泳歩の女
初めにその話を聞いた時、俺は不思議に思ったものだ。
「退治しなくていいんすか?」
クリリンが俺に先駆けてそう訊いた。武天老師様からの答えは、いま一つ俺たちを納得させないものだった。
「それはせんでほしいとのことじゃ。そのサメたちは通常、人間に悪さはせん種らしい。ただまったく無害とも言い切れんでな、それに『ビーチにサメが出る』というのも人聞きが悪いからの」
「つまり、ビーチから叩き出せと…」
「そういうことじゃな。ただし、他の人間には知られぬようにじゃ。今のところサメの出る水域は遊泳禁止にしておるそうじゃが、どうにも客の入りが悪いらしくての」
生温いな。正直なところ、俺はそう感じた。理由も生温ければ、方法まで生温い。そしてそれは、クリリンも同様であったようだ。
「やっつけた方が早いんじゃないっすか?おれとヤムチャさんなら、造作もないことですよ」
俺が無言で頷くと、老師様が僅かに眉を寄せた。叱責というには程遠い窘めの言葉が、その口から呟き漏れた。
「ダメじゃ。言うておくが、攻撃してはならんぞい。血が流れればたちまち他のサメたちが臭いを嗅ぎつけ、大騒ぎになってしまうじゃろう。ま、湖での修行が海に変わったと思うんじゃな」
「わかりました」
俺とクリリンは声を合わせてそう答えた。おそらくは心も合わせて。
…やっぱり、生温いな。


常夏にも夏はある。じりじりと照りつける強烈な日差し。ざわめく葉音と共に吹き寄せる熱風。いつにも増して暑い夏が。
午前の修行を終えて脱いだシャツを絞ると、汗がぼたぼたと滴り落ちた。少し離れたところには逃げ水。飲めない水に喉を鳴らしてカメハウスへ体を向けると、その手前にまさに今降り立たんとしているエアジェットが見えた。
「今日って休日だったっけ?」
隣では兄弟子が、俺と同じようにシャツで水溜りを作っていた。ぞんざいな俺の問いかけに、クリリンもまたぞんざいに答えた。
「ブルマさんが来たってことは、そうなんじゃないっすか」
「…俺たちって、曜日感覚ないよなあ」
俺とクリリンがカメハウスへ辿り着いた時には、すでにエアジェットはカプセルと消えていた。何を言う間もなく、ハウスの前から声が飛んできた。
「ちょっと、何よその格好。みっともないわねー!」
「今が一番暑い時分だからな」
「だからって、レディの前でくらい慎みなさいよ。あんた、マナーがなってないわよ!」
レディだったらいきなり怒鳴りつける前に、言うべきことがあると思うが。挨拶とかな。
当然、その言葉は呑み込んだ。そして当然、俺はシャツを着なかった。
「暑い時に服を脱ぐのは動物の本能だぞ」
なんとなく話を繋ぎながら、そのレディの装いに目を向けた。ブルマの格好はいつになく控え目だった。首に沿わせるように低く垂らした緩めの三つ編み(これちょっとかわいいな)。明るいブルーの、珍しく胸元を晒していないトップス。これまた珍しく足を露出していない、ノースリットの白いパンツ。この時期着ているのを見たことがない、ざっくりとしたジャケット。
ははあ、厚着してきたな。その気持ちはわからなくもない。しかし、いくらなんでもそのジャケットは…
「ブルマさん、そんな格好してて暑くない――」
「午前の修行はもう終わり?亀仙人さんは?」
俺に先駆けて発されたクリリンの声は、当然のように無視された。きょろきょろと辺りを警戒するようにジャケットを掻き合わせるブルマの仕種に俺が苦笑していると、クリリンが再び口を開いた。
「武天老師様なら隣町の方とサメの件で…あ、ブルマさんも何かご用ですか?」
「まさか。そんなわけないでしょ!!」
唐突にクリリンを怒鳴りつけてから、ブルマは荒っぽくカメハウスのドアを開けた。それはもう乱暴な手つきだった。…八つ当たりするなよ。まったく、これほど淑やかさに欠けるレディを、俺はかつて見たことがない。
ま、俺はレディが好きってわけじゃないから、別にいいけどな。


頭と顔に冷水を浴びせて、ラバトリーを後にした。シャワーを浴びるなんて面倒なことはしない。どうせ後で潮に塗れるんだ。
冷たいタオルを火照った体に当てながらリビングへ顔を出すと、ブルマがテーブルに突っ伏して死んでいた。
「…………あつ〜い…………うしてここにはエアコンがないのよ…」
正確には虫の息といったところか。口から出る文句もいつもの機関銃声ではなく、だらしなく前に投げ出した両腕の隙間からかろうじて聞こえた有様だ。
「上着をお脱ぎになってはどうですか?家の中にいれば、それほど陽には焼けませんよ」
本人以外の誰もが思っているであろうことを、ランチさんが口にした。女性ならではの観点から。それに対するブルマの態度は、非常におざなりなものだった。
「…そうね〜…」
そうねと言いながらも、一向に脱ぐ気配を見せない。ただひたすらにテーブルに突っ伏して、恨めしそうにグラスを伝う水滴を見ている。強情だなあ。
気持ちはわかるけど、あまり無茶しないでほしいな。常夏の夏を甞めるなよ。鍛えてる俺たちだって、暑さ対策には気を遣ってるんだから。そこへいくとブルマなんか、ひ弱な都会っ子のくせに。
「熱中症になっちゃいますよ」
「熱失神したら大変だぞ」
ほとんど間をおかずに、俺とクリリンは似たようなことを口にした。ブルマの心理がよりわかっていたぶん、俺の方が少しだけ具体的だった。どれほど厚着をしてみたって、熱中症になればどうせ脱がされるんだ。熱失神なんかしたら、さらに水に浸けこまれる。実際に俺は今さっき、犬を一匹湖の浅瀬に放り込んできた。動物はそのまま乾かせば済むけど、人間はそうはいかないからな…
さすがにそこまでは口に出せずにいると(なんか思い出させる話だよな)、ブルマがおもむろに顔を上げた。そして不貞腐れたような顔をして俺を見た。何やらぶつぶつ呟きながら、ジャケットを脱ぎ始めた。…やれやれ。
俺は軽く肩を竦めてから、いつの間にか置かれていた水煎茶に口をつけた。本当にいつの間に置いたんだろう。大人しい方のランチさんも、時々意外と隙ないよな。だからこそなんだろうが…そう思った時だった。
「…ゃあああぁんっ!」
どこからともなく、ものすごく色っぽい叫び声が聞こえてきた。…いや、どこからともなく、じゃない。俺は思わずまじまじと、再び死んだようにテーブルに突っ伏している女の子の耳横頬を見た。
「…ブ、ブルマ?」
「いきなり何すんのよ、このセクハラじじい!!」
俺の呼びかけは、当然のように無視された。ブルマはものすごい勢いで顔を上げ、片手に掴んでいたジャケットを後ろに向かって投げつけた。その先にある顔を見て、俺は思わず息を呑んだ。
…武天老師様…!
「何、予行練習じゃよ。オイルを塗って肌を焼く時のな」
「必要ないわよそんなもの!!」
「何を言う。夏は海じゃろ。小麦色の肌じゃろ。そんなモモヒキみたいなもの穿いとらんで」
「これはサブリナパンツっていうのよ!」
まったく他者を寄せつけない勢いで、ブルマと老師様の舌戦が始まった。再三息を呑みながら、俺はそれを見守った。今では俺は、ブルマと老師様の戦いは、ウーロンとのそれよりも厄介だと思い始めていた。ウーロンと違って老師様はのらりくらりとかわすので、戦いが長引くのだ。それにまさか師匠に向かって『まあまあそのへんで』などとも言えないし。そもそも口を差し挟みたくない。すでに俺にはわかっていた。何があったか知らないが、あまり知りたくない何かがあったということが。…本当に何があったんだろう。ブルマのあんな声、聞いたことないぞ…
意識と無意識の両方で、俺は体を引いていた。クリリンもまた同じようにしていた。無言のうちに傍観を決め込んでいた俺たちだったが、そのうちそうもいかなくなった。
「だいたい海って何よ、海って。修行中でしょ、あんたたちは!!」
ブルマが瞳に炎を揺らめかせて、俺とクリリンを見たからだ。…ヤバイ。師匠のとばっちりが、俺たち弟子にも回ってきた。
「い、いえ。だから修行ですよ。今、サメ追いのバイトやってるんすよ、おれたち。今日でもう5日目に…」
「そうそう、隣町のビーチでな!」
俺とクリリンは揃って事実を口にした。俺たち弟子に非はない。汗水垂らして真面目に修行してるんだから、師匠と一緒くたにしないでくれ…!
その願いが神に通じたのかどうかはわからない。だがとにかく、ブルマは口を噤んだ。それで俺は、新たな火種が投げ込まれないうちに、さっさと先を続けることにした。
「で、老師様。どうするんです、この修業、まだやるんですか?」
「当たり前じゃ。まだまだ続けるぞい」
「このままでですか?」
「このままじゃ」
今やすっかり師匠の顔となって、老師様は答え続けた。老師様が本来の姿を取り戻してくださったことに感謝しながらも、俺は呆れずにはいられなかった。
「このままって言われてもなあ…、クリリン?」
相槌を求めてではなくただ場の雰囲気を和らげるためだけに、俺はクリリンに水を向けた。クリリンが俺と同意見であることははっきりしている。さっきもさりげなく言っていた。『もう5日目』と。5日もやってまるで状況が変わっていないのに、まだ現状維持を図るとはな。田舎の人間も都人に負けず劣らず温いんだから…
「ねえ、それって何なの?」
ふと、ここにいる唯一の都人が口を開いた。決して温いとは言い切れないブルマの声音は、さっきまでとは一転して緩やかになっていた。どうやら完全に矛を収めたようだ。神様、ありがとうございます。
俺が心の中で神に感謝すると、現実世界で武道の神様が口を開いた。
「隣町のビーチに近頃サメが出るんじゃよ。それで海水浴客が減っておってな。武道家であるわしらにどうにかしてほしいという話じゃ」
「ふーん…」
「じゃから、午後からはビーチに行くぞい」
師匠というよりは気のいい老人の声で、武天老師様が宣告した。ブルマはもう何も言わなかった。
「さてランチちゃん、準備はできとるかの」
「ええ、お弁当も飲み物も、もう用意してありますわ」
いつものようにのんびりと、老師様がランチさんに顔を向けた。いつものように穏やかに、ランチさんがそれに答えた。今やカメハウスはすっかり、いつもの空気を取り戻していた。よかったよかった…
俺とクリリンはいつもと同じように、揃って腰を上げた。修行の支度をするためだ。自室へ向かうべく階段へと足をかけると、背後から朗々とした老師様の声が聞こえてきた。
「ブルマちゃんは水着の用意しておらんじゃろ。よかったら亀仙流の水用道着を――」
「着るか!!」
鋭い怒鳴り声が、それを途中で遮った。俺が思わず振り向くと、ブルマが思いっきり老師様の頭をグーで殴りつけていた。脊髄反射で一歩を引いて、俺はそのまま階段を上った。
「ブルマさん、よろしかったらわたしの水着をお貸ししますわ」
ランチさんがにこやかに、場を治めようとしていたからだ。元より男には立ち入り難い話題だし。それになにより、ものすごく覚えのある展開だ。老師様も懲りないよなあ。…などと流しかけている自分が怖い。
いつの間にか俺は、武術のみならず、心臓と社交術も鍛えられているようだ。


武着の下に水着を着込んで、再びリビングへ顔を出した。続いてクリリンがやってきても、老師様は腰を上げようとはしなかった。
紅二点が揃っていなかったからだ。すでに準備を終えた一点がみなのグラスに2杯目の冷茶を注ぎ終えると、一向に降りてくる気配のない一点のいる階段の上へと向かってウーロンが叫んだ。
「おーい、まだかよー?早くしないとおいてくぞー」
「うるっさいわね!!今行くってば!ちょっとくらい待てないの!?」
やはり気配はなかったが、返事はすぐに返ってきた。間近に聞いたウーロンの声よりも、数段大きな怒鳴り声が。ウーロンはわざとらしく口を尖らせて、どことなく意味ありげな目つきで俺を見た。
「聞いたか?今の荒っぽい言い方。かわい気ないなんてもんじゃねえだろ。あいつ、おまえがいなくなった途端ずっとあんな調子でよ。もともと薄かった化けの皮が剥がれまくりでまいるぜ」
俺は何も言わなかった。…何と言っていいのかわからん。
黙ってグラスに口をつけると、少し離れたところで老師様の相手をしていたランチさんが、穏やかな声で言った。
「きっとお淋しいんですわ、ブルマさん」
「淋しい?はっ、あいつがそんな珠かよ。あいつはいつだって他人のことなんかお構いなしに、何だって自分の思い通りにしようとするやつだぜ」
俺はやっぱり何も言わなかった。正直言って、ウーロンの言う通りだと思った。でもだからといって、何か思うところがあるわけじゃない。そういうブルマに、俺はもう慣れてしまっていた。そういうところが好きとまでは思わないが、今さら文句をつける気も起こらない。そして、ウーロンのこういう台詞にも、敢えて突っ込もうとは思わない。何もかもいつものこと…
つまるところたいした感慨もなく、俺はウーロンの話を聞いていた。だがその気持ちは次の瞬間、少しだけ崩された。ウーロンが珍しくも粛然と目元を引き締めたからだ。
「だいたい、あいつはおまえがいないのをいいことになあ――」
「ちょっと、ウーロン!余計なこと言わないでよ。あんたは自分のことだけ心配してればいいのよ!!」
だが、その一瞬感じた意外な気持ちも、次の瞬間崩された。先ほどまでの警戒心はどこへやら、上着の前も合わせずに、控え目には程遠い水着姿で、ブルマが階段の下に仁王立ちになっていた。
「言われて困るようなことしてんなよ」
「あたしは何もしてないわよ。だけど、あんたが言うとそう聞こえないのよ!」
「屁理屈女」
「お喋り男!」
「けっ」
「ふん!」
止める間もなく始まったブルマとウーロンの舌戦は、止める間もなく勝手に終わった。2人同時に鼻息荒く顔を背けるという結果で。…早い。早過ぎる。確かにちょっと、ブルマは荒っぽいな。俺がC.Cにいた頃のこの2人のケンカは、これほどの短期大決戦じゃなかった…
「あー…じゃあ行きますか、老師様」
やや呆然としながらも、俺はとりあえず先陣を切った。他のみんなが、俺以上に呆然としているのがわかったからだ。老師様もクリリンも、ランチさんもウミガメも、慣れているはずのプーアルも、誰もがブルマとウーロンの言い合いに呑まれていた。
「やれやれ、待ちくたびれたぜ」
みなの動きを止めた張本人の一方が、真っ先に動いた。ウーロンは大げさに膝を打つと、すぐに場の空気を蘇らせた。…過去へと向かって。
「それにしても、おまえその格好で行くのかよ。ビーチったって、隣町なんだぞ」
「いちいちうるさいわね。そんなわけないでしょ。これからホットパンツを穿くのよ!」
言うが早いか、ブルマは言葉通りのことをした。どこからともなく丸めた服を取り出して、その場で穿き始めたのだ。それはいつも以上に肌も露わなデニムのショートパンツだった。…なるほど、確かに化けの皮が剥がれているな。さっきまであんなに厚着してたのに、今じゃまるでお構いなしだ。おまけにこの無神経さ…
俺は少しだけ考え込んで、すぐに気分を持ち直した。
いや、まあ別に問題ないかな。本質的には変わっていない。というか、むしろこっちが本来の姿だ。…だからといって、何も感じないわけではないが。
それきり2人の会話は止まった。どうやら今度こそ本当に、戦は終わったようであるらしい。何とも言えない雰囲気の中、ランチさんがテーブルの上のグラスを片づけ始めた。それを合図に、一部の空気が動き出した。老師様はワゴンカーのカプセルを手に、カメハウスの外へ。ウミガメは一応の戸締りの確認を。何を気にすることもなくいつも通りに構えるC.C組を尻目に、俺はクリリンと2人、キッチンへ向かった。そこでランチさんからバスケットを受け取ってから、いつもの儀式をした。
「よーし、いくぞクリリン!」
「いいですよ。準備OKです」
サメ追いの修行に入る前の前哨戦。謂わば精神的組手だ。
「ジャーンケーン、ポンッ…あっ!」
「はい、ヤムチャさんがドライバーですよ」
特にルールを決めていないはずのこの組手は、今回も一回勝負で終わった。
「くっそ〜。またかよ」
「ヤムチャさん、ジャンケン弱いんだから」
「ちくしょう…」
1勝8敗。俺はその戦績に歯噛みしながら、バスケットをワゴンの荷物室に放り込み、ドライバーズシートへ乗り込んだ。別に運転するのは嫌じゃないけどさあ、もう少しどうにかならないものかな。ジャンケンって、勝機は平等にあるはずじゃないのか?
「えっさ、ほいさ」
イグニッションキーを差し込むと、ウミガメがちょうど車脇に到着したところだった。スロープステップを稼働してやると、車外からいつもの台詞が飛んできた。
「では行くぞい。道筋はこれまで通りじゃ」
「は…」
いつものように揃って答えかけた俺とクリリンの声は、続く老師様の声に遮られた。
「さて、運転は弟子たちに任せておくとして、ランチちゃんとブルマちゃんはわしと一緒に最後列に――」
「乗らないわよ!!」
紅二点の一方が鼻息も荒く叫んだ。もう一方はというと、何も言わずに最後列に乗り込んでいた。邪気のない笑顔を覗かせて。一見、まったくの丸腰で。
「この車は最後列が一番快適なんじゃぞ。レディファーストじゃ。ささ、遠慮せんと」
「そんなこと言って、みえみえなのよ!!」
もはや自然にも感じられる流れで、ブルマと老師様の舌戦が始まった。俺は溜息を呑み込みながら、それが終わるのを待った。
やれやれ。もう少しどうにかならないものか。ブルマも武天老師様も。いや、ブルマは悪くないよな。…一応は。問題は老師様だ。いくらランチさんに手が出せないからといって、さっきからブルマ一人に絡み過ぎ…
「まったく、エロじじいなんだから!」
数分間の激闘の後、武天老師様が最後列に、2列目にブルマが収まった。言葉と共にブルマがドアを締めたので、俺はようやくイグニッションスイッチをオンにすることができた。
「じゃあ、行きますよ」
「発車オーライじゃ」
だが、そこからアクセルを踏むまでの時間がまた長かった。まさにそうしようとした瞬間、終わったと思っていたブルマと老師様の戦いが、再開されたのだ。
「ちょっと!お尻触らないでよ!!」
「はて、何のことかの」
「惚けないでよ!今、シートの隙間からお尻触ったでしょ!」
結局は被害を受けたらしいブルマの怒りの波動が、前席の俺にまで響いてきた。さりげなくシートを前にずらしながら、俺は再びそれが終わるのを待った――
「ちっとくらいいいではないか」
「いいわけないでしょ!!」
「とんでもないじいさんだな…」
「ちょっとウーロン、紛れて触ってんじゃないわよ!プーアル、ウーロンと席代わって!!」
――のだが、いつになっても戦が終わる気配はなかった。それどころか戦線は拡大しつつあるようだった。俺は溜息を呑み込みながら、一つ断を下した。
「…もう本当に行きますよ?」
言い捨てて、即行でアクセルを踏んだ。このままでは、どこまでエスカレートするかわからない。いつになったら出発できるのかもわからない。この上はさっさとビーチに到着して、早いとこ老師様を車から降ろしてしまおう。ビーチに着いてしまえば他にも女の子がいっぱいいるから、ブルマ一人に執着することもないはずだ。ウーロンだってどうせ似たようなものなんだから…
この場を流してしまうことに、俺には何の躊躇いもなかった。…ただちょっと、師匠の性癖に確実に慣れつつある自分が怖かった。


カメハウスが後方の視界から消え去ると、老師様とウーロンは落ち着いた。2人ともまるで何事もなかったかのように、のんびりと窓の外を眺めていた。それをフロントガラス越しに確認しても、俺の心は落ち着かなかった。
…ブルマだ。
ブルマの怒りの残照が、俺の心にひしひしと響いてくる。口に出して怒っているわけではないから他のみんなはあまり気にしていないみたいだが、俺は思いっきり気にするぞ。俺はブルマの真ん前に座ってるんだからな。これまではたいてい隣にいたからわからなかったけど、この後ろからの威圧ってかなりくるものがあるな。無言なだけになおさらだ。
やがて右手に海が見えてきた。左手には、慣れ親しんだ田舎の風景。正面の青空に浮かぶ太陽の光に耐えかねてサンバイサーを下ろした時、その威圧者の声が聞こえてきた。
「なかなかきれいな海じゃない。それに結構人もいっぱい来てるのね」
その声に怒りの余韻はなかった。それで俺は少しだけ息を抜いて、一時緩めたワゴンのスピードをそのままにしておくことにした。
「海水浴場ですからね」
「この田舎の一体どこに、こんなに人がいたのかしらね」
少しばかり懐かしい気持ちになりながら、俺はブルマとクリリンの会話を聞いていた。まるで、過去の自分を見ているようだ。
「で?サメはどこにいるわけ?」
「奥の入り江のロープの向こう側ですよ。あの白い家が浮いてる手前辺りです」
「…家?」
「ほら。あれですよ」
一瞬会話が途切れた。身を入れて指し示すクリリンの姿をフロントガラスの中に認めて、俺は思わず苦笑した。
うーん。この距離じゃ、まだブルマにはわからないんじゃないかな。プーアルにならわかるかもしれないが。
「何あれ。本当に家なの?どうしてそんなものが海の真ん中にあるの?」
「休憩所か何かだったらしいですよ。今は完全に廃屋ですけど」
「ふーん…」
思った通り訝しげなブルマの声を聞きながら、俺はその隣にいるはずのプーアルをフロントガラスの中に探した。プーアルの哨戒能力を確認することはできなかった。すっかり眠りこけていたからだ。その後ろでは老師様も、うつらうつらとしていた。
害のある人間と害のない人間を起こさないよう、やがてやってきたカーブを慎重に切りながら、少しだけワゴンのスピードを上げた。ここにきて、俺はようやくいつものドライブができるようになっていた。
もうすぐ到着なんだけどな。…遅過ぎるよな。

いつもの場所にワゴンをとめると、計ったように老師様が目を覚ました。きっと習性だ。その口から出てきた言葉は、俺たちにとっても習性だった。
「さて、まずは何はともあれ弁当じゃな」
腹が減っては戦はできぬ。睡眠は健康の素。この2つを、俺たち弟子は言葉と態度の両方で、老師様に叩きこまれていた。悟空なんか素でそんな感じだったからな。結構、説得力あるよな。
ウミガメとプーアルがビーチマットを、クリリンがビーチパラソルを、それぞれワゴンの荷物室からおろした。自然、俺は残る荷物へと手を伸ばした。途端にランチさんと目が合った。
「…あ。いいですよ、ランチさん。バスケットは俺が持っていきますから」
「あら、ありがとうございます」
ごく自然な笑顔を零すランチさんに、俺は必要以上の笑みを返した。心中非常に複雑な気持ちを抱えながら。…あれ以来、ランチさんに妙に低姿勢になってしまう自分が哀しい。まあ、これは俺だけに限らないようだが。
いそいそと支度を調えるカメハウス組の姿を遠くに見てから、俺は隣の女性へと視線を移した。
一体どうなっているんだろう、女性の服の構造は。それから精神も。こんなににこやかに笑っていても、きっとどこかに隠し持ってるんだよな、銃を。…別に怪しげな膨らみとかはないんだけどなあ。どこからどう見たって丸腰だ。不思議だなあ。…そういや、ブルマもさっきいきなり服を取り出していたな。あれはどういう仕掛けなんだろう。後で訊いてみるとするか。
「どうかなさいましたか?ヤムチャさん」
「い、いえ、別に…」
不思議そうに俺を見るランチさんの視線を避けてビーチマットへバスケットを運んでいくと、そこにはすでに立派な海水浴客の一団ができあがっていた。いつもはいないC.C組の存在が、いつにも増してその雰囲気を濃厚にさせていた。
「はぁー…」
息を吐いてビーチマットの端へ腰を下ろすと、武天老師様が俺の足元に杖を打ち下ろした。
「なんじゃヤムチャ、情けない声を出しおって。修行はこれからじゃぞ」
「あ、すいません。…ちょっと運転に疲れまして」
できるだけ角が立たないように、俺は本当のことを言った。すると近くにいたクリリンが呆れたように俺を見た。
「いいんですよ、ヤムチャさん、別におれが運転しても。おれの方がこの辺りには慣れてるんですから。何もいちいちジャンケンなんかで決めなくても…」
「何を今さら。初めにジャンケンしようって言い出したのはおまえじゃないか」
「それはそうですけど。ヤムチャさん、あまりにもジャンケン弱いから」
クリリンが言葉を切ると、老師様が杖を手放した。そしてビーチマットに座り込みながら、師匠ではなくお茶目な老人としての顔を覗かせた。
「なんじゃおぬしら、そんなことしておったのか。で、どちらが優勢なんじゃ?」
「おれが8勝1敗で、今のところ圧勝です」
「ぐぐ…」
淡々と言うクリリンの言葉に、俺は思わず歯を喰いしばった。確かにそうなんだけどさあ。そんなにはっきり言うことないじゃないか。
自分でもわかっていただけに、俺の自負心は傷つけられた。さらに武天老師様がその傷を抉った。
「なんじゃい、その極端な結果は。ヤムチャおぬし、どうやらちと勝負弱過ぎるようじゃの。気合が足らんのと違うか?」
ここぞとばかりに師匠っぽさを漂わせながら。ひどいなあ、老師様。いくらなんでも、それはあんまりじゃないですか。
「そんなことありませんよ。クリリンは俺の心理を掴んでいるだけです」
俺は迷わず反論した。それこそ、気合を見せつけるために。それに対しクリリンは、思いっきり気の抜けた顔をした。
「なんすか、心理って」
「ほら、俺たち、何となく気が合うじゃないか。だから出方を読みやすいんだよ」
「でも、それはヤムチャさんも同じでしょ」
淡々とクリリンが突っ込んだ。俺は再び歯を喰いしばった。…返す言葉が見つからない。
「とにかく、ジャンケンは続けるぞ。この修業が終わるまで。そして、俺たちの勝負が五分になるまでだ」
「そんなにがんばらなくてもいいのに…」
「言っておくが、手は抜くなよ」
俺がクリリンに気合いを入れてやった時、目の前にキャンピングカトラリーが滑ってきた。なんとなく途切れた会話の隙間に、紅二点の声が入り込んできた。
「たくさん作ってきましたから、遠慮なく食べてくださいね。ブルマさん、ストロベリーサンドイッチはお好きですか?」
「あっ、うん。大好き!」
視線をそちらへ転じると、一も二もなくといった感じで、ブルマがランチボックスに飛びついていた。今日初めての、満面といってもいいその笑顔。…相変わらず読んでいるな、こっちのランチさんは。そして、ブルマも実に素直に読まれている。
その時、ウーロンの台詞が脳裏に響いた。
――『あいつはいつだって他人のことなんかお構いなしに、何だって自分の思い通りにしようとするやつだ』――
そうなんだよな。ブルマはさっぱり他人の気持ちを酌もうとしない。いつだって自分の思うがままだ。俺もそれで、いろいろと困らせられてきたものだ。だが…
…この際は、そこが狙い目かも。
「いっただっきまーす!」
「ちょっと待った!」
なし崩し的に昼食をとり始めた一同の中、俺は一番大きく開いている女の子の口を止めた。次の瞬間向けられたおあずけを食らった猫のような顔を見て一瞬心の中で葛藤したが、すぐに自分の甘さに打ち勝った。
少しかわいそうな気はするが、ここはそのイチゴ好きを利用させてもらおう。イチゴが絡めばブルマは絶対に、手を抜かないはずだからな。
「ブルマ、それを食べる前に俺と勝負しようぜ」
「勝負?」
「ジャンケンだよ、ジャンケン」
そう言った途端、見事にブルマの眉が曇った。俺は再び自分の心と闘って、今度は強引に捻じ伏せた。
「な。…勝ったら先に食べていいから」
はずだったのだが、少しばかり討漏らした。本当は食べること自体を賭けの対象にするつもりだったのだが、やっぱりかわいそうになってきた。それに後のことを考えると、俺もちょっと怖い。どちらの気持ちがより勝っているのかは、正直なところ自分にもよくわからないが…
とにかく、こんなお遊びで火種を作ることはない。これは前哨戦ですらなく、ほんの腕試しなんだから。
「いいけど…」
ぎこちなくもブルマが首を縦に振ったので、その気が変わらないうちにと、俺は簡単に説明づけた。
「一回勝負だからな。後出しなしだぞ。本気でやれよ」
そう、こういうのは、本気の相手に勝たなければ意味がないんだ。かといって、カモにされるのはまっぴらだ。その点ブルマは、プーアルほど俺に優しくはないし、それでいてウーロンのような、どさくさ紛れに便乗しようとするような狡さはない。そういう意味でも最適だ。
「じゃあいくぞ。ジャーンケーン、ポンッ!…あっ」
敢えて一回勝負としたジャンケンは、すっきりさっぱり一回でケリがついた。
「はい、あたしの勝ち〜。じゃあ、いただきまーす!」
軽やかに勝利宣言をして、幸せそうにブルマはストロベリーサンドイッチに齧りついた。その態度に俺の敗北感は削がれたが、だからといって納得できたわけではなかった。
…なぜだ。
ブルマは絶対、俺の出方なんか読んでないと思うんだが。どちらかというと、俺がブルマを読んでいる…というか合わせていると思うんだが。でも、そうだな。ブルマは強いからな。運を引っ張り込んだのかもしれん。
適当にサンドイッチを掴んで、なんとなく元いた場所へと戻った。だが、それは失敗だった。
「ヤムチャさん、本当にジャンケン弱いっすねえ」
「たまたまだ、たまたま!たまたま運がなかっただけだ」
呆れ一方の顔をしてすかさず突っ込んできたクリリンを、俺は呆れ笑顔で往なした。わかったよ。もうわかったから…あまりそう連呼しないでくれないか。
「運も実力のうちじゃぞい」
「ぐぐ…」
ことさらのように師匠風を吹かせて言い切る老師様の言葉に、俺は強く歯を喰いしばった。…身も蓋もないとはこのことだ。
「とにかくこれで1勝9敗8連敗ですか。なんというか、ある意味すごいですね」
「えっ、今のも数に入れるのか!?今のはほんのお遊びだろ」
「あれだけ熱を入れておいて何を言っとる」
「ええー…」
俺、ちょっと試してみようと思っただけなのに。だって、勝ち目ありそうだったからさ。…結局は負けたけど。
「ちぇっ」
俺は軽く舌打ちしながら、サンドイッチを口に入れた。少し離れたところでは、勝利の味にぱくついている人間が、例によって小さなケンカを売られていた。
「おまえ、よくそんなにイチゴばかり口にできるな」
「別にいいでしょ」
発火しそうにはないウーロンとブルマのやり取りを耳の端に入れながら、俺は僅かに残っていた敗北感を捨てた。
まあいいか。俺はブルマの幸せを邪魔せずに済んだ。そう思うことにしよう。


いつもより若干長めの昼食の時間を過ごした後で、俺は若干緩んでいた気を引き締めた。お茶目な老人と中途半端な師匠の顔を交互に覗かせた後で、武天老師様が今度こそ本当に師匠の顔となって言ったからだ。
「さて、腹ごしらえも終わったところで、そろそろ修行を始めるぞい」
気持ちの切り替えは手早く。過ぎたことは忘れるべし。老師様はそれも俺に教えてくれる。
「ランチさん、今日も荷物番頼んますね」
「くれぐれも俺たちのところへは来ないでくださいね。危ないから」
「ええ、大丈夫。いつものようにいたしますわ」
念を押した俺たちにランチさんは気持ちよく答えたが、それが当てにならないことは、過ぎるほどにわかっていた。これまでの4日が4日とも、金髪のランチさんに修行を邪魔されていたからだ。今のところ直接サメの姿を見せていないから何事も起こらずに済んでいるが、もし見られたら血の気の多いランチさんのことだ、一体どう出てくるか…って、たぶん絶対撃つんだろうけど。とにかく、金髪のランチさんには要注意。いつにも増してこの修行の間は特に。それが俺たちの共通の認識だ。
「わしはここでランチちゃんが来ないか見張っておるからの。しっかりやるんじゃぞ」
遊泳禁止区域を示すロープの内側に老師様を残して、俺とクリリンはさらに沖へと泳いだ。獲物を探して。その獲物の獲物となるために。見つけたサメを外洋へと追い立てるべく、自らが追い立てられる態勢を取りながら。相反する二つの事柄が、この修業には同時に成り立っていた。
『サメ追い』と老師様は仰られるが、実情は『サメ追われ』なのだ。簡単に言うと、俺たちは釣り餌だ。釣ってはならない釣りの餌だ。サメをあくまでキャッチせずにリリースするのが俺たちの役目。『逃げる者を追う』というサメの習性を利用したこの修行は、湖での修行と非常によく似ている。少しだけ違うのは、俺が追われるかクリリンが追われるかという選択肢があることだ。多少の状況判断能力を必要とする、謂わば応用編だな。
やがて初めの獲物が見つかった。さしてロープから遠くない、水深5mほどのポイントで。時速50kmとも言われるサメが、ゆっくりとこちらへ近づいて来るその様を見て、俺は思った。
…またこいつか。
頭のてっぺんに横一字の傷がある。残念ながら俺たちがつけた傷ではない。こちらから攻撃することは禁じられているからな。ハンマーのような形の鼻をしていて、その両端に目らしきものがついている。この修行を始めて一番最初に遭遇したのがこいつだった。以来、毎日顔を見せやがる。
合わせていた目を逸らすと、サメがスピードを上げた。俺はただちに背を向けて、全速力で沖へと向かった。サメはそのまま追ってきた。さあ、修行の始まりだ。今日は一体何kmくらい泳ぐことになるだろう――
だが、その緊張感は長くは続かなかった。例の廃屋が視界にちらつき出した時、背後からの威圧感がなくなったのだ。サメはいきなり踵を返したかと思うと、やや距離を取って他のサメを警戒していたクリリンの方へと向かっていった。今度はクリリンの修行が始まった。それを遠目に息を整えていると、また俺の番がやってきた。
出遭う。追われる。踵を返される。何度かループした後で、サメは俺たち2人を取り囲むようにして、海面の表層を泳ぎ始めた。事ここに至って、さすがに俺たちは悟らざるをえなかった。
「なんかこのサメ、おれたちのことバカにしてると思いませんか?」
「ああ、俺もそう思う」
だいたい、いつもいつも同じポイントにいるというのが、おかしい。こんなに浅いところまで入ってきているのに、他の海水浴客には近づかないというのが、さらにおかしい。おまけに今のこの動き。
このサメは絶対に俺たちを待ち構えている。そして挑発している。それも敵としてではなく、だ。
「おれ昨日ランチさんの買い出しに付き合ってて小耳に挟んだんですけど、サメって鼻っ柱を叩かれるのに弱いそうですよ」
「何、それは本当か、クリリン」
「鼻に嗅覚が集まってるんだそうです。漁師の人が言ってました」
「よーし、一丁やってみるか!」
俺は俄然やる気が湧いてきた。もし今服を着ていたら、絶対に腕まくりをしていただろう。これまでやる気がなかったというわけではないが、追われるだけの修行はストレスが溜まる。湖での修行と違って、終わりが見えるわけでもない。特にこいつにはもう5日も付き合っているんだ。そろそろ実力行使に出てもいいはずだ。
「まずはおれがやってみます」
「じゃあ、俺は囮役だな」
話はすぐに決まった。ゆっくりとクリリンが、視界の外へと消えていった。当然サメは残る俺の方を向いたので、俺は睨みを利かせてから目を逸らし、全力で海を漕いだ。サメはすぐさま追ってきた。…サメって、おかしな生き物だ。目に見えているうちは襲ってこない。のんびりと後退してみせるぶんにも構わない。それでいて本気で逃げる構えを取ると追ってくるんだ。やる気があるのかないのか、強いのか弱いのか、さっぱりわからん。
俺が初めの息を吐いた時、状況が一変した。背後からの威圧がなくなったのだ。それに気づいたその瞬間、大きな水音がした。海中に身を落とすと、クリリンがサメの鼻先に蹴りを入れているところだった。まさしくジャストタイミング。やっぱりクリリンは俺の動きを読んでいるな。そう思った時、再び状況が一変した。
サメが大きく口を開けた。この修業を始めて以来、初めて見るサメの攻撃的リアクション。俺が軽く息を呑んでいると、クリリンもまたこの修業を始めて以来の素早さで(おそらく少し慌てていたに違いない)サメの下へと体を落とした。それからすぐに海底を蹴って、俺とは反対方向へと泳ぎ出した。役割が交替したことを、俺は瞬時に悟った。
これまでとは明らかに違う雰囲気で、サメはクリリンを追っていった。少しだけ泳がせてから、俺は死角からサメの前面に躍り出た。眼前に迫るサメの顔。一瞬だけそれを見て、鼻先に鉄拳を叩き込んだ。途端に牙が光った。それがあまりに素早い動きだったので、俺は慌てて体を逸らした。目の前で開いたサメの口は、なかなかの迫力だった。やっぱり俺もクリリンのようにサメの下へ体を滑らせて、海底を蹴った。そして再び泳ぎ出した。いつもより気合を入れて。
サメは怒涛の勢いで追ってきた。俺はさらに気合いを入れながら、心の中で首を捻った。…なんか、話と違うな。『鼻っ柱を叩かれるのに弱い』んじゃなかったのか?これのどこが弱っているというんだ。むしろ凶暴になっているような気がするのだが。力が足りなかったのだろうか。よーし、じゃあ次は海底の反発を利用して…
俺はすっかり楽しくなっていた。これだよ、これ。この臨場感。あー、闘ってるって感じがするなあ。…きっと老師様はこの習性を俺たちに隠していたに違いない。老師様の修行って、そんなのばかりなんだから。嫌ってわけじゃないけど、たまにはこういうことやらせてくれてもいいよな。
俺たちはサメとの追いかけっこを繰り返した。これまでとは全然違う、能動的な追いかけっこを。それは本当に楽しかった。楽しかったが…
そのうちに、少し疲れてきた。
考えてみれば当然だ。湖でのサメとの追いかけっこでさえ、10往復で終いなのだから。はっきり距離を把握しているわけではないが、湖でのそれをとうに超えていることは確かだ。もういい加減に――
「くたばりやがれ!!」
最高に気合を入れて放った俺の蹴りは、思いっきりサメに当たった。鼻先ではなく頭部に。俺は自らの力の反動をもろに受け、上へ体を飛ばされた。サメが身を翻して口を開けた。…げっ。ヤバイ。この位置では避けることが…!
「ヤムチャさん、どいて!」
その時、水の上から声がした。何とかサメの横っ腹を蹴ると、目の前へクリリンが飛び込んできた。まさしくジャストタイミング。やっぱりクリリンは俺の動きを…
だが、クリリンの蹴りが当たったのも、やはり頭部だった。しかも俺の蹴った箇所とは別の箇所。急所を外した上に、これではダメージも重ならない。
俺は一撃を覚悟した。心と体の両方で。
…あー、これは絶対、武天老師様に怒られる…!
その途端、またまた状況が一変した。
サメは口を開けなかった。それどころか、明らかにこれまでとは違う雰囲気で、その場に留まった。そして明らかにこれまでとは違う雰囲気で、踵を返した。俺たちを取り囲むこともしなかった。攻撃の素振りどころか、からかうような気配もなかった。どう見ても戦意を喪失している。何だ?一体どういう…あっ!
「そうか。あそこが鼻だったのか…!」
海面へ顔を出してから、俺は思わず歯噛みした。きっと、俺が鼻だと思っていたところは、鼻ではなかったのだ。そういえば目がついていたしな。なるほど、どうりで攻撃しても怒るばかりだったはずだ。
続いてクリリンが、隣へと浮かび上がってきた。そして、おずおずと後退し始めたサメへと目を向けながら息を吐いた。
「危ないところでしたね」
「おまえ、どうしてあそこが鼻だとわかったんだ」
クリリンからの返答は、俺の心に少しばかり影を落とした。
「おれにもわかりませんでしたよ。たまたまですよ。たまたま運よく当たったんです」
…また運か…
「とにかく一度戻りましょう。少し疲れました」
「そうだな」
クリリンの最後の言葉になんとなく心慰められて、俺は気落ちする自分を捨て去ることにした。…とにかく急場は凌いだ。おまけにあのサメの様子では、おそらくもう戻ってはこないだろう。結果良ければすべて良し。うん、なかなかいい修業をした。
どうやら去ることにしたらしいサメへ背を向けると、さして遠くないロープの内側に、老師様とランチさんの姿が見えた。老師様は一見お茶目な老人の顔をして、立派に師匠の役割を果たしておられた。
「ランチちゃん、この辺りは危ないから、もうビーチに帰ろうね」
「あそこにいても退屈なんだよ」
「まあそう言わんと。お肌でも焼いてみたらどうじゃ?ビーチにこうのーんびりと、横になってな。余計なものは身につけんと」
「そんなことして何が楽しいっていうんだよ。ったく、毎日毎日ひとをこんなつまらねえことに付き合わせやがって。とっとと終わらせやがれ!」
穏やかに監視されているランチさんの頭上には、何があっても手放さないS&W-M500の姿があった。髪に巻いたスカーフをホルスター代わりに、器用に収められている。…やっぱり今日も持っていたな。さりげなく彼女の視界を遮断しながら近づいていくと、その陰からいつもはいない顔が覗いた。
「やっほー、ヤムチャ」
老師様とは違って、いたって自然なブルマの笑顔。うーん、こっちのランチさんと並んでいると、ブルマがおとなしく見えるな。
おそらくは今日初めて、俺はほのぼのとした気持ちになった。緩やかに手を振るブルマに、俺もやっぱり緩やかに手を振りかけた。その時だった。
ふいにガキリと鈍い充填音がした。間髪入れず、宣告の声が響いた。
「出やがったな。よーし、一丁手本を見せてやるとするか」
「あっ…!」
気づいた時には遅かった。ランチさんはすでに完全な戦闘態勢に入っていた。俺の背後を見据える目つきは、疑いようもなく獲物を見つけたハンターのそれだった。立ち泳ぎしながら構えられた銃口の先には、俺たちが追い払ったばかりのサメの背びれ…
「撃っちゃダメです、ランチさん!」
「撃たねえでどうやってやっつけろって言うんだよ!」
「海の中で発砲したら暴発…」
「このランチさんがそんなヘマするわけねえだろ!」
俺たちの言葉はまったく聞き入れられなかった。もとより聞き入れられた例などない。
「ブルマ、下がれ!!」
無駄だとわかっていたが、俺は叫んだ。ブルマがこんなことに反応できるわけがない。この上はただ神に祈るのみ…
「Fuck you!!」
神は一部願いを聞き届けられた。声と共に放たれたランチさんの銃弾は、幸いにしてサメには当たらなかった。跳弾もサメの前面に跳ねたのみ。水中射撃されなくてよかった。そう思い息を吐いた時、予期せぬ方向から弾が飛んできた。俺はそれをかわせなかった。
かわせてたまるか!通常の跳弾ならともかく、サメの体表を半周滑って戻ってきた弾なんて!
後頭部に鋭い痛みが走った。とはいえ、痛みは問題ではなかった。当たった場所も問題ではない。どうせ掠り傷だ。そんなの感覚でわかる。だが…
「だぁーーーーーっ!!」
一目散に俺は泳いだ。沖へと向かって。頭に手をやることはしなかった。そんなことをしたら、手に血がついてしまう。水中に血を落とすわけにはいかない。一滴たりとも。サメの嗅覚は鋭敏なのだ。あっという間にこの辺一帯サメの巣窟となってしまうだろう。かといって、陸に上がることはできない。この速さで陸へ向かったら、サメがついてきちまう…!
俺は全身全霊で、例の廃屋を目指した。血が滴るその前にと。背後に慣れた威圧を感じながら。きっとさっきのサメが戻ってきたのに違いない。くそ。せっかく追い払ったところだったのに…!それにしても、廃屋が遠い。なんだか異常に遠く感じる。…一体神は、俺に何km泳がせれば気が済むのだろうか。
ついに廃屋に辿り着いた。家の残骸の浅いリーフに足を踏み入れながら、俺は真後ろに迫っていた威圧を蹴りつけた。うまいこと鼻に当たったのだろう、さっぱり力を篭められなかったにも関わらず、サメは後退し始めた。のろのろと泳ぎ去っていくその様を、俺は廃屋の支柱にしがみついて見ていた。
「はぁーーーーー…………」
支柱を攀じ登って廃屋に転がり込むと、少ししてクリリンがやってきた。
「大丈夫ですか、ヤムチャさん」
「ああ、何とかな。でも今は休憩させてくれ。血が止まるまでだな」
「そうですね、老師様にそう伝えておきます」
僅かな心配を覗かせてそう言うと、クリリンはビーチとは平行方向に泳ぎ去った。きっと周囲の見回りだ。今ので別のサメがやってきてしまったかもしれないからな。
「はぁーーーーー…………」
崩れかけた壁に身を凭れて、俺は再び息を吐いた。…疲れた。心身共にすごく疲れた…
「ちょっと、大丈夫?」
「ああ…」
ふと耳の端に聞こえてきたその声に反射的に答えてから、俺は気がついた。
「…あれ、来たのか」
「さっきからいたわよ」
足元の残骸のリーフに、ブルマがいた。ブルマは集まってくる小魚を片手で追い払いながら、少しだけ不貞腐れたように言葉を続けた。
「そこに上がりたいんだけど」
「あー…ああ、はい」
やっぱり反射的に俺は答えた。本当はすぐにでも岸へと連れて帰りたかったが、それはできなかった。まだ血が止まっていない。…まったく、無茶するんだから。ひとの話を全然聞いてないよな、ブルマは。まあ、いることに気づかなかった俺も俺だが。おそらくクリリンが連れてきたんだろうが、何もこんな時に気を利かせなくてもなあ…
一通り全員を公平に非難してから、ブルマを廃屋へと引き上げた。ブルマは俺の隣へ座り込むなり、どことなく曇った瞳で俺を見た。
「…ちょっと、ねえ、大丈夫?」
「ああ、もうじき血は止まるよ」
少しばかりきまり悪く、俺は答えた。情けないというほどのことはないが、できれば説明したくないなと思った。他人事なら奇跡的な事故として捉えるところだが、自分のこととなるとそうはいかん。…あんなのなしだよな。あんなの避けられるのは、きっと神様と悟空くらいのものだぞ。
悟空か…
俺は別に考え込んでいたわけではない。ただなんとなく、ぼんやりとしていた。気落ちと気抜け。それに疲れ。要するに緊張の糸が切れかかっていたのだ。
だから気がつかなかった。自分の体が勝手に動いていたことに。いつしか頭に伸ばされていたブルマの手に、いつしか自分が反応していたことに。でも、さすがに起こった事実そのものには気がついた。
…ヤバイ。無意識のうちに手を払っちまった。条件反射というよりは、むしろ本能で。
「…わ、悪い。でもまだ血が止まっていないんだ。手につくとマズイから…」
咄嗟に弁解しながら、俺は一喝を覚悟した。いや、二喝も三喝も覚悟した。…払う必要なんかまったくなかった。ただ止めれば済むことだったのに。まだまだ俺はダメだな。やはり今は修行で手一杯だ…
そんなことまで俺は考えた。なぜなら、ブルマが何も言わなかったからだ。一瞬物言いたげに瞳が揺らいだかと思うと、ブルマはすぐに顔を背けて俯いてしまった。怒っていない――などと思えるわけは、俺にはなかった。
眉上がってるし。口引き結んでるし。おまけに膝の上で拳まで作っている。じゃあどうして、何も言ってこないんだ?…なんか、いつもと雰囲気違うよな。おまけに話とも違う。『荒っぽい』、そうウーロンは言っていたが(そして俺も一時はそう思ったが)、むしろ逆だ。おとなし過ぎる。それでいて、この内包したような威圧感。はっきり言って、すごく怖い。無言なだけになおさらだ。一体俺のいないC.Cで何があったんだ…
ほどなくして、頭の血が乾いてきた。瓦礫の中に転がる鏡の破片に映った映像で、それがわかった。その事実に背を押されて、俺は一つ決断を下した。
「あー、…じゃあとりあえず帰るか」
動ける状態になった以上、いつまでもここにいるわけにはいかない。いてどうにかなるものでもない。ここはひとまず岸へ戻って、それから改めて(あるなら)話を――
そこまで考えたところで、俺はふと思い出した。C.Cにいた頃に、ブルマと何度かしたケンカを。『完全無視』。それがブルマが本気で怒った時に、最終的に取る態度だった。俺は避けられる当人なのでブルマの様子を直接見ることはほとんどなかったが、ひょっとして今がその状態か。そうか、こういう雰囲気なのか…
「あたし帰んない」
本人の言葉が、俺の観察を裏付けた。…やっぱり荒っぽいかもな。だって、そこまで怒るようなことじゃないだろ。そう思いながらも、ブルマの部屋のドアを叩く気分で、俺はブルマの心のドアを叩くことにした。
「あのなブルマ…」
「あんた一人で帰ればいいのよ。あたしのことなんか放っといてさ」
かつて何度か示された拒絶反応。だがそれは、これまでとは全然ニュアンスが違っていた。そしてそれに続く言葉は、完全に理解不能なものだった。
「いいのよ、あんたはもうここの人間なんだから」
「…は?」
わけがわからない。俺は久方ぶりにその感覚を味わった。ブルマと付き合い始めた頃にはたびたび感じたこの感覚…
「いきなり何を…」
というか、一体何を。何の話をしているんだ。
俺はもうドアを叩けなくなった。すると、ブルマが猛然と立ち上がった。そして、やっぱり猛然と叫び出した。
「だって、なんか冷たい!」
「冷たいって…何が?」
「全然話に乗ってこないし。亀仙人さんがあたしにちょっかい出しても何も言わないし!」
「だってそれは…」
口を出さない方がいいと思ったから。先週あんなことがあったばかりだし。
「あたしがどうしてたかなんて、どうでもいいんでしょ。あたしといるよりみんなといる方がいいんでしょ。どうせランチさんの方がスタイルいいわよ!」
本当に、何の話をしているんだ。っていうか、なぜスタイル?性格とかならまだわかるが…
ブルマの言葉は、ひたすら俺を呆然とさせた。その言葉の意味を呑み込もうとしているうちに、ブルマは再び口を閉じてしまった。その上またもやおとなしく、元いた場所に座り込んだ。さらにまたもや固く手を握りしめた。俯いた顔。上がる眉。結んだ口元――
閉じている貝。まさにブルマはそれに見えた。
「いや、あのさ…そういうんじゃないから」
いつもなら詰まってしまうだろう言葉を、この時俺は出すことができた。ブルマがそこにい続けてくれたからだ。そして今では、ブルマの言わんとしていることが、なんとなくわかってきていた。どうしてそういうことになっているのかはわからないが。
「そういうんじゃないだろ。誰のどこがいいからそう思うとか、人が人のことを想うのってそういうことじゃ…」
出来のいい人間を好きになるというのなら、ほとんどの人間がきっと青い髪のランチさんを好きになる。そして金髪のランチさんを見て失望するんだろう(そうじゃない人間もいるには違いないが)。でも俺はそうじゃないし、ブルマに失望したことだってない。困ったことならいっぱいあるけど。
「…ごめん」
でも俺はそれは言わずに、ただブルマを抱きしめた。ブルマは泣いたり震えたりそういう素振りは一切見せていなかったけど、俺にはわかった。なぜかふいに、そしてようやく、本当にわかったのだ。
どうしてブルマがそんな風に考えてしまったのかを。俺がそうさせてしまったのだということを。…鋭いな、ランチさん。ぼーっとしているランチさんも、怖い方のランチさんも、どちらも鋭い…
いや、俺が鈍過ぎか。
その時、ブルマが顔を上げた。まだどこかぎこちないその表情。笑みの一片も浮かんでいないその顔を、俺はとてもかわいいと思った。
「…ねえ、キスして」
潤んだ瞳にも、いつもながらの唐突な台詞にも、この時ばかりは困らせられずに済んだ。
俺も、同じことを思っていた。
このひどく天邪鬼ですごく素直な女の子にそうしたいと。心の底から思っていた。


少しばかり長い休憩時間を過ごした後で、俺たちは廃屋を後にした。最も『少しばかり』で済んだのは、ブルマのおかげだ。
ブルマに胸元を軽く叩かれるまで、俺は気がつかなかった。少々キスが長過ぎたということに。ひさしぶりだったから、感覚が違った。…いろいろな意味で。
なんかすごく気持ちよかった。触れるブルマの唇と肌と、その…体が。滑らかで、柔らかくて…俺、ひょっとして耐性ついてきたのかもしれないな。水着姿の女の子を抱いて、そんな風に感じるなんて。自分からキスしたいと思ったのだって、たぶん初めてだ。考えてみれば、ランチさんともごくごく普通に接している。女の子といるようになって、もうすぐ一年経つからな。慣れもするか…
俺はなんとなくぼーっとした気分でブルマを見ていた。ブルマもどことなくそんな感じに見えた。少々照れくさくはあったが、気まずくはなかった。でも、ブルマが腰を上げなかったら、俺は動けたかどうかわからない。
岸へ着くと、途端にみんなが帰り支度を始めた。どうやら俺たちを待っていたらしい。それで俺は緩んでいた気をどうにか引き締めて、クリリンといつもの儀式をした。
「よし、やるぞクリリン!」
「はい、どうぞ。いつでもいいですよ」
サメ追いの修行の後の、恒例儀式。待たせた追い目があるとはいえ、手は抜かん。それとこれとは話が違う。勝負の世界は非情なのだ。というか、帰りは運転したくない。正直言って疲れた。
「ジャーンケーン、ポンッ…あっ!くそっ!!」
「はい、ヤムチャさんがドライバーですね」
あくまでルールを決めていないこの勝負は、またもや一回でケリがついた。
「おまえ、そろそろ負けたらどうだ?いくらなんでも勝敗のバランスが悪過ぎると思わないか」
「そんなこと言ったって、ジャンケンなんですから」
「ちくしょう…」
いつもの台詞を吐き出しながらも、俺は歯噛みすることはしなかった。負けた理由がわかっていたからだ。一度緩んだ気持ちを締め直すのは難しい。ことに今は、ほとんど抜けた後と言ってもいい状態なのだから。
すると、その俺の気を抜いた人物が、横からひょっこり顔を覗かせた。
「帰りくらいあたしが運転してあげるわよ。あんたたち、まだ修行あるんでしょ?」
そして寛大にもそう言ってのけた。少しの強気とそれ以上の呆れを含んだ口調で。軽く腰に両手を当てて。それは妙に俺を安心させる仕種だった。もうすっかりいつも通りだな。よかった。
俺は再び気を抜いて(もう今は締めるのは諦めた)、自らの本分に立ち返らせていただくことにした。すでにクリリンが、俺に先駆けてそうしていたからだ。
「ええ、まあ。この後は午後の修行を途中から」
「しばらくはこのままの状態が続くじゃろうな。さっきランチちゃんが発砲してしまったからの。こりゃ、まだまだサメがいなくなるには時間がかかるだろうて」
「はぁー…、やっと一番しつこいのを追い払ったところだったのに…」
だがそれは、溜息に直結するものだった。終わりよければすべてよし。怪我の功名。せっかくそこに落ち着いていたのにな。どこまでも気の抜けない環境だ…
その思いは次の瞬間いや増した。不思議そうに小首を傾げて、ブルマが言ったのだ。
「どうして撃っちゃダメなの?だいたい、撃たないでどうやってやっつけるのよ?」
「銃で一匹やっつけたって、それで他のサメを呼び寄せてたら意味ないだろ。血を流さないなんてどだい無理な話だし。…あれ、ひょっとして言ってなかったか?」
答えながら、俺もまた首を傾げた。すでに後半部分は自分に向けての言葉だった。そういえば全然言っていなかった。…ような気がする。
「これっぽっちも聞いてないわよ!!」
「そうか。それは悪かった」
俺は心の底から謝った。それくらいのことも言っていなかったとは。それでは疎外感を感じても当然だ。
「自分のやってることくらい、彼女にちゃんと教えなさいよ!それだからあんたは――」
「うんうん、わかった。悪かった。次からはそうするから…」
終わりよければすべてよし。ブルマとのそれもすっかり崩れていた。本当に気の抜けない環境…
とはいえ、俺の気はすでにすっかり抜けていた。それで俺はもう抜けついでに、この場で訊いてみることにした。
「ところで、なあ、ブルマ。ランチさんの服って一体どうなってるんだ?いつもいつも一体どこに銃を隠し持ってるんだ?」
「知らないわよ、そんなこと!」
「…ひょっとして、知られたら恥ずかしいところなのか?」
「バカッ!!」
俺としては話を逸らす意図もあったのだが、なぜかブルマの怒りは増大した。…本当になんで怒るんだよ?別にブルマ自身のことを訊いてるわけじゃないのに。
そうは思ったが、それを口に出す気は俺にはなかった。今はこれ以上ランチさんのことを追及しない方がいい。もう大丈夫だとは思うが、一応な。そもそもブルマの声は大き過ぎる。これではいつランチさん本人に気づかれてしまうことか…そっちは全然大丈夫じゃなさそうだ。それで俺は心の中で息を吐いて、一つ断を下した。
「うーん…じゃあ、そろそろ帰りますか、老師様」
自分自身でこの場を治めることにすることに。だって、誰も仲裁してくれないから。仲裁どころか場を動かそうともしない。みんな見事に見て見ぬ振りだ。ひどいよな。俺は結構みんなに気を遣ってると思うんだけどな。そんなにブルマが怖いかなあ…怖いか。
俺は軽く肩を竦めてから、できるだけさりげなくブルマから逸らした。そして答えてくれなかった師匠の姿を探した。その時だった。
「…ゃんっ!」
妙に艶のある声がすぐ横で聞こえた。反射的に視線を戻すと、ブルマが体を仰け反らせて虚空を見つめていた。その後ろには、惚けた顔の武天老師様…
「いい加減にしてよ、このセクハラじじい!!」
俺が何を言う間もなく、ブルマは叫び立てていた。そして背中に触れていた老師様の指を勢いよく払った。
「何、ちと心配になってな。きれいなお肌がただれてしまっては大変じゃろ。ここは日差しが強いからの」
「放っておいてちょうだい!!」
…あ、それか。
聞き覚えのある台詞と展開に、ほとんど忘れていた謎が唐突に解けた。解けはしたのだが、俺はいま一つ腑に落ちることができずにいた。
だって、それほどたいしたことだとも思えないよな。まあ好ましいことだとも思えないが、そこまで怒るようなことじゃないだろ。むしろ武天老師様のしてることよりも、ブルマの声の方がなんかやらし…いや、ブルマも案外繊細だな。
俺はなんとなく傍観に回った。だが、すぐにそうはいかなくなった。
「そうはいかんわい。弟子の彼女は大切に扱わんとな。気の利かない弟子に代わって心を配るのも師匠の務めじゃ」
老師様が唐突に師匠風を吹かせて、俺に話を振ってきたからだ。…ちょっと老師様…
「あんたたちねー!!」
さらにブルマ本人の声が、俺を渦中に引き込んだ。…『たち』って何だよ、『たち』って。どうしてそこで一纏めにするんだ…
ブルマvs老師様と俺。いつの間にかできあがっているらしいこの構図に、俺はかなり怯んだ。正直言って、老師様がいない方がやりやすい。しかしそれはさすがに言えない。…こういう時はどうすればいいんだ…
俺はただただ心の中で汗を掻いた。いや、体でも汗を掻いていた。暑さによらず。むしろ寒い気持ちで。ブルマが次の台詞を吐くまで。
「もういい!さっさと帰るわよ!ヤムチャが助手席!クリリンくんがあたしの後ろ!亀仙人さんは最後列よ!わかった!?」
「やれやれ。いつまでもつれないのう」
「最後列が一番快適なんでしょ!最年長者は敬わなきゃね!!」
全然そうは思えない口調でブルマが敬いの言葉を口にした時、俺は目から鱗が落ちたような思いをした。なるほど。そういう風に言えばいいのか。いや…
これはブルマだからこそ取れる処置だ。ちょっと俺には、そこまでの応用は無理だ。流すことはできても、指図することまではできない。老師様にも。ブルマにも…
自らの言葉通りさっさとワゴンへ向かうブルマと、呼応するように動き出したみんなの姿を見て、俺は心に誓った。
やっぱりこういうことはブルマに任せよう。俺にできることは、ブルマをブルマらしくいさせておくこと…
それが役目ってもんだよな。うん。
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