逃進の女
ふと、いつものように自然と目が覚めた。なにげなく壁の時計に目をやって、俺はいつもとは違う息を漏らした。
あらら…
時計の針はいつもとは違う位置にあった。いつもならとうに体を解し終わっているはずの時間。…寝坊した。その事実自体に意外を衝かれて、俺はベッドから起き出した。
軽く髪を整えて、武着を身に着けた。いつもと同じように。特に急ぐということもなく。不思議と焦りはなかった。むしろ正反対の心境だった。今日一日はゆっくりとした気分で過ごそう。俺は自然とそう思い、いつものように部屋を出た。
いつものようにキッチンでミネラルウォーターを一杯飲み外へ出ると、ママさんが花壇の花に水をやっていた。もうそんな時間か。単純にそう感じて、俺は声をかけた。
「おはようございます」
「おはよう、ヤムチャちゃん。相変わらずお早いのねえ。トレーニング中かしら?」
「あー…ええ、まあ」
否定するほどではないが肯定することもできなかった俺は、曖昧に言葉を返した。これが失敗だった。
「うふふ。休憩ってところかしら。じゃあきっと、プーアルちゃんももうすぐくるわね。プーアルちゃん、いつもヤムチャちゃんと一緒だものね」
「そうですねえ…」
「プーアルちゃんたら、ヤムチャちゃんのこと大好きなんだから。ヤムチャちゃんがいなくなっちゃったら、プーアルちゃん淋しがるわよ〜。ママもとっても淋しいわ。ヤムチャちゃんとお茶したり、お洋服買ってあげたり、しばらくできなくなっちゃうんですもの。本当に残念だわあ。3年経っても、ママのこと忘れないでね、ヤムチャちゃん。ところでヤムチャちゃんはアンコールオレンジはお好きかしら?初物なんだけど、とってもおいしいのよ。ブルマちゃんはあまりお好きじゃないんだけど、よろしかったら今日の朝食に…」
「……」
津波のように押し寄せるママさんの言葉が、俺の足をその場に釘づけた。釘づけられているうちに、本当にプーアルがやってきた。
「おはようございます、ヤムチャ様。おつかれさまです。お水持ってきましたー!」
「えっ!?」
俺は思わず声を上げた。もうそんな時間か!?
「あ、違うものの方がよかったですか?」
「い、いや。これで充分だよ、プーアル…」
従順そうなプーアルの目を裏切れず、俺はいつものようにミネラルウォーターを1本飲み干した。
こうして俺は本当に、ゆっくりと朝を過ごした。

いつもより空かない腹に朝食をちびちびと入れていると、ウーロンがやってきた。
「おーっす。いつもながら早いなあ、おまえ」
「…まあな」
肯定する気分ではとてもなかったが否定するのもおかしいと思った俺は、いつものように言葉を返した。時すでにウーロンの視線は、俺の傍らでコーヒーポットを傾けるプーアルへと移っていた。
「おまえもな。よっぽどあいつよりそれっぽいよな」
ここにはいない人物に絡んでいるらしいその声を、俺は黙って聞き流した。いつものことだ。ブルマが彼女っぽくないと言っては絡み、それっぽいとなればまた絡むのだ、ウーロンは。特に前者は、ブルマがいない時分に行われる。いる時にそうされるよりはずっといいと、俺は思っている。
「ブルマのやつも今日くらい、せめて普通に起きてくりゃいいのによ」
トーストに齧りつきながらウーロンがその名を出した時、当の本人がやってきた。
「おはようございます、ブルマさん」
「おはよう、ブルマ」
未だ開けきらない目をしたブルマに、俺はいつもと同じように声をかけた。返ってきた反応は、まったくいつも通りだった。
「…おはよ」
気だるげな表情で、ぽつりとそう呟いた。わりあい大人しく朝食の席についたところに、ウーロンがわざわざ突っ込んでいった。
「いつもながらおっせえなあ、おまえ」
「…週末の朝に早起きできる方がどうかしてるわよ」
これまでにも何度か聞いたことのある台詞が、ブルマの口から呟き漏れた。こういう時のブルマの反応は、もうだいたい決まっている。他には『うるさい』と一喝するか、無言で席に座り込むかだ。まともに答えた今日は、わりと機嫌のいい方だな。
「今日は遅刻させんなよ。走らされるのだってごめんだからな」
「あんたに待っててなんて頼んでないでしょ」
「かわいくねえなあ」
「あんたがね」
相変わらず気だるそうに呟き続けるブルマの言葉に、俺は軽く同意した。確かにかわいくないよな、ウーロンも。ブルマの反応なんかいい加減もうわかってるだろうに、それでも突っ込んでいくんだからな。
「もう、あんたと話してるとごはんがまずくなるわ」
心底まずそうにブルマは言い、オムレツをつついていたカトラリーから手を放した。ここいらが仲裁どころだな。そう思って俺が口を開きかけた時、にわかに陽気な声が飛んできた。
「はい、ヤムチャちゃん、デザートよ〜ん。とっても甘くてコクのあるアンコールオレンジよ。すっごく香りがいいからそのまま食べてね。それともマンゴーの方がいいかしら?」
ママさんがにこやかに、イチゴとオレンジがそれぞれ盛られた皿をテーブルに滑らせた。…早いな。食欲が湧かないの、見透かされたかな。
「いえ、これで充分です。いただきます」
気づけば、ブルマとウーロンの口論は止んでいた。俺は胸を撫で下ろしながら、ママさんの続く声が聞こえる前にとオレンジを口に運んだ。ほとんど同時に、ブルマがイチゴの皿をさらっていった。そしてデザートカップにイチゴを山盛り取り分け始めた。もう朝食を切り上げたらしい。ほとんど食べていないのに。俺は再び口を開きかけたが、実際に何か言うのはやめておいた。まあいいか。俺もひとのこと言えないしな。
「プーアルちゃん、コーヒーは足りるかしら?それと、ホットミルクのおかわりはいる?ウーロンちゃんのトーストは?」
今やすっかり落ち着いた食卓に、ママさんの気遣いの声が響いた。さすがママさん、そつがない。一瞬にして、すべてが丸く治まった。年季が入ってるよなあ。
俺はすっかり感じ入りながら、朝食を食べ終えた。ここ数ヶ月間変わらない、忙しない登校前の朝食を。


忙しない朝食の後には、忙しない登校。いつものようにエントランスでブルマが来るのを待っていると、発信先をマルチにして、ウーロンがキーテレホンの回線を開いた。
「おーい、まだかよー」
「今行くってば!」
返ってきたブルマからの応答は、ほぼ予想通りのものだった。俺はさして感じるところもなく2人のやり取りを聞いていたのだが、当人の片割れはそうではないようだった。
「まったくあいつは、嫌んなるほどいつも通りだな」
ことさらここにはいない人物を非難するその声に、反論する気は俺にはなかった。とはいえ同調するつもりもなく、俺は俺の角度からウーロンに突っ込みを入れてみた。
「ウーロンもな」
「ああ?何だよそれは」
「いや、いつもいつもよくやるなと思ってさ」
眉を顰めるウーロンに、俺は自分が感じたままの言葉を投げた。急かしたからって、何が変わるわけでもないのにな。こういうのはブルマに限ったことではないと思うが、ブルマの場合はなおさらだ。ただ機嫌が悪くなるだけなのだから、黙って待つのが上策だと俺は思うんだがな。
「おまえに言われたくねえぞ…」
俺に対してのものとしては珍しく、苦虫を噛み潰したような声がウーロンの口から漏れた。意味を問いただそうとした俺を尻目に、ウーロンは再びキーテレホンに向かった。回線を開いた途端に、荒々しい怒声がエントランスに響き渡った。
「クソ親父!!」
一瞬、時が止まった。驚きと、そして呆れによって。
「朝っぱらから父娘ゲンカか。しょうがねえな」
「……」
無造作に言い放つウーロンの声に、返す言葉は俺にはなかった。ウーロンの想像を否定するつもりもない。いつものこと…ではないな。すごく珍しいというほどでもないが。でも、何もこんな日にまで…
呆れ以上のものを感じ始めた俺に対し、ウーロンは呆れ一辺倒の声をキーテレホンの向こうに向けた。
「おいブルマ、いい加減にしないとおいてくぞ」
「今行くってば!!」
返ってきたブルマからの応答は、予想以上のものだった。キーテレホンの向こうから聞こえてくるにしては臨場感のあり過ぎるその怒声。…怖い。怖過ぎる。俺、先に行っちゃおうかな。
俺は一瞬本気でそう思ったが、何とかその場に踏み止まった。いくら何でも、今日それをするのはな。それに加えて、わかってもいた。
それをすれば、今度は俺が怒られる、ということが。


怒っているブルマと肩を並べて歩く、という非常に珍しい状況で、俺は最後の登校をした。
これまであまりなかったことだ。ひょっとすると初めてかも。怒っていると、ブルマはたいてい一人で先を行ってしまうからな。やり合ったばかりのウーロンとも肩を並べているということが、さらにまた珍しい。天変地異の前触れかもしれないな…
俺の身は自然と竦んだ。無意識のうちにブルマから距離を取ろうとする足を意識して抑えていると、ふいにプーアルが口を開いた。
「ヤムチャ様。今日のお昼、ご一緒してもいいですか?」
一瞬にして、俺の気はプーアルにさらわれた。プーアルがこんなことを言うなんて、これまでになかったことだ。だが、理由を訊ねる気は俺にはなかった。
訊かずともわかっていたからだ。まったく、かわいいやつだな、こいつは。
俺の心はプーアルへの慈愛で満たされた。それにも関わらず、気づくと口では言っていた。
「いいんじゃないか?なあ、ブルマ」
プーアルへの容認の言葉ではなく、ブルマへの容認を求める言葉を。…完全に習性だ。情けないが、もうどうしようもないな、これは。
「そうね、今日は天気もいいし。内庭あたりがいいかもね」
答えるブルマの声に、不機嫌の素振りはなかった。それに胸を撫で下ろした時、ウーロンが嘯いた。
「珍しく今日はサボってないしな」
おいおい…!
思わず俺は一歩を引いた。思った通りの舌戦が、すぐさま開始された。
「あんたうるさいわよ、いちいち!!」
「なんだよ、褒めてやったんじゃねえか」
「どこがよ!!……あんたも出てく?」
「なんだよそれ」
なんだよじゃないだろ…
俺は自然と心の中でそう突っ込みを入れていた。どうしてわざわざケンカ売るんだよ!?せっかくブルマが落ち着きかけてたのに。
「まったく厚かましいんだから。『憎まれっ子世に憚る』って本当ね!!」
「それはおまえのことだろ」
おいおいおいおい…!
ブルマとウーロンの舌戦は、ことのほか長く続いた。激発こそブルマはしなかったが、その態度がまた俺の心を竦ませた。ブルマは本気で怒っている時はもちろん怖いが、そうじゃない時の緊張感も何とも言えず怖いのだ。蓄積された怒りがいつどこに向かって暴発するか、わかったものじゃない。特に今朝は、さっきまで怒りっぱなしだったのだから。いつものことと言えばそれまでだが。でも、何も今日にまで…
俺は2人から少しだけ距離を取って、プーアルと共に戦線を見守っていた。離脱する気はなかった。そうしたいのは山々なのだが、そんなことをすれば後が怖い。それに、最後はきちんと見届けておかないと。俺自身の保身にも関わることだ。
ややもして、スクールのゲートが見えてきた。体は小等部の方角へと向けながら、プーアルが緩やかな笑顔を覗かせた。
「じゃあヤムチャ様、お昼休みになったら内庭へ行きますね」
「ああ」
あー、和む…
俺の心は再びプーアルへの慈愛で満たされた。だが、それも一瞬のことに過ぎなかった。
「あんたもさっさと行っちゃいなさいよ」
「言われなくても行くっつーの!」
今やすっかり売り手となったブルマが、買い手となったウーロンを急きたてた。ウーロンは敗者と言うには堂々過ぎる態度で、その言葉に従った。
「まったく、ウーロンてばかっわいくないんだから!」
「本当にな…」
幸いにして不機嫌に留まるブルマの言葉に、俺は深く同意した。ブルマのことをかわいくないとウーロンはいつも言うが、ウーロンだって十分にかわいくないぞ。ケンカを売るのも買うのも達者でな。それでも結局最後にはブルマが勝つが。それがわかっているのになおも売りつけるその神経が、俺にはわからん。これからもずっとあんな調子なのか?
プーアルをここに置いていくのが、少し心配になってきたな…


「あーあ、授業受けるの面倒くさ〜い。早く今日終わんないかな」
ハイスクールに足を踏み入れた瞬間、耳にタコができるほど聞かされているいつもの台詞が、ブルマの口から飛び出した。俺は少々微妙な気持ちになりながら、その隣を歩いた。
ブルマのやつ、わかってるのかな。今日が終わるということが、一体どういうことなのか。いや、未練というわけじゃない。武天老師様のところへ行くことに、俺は寸分の躊躇いもない。そうなんだけど、なんだかな。…もう少し俺の存在を尊重してもらえないものかな。ブルマって俺のこと本当に好きなのかな…
いつも通りというほどではないが初めてとも言い切れない心境の中、俺はクラスに面する廊下のロッカーに手をかけた。ロックを外してドアを引いたその瞬間、意識が現実に戻された。手応えが、いつもとは違っていた。
…開かない。
何だ?ぼんやりして、ロックナンバー間違えたかな?
再度ロックナンバーを打ち込んだが、それでもドアは開かなかった。試しにドアを軽く押し込むと、その隙間に何かが挟まっているのがわかった。僅かにはみ出た紙の端を引っ張りかけて、俺は手を引っ込めた。
…封書だ。まさかとは思うが、ひょっとして。この薄桃色の色合いは――ヤバイ。なぜ、よりにもよって今日なんだ…!
「何?どうかしたの?」
やや離れたところで自分のロッカーを弄っていたブルマが、軽い態度で訊いてきた。俺は平常心を総動員して、ブルマの態度に倣った。
「あ、いや、えーと…俺、今朝教師に呼ばれてて。ほら、今日が最後だから。薫陶ってやつだよ。…先にそっち行ってくる!」
「は?」
「じゃあ、昼にな!」
いま一つ腑に落ちない顔をしているブルマを尻目に、俺は廊下の角を目指した。腑に落ちられずとも構わない。むしろその方がいいかもしれん。 勘ぐられて、身動き取れなくなるよりは。わざわざ火種を見せつけることはないのだ。
廊下の角、階段の踊り場で、俺は気配を殺すことに専念した。いくらも経たないうちに、嘆くような呆れたような呟きが小さく聞こえてきた。
「最後まで落ち着かないんだから…」
まったくだ。
ブルマの言葉に俺は深く同意して、その姿が廊下から消えるのを待った。幸い始業のチャイムが鳴る前に、ブルマは自分のクラスへと入っていった。今日はサボらないんだな。さすがに今日までサボられたら立つ瀬がないか…
そんなことを考えながら、俺は再びロッカーへ向かい、ドアの隙間を覗き見た。ロックは確かに外れている。どうやら封書が引っ掛かっているようだ。やれやれ、最後まで面倒なことだ。俺は今度は周囲の人目を憚りながら、力任せに右手でドアを叩き開けた。左手を空中に待機させて。だが、その手が封書を掴むことはなかった。
反動で開いたロッカーから飛び出してきた封書の様相は、いつもと全然違っていた。白に黄色に薄桃色。まるで紙吹雪のように舞い散り落ちてきたそれらは、とても一瞬では掴みきれない数だったのだ。

そりゃあ、ドアも開かないはずだ。むしろ、よくもこの狭い隙間にこれだけ突っ込めたものだと思うよ。
半ば呆れ半ば感心しながら、俺は床に散らばった封書を掻き集めた。束ねたところで、いつもとは違う困惑が心に湧いた。
…ポケットに入りきらない。
一体どうしたものだろう。というか、どうしたことだろう。今までこんなことなかったのに。最近目立ったことをした覚えもないし…
俺はすっかり考えあぐねた。あぐねた末にとりあえず懐に突っ込むことだけを決めた時、至近距離から声がした。
「おまえって本当にモテるんだなあ。そこまでいくと羨ましいを通り越して尊敬するぜ。ちょっとコツを教えてくれよ」
隣のロッカーのやつが、邪気と無邪気の綯い混ざった微妙な目つきで俺を見ていた。俺は慌てて、だが率直に事実を告げた。
「いや、こんなこと初めてだよ。俺にもわけがわからないんだ」
「あ、そうなの。じゃあ最後だからかな。いいな〜、おれも一丁転校してみようかな」
…ん?
茶化した口調で示されたその言葉が、頭の中に留まった。だが俺が口を開くより早く、他の声が飛んできた。
「いいんじゃね?きっとみんな喜ぶぞ」
「どういう意味だよそれは」
「その時にはおれが一つ書いてやるよ。脳裏に染み付くような濃いやつをな」
「それ最悪」
あっという間に、俺の存在はクラスメートたちの声に呑み込まれた。正確に言うとネタにされつつ流された。いつものことだ。このクラスの野郎共は、ラブレターには興味はないのだ。ラブレターは食べられないからな。現金なものだ。
だから、これは俺が自分で何とかするしかないのだ。はぁ…


ラブレターを懐に突っ込んだまま、俺は2限目を終えた。
弱ったな。中身を検めたいけど、機会がない。どうしてみんな名前を表に書かないんだ。封筒もみな同じようなデザインで、さっぱり差別化できん。しかも妙に厚いし。授業中にこっそり…読み切れるとは思えないな。おまけに一通ならともかくここまでの数となると、周りに知れたら嫌味だしなあ。でも、昼休みに持ち越したくはない。C.Cにまで持ち込むのはさらにダメだ。そんな危険を冒すわけには――
…はぁ。
俺は溜息をつきながら、ロッカールームのドアを押した。3限目の授業は体育。今日は陸上なので、少々身なりを整えねばならない。
惰性で入ったロッカールームの中は、俺とは別種の溜息で満ちていた。
「あ〜、だりぃ」
「もう走りたくねーよな〜」
「おれ、まだ筋肉痛なのによぉ」
まったく、都人ってやつはどうしようもないな。
これまでにも何度かつかされていた溜息が、先の溜息に取って代わった。だって、長距離走大会なんて一昨日の話だぞ。しかも、たった半日がかりのことなのに。よくもそこまで疲れることができるものだな。たいして気合を入れてた風でもないのに。俺なんか人一人抱えて走ったが、どこも何ともないぞ。最後まで呆れさせてくれるよなあ。
「おまえ、平然としてるなあ」
「どういう体してるんだよ」
やがてかけられ始めた賞賛(?)の言葉が、俺の呆れを諦めへと変えた。
これは、今日の体育は授業にはならんな…
その瞬間、先の溜息が行き場を見つけた。そうだな、どうせならその時間を貰おうか。
俺は再びロッカールームのドアを押した。一歩を踏み出しかけた時、後ろから声が飛んできた。
「おまえ、どこ行くんだよ」
だらだらとシャツを脱いでいたクラスメートが、少々不機嫌な目つきで俺を見ていた。俺はできるだけさりげなく、その声に答えた。
「ああ、えーと、俺、今ちょっと呼び出しが。ほら、今日が最後だから。薫…」
「何だよ、またサボりか」
「いいよなあ、彼女のいるやつは」
言い終える間もなく、次の言葉が飛んできた。…何だか、中途半端にバレている。ここんとこブルマのサボりに付き合いっぱなしだったからなあ。無理もないか。俺が新たな溜息を吐きながら立ちつくしていると、別の声が俺の背中を押してくれた。
「いいんじゃね。さっさといっちまえ。適当に誤魔化しておいてやるよ」
「悪いな。サンキュー」
俺は感謝の気持ちを込めながら、ドアを閉めた。やっぱり男は話が早いな。面倒がなくていい。そう思った時、ドアの向こうから会話の続きが聞こえた。
「最後の最後に差を見せつけられちゃたまんねえ」
「彼女持ちのくせに、ラブレターなんか貰うんじゃねえっつーの」
「あんな尻に敷かれているようなやつのどこがいいんだろうなあ」
それで俺は、100%サボらざるを得なくなった。…まったく、都人ってやつはなあ。
新たな溜息をつきながら、俺はロッカールームを後にした。




3限目の授業が始まり生徒がクラスに収まるのを待ってから、俺はトイレから顔を出した。休み時間中に移動すると、見つかる惧れがあるからだ。かつて、俺がブルマのサボりを発見したように。
どこでサボるかということに、思い悩む必要はなかった。高等部校舎の屋上だ。少なくともここならば、高等部の人間に見つかる心配はない。ひょっとするとプーアルに見つかってしまうかもしれないが、プーアルになら構わない。
屋上へと続くドアには、マニュアルロックがかかっていた。俺は端からロックを外す努力を捨てて、力任せにドアを叩き開けた。ロックがかかっていることも、俺には開けられないことも、すでに体験済みだったからだ。実験室や準備室のドアが壊れていたらすぐにもバレてしまうだろうが、ここのドアなら、しばらくの間はバレない。自分以外には誰も来ないと、前にブルマが言っていた。
…どうも、自分でも気づかないうちに、サボりのテクニックを伝授されてしまっているな。困ったものだ。
俺は微苦笑を噛み締めて、ペントハウスの屋根へと上がった。これには特に理由はない。…ひょっとすると、刷り込みかもしれないな。ブルマはいつもここに上がっていたからなあ。
屋根の上に座り込むと、緩やかな風が頬を弄った。何にも遮られることのない青い空。都にいてはあまり味わうことのない解放感は、しかし俺にとっては一瞬のものでしかなかった。
「全員の名前覚えられるかな…」
あまり他人には聞かれたくない本音を吐き出して、俺は懐に隠していた封書の束を取り出した。例え名前を覚えても、顔と一致させられるかどうかがさらに怪しい。正直言って、顔も名前も知らない女の子がまだまだ大勢いるのだ、このハイスクールには。そして手紙をくれる子というのは、なぜかいつもそういう子なんだよな。接点がないのに、どうしてそういうことになるのかわからん。本当に、腑に落ちない現象だ。
ともかくも、俺はすべての封筒を開封し、中身を出した。あまり時間がないからな、てきぱきやらないと。まずは差出人の名前を確認すること、次に内容からできる限り本人を特定すること。この2点が肝要だ。
これまでの何度かの経験から、俺はそう踏んでいた。だがすぐに、今回は勝手が違うということに気がついた。第3の要素が現れたのだ。
…差出人の意図が、さっぱりわからん。
貰っておいて言うのもなんだが、見た目だけじゃなく内容もどれもこれも似たり寄ったりの、決め手に欠ける文章ばかりだ。好意を持っているらしいことは何となくわかるのだが、だから何なのかがさっぱりわからん。いつもと違って『好き』とか『付き合いたい』とかの言葉が全然ないし。だいたいこの『次の学校へ行ったら』『新しい場所へ行ったら』っていうのは何なんだ。俺は転校じゃなくて、退校するんだが。C.Cを出ていくわけでもない。まあ、しばらく留守にはするが。さらにこの『気持ちの整理がついたら云々』の意味がわからん。一体、何の気持ちだ。
半数ほどに目を通したところで、俺は面倒くさくなってきた。とにかく、わかりにく過ぎる。人知れず読むだけでもこんなに苦労してるのに、あと半日でこれを解読して、しかもまたバレないように対応しないといけないのか?一体何の罰ゲームなんだ、それは。
…ひょっとして、からかわれてるのかな。そうかもしれないな…
ついに俺は、気持ちだけではなく手紙そのものをも放り出した。何だか、バカバカしくなってきた。これまでにも少しは思ってたことだけど、今回はてきめんだ。こういう手紙を貰うたび、俺はいつも振り回される。好きな子から貰ったのならわけがわからなくても飛んでいったりするのかもしれないけど、俺の場合それは絶対にありえない。いいことなんか一つもないのに、不満は買うし。ブルマはすっごく怒るしさ…
いつしか俺は頭の後ろで腕を組んで横になり、空高く見上げていた。実のところ途中から、ずっとそうしていた。腹の上に乗せていたラブレターを足元に押しやって、軽く首を仰け反ると、視界から心を煩わせる一切のものが消えた。全身に降り注ぐ午前の日差し。ただただ青い初夏の空。
…ああ、いい天気だ。この広い空。とても都とは思えないな。そうだな、こんなことももう終わりだ。これから俺は、ロッカーも都人もないところでやっていくんだからな。
何ともいえない気だるさと緩みの中で、俺は一瞬、まどろみに襲われた。うっかり頭が後ろに落ちた。緩やかに視界が逆転した。何の気なしにそのまま視線を巡らせて、ある一点に達したところで、俺の頭と目は突然覚めた。
内庭を隔てた目線の先に、誰かいた。いや、誰かなどとぼかしてみてもしょうがない。…ブルマだ。
ブルマは中等部校舎の俺と同じ場所にうつ伏せて、両頬杖をついてこちらを見ていた。正面から。どうやらとうに俺に気づいていたようだ。そしておそらく今では、俺が気づいたことにも気づいていた。頬杖を解かれた右の手がひらひらと動いて、俺の視線を釘付けた。思わず腕組みを崩した俺とは対照的に、その顔は笑っていた。それはたぶん久しぶりに見る花笑みだった。
…でも、この時の俺には全然違って見えた。


まずい。まずいぞ。
明らかにこちらへ来る気配のブルマがいったん視界から消え去ると、俺の心は煩悶した。
まったくもって、うっかりしていた。今日に限って、ブルマがあそこにいるなどとは露ほども考えていなかった。だって…なあ。まあ、俺もひとのこと言えないけど。
とにもかくにも、俺は急いで足元に散らばる封筒とその中身を掻き集めた。一纏めにしたところで、切羽詰まった問題が湧き起こった。
…懐に収まりきらない。
あぁー、全部出したりしなきゃよかった。せめて読んだものだけでも、いつものようにうんと小さく畳み込んでおくべきだった。ブルマが来ないうちに地面に落して…いや、さすがにそれはダメだな。
しかたがなく、俺は封書の束を少し崩して尻の下に敷き込んだ。やや浮く尻を隠すために胡坐を掻いた。うん、これなら自然に見える。たぶんまったく問題なしだ。今が3限目でよかった。4限目だったら、この後一緒に飯を食いに行かなきゃならないところだった…
…さて、果たしてブルマは俺より先に腰を上げてくれるかな。
希望の中にも問題を見つけたその時、足元で音がした。ペントハウスのドアの開く音が。願わくばこの音が、またすぐに聞けますように。
ともすれば尻の下へと向きかける視線を、俺は努めて宙に浮かした。強制した視界にブルマの顔が入ってきた。
「なーに、一人でサボってんのよ?」
ペントハウスの屋根に手をつき上半身を覗かせながら、ブルマが優しく微笑んだ。俺を咎めるその声は、いつもと違って甘かった。それが却って、俺の心を怯ませた。
うう…怖い。この機嫌の良さが、今は怖い。この先どれほど変貌するのかと思うと、すごく怖い…
「…あー…えぇと…」
俺は完全に言葉に詰まった。質疑応答の準備をしているヒマなどなかった。朝とは違って、うまい言い訳も出てこない。
何しろ、今は逃げられないのだ。下手なことを言って、追及されてしまっては…
だが俺が安堵したことに、ブルマはそれ以上踏み込んではこなかった。我ながらしどろもどろだと思う俺の態度にも文句を言わず、笑って俺の前に座り込んだ。
…本当にすごく機嫌がいいな。こんなにいいのも珍しいな。神の救いかな…
「何してたの?」
感悦するほどかわいらしく小首を傾げて、ブルマが言った。その声音の軽さと態度に倣おうとして、俺は失敗した。
サボった理由が思いつかない。『体育の授業がつまんなさそうだったから』…ダメだ。これじゃ、いつものブルマと同じだ。最後の最後にそれでは、立つ瀬がなさ過ぎる。
「うーん、ちょっと…考え事を…」
しかたがなく俺は、心の一端を明かした。嘘じゃないぞ、本当に考え事をしてたんだ。すごく不毛な考え事だったけど。
俺が答えると、ブルマの首がさらに傾げられた。俺が努めて目を逸らしているコンクリートの屋根へとその視線が動いた。それで俺は、自分が一つミスを犯してしまったことに気がついた。
ここは言葉を濁すのではなく、逸らすべきだったのだ。ブルマはきっと、少し前から俺の様子を見ていたに違いないのだから。
「何見てたの?」
思っていた通りの言葉が展開された。何ともいえない微笑と共に。なんだか真綿で首を絞めつけられているようだ。今日はずいぶんじわじわくるな、ブルマのやつ。そう思いながら、俺は遅ればせながらの行動を取った。
「…いや、何も。空を見てたんだ。あんまりいい天気だからさ!」
あー、逃げたい。ここで逃げたい。今すぐ煙に巻きたい。そうすればきっと俺は安泰なのに…!
その感覚は間違ってはいなかった。ふいに荒いだブルマの声が、逆説的にそれを証明していた。
「つまり、言えないことなわけね!?」
一瞬にして、ブルマは態度を変えていた。その顔には、もう笑みの余韻すらなかった。聞き慣れた怒りの声音。見慣れたはずの怒りの表情。なのにいつまで経っても、それに慣れられない俺…
「あ…いや、…えぇと…」
俺は再び言葉に詰まった。うう…怖い。怖過ぎる。どうしよう。隠すのもマズいが、隠さないのはもっとマズい。っていうか、これはたぶんもうバレてる…
「もうっ!」
言葉短にブルマが叫んだ。その口調に、俺は心当たりがあった。あり過ぎた。
「ま、待て待て!ちょっと待て!!」
この瞬間、俺はすべての感覚を捨てた。沽券も体裁もこの後の自分の運命もかなぐり捨てた。ここで行かせるわけにはいかない。俺が聞きたいのはそういうドアの音じゃないんだ。
まったく意に反した形で、俺は自分の腰を上げた。もう逃げられないことはわかっていた。この上はあまんじて打擲を受けようじゃないか。
…なんて不毛な展開なんだ。

手に余っていたラブレター(のようなもの)を、一つ残らずブルマに手渡した。近過ぎる未来の自分を案じつつも、どことなく肩の荷が下りたような気持ちに、俺はなっていた。
わけがわからなかったからな。わけがわからないことを自分一人の心に留めておくというのは疲れることだ。それにやっぱり、隠し事はいけないよな。うん。
とはいえ、心が緩んだわけではなかった。むしろ、その反対だった。ラブレター(のようなもの)の束を手にしてブルマは最初怪訝な顔をし、次に一通に目を通して眉を顰めた。その顔が鬼の形相となるまでに、さほど時間はかからなかった。
「何なのこれ!一体どういうことよ!!」
俺が感心したことにブルマはすべての手紙を読み終えてから、すべての手紙を屋根に叩きつけた。いつも通りの手に余るブルマの怒りの声に、俺は率直に答えた。
「そんなの俺が知りたいよ」
俺にもわけがわからないんだからな。わからないことを訊かれても困るよ。
今や俺の心は、怖れよりも訝りに支配されていた。…ブルマの怒り方も、いつもと違うな。いつもはもっとこう、直截的に…
「あんたが何か言ったんじゃないの!?」
「俺が?言うって何を…」
続くブルマの言葉もわけがわからなかったが、俺は一応記憶を探ってみた。でもやっぱり、ないという事実を再確認しただけだった。
「さっぱり身に覚えがないな。だいたい、女の子となんかここしばらく話をしてないんだからな」
おまけに、手紙をくれた子はどれもこれも知らない子ばかりだ。名前にすら覚えがない。これは言うべきなのだろうか。…微妙だな。俺はもう半年以上もここにいるんだからな…
なぜなのかはわからないが、俺は異常に自信がなくなってきた。一体何の自信なのかすら、もうよくわからない始末だ。
「調子いいこと言わないでよ!」
そんな中、ブルマが叫んだ。これには俺は自信を持って応えることができた。
「だって、俺はずっとブルマと一緒にいたじゃないか」
主にサボりに付き合わされてな。だから女の子だけじゃなく、クラスメートとだって、まともに話をしていない。何もかも、ブルマに合わせて過ごしてきた。それはもう、クラスのやつらだって証言してくれたほどだ。
「でも、じゃあどうして、こんなことになってるわけ!?」
「こんなことって?」
俺は再び感心して、怒鳴るブルマの顔を見た。ひょっとして、何か読み取ったのか?うーむ、さすが都人…
「あんたねえ、いい加減に…」
あ、ヤバイ。
直感的に、俺は危険を察知した。ブルマの怒りがラブレター(のようなもの)にではなく、俺に向きつつあるのがわかったからだ。…そうだな。やっぱりブルマに訊くのはまずいよな。よくわからないとはいえ、たぶんラブレターなんだろうからな。というか、ブルマの反応からすると、間違いなくラブレターだ。しかし、何だってこんなにわかりにくいんだろうな…
そう思った時だった。それまで怒鳴る一方だったブルマの声が、いきなり沈静した。
「…あんた、ひょっとしてわかってないの?」
「……」
俺は答えられなかった。…図星だ。それに、肯定しても否定しても困るだろうことは、目に見えていた。要するに白旗だ。俺が切り抜けられる選択肢など、端から存在しないのだ。
だから、俺は打擲を受けるつもりだった。いや、もうすでに受けつつあるか。まったく不毛な展開でな。いやいや、もうそんな感覚も捨てるべき…
「で?どうするのかしらね、色男さんは?」
ふいに飛んできたブルマの言葉が、俺の思考を掻き乱した。というより、虚を衝いた。
「どうするって…」
…俺に委ねるのか?
そんなのありか?いや、普通に考えればありなのだが(俺が貰ったんだからな)、しかしブルマに限ってそんなこと…皮肉が含まれていることはわかるが(『色男』ってやつな)、この他人事のような態度は…ひょっとして、興味がない?いや、それにしては怖過ぎだったぞ…
そう、ブルマは怖過ぎ『だった』。今はもう(それほどは)怖くなかった。それで俺は少しだけ気を緩めて、自分の考えを纏めてみた。
「いいんじゃないか、放っておいて。内容もよくわからないし、何にせよ断るんだから、返事してもしなくても同じだろ。どうせ俺は今日までなんだし、そうじゃなくても知らない子ばかりだし――」
あ、言っちまった。
余計なことまで口走ってしまっていることに気がついて、俺は途中で口を閉じた。つい気が緩み過ぎた。もう少しで全部言ってしまうところだった。『面倒くさいし』――さすがにこれは、ブルマにも言えない本音だ。
俺は再び気を持ち直して、来るべき打擲を待った。よもやこれで終わるなどとは思っていない。似たようなことはこれまで何度もあったけど、そのたびブルマは同じ責めを繰り返した。それに、今回は数が数だから…
待ちの姿勢に耐える俺の前で、 ブルマは俺の言葉を無視するように、ラブレターを掻き集め始めた。さっき、自分で屋根に叩きつけたラブレターを。さすがに手紙を封筒に収めることまではしなかったが(そこまでされてはたまらん)、束ねたラブレターをとんとんと下に叩いてきっちりと揃え、妙に畏まった顔つきでそれを俺に差し出した。
「はい」
至極冷静な声と共に。ブルマらしからぬこの行為に、俺は皮肉を超えたものを感じ取った。
「…あー…、はい、どうも…」
…怖い。なぜとは説明できないが、すごく怖い。この一見なんてことのない素振りが、本当にすごく怖い…!
俺はできるだけさりげなく、渡されたラブレターの束を死角に置いた。懐には入らない。それにたぶん、入れてはいけない。何というか、試されている感がひしひしとする…
ゆっくりとブルマが距離を詰めてきた。正面から俺を見据えて、その眉を聳やかした。俺が身構えると、その手が少しだけ動いた。…うう。本当に今日はじわじわくるなあ。そう思い目を瞑りかけた時、手に触れた。
ブルマの手が。無造作な、でも痛みを伴わない動きで。振り上げられたのはブルマのではなく、俺の腕だった。ブルマが俺の右手を掴んで、自分の肩に乗せた。
「ブルマ、何…」
わけがわからず俺は訊ねた。途端にブルマが声を荒げた。
「ごめんなさいのキス!」
「え…………」
俺は一瞬、完全に呆けた。そして次の瞬間、ようやく悟った。俺は試されていたのではないということを。いつの間にか許されていたらしいということを。本当に、いつ許されたのだろう。一体どうしてこの展開で?…さっぱりわからん。
でも、許されたことは確かだ。だって、今の直截的な台詞。…本当に直截的だよな。そういえば、少し前にも同じようなこと言われたな。あの時もひどく唐突だった。しかし、いちいちそんなことやってたら、すごく大変なことになるような気がするんだが…
緊張感の反動からか、俺の気はすっかり緩んでいた。ちょっと茶化してやろうかな、などということまで考えた。でも、やめておいた。
ブルマの顔は真剣だったから。それに、まだ少し怒ってるみたいだし(眉が上がってるからな)。怒ってるのにどうしてこういうことを言うのか、やっぱりわからないが…
堂々巡りに陥っている自分に気づいて、俺は思考を止めた。まあ、いいか。したくないと言われるよりはな。矛を収めてくれたのは確かだし。…本当に、ブルマってわかりやすいな。都人は都人でも、大違いだ。だから安心できるんだよな。…最近は、もっぱら時々だけだけど。普段は全然安心できないけど。でもそれでも、肝心なことだけは、いつも確かにわかる。
そしてそれはとても大事なことだと、俺は思っている。


すごく緩やかな気持ちで、俺はブルマにキスをした。その柔らかい唇と触れ合った時、遠くにチャイムの音が聞こえた。それが少しだけ、俺の心を現実に引き戻した。
結局、また一緒にサボってしまった。きっと、そういう運命なんだよな。
俺は運命論者ではない。でも、だからこそそう思う。
ブルマは運命より強い。絶対に。
一時唇を離して、少しほろ苦い気持ちでブルマの顔を見ていると、その瞳が色めいた。…まったく、ブルマはこういうことに関しては、ひどくわかりやすいんだから。通常のわかりやすさとは別の意味で。恥ずかしくないんだろうか。
俺は少し肩を竦めて、静かに息を整えた。クラスのやつらはああ言ってたけど、さらにウーロンなんかもそう思っているに違いないが、俺の感覚は少し違う。…こんな風に敷かれるのなら悪くない。時々だけどそう思う。恋愛って奥が深いよなあ…
ブルマの聞こえない声に応えるため、俺は視界を閉じかけた。薄めた目に、同じ動作をしている青い瞳が見えた。一瞬静かになった頭の中に、音が響いた。
シュッ…
初めに耳にする前には待ち望んでいたはずのその音。ペントハウスのドアの開く音が。俺はできるだけ静かにブルマから体を離した。が、それはまったくの徒労に終わった。
「ちょっとぉ!!あんたね、いい加減に…」
どうしたって聞き逃しようのない大声が、ブルマの口から出たからだ。俺が思わず溜息をつくと、闖入者の声が飛んできた。
「おまえら、まーたやってんのかよ。本ッ当にしょうがねえなあ」
とはいえそれは、まったく驚いたところのない、聞き知った声だった。いつも通りの態度を覗かせるウーロンの姿をペントハウスの下に見て、俺は胸を撫で下ろした。…身内でよかった。不幸中の幸いだな。だが、それは一瞬のことに過ぎなかった。
「あんた何でここにいるのよ。授業は一体どうしたのよ!」
「とっくに終わったぞ。チャイム聞こえなかったのかよ」
間髪入れず、身内ならではの遠慮のない舌戦が始まったからだ。言い返さないブルマに(どうやら聞こえていなかったようだ。ブルマは時々妙に抜けてるからな。ドアの音にも気づいていなかったようだし)ウーロンがさらに畳みかけた。
「ったく、くだらないことで約束破るなよな。プーアルが見てたからよかったものの…」
「すみません、ヤムチャ様…」
ウーロンの後ろから、おずおずとプーアルが体を覗かせた。俺は苦笑しながら、その声を流した。さすが元哨戒役。目の良さはまだまだ健在だな。ここにいることは予想できなかったはずなのに、それでも俺を見つけるとは…
…いや、ちょっと待て。
嫌な予感が胸を過ぎった。俺はできるだけさりげなく、事の次第を訊いてみた。
「見てたってどこ…いや、いつから?」
プーアルにではなくウーロンに。プーアルになら構わないが、ウーロンにもバレているとなれば話は別だ。こいつは俺たちがケンカをしているとケチをつけるくせに、そうでなければそれはそれでケチをつけて、場を引っ掻き回すんだからな。最後の最後にそれをされてはかなわん。
「見られたくねえなら、どっかよそでやれよな。最後まで恥ずかしいやつらだぜ。普通に見られて困るようなことやれねえのかよ」
ウーロンの言葉は相当屈折していたが、意味を汲み取るのは簡単だった。…見てないな、これは。
俺は再び胸を撫で下ろして、ウーロンとの会話を切り上げた。これ以上話し込んで、やぶへびになりたくない。ふと隣に目をやると、ブルマが憮然とした表情で唇を噛みながら、ウーロンを睨みつけていた。おおこわ。そう思いながらも、俺は一方では感心していた。…ケンカ、買わないんだな。珍しいが、いいことだ。ブルマが口を滑らせなければ、もう完全にバレずに済む。
俺はすっかり息を抜いた。ウーロンが淡々と、プーアルがおずおずと、ペントハウスの屋根へと上がってきた。2人がここへ連れだって来た経緯など、訊かずともこの態度でわかるというものだ。大変だな、プーアルも。今だすまなさそうな顔をしているプーアルの頭を撫でてやっていると、ウーロンが出し抜けに声を上げた。
「おっ、これか。何だよ、ヤバイ写真でも隠し持ってたのか?」
「ヤバイって何が…」
反射的に問いかけて、俺は口を噤んだ。ウーロンが、先ほど死角に置いたラブレターを、思いきりわざとらしく広げ始めていた。
…あああああ!!
ヤバイ。すっかり忘れていた。ラブレターの存在を。ブルマの死角に置いた時点で、俺の心からも死角になっていた。迂闊だった…!
嫌な予感が胸に戻ってきた。もう終わったことだと思っていたのに。頼むからウーロン、余計なことは言わないでくれよ…!
「またラブレターか。よく貰うよな、おまえも」
さして中身を読みもせず、ウーロンは手紙の束を投げ捨てた。どうやら、全然興味がないようだ。よかった。そうだな、他人のラブレターなんか、何の魅力もないよな。特にウーロンにとっては尚更な。
だが、息を抜けたのも一瞬のことだった。ウーロンのラブレターへの白けた視線は、すぐさまブルマへの呆れの言葉となったのだ。
「まったく、今に始まったことじゃないだろうがよ。いちいち目くじら立てんなよな。心の狭いやつだな、おまえは」
おいおいおいおい…!
嫌な予感が居座り始めた。…やっとのことで落ち着かせたというのに。何とか許してもらえたところだったのに。まさかとは思うが、この展開はひょっとして…
ついにブルマが口を開いた。その声は、今までの沈静ぶりとは程遠かった。
「何言ってんの!貰う方が悪いんでしょ!!その上隠すなんて最低よ!どう考えたってヤムチャが全部悪いわよ!!」
やっぱり再燃した…!
ウーロンに怒鳴りつけるブルマの顔は、先ほどラブレターを叩きつけた時とそっくりだった。一度見た顔。聞いた声。しかしそれに慣れられようはずもなかった。
「またたいして話も聞かずに決めつけてんだろ。おまえはいっつもそうなんだからな」
「そんなのもう十分聞いたわよ!!」
一度は治まっていた舌戦が、再び開始された。俺は仲裁することもできず(絶対にやぶへびだ)、かと言ってこの場を離れるわけにもいかず(これも違う形でやぶへびだ)、ただただ事の成り行きを見守っていた。プーアルと共に。そう、プーアルだけは、どんな時でも俺の味方だ。正確に言うと中立かな。しかしこの2人の間では、その中立を守るのさえ大変だ。苦労かけそうだな、プーアルには…
「だったら怒ることないだろ。どうせ断るんだからよ。勿体ない話だよな。何だってヤムチャはおまえなんかが好きなんだろうな。物好きもいいところだぜ」
「ちょっと、何なのよそれは!!」
ああー、もうやめてくれ、ウーロン…!
さすがに俺はいたたまれなくなってきた。プーアルの顔を見ることすら、今では厳しい。一人でどこか遠いところへ行きたい…
そう思った時だった。いきなりブルマが立ち上がった。眉も肩もそびやかしたまま、ペントハウスの梯子へ足をかけた。…おい、まさか…
嫌な予感に身を絡め取られた俺の横では、ウーロンがまるっきり他人事のような顔をして、梯子を下りていくブルマを眺めていた。今や結果だけを押し付けられてしまったことに、俺は気づいた。
ヤバイ。何とかしてブルマをとめないと。でも、どうやって?…まさか、もう一度さっきのやり取りを繰り返せというのか?そんな…!
屋根の端から身を乗り出すと、まさにドアコンソールに手を伸ばしているブルマが見えた。今日何度も想像してみたその姿。だがその後に起こったことは、想像とは全然違っていた。
当然のように開けたドアを、ブルマは潜らなかった。その口から出てきたのは、捨て台詞ではなく溜息だった。一拍の後にポケットからツールナイフのようなものを取り出して、ドアの側面を弄り始めた。展開の読めなさに俺が呆然としていると、ウーロンが隣へとやってきた。
「何やってんだよ、おまえ」
「ロックを直すのよ。これ以上不躾なやつが入ってこないようにね!」
訊ねるウーロンの声に戦の気配はなかった。答えるブルマの顔にも。余韻はあったが。ブルマのやつ、思いっきり皮肉言ってるし。しかし、さっきの雰囲気に比べれば断然平和だ。一体どういうことだ?…それほど怒ってなかった?…そうかもしれない。俺、ちょっとビビり過ぎなのかな。敷かれ慣れ過ぎたのかも。そうだな、俺は男なんだからもっと大きく構えるべき…
微かな違和感を振り払って、俺は浮かせていた腰を落ち着けた。ブルマの皮肉も素知らぬ顔で、ウーロンがさらに身を乗り出した。
「ロック?ああ、そういえば外れてたな」
図太いな、ウーロンは。いっそこの態度を見習おうかな。そう思い足を崩しかけたところ、下から強い声が飛んできた。
「外れてたんじゃなくて、壊したのよ、ヤムチャが!」
げっ。そっちもバレてるのか。
意識と無意識の両方で、俺は身を縮ませた。どうしてバレたんだ?壊れてるのはともかく、なぜ俺がやったことだと…ブルマは中等部校舎にいたんだから、絶対に見てないはずなのに。…うーむ、わからん。だいたい、今の今まで何も言わなかったのに…
「おまえも案外無茶苦茶なことをするやつだな」
「……」
それまでブルマに向けられていたウーロンの白けた視線が、今度は俺に向けられた。俺は答えられなかった。『バレないと思ったから』…ダメだ。浅はか過ぎる。さらに突っ込まれること必至だ。やっぱり開き直るなんて、俺には無理だ。特に今日は、いろいろと分がない。最後だってのに、まったくなあ…
俺の身はさらに縮んだ。眼前と眼下から浴びせられる白けた視線に黙って耐えていると、ふいに声がかけられた。
「ところでヤムチャ様、お昼はどうしますか?」
まるで何事もなかったかのように俺を慕うプーアルの声。…ああ、なんてかわいいやつなんだ、こいつは…
心がプーアルへの慈愛で満たされた。一方で何と答えるべきか迷っていると、またもや下から声が飛んできた。
「面倒くさいから、ここで食べましょ。ヤムチャ、お弁当取りに行くわよ」
「ああ、うん…」
腰に手を当て命ずるように言うブルマに、俺は反射的に頷いた。特に否定するべき理由はなかった。それにもう…
否定する気力も、なかった。


昼休みの廊下は生徒たちで溢れていた。校内に響く、ざわざわとした耳鳴りのような騒がしさ。 途切れない人の流れと笑い声。
「ドアのロックくらい、言ってくれれば開けるのに。どうして言わなかったのかしらね、色男さんは?」
――それらを掻き消すように放たれる、ブルマからの間接的な嫌味の言葉。…うう。返す言葉がない。空っ惚ける手も、もう使えない。逃げるなんて、もってのほかだ。
「もう隠すのやめなさいよ」
「はい…」
少しだけ棘を含んだその声に、俺は心の底から頷いた。結局最後は怒られるのなら、最初から素直に怒られよう。その方が、無駄に神経をすり減らさずに済むようだ…
それで納得したのかどうかはわからないが、ブルマはそれ以上突っ込んではこなかった。俺を見る目も、(それほどは)怖くない。だが、依然として俺の肩身は狭かった。
時折向けられる周囲からの視線が痛い。特にクラスのやつらからの。ついさっきまでは何とも感じなかったのに。…知らない方がいいことってあるんだな。
俺はできるだけさりげなく、自分の肩身を狭くしている隣の彼女を覗き見た。ブルマは周囲の視線などどこ吹く風で、大歩きで廊下を進んでいた。…これで尻に敷いてないと思うわけがないよな。いかにもって感じだもんな。そう思いながらも、それを正そうという気持ちは俺にはなかった。
もうそんな段階じゃない。うまく説明できないが、そうは思えないほどに俺は慣らされてしまった。ブルマが最後まで尻に敷きっぱなしなら、また違うのかもしれないが。でも何となく、最後はそうじゃないからなあ…
逆だったらいいのに。うまいことやるよな、ブルマのやつも。
誰にも言えない本音を呑み込んで、俺はロッカーに手をかけた。その瞬間、気がついた。女の子からの視線も、結構痛いことに。いつもも少し痛いけど、今はいつにも増して痛い。何だろう。だいぶん慣れたつもりだったのだが、やっぱり慣れてなかったってことかな…
「…あ」
ロッカーのドアについている僅かな凹みを目にした時、ふいに俺は思い出した。思わず声を漏らすと、やや離れたところで自分のロッカーを弄っていたブルマが、眉を顰めてこちらを見た。
「何よ。またラブレター!?」
「いや、違う違う」
限りなく怒声に近いその声を、俺は慌てて否定した。だが次の瞬間、思い直した。…違わないかもしれん…
「じゃあ何よ。プレゼント!?」
「違うって…」
ブルマはしつこく食い下がった。さらに俺が否定しても、その眉は下がらなかった。疑い深いな。そんなに信用できないのかな。いや、この流れで信用しろっていう方が無理か。でも、もう少し声を抑えてもらえるとありがたいんだけど。
とはいえそれきりブルマが口を噤んだので、俺は少しだけ息を抜いてロッカーのドアを開けた。途端に視線が強まった。それで俺は、完全に確信した。
なんとも迂闊だった。俺が無視したくとも、あっちはそうじゃないもんな。返事を貰いたいに決まっている。一度にこんなにたくさん貰ったことなんてなかったから、今まで気づかなかったけど。――催促の視線。おそらくそれに違いない。
俺は心の中で頭を抱えた。気持ちがすっかり戻っていた。ラブレターを開封したあの時に。…面倒くさいなあ。だって11人もいるんだぞ。やっぱり一人ずつ対処しないとダメだよな。しかし、あと2限で全部回りきれるだろうか。ここは一つ穏便に、流してくれないものだろうか。…いや、たぶんダメだな。そういう余裕のありそうな視線じゃないもんな…
ひとしきり考えて、俺は心を決めた。そしてそれを口に出した。
「…なあ、俺、飯食ったら帰ろうと思うんだけど」
俺の肩身を狭くする彼女に向かって。決定ではなく、承諾を求める言葉として。ブルマは何だか気の抜けたような顔をして、呟くように訊いてきた。
「何で?」
「ちょっと視線が痛いから。ほら、ラブレターくれた子からの様子見がさ…」
正直なところもうこの話には触れたくなかったが、俺は思う通りを口にした。今、怒られたばかりだし。それに、俺はわかり始めていた。
思えば俺は、ブルマに連れられてこのハイスクールへやってきた。初めから、ブルマに連れられてこの廊下を歩いていた。
結局、そういう運命なんだよな。
数拍の後に、ブルマから答えが返ってきた。俺の思っていた通り、その眉は上がっていた。
「いいわよ。帰れば?最後くらい自分の好きなようにしなさいよ」
だが、その言葉は思っていたものとは違っていた。こんなにあっさりOKされるとは思わなかった。具体的には思いつかないが、絶対に何か文句を言われると思っていたのに。ひょっとして、絶対無視の始まりか?俺、そんなにまずいこと言ったかな。
そう考えたのも一瞬のことだった。次に出てきたブルマの声が、俺の疑問を解かした。
「あんたが帰るなら、あたしだって帰るわよ。何が楽しくて、こんな日に真面目に授業受けなきゃなんないのよ」
不機嫌そうに言うブルマの顔を見て、俺は胸を撫で下ろした。どうやら怒ってはいないらしい。いや、怒ってはいるのだが、何というかいつもの怒りだ。本気で怒っていたら、こんなこと言わないだろうからな。それにしても不思議だ。滅茶苦茶な言い分なのに、ブルマが言うと妙に説得力を感じる。…いかんなあ。いくら何でも、慣らされ過ぎだ。
「ひさしぶりに映画観よっかな。それからショッピングね。今、春のバーゲンやってるのよ。それとも夏物、もう買っとく?」
屋上へと向かいながら、ブルマは延々と言葉を繋いだ。平常を取り戻した心の中に、呆れがじわじわと広がり始めた。
…俺、遊びに行くなんて言ってないのに。そりゃ、サボりはサボりだけどさ。それにしても、都風の服はしばらくいらないと何度言ったら…!
ブルマの言葉が誘いではなく決定なのはあきらかだった。少し強く言ってみるべきなのかもな。そうだな。どうやらまともに諫める気があるのは、俺だけのようだし。ウーロンは逆撫でするばかりだし、ブルマの両親はそういうこと言わなさそうだし。プーアルにそれをさせるのはかわいそうだしな。
ひとしきり考えて、俺は心を決めた。…ブルマの傍を離れたら、そうしてみよう。言っても間が開くとなれば気も楽だ。それに、今日のところはちょっと無理だ。
とにかく分がなさ過ぎる。最後だってのに、まったくなあ…


こうして、俺のハイスクールでの最後の一日は流れていった。何とも言えない感慨と共に。
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