これまでにも何度か思ったことがあるけど、こんなに本気でしかも口に出してみたことなどなかった。だって、ブルマはいつだって強気で。いつだってはっきりしてて。当たり前のように俺を付き合わせていたのに。それが今は…
ふいに起こった空気を切り裂くような振動が、俺の意識を現実に引き戻した。気づくとブルマが、一瞬にしてベッドから立ち上がって、俺を睨みつけていた。その頬にあるのは、明らかにこれまでとは別種の赤みだった。さらにその瞳を仰ぎ見て、俺は悟った。
ブルマが本気で怒っているということを。まさに一目瞭然だ。さらにブルマの次の行動が、それを如実に裏付けた。ブルマは足をドアの方へと向けかけていた。まったく何も言わぬまま。俺の存在そのものを無視するように。いや、『ように』じゃない。これは本気の絶対無視だ。
俺は慌ててブルマの手を掴んだ。今出て行かれたら終わりだ。一言も話さぬまま出発の日がきて、下手をすれば数か月単位のケンカになる。いくら何でもそれは…っていうか、それ本当にケンカか?
「悪い!悪かった」
心は千路に乱れながらも、気づくと口では言っていた。それ以外には言いようもない謝罪の言葉を。
「何がよ!!」
瞳の炎をさらに強めて、ブルマが一言吐き捨てた。そうであってほしいと願いながら、俺はブルマに頭を下げた。
「…俺が調子に乗り過ぎました」
「よくわかってんじゃないの!!」
真正面から放たれたブルマの短い怒りの声は、俺に怖れと安堵を同時に与えた。後者はより強かった。無視されずに済んだという安堵。俺を否定しなかったという安堵…
手首を掴んだ俺の手をもう一方の手で掴みかえて、ブルマがもといた場所へと俺を引っ張った。俺はされるがままに、再びベッドの端にブルマと共に腰を下ろした。逃がすまいとするように俺の手を掴み続けながら、ブルマが新たな怒声を吐いた。
「だいたいね、おかしいわよ!告白っていうものは、男の方から言うものでしょ。特にあんたはいなくなる側でもあるんだから」
当然のように言い放つ態度と言葉の両方に、俺はまたもや安堵させられた。客観的に見るならば、俺は説教されている。どこからどう見てもブルマは怒っている。でも、今はそれが逆に嬉しかった。謂わば逆説的に、ブルマはブルマの感情を表現している。そう感じ取れた。俺は深く罪悪感を抱き、同時に重く反省した。
俺が間違っていた。今さら言質を取ろうとするなんて、まったくバカげていた。だいたい、ブルマは好きでもない相手と付き合うような玉じゃない。そんなのわかりきってたことなのに。思い出を言葉に置き換えようとするなんて、機微がないのは俺の方…
「だから、あんたが先に言いなさいよ!」
力強く添えられたブルマの言葉が、俺の意識を現実に引き戻した。重く反省していたにも関わらず、俺は思わず問い返してしまった。
「え…俺?」
「そうよ。あんたから言うのが筋ってもんでしょ!」
きっぱりと締められたブルマの一論に、俺は反論できなかった。言われてみれば確かに、そんな気がする…
だが俺は躊躇した。なぜと言われても説明しようがない。敢えて言うなら、気恥ずかしさとか自意識とか…きっと以前の俺だったなら――ブルマと付き合い始めたばかりの頃の自分だったなら、すんなりと言えたに違いない。あの頃はそう思えること自体が嬉しかったから。
…なるほど、こういう気持ちだったのか。
俺は先のブルマの心情を思いやりながら、同じ気持ちを味わった者として、情に訴えかけてみた。
「そんな急に言われても…」
「あんた、あたしのこと好きじゃないわけ?」
先ほど俺の放った言葉が、そっくりそのまま返ってきた。この瞬間俺は、自分で仕掛けた罠に自分で嵌ってしまったことを知った。
「どうなのよ。好きじゃないわけ?」
「そんなことあるはず…」
「じゃあ言いなさいよ」
ブルマは引く気配を見せなかった。むしろ強気でさらにはっきりと、ブルマ本来とも言える姿で畳みかけてきた。その様子に気圧されながら、俺は思った。
…今、あの瞳をしてくれないものかな。
あの、ねだるような色気のある瞳を。そしてもう少し雰囲気をソフトに。そうしたら、きっとずっと言いやすいのに。目の据わった人間相手にそういうことを言うのって、すごく厳しいんだけど。
「ふんだ。意気地なし!」
俺が躊躇し続けていると、小さく怒声を吐きながらブルマが手を離した。そして体を斜めに構えて、呆れたように呟いた。
「あんた、技より精神を鍛えてもらいなさいよ」
またもや俺は反論できなかった。部屋を出ていく気はないらしいブルマに感謝と困惑を覚えつつ、俺は強く心に誓った。

らしくもなく冒険するのはもうやめよう。ことブルマに関しては、ありのまま受け入れよう。
…と。
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