閑歩の女
窓の外から漂ってくる、爽やかな朝顔の香り。遠くに聞こえる暁の鶏の声。
いつもの自分の部屋。いつもと同じ朝。目を擦りながらベッドから起きあがり、床に足を下ろすと、途端にウーロンが声を上げた。
「いてっ!……いてーな、何すんだよ…」
「あ、すまん」
俺は慌てて足を引いた。ついうっかり踏んでしまった。だって、そんなところに耳があるなんて思わなかったから。
「気ぃつけてくれよな」
「ああ、悪かった」
重ねて謝ると、ウーロンは耳を撫でつけながら布団の中に潜り込んだ。俺は慎重にその体を跨いで、ウーロンに押されたらしいプーアルの体を布団の中央に戻した。
プーアルはともかく、ウーロンの布団まで敷くとさすがに部屋が狭いな。まあ、3人一緒の布団で寝るよりはマシか…
「さっ、修行修行」
気を取り直して、さっさと身支度を整えた。部屋のドアに手をかけたところで、ふと思った。…そういえば、ブルマもいたんだっけな。
可能な限り足音を殺しながら、俺はカメハウスの外へ出た。

「ほれ、では始めるぞい」
「はい!!」
師匠に答えるところから、一日の修行は始まる。所謂、鬨の声というやつだ。赴くのは戦場ではないが。
赴くのは個々の家。振り下ろすのは刀ではなく牛乳瓶。牛乳配達というこの早朝の修業は、一見田舎に思えるこの地にも意外と住んでいる人間は多いということがわかって、なかなか楽しい。…最初の30分くらいまでは。
クリリンはそうでもないようだが、俺はイワンさんの家に着いた頃には、庭先の鶏に突かれるままになってしまうくらい疲労している。何とか背中の甲羅で防御しつつ、瓶を回収しに玄関口へと走る。
最初に『牛乳配達』と聞いた時にはすっかり意表を衝かれたものだが、これはなかなか考えられた修行だ。体力・脚力・持久力。それらが鍛えられるだけではなく、賃金も手に入る。悟空がいない今の状態では、これとこの後に行う畑仕事による収入で、家計は十分に賄えるとのことだ。武天老師様がタダで弟子を引き受けているというのも頷ける。そして弟子を厳選しているということも。
何しろ、弟子がダメなやつだった場合、生活できなくなるんだからな。何事にも条理というのはあるものだ。


リビングに立ち込めるコーヒーの香り。キッチンから漏れてくる、油がはぜる細かな音。ランチさんのキッチンソング。
「老師様、朝の修行終わりました!」
元気に叫ぶクリリンを先頭に足を踏み入れたカメハウスの中は、温かさに満ちていた。だがいつもの朝の風景は、いつもと少し違っていた。
「…ったくよ〜」
不機嫌そうな低声を篭らせて、ウーロンが階段から顔を覗かせた。そのまま無造作にソファへと座り込みながら、さらに不機嫌そうに呟いた。
「おまえら起きるの早過ぎだぞ。じじいじゃねえんだからよ」
俺は思わず武天老師様の顔を思い浮かべてしまった。…ちょっと失礼だったかな。そう思いながら、いつもと違うもう一つのことについて訊ねてみた。
「老師様はどこにいらっしゃるんだ?」
リビングに、老師様の姿が見当たらなかったのだ。いつもはたいてい一足先にハウスへ帰って、リビングでランチさんと一緒にコーヒーを飲んでいたり、テレビを見ていたり、もしくは何となく彼女に纏わりついたりしてるのに。それが今は姿どころか、気配さえない。トイレ?いや、老師様のトイレはいつも朝食の後だ。
「畑にはいなかったよな?クリリン」
「ええ、確かに先に帰られましたよ」
俺とクリリンが同時に首を捻ったその時、キッチンからの物音が止んだ。一瞬訪れた静寂の中で、降り注ぐ水音が遠くに響いた。ランチさんがエプロンで手を拭き拭き、一人リビングへとやってきた。それで、水音は彼女が出しているわけではなく、また老師様はランチさんの傍にはいないということが、よりはっきりした。
俺は少々言葉に詰まりながら、ものすごくしたくない質問をランチさんにしてみた。
「…あの、ランチさん。ひょっとして、誰か風呂に入っていたりしますか…?」
「ええ。先ほどからブルマさんがシャワーを――あっ、クリリンさん?」
先に動いたのはクリリンだった。ランチさんの言葉をみなまで聞かないうちに、やや手荒に甲羅を壁に立てかけた。
「まずいですよ、ヤムチャさん!」
「武天老師様ーーー!!」
俺は脱ぎかけていた甲羅をかなぐり捨てて、クリリンの後をバスルームへと走った。手前のラバトリーへのドアを開けた途端、それが目に入った。
ラバトリーの真ん中辺り。バスルームのドアから今だ距離を置いて、怪しい手つきで立ち進む武天老師様の姿が。一瞬俺は息を呑み、そして次に安堵した。
バスルームの中が、ほとんど見えなかったからだ。曇りガラスだからな。さらに老師様は、ラバトリー内の何にも手をつけていなかった。どうやらウーロンとは少し違って、下着などにはそれほど興味が強くないようだ。
「これ、そう騒ぐでない。これくらい構わんて」
老師様は一瞬で、自分の置かれた状況を把握したらしい。俺たちの姿を見るなり、落ち着き払った小声で嘯いた。
「何、どうせ見えんわい。そこを、音と光の動きから、何をしているか読み取るんじゃ。これはなかなかにテクニックを要する技じゃぞ」
妙にそれらしいことを言いながら、武天老師様がさらに一歩バスルームへと近づいた。いえ老師様、そんな言い訳が通用するわけ――
「でも、ブルマさんに知れたらきっと怒られますよ」
――通用してるよ…
俺は半ば呆然となりながら、どうにもピントのズレたことを言う兄弟子に突っ込みを入れてみた。
「いや、知れるも何も、これは立派な覗きだよ、クリリン…」
昨日も思ったことだけど、クリリンも案外おかしなことを言うな。ひょっとして武天老師様に洗脳されてきているんじゃないか?
俺たちが話している間にも、水音は変わらず流れていた。時折、低く唸るようなブルマの声を乗せて。それにはクリリンも気づいたらしく、僅かに眉を寄せて呟いた。
「そうですね。それにブルマさん怒ると怖いし」
「ああ。それからな、寝起きはさらに怖いんだ。だから老師様、お願いしますよ」
「おぬしら融通利かんのう…」
呆れたように呟いて、老師様は眉を下げた。俺は少々強引に、その背中を押してみた。老師様は抵抗しなかった。きっと、家の中だからだろう。すぐそこにはブルマがいるし。騒げばブルマはもちろんのこと、みんなにも知られてしまうだろうからな。武天老師様が、こういう時に人を気絶させる技をかますようなお方じゃなくて、本当によかった。
様々な理由から胸を撫で下ろして、俺はバスルームに背を向けた。クリリンと2人、老師様を間に挟み込みながら。クリリンがラバトリーのドアに手をかけると、小さくドアの開く音がした。…俺の背後で。思わず振り向いた俺がバカだった。
「…あ」
すぐ目の前にブルマがいた。身に湯気を纏いながら、髪から雫を滴らせて。僅か下腹部に小さなタオルを当てただけの姿で。…………見た。ヤバイ。また見てしまった…!
忘れかけていた記憶が上書きされた。その次の瞬間だった。
「きゃあぁぁあぁぁあぁぁーーーーー!!!!!」
耳をつんざく大声と頬に走る激しい痛みが、俺を襲った。

言い訳する間も与えられず、俺たちはラバトリーを追い出された。数分遅れてリビングへとやってきたブルマは、完全に鬼の形相だった。
「何だってあんなところにいたのよ!あんたたち、修行してたんじゃなかったの!?」
「してたさ。でも武天老師様がバスルームに行ったっぽかったから、止めに行ったんだよ」
「ああそう!!」
俺の言い訳をブルマは否定しなかったが、表情を緩める気配もまたなかった。まあ、そうだろうな。ブルマの怒りは最もだ。しかし…
「まったく何で俺まで…俺はただ武天老師様を連れ出そうとしただけなのに…」
ひりつく頬に手を当てながら、俺は思わず呟いた。だって、俺はブルマを守ろうとしてたんだぞ。共犯でも、ましてや従犯でもないのに。それなのに、どうして殴られるんだ。
「何言ってんの!あんただって見てたでしょ!!」
鬼が激しく叫びたてた。それで俺は、もうそれ以上口を開くことができなくなった。
ブルマが怖い。怖過ぎる。それに…………ごめんなさい。見てました。
「おれなんかほとんど見てないのに…」
一瞬訪れた静寂の中で、クリリンのぼやき声が耳に響いた。俺がそれに気づいた時には、もう遅かった。
「ちょっとでも見てたら同罪なの!!」
鬼が激しく叫びたてた。その瞬間、心の中で俺はクリリンに詫びを入れた。…クリリンに一言告げておくべきだった。おぼろげな否定はブルマにとっては肯定であると。こういう時は謝るか口を噤んでおくのが定石なのだと。怒っている時のブルマは、本当に容赦ないんだから。おまけに今は寝起きだし。
カメハウスのいつもの穏やかな朝は、C.Cで時折訪れた激しい朝に、今やすっかり取って代わられようとしていた。燦然と輝く爆発変光星が、そうさせていた。
「一体どうなさったんですか、みなさん?」
テーブルにコーヒーカップを並べながら、不思議そうにプーアルが呟いた。それで、俺の感傷はより強くなった。そうそう、たいがいプーアルかウーロンがそういうことを訊くんだよな。それで、プーアルが訊いた場合はここでウーロンが――
「ほっほっ。なに、ちょっとしたアクシデントじゃよ。ブルマちゃんのないすばでぃがじゃな…」
俺の耳に届いたのは、ウーロンではなく武天老師様の声だった。でもそれは、なんら予想した展開を変えるものではなかった。
「黙らっしゃい!!」
即座にブルマが老師様の口を封じ込んだ。半ば呆れ半ば感心しながら、俺は黙ってその光景を見ていた。
ブルマのやつ、変わらないな。どこにいても、誰を相手にしていても。態度どころか、誘発する展開まで変わらない。ブルマは強いからな。ウーロンが老師様にすり替わっただけか…
「ごめんなさい、ブルマさん。私が亀仙人さんのお相手をしていなかったから…」
「ランチさんが悪いんじゃないわよ。この体力バカたちが問題なの!ちょっとは真面目に修行してるのかと思ったら、昨日だって…」
ブルマの話は確実に的がズレつつあった。いや、ひょっとすると故意にズラしているのかもしれない。さっきだって老師様の口を封じていたし。まあ、ブルマが吹聴したくないと思うのも当然だ。
だが、それは無駄な努力というものだ。あのブルマの大音声が、みんなに聞こえていないわけがない。その後のこの雰囲気で、何もなかったと思ってもらえるはずもない。俺たちはあんなに静かに動いたのに。当の自分が一番喧伝してるよな。
その証拠が見え出した。珍しくもこの手のことに関わっていないウーロンが、ソファの陰でぽつりと呟いた。
「いいな〜、おまえら。おれも止めにいけばよかった」
その声はブルマの耳には入らなかったらしい。ブルマは延々と、俺たちの(特に武天老師様の)悪口を言い続けていた。それを耳の端に聞きながら、俺は思った。
『ウーロンが2人に増えただけ』。昨日はそう思ったが、少し違うな。どうやらウーロンは、武天老師様に食われてしまっているようだ。


ブルマの罵声が惰性的なものになるまでに、さほど時間はかからなかった。俺がそれを感じ取った時には、すでにランチさんがコーヒーをカップに注ぎ終えていた。
「さあ、みなさん。ブルマさんも。温かいうちにお食べになって」
こうして平常と異常の入り混じる微妙な雰囲気の中、いつもより少し遅い朝食が始まった。さらにブルマの口が喋るよりも食べる方に忙しくなったと見えた頃、ランチさんがにこやかに言った。
「ブルマさん、イチゴお食べになりませんか?この辺りで採れたものなので、少し小粒なんですけど。お好きなんでしょう?」
先ほど畑仕事のついでに採ってきたイチゴが、チューリップのような切られ方をされて、早くも食卓に上がってきた。すごいな。俺、何も言わなかったのに。それどころか、ドア横に置きっぱなしにしてたのに。何しろそれどころじゃなかったからな。プーアルあたりが言ったのかな。
「あ。ありがとうランチさん」
一瞬笑顔を閃かせて、ブルマが皿を受け取った。とはいえその一瞬の後には、すぐに不機嫌が戻ってきた。だが、一粒目を口に放り込んだその顔を目にした時、俺は再び感じ取った。
ブルマの機嫌が直ったということを。相変わらずイチゴ好きだな。そして、ランチさんも絶妙のタイミングだ。やっぱりこの、タイミングさえ合えば気遣いの名人であるところは、ママさんに似ている。
俺はすっかり気を緩めて、自分の皿を平らげた。そして最後に、コーヒーカップを引き寄せた。それが空であることに気づいてふと顔を上げると、テーブルの向こう側、コーヒーポットを掴みながら立ち上がりかけているランチさんが目に入った。俺が再び感心した、その時だった。
ウーロンがトーストラックに手を伸ばした。その腕と斜め横にいたランチさんの手とが、交差した。
「きゃっ」
「あ、悪ぃ」
僅かに揺れたポットから、コーヒーが滴り落ちた。同時に窓辺から、一陣の風が吹いた。ランチさんの髪が流れた。
「は…は……はっくしゅん!!」
小さく体を丸めながら、ランチさんがくしゃみをした。その反動でさらに揺れたポットの口から、コーヒーが溢れ出した。
「っちーーーーー!!このやろう、何しやがる!!」
自ら零したコーヒーをその身に浴びながら、ランチさんががなり立てた。脊髄反射でいつものように伏せかけて、俺は思い出した。今日は、いつもと違う構成要素が2つあるのだということに。
「ブルマ、ウーロン!伏せろ!!」
そう言った時にはすでに、ランチさんがサブマシンガンを構えていた。その装填音を耳にしながら、手の届く距離にいるブルマの体を押し伏せた。
「きゃっ…」
「うわわわわわわわわーーー!!」
耳元でブルマの声が、背後でウーロンの叫び声が聞こえた。マシンガンの銃声は言わずもがな。武天老師様とクリリンは、いつものように静かだった。
やがて音が止み、硝煙の匂いが鼻に入ってきた。伏せていた体を起こすと、同じように起きかけている老師様とクリリン、プーアル、そして早くもランチさんを宥めにかかっているウミガメの姿が見えた。
「気ぃつけやがれ!ったく、躾の悪いブタだぜ!」
「はいはい、そうですね」
「茶もゆっくり飲めねえ家だぜ、ここは!」
「はい、本当にそうですね」
弾劾されているウーロンの姿だけが見えない理由は、だいたいわかっていた。数拍の後に、ソファの陰から薄桃色の顔が覗いた。
「おまえ、どうしてブルマだけ庇うんだよ。どうせなら、おれも一緒に助けろよな!!」
「そんなこと言われても…」
あからさまな不平を湛えて俺を見上げるウーロンに、俺は呆れを隠せなかった。あまり多くを求めないでほしいな。だいたい、ブルマを避けてランチさんの近くに座り込んだのはおまえだろ?
「まあ、次からは気をつけろよ」
せめてもの忠告を俺がすると、遅れて体を起こしていたブルマが、呆気に取られたように呟いた。
「次って、あんた何言って…」
「ああ、時々あるんだよ、こういうこと」
これがなければ、ランチさんは完璧なんだけどな。まあ、だいたいタイミングも読めてきたが。それに、もしそうだったなら、こんなところで無料奉仕しているわけもないだろうからな。
何事にも条理というのはあるものだ。


朝食の後は、午前の修行。俺は武天老師様の組んだ変則的メニュー。クリリンは、それを基にした自主メニュー。
それを終えなんとなく途中でクリリンと落ち合って、2人カメハウスへと並んで歩いた。さらに途中、カメハウスの手前で、武天老師様と顔を合わせた。それで、ランチさんがまだあのランチさんのままなのだということが、わかった。
武天老師様は、朝夕、修行の始まりと終わりの監督にはわりと熱心だが、それ以外の時はたいていカメハウスにいるからだ。今日はブルマがいるからどうなることかと、少し心配していたのだが。朝食の席でランチさんの起こした騒動が、歯止めになったに違いない。
「まったく、ランチちゃんにも困ったものじゃのう」
呟く老師様の頬には、ブルマの残した手形が幾分薄く残っていた。一方で、俺とクリリンのそれはほとんど消えていた。少しは手加減されていたようだ。そうだよな、俺とクリリンは被害者なんだからな。
「銃の手入れなぞ、一体何が楽しいんじゃ。うかうか家にも入れんわい」
天下の武天老師様が、女性に我が家を占領されている。一見ありえないそのことの理由が、老師様本人の言葉で明確になった。
金髪のランチさんは危険なのだ。彼女が銃の手入れをしている時はさらに。特に武天老師様にとってはまさに。『じじい、的になりたいか?』ここに来てより一ヵ月、すでに俺は両手の指に余るほど、その言葉を聞いていた。ちなみに、武天老師様以外の者が直接言われたことはない。…まあ、そういうことだ。
「…本当に、困ったものですね」
物言わぬクリリンの代わりに、俺はとりあえず相槌を打った。敢えて対象者の名を外して。俺はまだ、クリリンのように無言で流してしまえるほど強くはないのだ。だが、これはどうやらやぶへびだったらしい。
「これ、他人事のように言うでない。おぬしも同様じゃぞ」
老師様が、手にした杖で俺の頭を軽く小突いた。それには痛くも痒くもなかったが、次に言われた言葉はそうではなかった。
「ブルマちゃんは、なぜあんなに怖いのじゃ。あれでは、ここに呼んだ意味がないではないか。ぬしも男なら何とかせんかい」
「一体どんなことのために呼んだんですか、老師様…」
今度はクリリンが、俺の言葉を代弁した。疑問文の形を取った、非難口調で。分業、分担。俺とクリリンはいつのまにか、弟子の務めをそう確立しつつあった。
「何を言う。おぬしらだって、まさかウーロンのやつめに会いたかったわけではなかろう?」
「まあ、それはそうですが」
俺は素直に肯定した。別にウーロンに会いたくないわけではないが、会いたいと公言するほどでもない。でも、ブルマについて言えば…
…さて、どうだろう。

俺たちは一様に耳をすませて、カメハウスの窓へと近づいた。ランチさんが金髪であるとわかっている時の、謂わば癖だ。たいてい何事もないのだが、敵の動きは読んでおくに越したことはない。音と光の動きから、何をしているか読み取る――老師様の言葉はあながち嘘ではない。ただ、使う場面が間違っているだけだ。
開いた窓の向こうから、水音や油のはぜる音などは、一切聞こえてこなかった。やっぱりまだ金髪だな。俺がそう思った時だった。
「おまえ、銃使ったことあるか?」
ぶっきらぼうだがまったく怒りを含まない、ランチさんの声がした。同時に、ドアに手をかけていたクリリンが、その手を引っ込めた。
「ええ。一応あるけど」
続いて聞こえてきた声は、ブルマのものだった。俺が心に思ったことを、クリリンが口にした。
「珍しいですね。ランチさんがあんなに大人しく誰かと話をしているなんて」
「所謂、女の会話というやつじゃな」
武天老師様が喜々として、窓辺に身を乗り出した。慌ててクリリンが、それを咎めた。
「老師様、あまり顔を出すとバレますよ」
相当ピントのズレた観点から。しかし、それを咎める気は、俺にはなかった。
俺はこの中では一番格下の立場だし。もとより、言って聞き入れられるはずもない。それに正直なところ、俺にも興味がある。
金髪のランチさんが女性とまともに話をしているところなんて、これまで一度だって見たことがない。ブルマについても、また然り。女の子って、女同士だとどういう話をするんだろう。
「へえ。意外だな。おまえ、いいとこのお嬢さんなんだろ?」
「そんなの関係ないわよ。必要があれば、誰だって使うでしょ」
ランチさんとブルマの会話は、意外なほど穏やかなものだった。…その内容が、銃の使用の有無についてだという点を除けば。
「何使ったんだ?」
「何って…えーと、何だっけあれ。映画でJ・Bが使ってたやつ。それとB・Wが撃ちまくってたサブマシンガン」
一連の危険な会話の中で、唯一かわいらしい面が垣間見えた。映画で俳優が使った銃器か。ブルマらしい選択だな。
「ワルサーPPKとH&K-MP5か。ちゃんと当たったか?」
「たぶん全弾当たったわ」
「そいつはどうなった?死んだのか?」
「ピンピンしてたわ」
妙にさくさくと進む2人の会話に、俺は軽く眩暈を覚えた。…ものすごく怖い話が、すっかり茶飲み話になってしまっている。そう感じるのは、俺の気のせいだろうか。
「はっはー!そいつはよかったな。人殺しにならずに済んだってわけだ」
ランチさんの豪快な笑い声が、爽やかに戦いだ夏風に乗って俺たちの間を通り抜けた。その瞬間、俺はおそらくみんなと思いを共有した。
一体どういう展開なんだ。この会話も、会話の中の思い出(?)話も。そいつ、本当に生きてたのか?C.Cの力で揉み消したんじゃないだろうな?…
俺は少し心配になった。さりげなく窓辺へ身を寄せると、それまでそうしていた格上の2人が、反対に窓から身を離した。
「色気ないっすねえ…」
「なさ過ぎじゃ」
どうやら共有した思いの先に行き着いたところは、俺とはまったく逆だったらしい。武天老師様は落胆の気配を隠そうともせず、クリリンもまた呆れの色を濃厚に漂わせていた。俺を見る目つきまでもが、今では冷たくなっていた。呆れと不審に彩られた、まるで珍しいものでも見るような、この目つき。…どうしてそんな目で俺を見るんだ。俺は関係ないよな?
「ヤムチャ、おぬし…」
老師様が何か言いかけた。その時だった。
「オレもそういう奴に会ってみたいぜ。タフで強くてワイルドな男によ」
再び豪快な笑い声が、俺たちの元に届いた。降って湧いたようなランチさんのその言葉に、俺は思わず目を丸くした。
そういう話だったのか!全然読めなかった。脈絡が感じられないなんてものじゃないぞ。今までブルマのことを、突拍子のないことばかり言うやつだと思っていたが、あれは女性特有の性質だったのか…!
「ランチちゃんもなかなか言うのう」
「……」
武天老師様が再び喜々として、窓辺に身を乗り出した。クリリンがひたすら無言で、それに倣った。しかし、それを咎める気は、俺にはなかった。
はっきり言って、俺にも興味がある。…だって、なあ。つまりそういう話だろ?気にならないわけないじゃないか。それにしても、ブルマもしれっとしていたものだな。ドラゴンボールに願おうとしていたくらいだから、そういうことにはあまり縁がないものだと思っていたのに。そりゃあ確かにブルマはかわいいし、色気だって初めからあったけど。でも、あの性格だし…
…うーむ。
興味という名のもやもやを抱いて、俺も窓辺に身を乗り出した。一応は格上の2人を尊重して、その間から顔を出した。向って左、壁を背にして床に銃器と銃弾を規則正しく並べているランチさんの姿が見えた。そのすぐ傍に、肘掛けに片頬杖をついてのんびりとソファに座り込んでいるブルマ…
…うーむ。
絵的な新鮮さをも感じ取ったその時、ブルマが無造作に言い放った。
「タフで強くてワイルドなのは確かだけど、男じゃないわよ。孫くんだもの」
その瞬間、俺は心の底から安堵した。…ああ、なるほど。悟空か。確かにあいつは死ななさそうだな。
「あー、あいつか。そうだな、あいつは死ななさそうだな」
「でしょー」
俺が思った通りのことを、まるで読んだかのように軽い笑顔でランチさんが口にした。答えるブルマも笑っていた。老師様とクリリンの顔は見えなかったが、俺にはわかった。おそらく今この場にいる全員が、同じことを思っている。俺はそう感じた。
ここにはいない6人目の存在感が、俺の気を緩ませた。ブルマが嘘を言っているとは思えない。ブルマはすぐ顔に出るからな。それに、話をすり替えたり捻じ伏せることはあっても、誤魔化すことはしない(できない?)やつだ。だいいち、説得力があり過ぎる。殺そうとしても死なないようなやつなんて、悟空の他に一体誰がいるだろう…
「ま、ここの連中も十分死ななさそうだけどな」
またもやランチさんが、俺の心を読んだ。しかし、それは少々角度が違っていた。
「そうかしら」
「じゃあ、試してみるか?」
なにげなく否定したブルマに向かって、なにげなくランチさんが水を向けた。だが、そのなにげなさの中にあるものを、俺は見てしまった。
ランチさんの瞳の中に浮かぶ強い光を。ブルマとはまた違った種類の、精悍な炎を。同時にその口元に、鋭い笑みが閃いた。閃いたまま、口が動いた。
「そうだな、とりあえずおまえの男から」
「え?」
ええーーーーー!?
思わず叫び出しそうになった俺の口は、4つの手によって塞がれた。武天老師様の両手と、クリリンの両手。2人は片手で俺の口を塞ぎ続けながら、外した方の手で口止めの合図をしてみせた。
「しーっ。ヤムチャさん、落ち着いて」
「ただの浮世話じゃ。これしきのことで動揺するとは情けないぞよ」
「いや、ちょっと待ってください。あのランチさんの目、あれは絶対に本気ですよ!!」
「しーっ!」
俺の口は再び4つの手に塞がれた。僅かに戦ぎ続ける夏風に乗って、ランチさんの静か過ぎる宣告の声が流れてきた。
「おまえ、ヤムチャの奴に会いに来てるんだろ?なのにあいつ、修行ばっかしてやがるし。ま、オレにとってはどうでもいいことだけど、撃つには十分過ぎる態度だろ」
「…………」
俺は完全に言葉を失った。老師様とクリリンが、俺の口から手を離した。でも、やっぱり俺は一言も口をきけなかった。
だって、そんなことで撃たれてしまうのか!?しかも殺し目的で!?一体、どういう展開なんだ!?…見たからか?口封じか?『死人に口なし』…いやいや、それは老師様たちだって同じことだ。
俺は袋小路に陥った。本当に、女の子の考えることはわからない。でも…
ブルマの考えていることは。それだけは、少しはわかるようになったと思うんだけどなあ…
老師様とクリリンの視線が肌に刺さる中、俺は固唾を呑んでブルマとランチさんの会話を見守っていた。ブルマはなかなか答えなかった。だが、俺にはそれこそが答えだと思えた。そんなの、わかっていたことだ。問題はランチさんだが…
「どうだ?一丁、灸を据えてみないか?」
口元の笑みを不気味に強めて、ランチさんが促した。それでもなおブルマは話には乗らず、もごもごと口篭った。
「…いえ。それはちょっと…」
完全には裏切らなかったブルマの答えだが、問題は残った。…おいブルマ!もっと強く否定しろ!!ランチさんがその気になってしまうじゃないか。『ちょっと』何なんだよ!?
どうやら老師様とクリリンも、俺と同じ思いであったらしい。今や窓辺の最前に齧りつかんばかりになっていた俺を、手にした杖でひと叩きして振り向かせると、老師様が先ほどとは打って変わって冷静な声音で言った。
「おぬしら、何かあったのか?」
「何もありませんよ!!」
「でも、それもダメだって言ってましたよ」
淡々とクリリンが突っ込んだ。俺は再び袋小路に陥った。…一体どうしろって言うんだよ!?
今や問題は内にではなく、外にあった。武天老師様は呆れの気配を隠そうともせず、クリリンもまた同じような目つきで俺を見ていた。さらにその瞳の奥にあるものが、刻一刻と色を増しつつあることに、俺は気づいていた。まるで無力な小動物の末路を嘆くような、憐れみに満ちたその表情。…いやちょっと、そんな目で見ないでくれよ、2人共――
「何してんだ、おまえたち」
澱みかけた空気を、6人目の声が掻き混ぜた。3人揃って振り向くと、どうやら外で昼寝をしていたらしいウーロンが、まだ開けきらない目で俺たちを見ていた。…ああ、この割って入るウーロンの、懐かしいタイミング。ありがとう、ウーロン…
「あ…ああ、いや何も…」
とはいえ、俺の安堵は一時のものに過ぎなかった。場の空気を流そうとした俺を押しのけて、老師様が嘯いた。
「なに、ちょっとヤムチャがな、今ブルマちゃんにフラれそうに…」
「武天老師様!!」
俺は慌てて老師様の声を掻き消した。もう格下だなんて言っていられない。これ以上傷口に塩を塗り込まれてたまるものか。
だが、その決意も空振った。それ以上誰も何も言わなかったにも関わらず、ウーロンはすっかり呑み込んだような顔をして、さらに俺の心を抉った。
「またケンカか。ひさしぶりでよくやるな。じいさん、こいつらはそれが趣味みたいなもんなんだから。あんまり構うと巻き込まれるぜ」
「そんなもんかの」
「さ、メシメシ」
まったく望まぬ方向に、話は流された。俺は呆然としながら、3人に続いてカメハウスのドアを潜った。


「おーい。じいさんたち帰ったぞー」
まるで何事もなかったかのような顔をして、ウーロンが俺たちの帰宅を告げた。老師様とクリリンも、特に何も言わなかった。…いや、それでいいんだ。いいんだけど…
「今日は少し遅かったですね、ヤムチャ様」
どこからともなくプーアルがやってきて、そう言った。本当にどこにいたんだろう。何にも気づいてはいないようだが。
「ほっほっ。なに、ちょっとアクシデントがあってな。こやつめが…」
「武天老師様!!」
飄々と嘯く老師様の声を、俺は慌てて掻き消した。…流してくれたんじゃなかったんですか!
呆れ。焦り。情けなさ。心に渦巻く様々な思いに負けて、俺は目を伏せかけた。その途中で、気がついた。
視界の端、部屋の隅に佇むランチさんの、いつもとまったく同じ姿に。ランチさんは、磨き上げたばかりの短銃を玩ぶように片手でくるくると回していた。それに弾が込められていることを、俺は知っていた。ランチさんはいつでも臨戦態勢なのだ。まったく、いつも通りだ。だが…
「バーン!」
銃を磨き上げた後いつもそうするように、ランチさんがいたずらに銃口を向けた。…俺に向かって。いつものことだ。今日はたまたま俺に向けてみただけだ。…そう願いたい。
そう自分に言い聞かせながら、俺は床に腰を下ろした。少しすると、香ばしい匂いがキッチンから流れてきた。ブルマがどことなく楽しそうな素振りで、チキンの料理を運んできた。続いてウミガメがパンを、プーアルがコーヒーセットを運んできた。こうしてランチさんが金髪である時の、簡単な昼食の席ができあがった。
「武天老師様、一体どこに行ってらっしゃったんですか。先ほど隣町の方が、お願いがあると仰って見えられましたよ」
パントレイをテーブルの中央に寄せながら、ウミガメがのんびりと切り出した。途端に老師様が嘯き始めた。
「いやなに、ちょっとしたアクシデントが起こってな。ヤムチャの奴めが…」
「武天老師様!!」
俺は再びその声を掻き消した。うう…
「ほっほっ」
楽しそうに笑い声を響かせて、老師様がチキンに手を伸ばした。ウミガメとプーアルが不思議そうに、クリリンとウーロンが呆れたように俺たちを見た。ランチさんの表情を探る勇気は、俺にはなかった。
いつもと同じ修行の後。いつもと同じ昼食の席。それなのに…
…なぜだ。なぜ、今日はこんなに空気が厳しいんだ。金髪のランチさんだからか?いや…
「なーに?何かあったの?」
「…別に。何にも」
明るい口調で喋りかけるブルマの声に、俺は応えきれなかった。…こいつだよな。
ブルマがはっきり否定してくれていれば、きっとこんなことにはならずに済んだのに。朝だって、ブルマがシャワーを使っていなければ…どちらもブルマが悪いわけではない。それはわかっている。しかし…
思わず溜息が漏れた。同時に横で、不平が漏れた。
「何それ。言えないことなわけ!?」
ブルマが眉間に皺を寄せて、俺を睨みつけていた。今だ薄い怒りの色をその瞳に読み取って、俺は慌てて両手を振った。
「い、いや!本当に何でもないんだよ…」
「…あっそ!」
一瞬の間の後に一言そう言い捨てて、ブルマはチキンを引き寄せた。手にしたサーブナイフが、がちゃがちゃと大きな音を立てた。俺は首を竦めながらも、それ以上を口にすることは止めておいた。
言えるわけもない。言えばもっと怒られる。初めに盗み聞きをし始めたのは老師様だが、きっとブルマはそんなことお構いなしだ。
カトラリーの金属音は延々と鳴り響いていた。周囲の視線を一身に浴びながら、俺は心の中で息を吐いた。
あー、疲れる。本気で怒っているわけではないのはわかるけど、あまりみんなの前でそういうところを見せないでほしいな。特に今は。一体何て思われてるか。本当に、ブルマはなあ…
どこにいても同じ調子で。平気で空気を掻き乱すんだから…


いま一つ食欲の湧かない腹に、とりあえずの昼食を詰め込んだ。食べ終えた食器をキッチンへ運んでいくと、シンクに片手を突っ込んで、ブルマが大きな欠伸を出していた。
「ふわあぁぁ…」
その隣には洗い上げた皿をゆっくりと拭いているプーアル。なんとはなしにそこいらをうろついているウーロン。
「今日の昼メシはなかなかイケたな」
「あれはランチさんが作ったものなんですよ」
リビングではウミガメが、ランチさんにいつもの突っ込みを入れていた。窓辺では武天老師様が、食後の煙管をふかしていた。
煙管の雲を戦がせる夏の風。いつもの気だるい夏の午後。
「どれ、ではそろそろ昼寝にかかるとするかの」
いつものように武天老師様が腰を上げると、キッチンから顔を覗かせたブルマが少しだけ空気を乱した。
「ねえ、あのハンモックって予備はないの?あたしも昼寝したい」
比較的かわいらしい方向に。さすがにそれにまで文句をつける気は、俺にはなかった。午前の昼寝をしたらしいウーロン以外の全員の目がまどろんでいることに、気づいてもいた。
「いくつか余分に取りつけてあるぞい。どこでも好きなところを使うがよかろう」
「サンキュー」
礼を口にするが早いか、ブルマはハウスを飛び出していった。眠いわりにはやけに元気な足取りで。そしてあろうことか、窓の近く、一番高い位置にあるハンモックを選び出した。 …おいおい。それは絶対に自力では乗れないだろ。
俺はすっかり呆れながら 、格上の2人をおいて外へ出た。思った通り、ブルマはハンモックによじ登れないでいた。両手でネットの端を掴みながら、行儀悪く――と言えばまだ聞こえはいいが、実際にはあまり人目に晒したくない体勢で――片足を持ち上げていた。ブルマがいつもと変わらぬスポーティな服装でよかったと、俺はしみじみと思った。
「あいつら、ケンカしてたんじゃなかったのか?」
「さあ…」
窓から流れてくる住民たちの声を耳にしながら、高過ぎるハンモックへとブルマの体を持ち上げた。反動で頭からハンモックへ転がり込みながらも、ブルマは無邪気に笑ってみせた。
「サンキュー。わぁ…ハンモックなんてひさしぶり。気持ちいい〜」
まるで子供のような声を上げて、ブルマは仰向けに寝転んだ。どうやら機嫌は直ったようだ。いかにも幸せそうなその笑顔を見て、俺の気分は自然と改まった。
ブルマが悪いわけではないのだし。ただ少し、いつもと空気が違うだけ…
「おやすみ。…修行がんばってね」
今さらなことを呟くと、ブルマは早くも目を閉じた。…寝つき早いな。少々呆気に取られながら、俺は気配を殺した。そしてできるだけ足音を立てないように、その場を離れた。


昼寝に入り一時間もすると、自然と目が覚めた。毎日のことだからな。初めの頃は叩き起こされるまで眠っていたものだが、最近ようやく習性となった。
「ほれ、午後の修行を始めるぞい」
「はい!」
午後の修行の開始を告げる、武天老師様の鬨の声。それに答える俺たちの声…
「…あんたたち元気ね〜。起きたばかりだってのに…朝もそうだったけど、何でそんなにきびきびしてるのよ…」
やや間をおいて、木々の隙間からぶつぶつと不平の声が漏れてきた。一瞬、体が固まった。慌てて声のした方へ目をやると、一番奥、最も高いハンモックにブルマが寝転がっていた。目を擦り擦り、気だるそうに体を起こして。
…ヤバイ。忘れてた。
寝てる間にうっかり全部忘れていた。ブルマがそこにいたこと。一緒に昼寝していたこと。そして何より――
「いつものことですから」
「だからって、あたしまで叩き起こさないでほしいわ!」
なにげなく言ったクリリンに対し、ブルマの口調は非常に厳しいものだった。明らかに怯んでいる様子のクリリンに、俺は心の中で詫びを入れた。…一言告げておくべきだった。起き抜けのブルマは、いつにも増して情緒不安定なのだと。ブルマはこの上なく寝覚めが悪いのだと。いや、言ったかな。そういえば言ったような気もするな。そうだ朝、ラバトリーで…
「夕方まで眠ってようと思ってたのに。ここって本当に退屈なんだから!!」
なんてことのない台詞に、なんてことのあり過ぎる声音。俺とクリリンはまるで示し合わせたかのように、同時に数歩を後退った。ただ一人武天老師様だけが、その場に踏み留まった。さすが老師様。肝が据わっていらっしゃる…
俺のこの感心の思いは、数瞬の後、納得の思いに変わった。
「そんなに退屈なら、ブルマちゃんも一緒に修行してみたらどうじゃ?」
「どうしてあたしが、そんなことしなくちゃならないのよ」
「健康と美容のためじゃよ」
老師様が喜々として、ブルマを口説き始めたからだ。『健康と美容のため』…?聞いたことない台詞だな。そんな説教、一度だってされたことないよな。まあ、武天老師様は、説教そのものをほとんどしないけど。それにしても、ずいぶん態度が違うなあ。
老師様が男女差別のある方だということは、さすがにもうわかっている。だが、それをこうもはっきり目の前で見せつけられてしまうとは。…俺が弟子入りを志望した時は、あんなに受け渋っていたのに。ブルマに武道の素質があるとは、とても思えないのだが。
「ランチちゃんも一度一緒にしたことがあるぞい」
さらに微妙な気持ちにさせるようなことを、老師様が言い出した。ブルマが大きく首を捻った。
「ランチさんが?」
意外にも、その声からは不機嫌が消えかけていた。それに胸を撫で下ろしつつ、俺も首を捻った。
ランチさんが修行をしただなんて、例え一度きりだとしても、容易に想像できるものではない。まだブルマの方がわかるくらいだ。
「本当なのか?クリリン」
「…ええ、まあ…」
俺が訊くと、なぜかひどく歯切れ悪く、クリリンは答えた。その目つきは、弱々しいというより、どこか白けていた。…どうしたんだろう。事実なんだよな?
「ちゃんと女子用の道着も用意してあるぞい。ないすばでぃなブルマちゃんにぴったりの、オシャレな道着じゃ。ちと待っておれ。すぐに持ってくるからの」
妙に滑らかな口調でそう言うと、先ほどブルマが非難したきびきびとした足取りで、武天老師様は玄関へと向かった。俺は狐に抓まれながら、その後姿を見送った。オシャレ?…女子用?
「道着って、男と女で変わるものか?」
再び放った俺の質問に、クリリンは答えなかった。
「まさか武天老師様…」
ただ一言そう言って、老師様の消えた方向を見つめていた。どうやら亀仙流には、まだ俺の知らない何かがあるらしい。老師様も意外に秘密主義なお方だな。それとも俺がハブられているのだろうか。そうかもしれない。弟子入りの時点であんなに渋られたくらいだからな…
…うーむ。
心に暗雲が垂れ込め出した頃、老師様が戻ってきた。先ほどよりもさらにきびきびとした足取りで。まあ、いいか。完全秘密主義というわけではないようだし。どちらにしても、今わかるわけだからな。
「いやあ、迷ったわい。ブルマちゃんには赤かのう。黒かのう。この際だから両方持ってきちゃったわい。てへっ」
僅かに頬を染め、舌を出しながら、老師様が小箱を2つ差し出した。時折見せる老師様のお茶目な老人ぶりに俺は苦笑を隠しながら、場の流れを見守った。
「さあさあ、早よう開けてみい。どちらでも好きな方を選べばええ。何なら両方試してみても構わんぞい」
老師様の気さくな態度にも関わらず、ブルマはなかなか小箱を開けようとしなかった。あまつさえ眉を寄せて、小箱を睨みつけていた。一時は緩んでいたように見えたブルマの表情が、あからさまに険しくなっていくのを見て、俺は再び不審に駆られた。何だ?ブルマも何か知っているのか?やっぱり俺だけハブられて…
その場に参入すべきかどうか、俺は真剣に悩み始めた。どうにもおかしな雰囲気だ。クリリンはひたすら無言を貫いているし、武天老師様は妙に心弾んでおられる。ブルマの態度は言わずもがな。…この明と暗、俺はどちらに属するべきなのだろう。
俺は迷い続けた。そのうちにブルマが小箱を開けた。一方の、薄いグレーの小箱を。そうしておもむろに、それを宙に広げた。その瞬間、俺の迷いと不審は完全に氷解した。
ものすごく伸縮性の高そうな黒い布地に、ふんだんにあしらわれたレースの飾り。急所だけはカバーしているカッティング。な、なんというデザイン…!一体どこで手に入れてくるんだ、こんなもの。…でも、確かに似合いそう…
未だ褪せない映像が、脳裏にまざまざと蘇った。自然、それは新しい映像を生んだ。あのメリハリのある体にこの衣装。…く。ヤバイ。色っぽ過ぎる…!
「ちょっと!これ道着じゃなくて下着でしょ!!」
ふいに轟いたブルマの怒声が、俺の妄想を掻き消した。…ああ、やっぱりそうだよな。一瞬冷静になった心でそう思いながら隣を見ると、クリリンがあからさまに目を伏せていた。その口から漏れる溜息と、呪詛のような言葉を俺は聞いた。
「やっぱり…」
それで、氷解していた思いが、完全に消え去った。…そりゃあ、言わないよな。っていうか、修行『した』ってことは、ランチさんはこれを着たのか?もしかして。
その場にいなくてよかった。俺は心の底からそう思った。きっと、俺には耐えられまい。
「いやいや。我が亀仙流では、昔からそれを道着として扱っておってじゃな」
「なお悪いわ!!」
再びブルマの怒声が轟いた。見ると、ブルマがグーで思いっきり老師様の頭を殴りつけていた。
「つれないのう…」
「つれてたまるもんですか!!」
さらにものすごい剣幕で、小箱を地面に叩きつけた。…おおこわ。そう思った時だった。
破竹の勢いでブルマが振り返った。瞬時に俺と目が合った。俺は慌てて視線を外した。今はブルマと目を合わせられそうになかった。
ブルマが怖い。怖過ぎる。それに…………うう。妄想が止まらん…
「最ッ低!!」
自制できずに傍らの木々を見つめていた俺の耳に、四度目の怒声が入ってきた。恐る恐る顔を戻すと、すでにブルマはいなかった。
激しく地面を蹴りつけて、カメハウスから離れて行こうとしていた。俺は一瞬クリリンと顔を見合せて、恐る恐る声をかけてみた。
「おーい、ブルマー…」
「どこに行かれるんですか、ブルマさん」
クリリンが、さっくりと俺の言葉を代弁した。勇気あるなあ、こいつ。さすが兄弟子だけのことはある…
「散歩!!」
ブルマからの返事は明確だった。そしてまた、その怒りも明確だった。ブルマは怒ると、すぐにその場を飛び出していくんだから。捨て台詞を投げつけてからな。
その後を追いかけるべきか否か、俺は迷った。でも結局は、止めておいた。ちょっと、今は…顔も合わせられそうにはない。
「やれやれ。ブルマちゃんはおっかないのう。あんなに怒らんでもよいのに」
まったく悪びれた様子もなく、武天老師様が肩を竦めた。クリリンが呆れたように、その言葉に突っ込んだ。
「武天老師様のせいじゃないっすか。…どうしましょう、ヤムチャさん」
「うーん…無視はされなかったから、大丈夫なんじゃないかな…」
遠ざかるブルマの後姿を視界におさめながら、経験者の弁として俺は言った。俺が何かしたわけじゃないからな。たぶんこれは、ウーロンが怒らせた時と同じ状況だろう。
となれば、時間が解決するはずだ。むしろ俺は出て行かない方がいい。そう俺は踏んだ。
「そんなもんっすか」
「慣れてるのう、おぬし」
俺は思わず絶句した。呆れたような2人の声音と、何よりも武天老師様の言葉が、そうさせた。返す言葉が見つからないまま、俺は修行を開始した。


風に舞う土埃。鼻の中に入ってくる砂塵。肌を焼く厳しい日差し。乾いた地面の上に見える逃げ水。
荒野の風景ではない。…土木作業だ。
感覚だけは荒野にいた頃のことを思い出しながら、ひたすらに穴を掘る。掘り上げては土砂を運ぶ。そうして最後には、自然とは対極の状態を作り上げる。非常に現代的な修行だ。
それを終え、いったんカメハウスへ戻ってくると、ハウスの中は異様に静かだった。
リビングに立ち込めるコーヒーの香り。テーブルの上には、無造作に盛られた数種のビスケット。コーヒーカップをテーブルに並べているプーアル。危なげな動作でコーヒーポットを運んでいるウミガメ。ソファの陰で薬莢を詰めているランチさん。退屈そうにテレビを見ているウーロン…
…いや、ほとんどいつも通りだ。いつも通りなんだけど…
「あの、ブルマさんは?」
俺の代わりに訊ねたのはクリリンだった。どうも今日は、クリリンにばかり負担をかけているな。そんな気がする。
「ご一緒されていたんじゃないんですか」
視界の下からウミガメが、のんびりとそう答えた。どうやらブルマは、あのままどこかへ行ったきりであるらしい。テーブルに片肘を乗せながら、俺はぼんやりと考え込んだ。
まだ怒ってるのか。まあ、そうかな。まだ2時間ほどしか経っていないからな。通常、俺以外とのケンカはあまり長引かないものだが。さっきのはなかなか強烈だったからな。そういう意味では、ブルマがまだハウスに戻ってきていなくて、よかったのかもしれない。
「おまえら、またケンカしたのか。今日これで何度目だよ」
テレビを見ていたウーロンが、顔だけを振り向かせてそう言った。その顔には呆れの色があからさまに漂っていた。
「そうじゃないって…」
誰にともなく呆れを感じながら、俺はすべてを否定した。だってなあ。
確かにブルマは朝から怒りっぱなしだけど、俺は何もしていない。完全に被害者だ。なのにどうして、ケンカだと決めつけるんだ。
「ケンカじゃなかったら、何なんだよ?」
「それは武天老師様が…」
俺は事実を言いかけた。途端に頭に何かが当たった。
「こりゃヤムチャ。おぬし、師匠に罪を擦りつける気か?」
武天老師様が杖を振りかざして、同時に師匠の立場をも振りかざそうとしていた。俺は慌てて両手を振った。
「擦りつけるだなんて、そんな…」
「老師様がなさったことじゃないですか」
クリリンが淡々と突っ込んだ。まるで俺の心を読んだかのように。俺は今日ほど、クリリンが兄弟子でよかったと思ったことはない。
「何を言う。わしはちぃっと指南してみただけじゃ。何もおかしなことは言うとらんわい。現にランチちゃんは、あれを着てみせてくれたではないか」
一瞬、俺は気を逸らされた。ランチさん、やっぱり着たのか。でもそれは…
「ランチさんは特別ですよ」
「ブルマちゃんが怖過ぎなんじゃ」
話はいつしか完全にすり替わり、今やすっかり、ランチさんとブルマの個性対決となっていた。俺は少しだけ救われたような気持ちになりながらも、一方では頭を抱えた。俺の気持ちを見事に代弁してくれているのはクリリンだが、老師様の線も捨て難い。師匠と兄弟子。こういう時は、一体どちらに与すればいいのだろう。
「おれはじいさんに賛成だな。何があったか知らないけど、ブルマの怖さは異常だぞ」
ついにウーロンまでもが口を出してきた。それで、俺はついぽろっと言ってしまった。
「いやでも、あれを着るランチさんもどうかと…」
「あれって何だよ?」
「うっ…」
当然とも言える流れでウーロンに訊ね返されて、俺は再び頭を抱えた。しまった。せっかく話が逸れてたのに、うっかり戻してしまった。
「なあ、あれって何だよ」
「いや、何でもないんだよ」
「そうじゃ。何でもないんじゃ。それなのにブルマちゃんは…」
「あ、いえ老師様、そういう意味では…」
俺の言葉尻を老師様が捉えた。それに俺が反論しかけた時、背後から声がした。
「グダグダうるせえ野郎共だな!茶くらい黙って飲めねえのか!!」
どことなく淀んだ空気を鋭く切り裂く、叱責の声が。まだ注がれてもいない茶の飲み方に文句をつける、女性の声が。
「男のくせにいつまでもグダグダと!!オレはそういう煮え切らない話が大嫌いなんだよ!!」
熱り立つランチさんは、だが腰を上げることはしなかった。食器に八つ当たりしたりもしなかった。ただ黙って、カーゴパンツの背中に手を突っ込んだ。引き抜かれた手には、何があっても(例え他の銃を磨いている時でも)手放さないS&W-M500が握られていた。俺はこの時、自分に向けられるものとしては初めて、その言葉を聞いた。
「てめえら、的になりたいか?」
そう言うランチさんの顔は、俺がこれまでに見たこともないものだった。いつもの、銃を乱射している時とはまったく違った、静かで厳しい顔つき。数時間前に見たものよりさらに、精悍さを増した瞳の炎。俺は心の底から肝を冷やして、膝の上に両手を置いた。どうやら、みんなも同じ思いであるらしかった。一瞬にして、場が静止した。完全なる静寂が、部屋に訪れた。
ただ一人、ランチさんだけが悠々と、コーヒーをカップに注ぎ始めた。


湖を十往復。さらに反射神経を養う修業。
心休まらぬお茶の時間の後で、午後の修行をやり終えた。蜂に刺された腕の毒素を吐き捨てながら帰りついたカメハウスは、まったくいつもの雰囲気だった。
リビングに漂ってくる香ばしい香り。キッチンで鳴り響くミキサーの音。ランチさんのキッチンソング。ランチさん、戻ったんだな。…よかった。本当に、よかった…
心から胸を撫で下ろして、リビングの一角に座り込んだ。同様に気を抜いたらしい老師様が、キッチンへと消えていった。少ししてランチさんが冷たいお茶と老師様を携えて、リビングへとやってきた。そしておずおずと口を開いた。
「お夕食、もう少しだけ待ってくださいね。それで、あの…ブルマさんがまだお戻りにならないのですけど…」
「え、まだ?」
先のお茶の時間とは違い、今度は俺は素直に驚いた。
ずいぶん長いな。昼寝の後からだから…5時間くらいか。怒っているのはともかくとして、ブルマがそんなに長い時間、外で過ごしていたことがあっただろうか。
「お夕食の後でお帰りになるって言ってましたのに」
「あいつが戻ってこなきゃ帰れないぞ。エアジェットのカプセルはあいつが持ってるんだからな」
それまで気だるそうにテレビを見ていたウーロンが、急に語気を強めて振り返った。プーアルが心配そうな顔をして、俺の肩へと飛んできた。武天老師様とクリリンが、それぞれのお茶に口をつけた後で、俺の顔を見た。ウミガメまでもが、俺の隣にやってきた。
「で…どうして俺に?」
自分を取り巻く異常な状況に気がついて、俺は訊いてみた。
「どうしてと言われましても」
「おまえの責任だろ」
言葉を濁すランチさんとは裏腹に、ウーロンが無造作に言い切った。プーアルがすでに下がっていた眉を、さらに強く下げた。
「何があったか知らないけどよ。おれまで巻き込まないでくれよな」
「何がって…別に何もないぞ」
ありのままを俺は答えた。だが、ウーロンはそれを言葉通りに受け止めてはくれなかった。
「じゃあ、何で戻ってこないんだよ。怒ってるからだろ」
「それは武天老師様が…」
俺は再びありのままを口にしようとした。途端に、老師様の杖が飛んできた。
「これ、わしのせいにするでないと言うのに」
「ヤムチャさん、大丈夫って言ったじゃないっすか」
淡々とクリリンが突っ込んだ。どうやら今ではクリリンさえもが、俺以外の味方であるようだった。俺は呆気に取られながら、さらに本当のことを言ってみた。
「だけど、朝のこともあるし。あれだって武天老師様が…」
「でもあの時は、おれとヤムチャさんも一緒に怒られましたよ」
またもやクリリンが突っ込んだ。少々ピントのズレた方向に。…一緒に怒られたから何だと言うんだ。だいたい、俺たちは被害者だろ。
俺はそう思ったが、口に出すのは控えておいた。この感覚をどう説明すればいいのかわからないが、クリリンにそういうことを言ってはいけない。そう感じた。
「…でも、それじゃあ、どうして怒ってるんだ?」
俺は袋小路に陥った。そしてそれを口に出した。その途端、みんなが俺の顔を見た。
プーアルは心底心配そうに。ウーロンはいつもの白けきった表情で。武天老師様は惚けた顔に微量の興味の色を浮かべて。クリリンはそれよりは強い興味の目で。ランチさんはどことなく気の毒そうに。ウミガメはいつもながらの眠そうな顔で。…いや、ちょっと待ってくれよ。
「だから、俺は何もしてないって…」
「でも、戻ってこないのは事実だろ」
ウーロンの突っ込みで、話がふりだしに戻った。俺が内心で頭を抱え出したその時、クリリンが淡々と言い切った。
「とにかく、ヤムチャさんが行くべきですよ」
「わたしもそれがいいと思いますわ」
さりげなくランチさんに促されて、俺はしかたがなく腹を決めた。だが、問題はまだあった。
「行くってどこへ?」
「心当たりとかないんですか?」
「そんなこと言ったって…」
やはり淡々と畳みかけてくるクリリンの声に、俺は応えきれなかった。…どうして怒っているのかもわからないのに、何をしているのかまでわかるもんか。
だが、俺は結局はカメハウスを出た。より正確に言うと、追い出された。ただ一人ランチさんだけが、まともな言葉を送ってくれた。
「陽があるうちに探した方がいいですわ。陽が暮れると、この辺りは真っ暗になってしまいますから」
…やっぱり、あれがなければ、ランチさんは完璧なんだけどなあ。


カメハウスの周辺を探すことは端から切り捨てて、まずは1kmほどを、あの時ブルマの向かっていた方角へと歩いた。それでも見つからなかったので、俺はとりあえず探す目星をつけることにした。
心当たりはやはりないが、ブルマの行かなさそうなところならわかる。まずブルマは体力がそれほどないから、あまり遠くまでは行かない。沼・森・山などの、服が汚れそうなところにも、きっと行かない。湖は少し怪しいが、手前が林だから一人ではきっと行かないだろう。ハイスクールをサボるのとは違って、身を隠す必要もないわけだし。となれば、平地だ。それか、せいぜい丘だ。
いくつかの見晴らしのいい丘を線で繋いで、俺は歩き続けた。時折小さな山の上から周囲を見渡しながら。だが見えるのは、人気も疎らな田舎の風景だけだった。落ちかかる夕陽の下、灯りだす数少ない家々の灯り。その遥か上にはオレンジ色の常夏の夕刻の空。いつもなら、カメハウスの窓から遠くに見ているはずの風景…
まったく、どうして俺がこんなことをしなくちゃならないんだ。俺は何もしてないのに。…まあ、しかたないか。ここで一番ブルマのことをわかっているのは、俺だからな。まったく、ブルマはいたらいたで、いないならいないで、空気を掻き乱すんだから…
俺は少々微妙な気持ちになりながら、山とも丘ともつかぬ丘陵に足を踏み入れた。きっとこの辺りが限界だな。この先は山だしな。行き違った可能性もあるから、ここらで戻ろう。そう思った時だった。
丘陵の麓に、探し求めている色が見えた。こういう時は便利だなと何度か思ったことのある、特徴のある髪色だ。ブルマは丘陵の崖側の下をカメハウスとは真逆、山岳地帯へ向かって歩いていた。
呆れと安堵を同時に感じながら、俺は崖を飛び降りた。

この辺りの地形は、もうだいたいわかっていた。高いところから飛び降りるのにも、慣れていた。それなのに…
半瞬の後、飛び降りた崖の下で、俺は見事に木の枝に絡み取られていた。脇の下には数本の側枝。膝の下には2本の主枝。それらに引っ掛かって畳まれたように浮く体。…ちくしょう。完全に目論見を誤った。直下の林を越えるつもりだったのに、よりにもよってその真上に下りてしまった。思いっきり木にぶち当たってしまった。まあ、痛くはないけどさ。これも修行の賜物かな。…だけど、ブルマは驚いただろうな。あー、格好悪い。
手当たり次第に枝を叩き折って、地面へ下りた。髪に絡んだ木の葉を払いながら林から出ると、遠くに走り去るブルマの後姿が見えた。…まったく、もう。
俺は軽く溜息をついてからその後を追い、ブルマの手を掴んだ。その途端だった。
「ぎゃあぁぁあぁぁあぁぁーーーーー!!!!!」
耳をつんざくような悲鳴が辺りに響き渡った。もちろん、俺の耳もつんざかれた。
「きゃーー!きゃーー!嫌ーーー!離してーーー!ヤムチャーーーーー!!嫌ーーー!!」
顔を背け、体は完全に逃げの態勢で、ブルマは叫び続けた。思わず手を放しそうになりながらも、俺は何とか踏み止まった。
「ちょ…ちょっと、ブルマ。落ち着けって、な?話せばきっとわかるから…」
理由はさっぱりわからなかったが、とりあえずそう言った。そこまではいいのだが、続きが出てこなかった。…こんなに嫌がられているなんて。俺、一体何したんだろう。
だが意外なことに、俺が次の言葉を見つける前に、ブルマの悲鳴はぴたりと止まった。さらに意外なことに、俺がなんらのアクションを取る間もなく、ブルマが自分から体をこちらへ向けた。そして、まじまじと俺の顔を見つめた。
「な、何であんたがここに…もう!驚かさないでよ!!ああ、びっくりした…!」
変わらず声は大きかったが、その声にはまったく険がなかった。言葉と態度の両方に意外をつかれて、俺は間抜けにも訊ねてしまった。
「…怒ってないのか?」
どう見ても、ブルマは俺を無視していない。瞳だって怖くない。俺に対してどころか、他の何に対しても怒ってはいなさそうだ。そうは感じたが、訊いてみた。だって、それならどうして…
「怒ってるって何で?」
大きな瞳をさらに大きく見開いて、ブルマがそう訊ね返してきた。体はほとんど棒立ちで、構えてみせる素振りもなかった。どうやら本当に怒ってはいないようだ。よかった…
まるでわけがわからぬままに、俺は胸を撫で下ろした。それ以上を訊ねるつもりはなかった。いいんだ、わけなんかどうでも。ブルマが怒ってさえいなければ。そう思った時だった。
「あんたねー!そういうこと言わないでよ!さっさと忘れなさいよ!!どうして思い出させるのよ。せっかく忘れかけてたのに!!」
まったく唐突に、ブルマが喚き立てた。やはり大きく見開かれた瞳には、数秒前に見せた気抜けた様子は欠片もなかった。体は依然棒立ちのままだったが、肩には力が入り、さらに両の拳が固く握りしめられていた。俺はというと、ブルマのこの激しい変わり身の理由がまったくわからず、ただ茫然と立ちつくした。理由どころか、言っていることの意味さえわからない。
「エッチ!覗き魔!」
だが、続いて飛び出した言葉でわかった。…ヤバイ。やぶへびだったか。
「女ったらし!痴漢!!」
ブルマの暴言はさらに続いた。何やら関係のない言葉も混じっていたが、とりあえず俺は最も不本意な言葉を訂正しておくことにした。
「痴漢って…あれは武天老師様が」
「わかってんなら忘れなさいよ!!」
ブルマの口から出た言葉は、俺の予想の斜め上をいくものだった。…それでいいのか?そもそも俺が言いたいのは、そういうことではないのだが。わかってないのはブルマの方…
そうは思ったが、俺は口を噤んだ。まあいいか。俺自身、そうした方がいいと思っていたところだ。だってなあ…
俺は思わず視線を走らせた。温かな都ではもちろんのこと、常夏のこの地に来てもなんら変わらない、ブルマの軽装。同時に思い出しかけている自分に気づいて、慌てて口を開いた。
「忘れる。忘れるよ」
ブルマに対してというよりは、自分に言い聞かせるがごとく。忘れろ。忘れるんだ。それがいい。
だがそれは、少しばかり遅かった。俺が言い切ってみせたにも関わらず、ブルマはさらに俺を睨みつけた。そしてさらに、鋭い口調で言い放った。
「今度言ったら殴るからね!!」
…俺、何も言ってないのに。
俺はひさしぶりに、心の中で独り言を言い続けた。主に突っ込み系の。昨日から増えつつあったが、ここにきて最高潮に達しようとしていた。そんな自分とそうさせるブルマの両方に、俺の感覚は喚起されざるを得なかった。そんな時、ブルマが言った。
「で、どっち?」
やや平常に近い声音で。わけがわからず俺は訊ねた。
「何が?」
「道!」
偉そうにブルマが叫んだ。その瞬間、先ほどから棚上げしていた謎が解けた。
…なるほど。迷ってたのか。俺はてっきり、怒ってさらに遠くへ行こうとしていたと思っていたのだが。そうか。迷ってたのか…
呆れと安堵が心の中に広がった。主に前者が強かった。まったく、何てやつだ。通常、それを一番に心配されるはずなのに。誰一人、そんなこと考えてなかったぞ。…情けないことに、俺もだ。
俺はおぼろげにカメハウスのある方角へ目を向けただけだった。だがそれだけで、すでにブルマは歩き出していた。例の傍若無人な足取りで。さっき、俺たちの前から立ち去った時と同じ足つきで。きっと、迷っている間もそんな具合だったに違いない。俺は軽く息を吐いてから、その後を追った。
まったく、ブルマはなあ。何があっても同じ調子で。いつでもどこでもどんな時でも、自分のペースで…
ブルマの隣に並びかけ、少しだけ懐かしいその右手を取った。途端にブルマが叫び声を上げた。
「わっ!…あんた、そうやって人を驚かすの――」
そしてあろうことか、文句を言い始めた。あまつさえ、足をも止めた。俺は笑って、その態度を受け入れた。それですら、懐かしい感覚だった。
ブルマは自分がその気の時は何だかんだと要求してくるわりに、自分の気が乗っていないとてんで冷たいんだからな。そして、明らかに今日は気が乗っていない。朝から怒ってばかりだ。まあ、ブルマが悪いわけではないのだが。
そういう時は逆らわずに、ありのまま受け止めよう。俺はかつてそう誓ったものだった。でもその誓いを、今は破りかけていた。…ちょっとだけ。今だけ…
「足音殺すのやめてよね。びっくりしたじゃないの」
「ああ、ごめん」
再び発せられた文句に、俺も再び笑って答えた。隣に見える現実がそうさせた。
文句を言いながらも、ブルマは手を離そうとはしなかった。頬を赤く染めたまま、再び歩き始めた。…はは。素直で大変よろしい。
「あのさ。散歩するのは構わないけど、この辺の山へは来るなよ。この辺り、時々ハンターがいるから」
「げ。やっぱり何か出るんだ」
他愛のない話を続けながら、俺たちはカメハウスへと歩き続けた。途中で一度、ランチさんの台詞が脳裏を過ぎった。だがそれが、そこに棲みつくことはなかった。
違うな。そうじゃない。俺はランチさんに言われたからこんなことをしているわけじゃない。そうじゃなくて…
その場の空気をさらっていく、威勢のいい癇の声。他人の目を気にもしない、ストレートな感情表現。絶対俺より強いはずなのに、一方では守らなければならないという、皮肉な性格。俺は昨日からのことを振り返り、しみじみと自分の心情を噛み締めた。
…なんだろう。ひょっとして、ちょっと淋しかった…のかな。ブルマがここに来るまでは、全然考えもしなかったのに。来た途端、否応なく存在を発してくるものだから。考えざるを得ないんだよな。確かに、カメハウスは過ごしやすいところだ。住人の雰囲気も、C.Cとさして変わらない。でも…
ブルマだけは。ブルマの代わりだけは、ここにはいないからな…


「道に迷ってたって…」
カメハウスへ戻り着き、ブルマが帰宅の遅れた訳を話すと、みんなは揃って途中から声を殺した。ウーロンまでもが、目を丸くしてそうしていた。
無理もない。ブルマの理不尽さには慣れている俺でさえ驚いたくらいなのだから。俺よりさらにブルマのことをそうだと思っているウーロンが、信じられるわけがない。
「どうしたらこんな見晴らしのいいところで迷えるんだよ」
それでも生来の性質というべきなのか、すぐにいつもの調子を取り戻して、そう文句をつけた。ブルマと並んで少し遅めの夕食をとりながら、本人が動き出す前にと、俺はそれに答えた。
「山の方で迷ってたんだよ。北の山岳地帯の手前でな。ほら、林に分断された小山があるだろ」
ウーロンもなあ。あまり刺激しないでほしいな。せっかくブルマの怒りが治まっているんだから。子どもに言い含めるならともかく、相手はブルマだぞ。せめて、そういうことはC.Cでやっていてくれないかな。…俺のいないところで。
「あんなところまで行ったんすか…」
呆れたようにクリリンが呟いた。クリリンの考えていることが、俺にはだいたいわかった。
山に行ったことはともかくとしても、ここには山も丘もたくさんあるのに、なぜあんな奥地まで、といったところだろう。だが、それはブルマには通用しない道理だ。
ブルマは、行くとなればどこまでだって行くのだ。後先何も考えずに。自分の行ける範囲でだけどな。エアバイクがあったなら、もっと奥まで行ってしまっていたかもしれない。
「誰のせいだと思ってるのよ」
派手な金属音をたててカトラリーを皿に置き、ブルマが強く呟いた。怒りの予兆を湛えた声で。その瞬間、俺は自分がミスを犯してしまったことに気がついた。…しまった。油断した。というか、それを言い出すとは思ってなかった。だって…
だが俺が安堵したことに、クリリンはブルマの声には答えなかった。ひたすらに下を向いて、無言を通していた。どうやらクリリンにもわかってきたようだ。そう、こういう時のブルマには、身を引いておくに限る…
クリリンの姿と心中から気を逸らしかけて、ふいに俺は気がついた。その後ろにいる武天老師様までもが、同じような態度を取っていることに。それはまだわかるとしても、さらにはなぜかランチさん以外の全員が、どことなく身を竦めている。俺は一瞬狐に抓まれて、次にふと思い当った。
…あれか。さっきのランチさんの恫喝か。あの時もこの話題だったもんな。そうだな。さっきの彼女は、本当の本当に怖かった…
俺は非常に微妙な気持ちになりながら、もう一人の怖い彼女を見た。ブルマは再びカトラリーを鳴らしながら、料理を口に運んでいた。どうやら矛を収めたらしい。再び安堵の気持ちに浸りながらも、俺は一方では呆れを禁じえなかった。
まったく、ブルマのやつ。さっき忘れろって言ったくせに。自分で掘り返してりゃ世話ないな。…口には出せないことだけど。
「ごめんなさい、ブルマさん。わたしがこの辺りの道をお教えしておくべきでしたわ」
「ランチさんが悪いんじゃないわよ。この体力バカたちが全部悪いの!修行だって言えば、何でも許されると思ってさ。一体どんな修行をしてるんだか、わかりゃしないわ。教えてほしくもないけどね!」
ブルマの話は微妙に的がズレつつあった。いや、ひょっとすると故意にズラして…いるわけじゃないな。それにしてはズレきってないもんな。本当に忘れてほしいと思ってるのかな。俺は本当に忘れたいと思ってるんだけどな…
その時、ウーロンが横から口を挟んだ。いつもなら眉を顰めるところだが、この時は感覚が全然違った。
「で、どうすんだ?やっぱり今日帰るんだろ?」
「当り前でしょ。これを食べたら出発するわよ。プーアルは?あんたはどうするの?」
「ええ、ぼくも今日は帰ります」
一瞬にして、場の空気をまともな方向へ持っていった。俺は思わず舌を巻いた。これは一体どうしたことだ。ウーロンがまともに見える…
『ウーロンは、武天老師様に食われてしまっている』。今日何度か思ったことだが、それだけじゃないな。ひょっとするとウーロンには、カメハウスの水が合っているのかもしれない。


夕食を食べ終えた頃には、ほとんど陽が暮れかけていた。山の端に隠れゆく真っ赤な夕陽。空に広がる夜への色の流れ…
慌ただしく、それでもしっかりと食後のコーヒーまでを飲み終えて、ブルマは颯爽とカメハウスの外へ出た。
「それじゃあね。お邪魔しました!」
本来殊勝に聞こえるはずのその言葉は、姿勢・声音共に頭が高かった。むしろ、それに答えるランチさんの方が健気に見えた。
「たいしたおもてなしもせずにごめんなさいね、ブルマさん。ウーロンさんにプーアルさんも。また来てくださいね」
とはいえ、よく顔を出していたプーアルはともかく、ウーロンをさりげなく下において言うランチさんの言葉に、俺は思わず苦笑した。やっぱりこっちのランチさんにも、ブルマが格上だということはわかるんだな。あっちのランチさんも、不思議に相手をしていたし。
女同士だからだろうか。一瞬浮かんだ一般論を、俺は次の瞬間切って捨てた。そんな理由で友人を作る性格では、ブルマはない。それに、こっちのランチさんとブルマは、水と油だ。あっちのランチさんとは、それほどでもないようだが。
そうだな。敢えて言うならブルマは、怖いランチさんを和らげて、それに何かを足した感じだ。そしてその何かこそが、曲者なんだ。
「そうね。来週、天気がよかったらまた来るわ」
何となく沈思しかけた俺の耳に、ブルマの声が入ってきた。その言葉を、俺は確定と受け取った。なにせ、ここは常夏なんだから。しかも雨期のない、な。
それだけを言うと、ブルマはよすぎる手際でカメハウスの前面にカプセルを放り投げた。現れたエアジェットへと向かうブルマの後姿を、俺はみんなと共にドアの外で見送った。ブルマの歩は緩くはなかった。途中で振り向くこともなく、まるっきり淡々としていた。それを見て、俺は思った。
…帰る者というよりは、どこかへ出かけて行く者のようだ。
ブルマがエアジェットのタラップに足をかけた。俺が安堵ともう一つの思いを強めたその時、ふいにその顔が振り向いた。
「ランチさん、今度料理教えてね!」
最後にかわいらしいことを言って、ブルマはエアジェットの中へと消えた。


エアジェットが夕陽の中に飛んでしまうと、僅かに俺の顔を覗き込んで、ランチさんが軽く笑った。
「行ってしまいましたわね」
その言葉を皮切りに、みんなが一斉に踵を返した。誰の顔も見えなかったが、その歩調で俺にはわかった。ランチさんはどうかわからないが、少なくとも彼女以外の全員は、きっと今同じことを思っている――『やれやれ』。
俺は再び、穏やかなカメハウスの中へと戻った。なんとはなしに息を吐いた時、武天老師様が言った。
「では、気分も落ち着いたところで、食後の修行にかかるとするかの。今日も夕日に向かって走るぞい。ただしいつもの倍のスピードでな。今夜は時間があまりないからの」
「は…」
俺はすっかり忘れていた。おそらくは、クリリンもそうであったに違いない。
「返事がないぞい」
「は、はい!」
俺とクリリンは2人揃って歯切れ悪くそう答え、2人揃って一度は脱いだ甲羅を引っ掴んだ。
2人揃って慌てながら。
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