鳴竜の女
なんか、いつの間にか売ったことになってたんだよ。そのさ。ブルマに、ケンカをさ。
一言で言えば、口が滑ったってやつだ。どう滑ったのか。それさえ覚えていない始末だが。
それほどしょっちゅうあることではない。…俺が口を滑らせるのは、わりとあることだが。でも、それがこうも、本格的なケンカに繋がるというのは。いつもはたいてい、言い合っているうちになんとなくその場の行動が先へと進んで。ブルマが強引に先へと進めて。そしていつの間にか立ち消える。でも、その時はそうじゃなかった。…何だろう。虫の居所が悪かったのだろうか。
やれやれ。そう呟きながら、俺は修行先の山へと戻った。なんていうかな。たぶん俺が悪いわけでも、ブルマが悪いわけでもない。それとも、お互いが少しずつ悪かったってところだろうか。カフェを出て行ってしまったブルマを俺は最初は追いかけたけど、何を言っても答えないブルマをC.Cまで追いかけていく気にはならなかった。なんとなく、中途半端な感じがした。俺はしばらく前から外で修行をするためにC.Cを出ていて、ブルマとの約束があったからちょっと都に来てみただけだったし。修行を終えて帰ってもまだ怒っていたら、そこで根を詰めればいいかと思ったんだ。
ま、そう思いつつも電話はしてみたが。でも、ブルマが出なかったので、とりあえず忘れることにした。次に会う時まではきっぱりと。目下のところは修行に身を入れよう。自分で立てた目標をクリアすることに専念しよう。そう思い、電話を置いた。
はずだったのだが…


失敗したな。風呂の後で髪を切ればよかった。
ショウウィンドウのガラスに映るおさまりの悪い後ろ髪を見ながら、俺は思った。
切ったばかりって、落ち着かないんだよな。そんなに変じゃなく整えられたとは思うけど、ブルマはそういうことにうるさいからな。修行を切り上げた直後は特に。
っていうか。…来るかな?
例え来なくても構わない。そんな軽い気構えで、俺はブルマとのデートへ向かう途中、とあるヘアサロンで髪を切り、とあるショップで服を買い、とある銭湯で汗を流した。こう言うとえらく気合いが入っているように感じられるかもしれないが、そうではない。不可抗力だ。…いや、ちょっと違うか。もとはと言えば、自分の不注意が原因なんだからな…
あの時、場所を変えなければなあ。ブルマに電話を拒否されたあの時に。ちょっとした気分転換のつもりだったのだが、根こそぎ生活を変えることになってしまった。そりゃあ、飛びながらカプセルでキックアンドキャッチなんかやった俺が悪いさ。まったく、どうしてどれもこれもカプセルには、C.Cのマークがついているんだろうな。
…で、来るかな?
来なかったらC.Cに行けばいいだけだ。もともと今日は帰る予定だったんだからな。…追い返されなければ、だが。
軽く気構えていながらも、鬱屈。強気に混じる弱気。俺は自分が気弱だとは思っていないし、女が苦手という弱点も克服したはずなんだが、こういう時はどうもいかん。きっとこれは、女に免疫がなかったことの後遺症だな。それとブルマが――
…………強過ぎるから。
付き合い始めた時から感じているそのことを、今日もまた俺は実感した。この前のデートで、奇跡的にケンカをする前に決めていた今日のデートの待ち合わせ場所に、一人佇むブルマを見た時に。壁に背を凭れて片足を組む、つまらなさそうな仕種を見た時に。顔だけを動かして向けられた、素っ気ない瞳を見た時に。
「…ああ、ブルマ、この前は…」
先に来ているという可能性は、まったく考慮していなかった。というか、来ないんじゃないかと思ってた。実のところ、まず来ないだろうと考えていた。
うーん、どうしたものかな、これは…
軽く気構えていたことが裏目に出た。俺が続ける言葉を見つけられずにいると、ブルマが姿勢も崩さずさっくりと言い切った。
「遅いわよ」
「え…ああ、うん。ごめん…」
それで俺は余計にわからなくなった。どうなってるんだろうな、これは。なかったことになってるのか?でも、そういう態度でもないと思うんだけど…
「さ、行くわよ」
顔も声も少しばかり強張ったまま、それでもブルマはいつものように俺の腕を引っ張った。だから俺も、ついいつもの態度を取ってしまった。
「行くってどこへ?」
「決まってるでしょ、今日は――」
「予定、まだ立ててなかっただろ」
そしてまた、口を滑らせた。 いや、事実なのだが、この場合はそうだと思う。
だって、その話を始めた直後にケンカになったのだから。直接の原因ではないとしても、思い出させるには十分だ。
そう俺は思っていた。実際、それは事実だった。…いつもなら。いつもの、本気のケンカなら。でも、この時は違った。
「んー…」
ブルマはただ小さく声を漏らしただけだった。ゆっくりと視線を宙に泳がせて、おもむろに指を一本、口元に当てた。のんびりと、まるで思案するように。いや、明らかに思案している。
「じゃ、俺ちょっと自分の買い物してもいいか?」
だから俺は、もう全然心を竦めずに、自分の用件を切り出した。すでに俺にはわかっていた。
やっぱり、虫の居所だ。
まったく、人騒がせなやつだな、おまえは。俺のカプセルを返せ。
「買い物?」
「この前別れてすぐ、持ってった家のカプセル湖に落としちまって。そこに服もかなりの量入れてたもんだからさ」
「ドジねー。でも、じゃあ、どうやって寝泊まりしてたの?」
「それはその辺の木の上とか洞窟とかで…」
「2週間も!?不潔ーーー!」
「あのな…」
普通ここは心配するところだろ。まあ、心配されるようなことなんて、何もないけどな。食料調達に手間がかかったくらいだ。
「お風呂は?ちゃんと入ってたんでしょうね?」
「さっき入った」
「さっき!?じゃあ、その前は?」
「それは湖とか滝とかで適当に…」
「ぎゃーー!不潔ーーー!!」
誰のせいだと思ってるんだ、誰の。
時折心の中で突っ込みを入れながら、俺はブルマといつもながらの会話を続けた。
…はー、やれやれ。


そのキスをひとまずの締めくくりとして、まだ微かに反応しているブルマの体を離れた。
別に焦らすつもりはない。小休止だ。女はどうか知らんが、男にはそれが必要なのだ。
俺がなんとはなしに片頬杖をついた時、ブルマがいつものように色も素っ気もない雑談をし始めた。
「ねえ、明日…って、もう今日ね。うちで会社のパーティやるから、あんたも出てね」
「パーティ?珍しいな。ここでやるのか?」
「うん。パーティホールでね。創業記念と新技術の発表を兼ねて。あたしは別に何もすることないけど、家族として出なきゃいけないから」
「俺はなんで?」
「あんたはあたしのエスコート役」
至極当たり前のように放たれたブルマの言葉は、俺に一つの解答を与えた。
なるほど。それで髪を切らされたのか。そういうことがあるとなると、女っていちいちヘアサロンに行くんだからな。すでに切ってきたって言ったのに。ブルマのやつ、全然話聞かないんだから。おかげでえらい短くなっちまったじゃないか。
まあそれでも、一番最初に切らされた時よりはマシかな。それに、これはこれで快適かもな。視界も良好で結構なことだ。俺もだいぶん慣れてきたなあ…
「何時からだ?」
「お茶の後から3時間」
「了解」
ブルマはそこで言葉を切った。着る服がどうとかこうとか、うるさく言うつもりはないらしい。たぶんどうでもいいんだろう。
俺の観察を裏付けるように、それまでは完全に伏せていた体を、ブルマが俺の方に向けた。だから俺は、その唇にキスをした。するとブルマは、やっぱりそういう息を漏らした。
「ん…」
ちょっと鼻から抜ける甘い夜の吐息。それを肌に感じながら、下の下着の先ほどは解かなかった方の部分に手を触れた。ブルマが緩やかに体を仰向けたので、俺は当然その上に乗った。当然残る結び目を解いて、当然現れた肌に触れた。
「…ふ…っあ」
途端に吐息が声になった。まったく、やらしいんだから。
やらしいっていうか、わかりやす過ぎだ。こんな下着つけやがって。めちゃくちゃ気が乗ってるって、バレバレじゃないか。
「あんっ…」
肌にキスを落とすと、声が零れ始めた。俺はそれを聞きながら、こっそりと自分の愚痴を溢していった。
さんざんひとに気を揉ませておいて。何にも言わずに勝手に終わらせて。おまけに、いつの間にか予想とは正反対の展開になってやがる。強引というか、自分勝手というか……どうせ腹なんか立たないさ。情けないことにちっともな。だけど、因果応報って言葉、知ってるか?
だから、今からうんと、俺の存在を感じさせてやるよ。




薄目を開けた時、部屋はすっかり明るかった。
カーテンの隙間から部屋の端にまで届く太陽の光。微かに聞こえる鳥の声。風に揺れる木々の音。俺の耳元にすこやかな寝息。
枕元の時計は8時半を指していた。
「おい、ブルマ…」
俺の胸の上にあるその手に軽く触れると、ブルマは小さく口を開いた。だが、そこから漏れてきたのは言葉にならない声だった。
「ん…」
昨夜耳にしたものとは比べものにならないほど、軽やかな吐息。ほんの少しだけ身動ぎして、ブルマは口を閉じた。目が開く気配はまったくなかった。
まあ、いいか。
俺は起こした。一応起こそうと試みた。ちゃんと声もかけたし、体にも触れた。揺さぶってまで起こしてはやらんぞ。そんな損切、俺はごめんだ。
おそらくは自分のせいで開かない瞼の上にキスをして、部屋を後にした。まあ、自己満足だ。
だが自己満足でも、幸せは幸せなのだ。

リビングへ行くと、プーアルとウーロンが隣接するダイニングで朝食を摂っていた。もうほとんど終えるところのようではあったが。
「よ。おはよう」
「あっ!ヤムチャ様!!」
「なんだおまえ、帰ってきてたのか」
「ああ、昨夜な」
「ふーん。昨夜…」
この上なく簡潔な帰宅報告。にも関わらず、ウーロンはいきなり声を落として、デザートを口に運んでいた手を止めた。その白々しい目つきはたぶんいつもと変わらないはずだったが、俺はいつもと同じようにはその目を見ることができなかった。はっきり言うと、思いっきり目を逸らしてしまった。
なんだな。一緒に住んでると、こういう時困るよな。…バレそうで。ひょっとすると、バレてるのかもしれないが。
俺がほとんど明後日の方向を向きかけた時、キッチンから賑やかな声が飛んできた。
「あらあ、ヤムチャちゃん。おかえりなさい。おひさしぶりね〜」
「あ、おはようございます、ママさん」
「すぐに朝食のお支度するわね。ちょっと待っててね〜。今回はどこへ行ってらしたの?どなたか強い方いらっしゃった?そうそう、今日、うちでパーティをするのよ。ブルマちゃんにお話聞いたかしら?」
「はい、昨夜」
ひさしぶりに聞く、ママさんの明るい機関銃声。俺はすっかりのどかな気持ちになって、とりあえず急を要しそうな最後の質問に素直にそう答えた。その途端だった。
「ふーん、昨夜ねえ〜」
和み始めた空気を掻き消すように、またもやウーロンが声を落としてその単語を繰り返した。俺はもう明後日の方向は見なかった。さすがにわかったからだ。…やめてくれ。会った早々にそんな風に遊ぶのは。
「パーティのお洋服、後で出しておくわね。プーアルちゃんとウーロンちゃんとお揃いよ。クリームイエローのタキシード。かっわいいんだから〜」
「何だ、おまえたちも出るのか」
なんの気なしに俺が言うと、ウーロンはまたデザートをつつく手を止めた。
「何だよその言い方。おまえまでおれたちを外すのかよ。自分だけ女にありつこうとしやがって。またブルマとケンカになっても知らねえぞ」
「いや、たぶんそういうパーティじゃないと思うぞ」
「なんでそんなことわかるんだよ。おまえだって、パーティ出たことないんだろ?」
「それはそうだけど」
「きっと金持ちのお嬢様がいっぱい来るんだろうな。おとなしくってかわいくて、『ちょっとお酒に酔っちゃったみたい』なーんて言いながらしなだれかかってくるようなお嬢様がよ。…うひひひひ…」
よくもそこまで夢を見られるものだな。その、金持ちのお嬢様とずっと一緒に暮らしているのに。
そう俺は思ったが、口に出しては何も言わなかった。現実を見るのが一番手っ取り早いんじゃないかな。俺もまだ見たことないけど。
「ところでよ、うちのお嬢様はどうした?ブルマのやつは。おまえ、一緒だったんじゃねえのか」
「さ…さあ?まだ寝てるんじゃないか?」
「しょうがねえな、あいつは。毎朝毎朝、起きてくるのは遅いわ、おまけに機嫌は悪いわで。おれはあいつに会ってお嬢様のイメージが変わったぜ」
そこまで思っているのになぜ…
俺はさしたる感慨もなく、いつしか目の前に置かれていたコーヒーをすすった。『ウーロンとの会話は不毛』、よくブルマはそう言うが、俺にとっては少し違う。どちらかというと、一方通行だ。肯定はできないが、否定もできない。女なんかに興味はない、そう言うつもりは毛頭ないのだが(言えば嘘になってしまう)、俺はブルマで手一杯だ。そうだな。そういう意味では、やっぱり興味ないな。俺が興味あるのは、ブルマの他にはあと武道…
「さて、ぼちぼち体を解してくるかな」
デザートに口をつけながら呟くと、ウーロンの呆れたような視線は俺へと移った。
「おまえ、こんな日にまでトレーニングするのかよ」
「だって、パーティは夕方からだろ」
「相変わらずだなあ、おまえ」
「ヤムチャ様、ボクも行きますー!」
そう言ってプーアルが肩へと飛んできたので、俺はここでウーロンとの一方通行の会話を切り上げた。パーティになど興味はない。そう言うつもりは俺にはない。それなりに、興味はある。
だがそれは俺個人の興味ではなく、ブルマの付き添い役としての興味なのだ。あくまでな。


俺の持っている『パーティ』というものの情報は、ほとんどがブルマの口から聞かされたものだ。それほど多くはない回数ではあったが、いつも大概同じことを聞かされていたので、それなりにイメージは頭の中で固まっていた。
でもやっぱり、『行く』パーティと『催す』ものとは、違うようだ。
「まっ、かっわい〜い。3人とも素敵よ〜」
用意されたタキシードを身につけて、プーアル、ウーロンと共にパーティホールへ出向くと、まずはママさんがやってきてそう言った。後に続くだろう機関銃声を予想して黙っていると、会社の人間らしい男が一人やってきた。
「奥様、カトール氏からお電話が入っております。少々お訊ねになりたいことがあるそうです」
「あら大変。カトールさんってどちらの方だったかしら?パパ?ブルマちゃ〜ん」
「博士とお嬢様は今、別の方からの電話を受けておられます」
「あらあら大変。どうしましょう」
ほとんど引っ立てられるようにして、ママさんは去って行った。やがて入れ替わるように、ブルマがやってきた。
「うん、母さんにしてはなかなか品のいいもの選んだじゃない」
開口一番、無造作にそう言った。俺はというと、心の中でこう思った。
思っていたよりも派手だな。
光沢の強いエメラルドグリーンのロングドレス。背中のすっかり露出したホルターネック。いつにも増して開いた胸元につけられた、大きなエメラルドとダイアモンド(たぶん本物)のブローチ。深く入ったスリット。何度か目にした、よそのパーティに行く時の装いとは大違いだ。…まあ、ホストの娘にちょっかい出すやつもいないか。
「あんたたちとお揃いじゃなければ、もっといいんだけどね〜」
「なんだよ、文句あんのかよ」
「あんまり露骨につるむんじゃないわよ。恥ずかしいから」
気づけば、ブルマとウーロンのいつもの言い合いが始まっていた。どうやら今日は、中身も外見もブルマ本来の姿のようだ。
とはいえ、それすらも長くは続かなかった。すぐにブリーフ博士がやってきて、前置きもなしにこう言った。
「ブルマ、そろそろ出迎えのスタンバイしてもらっていいかね?10分前だから」
「あっ、はーい。あんたたちは適当にくつろいでていいわよ。ある程度出迎えが終わったら、あたしも行くから」
このブルマの台詞の後半は、やや遠くから聞こえた。おまけに背中越しに。ブリーフ博士も、歩いて行くブルマの姿を確かめもせずに、踵を返していた。だから俺はブルマの言いつけを破って、同じ洋装をした2人と共に、会場の端にあったソファに座り込んだ。
いや、これでつるむなって言う方が無理ってもんだ。俺がこういう格好をしている時に、これほどほっぽっておかれたのは初めてだ。ホスト側って忙しいんだなあ…


ひょっとすると初めて目にするものかもしれない、C.C一家が3人揃って異常に和やかにゲストと談笑している様を、俺は遠目に見ていた。…途中までは。
途中から、遠くを見ていられるような精神状態じゃなくなった。なんだかパーティの様相が、ブルマに聞いていたものとひどく食い違ってきたからだ。会場に溢れ出してきたゲストたちの隙間を埋めるように闊歩する、女性の群れ…
黒のウサ耳に、黒のハイレグレオタード。意味なくそこだけ隠された首回りと手首。紫色の網タイツに超ハイヒール。…どう見てもバニーガールなんだが。これは一体どうしたことだ。『会社のパーティなんて、オヤジしかいなくて堅苦しい』んじゃなかったのか?堅苦しいどころか、緩みまくってるぞ。どちらかというと、もともと俺が持っていたパーティのイメージそのものだ。
「うひっ。いひひひ。ぐひひひひ…」
邪心丸出しでソファから立ち上がるウーロンを、俺は止められなかった。気持ちはわかる。ものすごく…
「ウーロン、下品な声出してんじゃないわよ」
だがいきなり真横から声がしたので、俺は瞬時に我に返った。声の主が誰かなど、考えるまでもなかった。
「なんだよ、話と違うじゃねえかよ。バニーのおねえちゃんがいっぱいいるなんて、おまえ一言も言わなかったじゃねえか」
ウーロンがズバリと核心をついた。俺はブルマから目を逸らして、2人の会話を聞いていた。いや…
「父さんの仕業ね。普通はボーイなのよ」
正確には、聞いていなかった。そしてそれは、すぐにバレた。
「ちょっとヤムチャ、何見てんのよ?」
「え!いや、俺は何も…」
「エスコート役はよそ見しない!」
そんなこと言われてもな…
それは『息をするな』ということと同じだぞ。男にとっては。だって、目が勝手に追うんだからな。っていうかな、よそ見してほしくないなら、おまえもその胸と背中を何とかしろ。
「ウーロンも!いつまでもそんなにやけた顔してんじゃないわよ。あんたはホスト側の人間なんだからね、あんまり恥掻かせないでよ」
「ちぇっ、うるせえなあ。…おまえ、こんなとこにいていいのかよ。お嬢様ってのは後から出てくるもんなんじゃねえのか。派手な音楽と一緒に階段の上とかからよ」
「一体いつの時代のパーティよ、それは!」
気づけば、ブルマとウーロンの少々不穏な言い合いが始まっていた。今度は、ブルマを連れ去る者は誰もいない。そして、ウーロンが劣勢なのは明らかだ(その証拠にウーロンは数発殴られていた)。次は我が身。俺はすぐさまそう悟り、この際男であることをやめることにした。これは意外と簡単だ。特に今日の俺にとっては、造作もないことだ。昨日ブルマに会った瞬間の心地を、思い起こせばいいのだ。――――よし。イメージトレーニング完了。
こうして俺は完全に本来の自分を取り戻した。そして冷静になってみると、別の、それでいてひどく似かよった意外な事実があることに気がついた。
「なあ、でもさ。やっぱり話と違うよな。若い男はいないって、おまえ前に言ってなかったか?」
別にいること自体はいいんだ。だけど、嘘をつかれていたとなると、話は別だ。ブルマはそういうこすっからいことはしないと、俺は信じていたのだが…
「いつもはいないのよ。変ね。それに見たことない顔ばっかりだわ。どういうことかしら」
「うふふふふ〜。ママが呼んだのよ〜」
「わっ、母さん!びっくりした!」
びっくりしたブルマの声に、俺もまたびっくりした。そしてびっくりしたブルマが俺に寄せる胸元にちょっと困っていると、母娘の会話が始まった。
「若い方がいないとつまらないでしょ。秘書の方たちはこちらには来られないし。ブルマちゃんもお年頃だって言ったら、みなさん喜んで出席してくださったわ〜」
「娘をダシにしないでちょうだい!!」
「やっぱり若い方はいいわね〜。お話も楽しくって〜」
最後のママさんの台詞は、やや遠くから聞こえた。ほとんど背中越しに。…母娘だ。この2人は間違いなく母娘だ。態度が正反対なだけで、言ってることはほとんど同じだ…
にこやかな母親が人の波の中へと消えると、後には苦虫を数匹纏めて噛み潰したような娘が残った。ウーロンはさりげなくブルマから離れ、同時にバニーガールを追いかけていった。ブルマにというよりは俺に遠慮して場に留まるプーアルに、俺は一つ指令を出してやった。
「向こう端のテーブルに、少し食い物があったぞ。行ってきたらどうだ?」
「でも、ヤムチャ様は?」
「俺は一応エスコート役だからな。でもそうだな、なんかうまそうなものがあったら持ってきてくれ」
「はい!」
ふー、やれやれ。
さして深くもない息を吐いて、俺はプーアルを見送った。その後姿がそれほど遠くへ行かないうちに、ブルマが愚痴を溢し始めた。
「は〜ぁ。まったく、何考えてんのかしら、あの人は。勝手に粉をかけないでほしいわ」
「はは。ところで、俺は何をすればいいんだ?エスコート役っていうのは」
「そうやって横にいればいいのよ」
つまり、いつもと同じか。
ブルマの言葉を、俺はそう解釈した。とりあえず傍にいて、言われたことに応えておけばいいわけだ。それと話し相手かな。『オヤジばかりで話をする相手がいない』、そう何度か言ってたからな。
最も今日に関しては、ブルマが話し相手に困ることはなさそうだった。俺がバニーガールを呼び止めるのを躊躇っているうちに、会場の中央からお呼びがかかったのだ。
「ブルマさん。ブルマさーん。こちらの方がブルマさんも一緒にお話しましょうって」
にこやかに笑顔を振りまく女主人。その隣にはにこやかに飲み物を勧める主人。反対隣にその娘。向い側にママさん言うところの『若い方』。最後の顔が変わるだけでほとんど同じ光景が、延々と繰り広げられていた。
うーん、モテモテだなあ。
ま、そうだろうな。ママさんが思いっきり売り込んだみたいだからな。本人の承諾なしに。C.Cの一人娘なんて、きっと世間じゃ倍率高いよな。おまけにブルマは美人だし、スタイルもいいし。今ここでは結構立派なお嬢様に見えるし。話に乗らない手はないだろうからな。
俺がいなかったら、どうなっていたんだろう。やっぱり、あの中の一人が恋人になっていたんだろうか。大変だろうな、きっと。『騙された』とか言って訴訟沙汰にならなきゃいいが、っていう話だ。正直言って、今ここにいるようなやつらがブルマを相手にできるとは思えないもんなあ。きっとブルマは、最後まで猫被ったりはしないだろうし。想像するだに大変なことになりそうだ。
俺、金持ちに生まれてなくてよかった。
俺は軽く思考を進め、最後に軽く結論を出した。もしも金持ちに生まれていたら、俺だってブルマとはまともに付き合えなかっただろう。そう思ったからだ。俺はブルマほど自我が強くない。どんな環境で育っても今と同じ自分になれる、そう断言することができない。だいたい、金持ちだったら盗賊稼業なんかに足を突っ込みはしないだろう。武道をやるかどうかが、そもそも怪しいもんだ。やっぱり、ひ弱なお坊ちゃま決定だな。
「お忙しそうですね、ブルマさん。パーティって結構大変なんですね」
ブルマがいなくなったからというよりはおそらく俺に気を遣って、プーアルが戻ってきた。目を逸らしつつ傍を通ったバニーガールからカクテルを受け取ると、その後ろにくっついていた人間が逸らした視界に入ってきた。
「そうだな。男に囲まれてるわりには、楽しくなさそうだよな。なあ、ウーロン?」
いろんな意味での牽制を兼ねて、俺は言ってみた。ウーロンは一瞬素の顔つきに戻ったもののやはり目線はそのままに、淡々と言い切った。
「たいしていい男がいないからだろ」
なるほど、そういう見方もあるか。
「おまえよりいい男がいたら、絶対尻を追っかけていたに違いないぜ」
「尻を追っかけてるのはおまえだろ」
「やかまし」
その文句の言葉すら、バニーガールの尻に向けてウーロンは言っていた。そしてそのまま、バニーガールと共に去って行った。どうやら好みのタイプらしい。それで俺は少し心配になって、プーアルに一つ指令を出しておいた。
「プーアル、悪いがウーロンを見張っていてくれないか。見ているだけなら構わんが、触ったりするとまずいからな」
「はい、わかりました。もう、しょうがないなあ、ウーロンは…」
眉を下げながらも、プーアルは素直に俺の言葉に従った。まあ、そうとわかっていて俺は言ったわけだが。面倒な役割をさせて悪いなとは思うが、しかたがない。
俺は俺で、同じことをやってるんだからな。相手の立場は違えど、な。

2杯目のカクテルは、目を逸らすことなく取ることができた。気づいたのだが、バニーガールってみんながみんなスタイルいいってわけじゃないんだな。まあ、当然と言えば当然か。
「は〜ぁ…」
どのバニーガールよりもとまでは言わないが大半のバニーガールよりはスタイルのいい俺の彼女は、間違いなくどのバニーガールよりも陰鬱な表情をしていた。どうやらすべての話を断ってきたらしい。敬意を表してカクテルを掲げてやると、ブルマはたいして嬉しくもなさそうにそれを受け取った。
「あんまり楽しくなさそうだな」
「すっごく疲れるわ」
「はは」
今のこのブルマの顔を、ウーロンに見せてやりたいな。俺はそう思ったが、ウーロンの姿を探したりはしなかった。きっとウーロンはウーロンで、あくまでケチをつけ続けるに違いない。それに、気づいていたからだ。ブリーフ夫妻が新たなゲストを相手にし始めていたことに。
「ブ・ル・マさーん」
「あー、はいはい」
思った通り飛んできたその声に、ブルマはこの上なくぞんざいに答えた。そして背中越しにすら何かを言うこともなく、黙って俺の元を去って行った。俺は苦笑しながらその後姿を見送り、にこやかに談笑し始めた一家を見て一つ断を下した。
…なんか食ってこよっと。


ホールの端に用意された軽食を一通りつまむのに、そう時間はかからなかった。30分というのは、軽く腹に入れるには充分に長いはずではあるが、ブルマが再び俺に愚痴を溢しに来るまでの時間としては短過ぎる。さっきは一時間かかったからな。
それでも結局は元いた壁の方へと足を向けると、途端に周囲からの視線が強まった。その存在に気づくと同時に感じられるようにもなった、周囲の『いつもはいない見たことない顔』からの視線。俺はことさら胸を張り、心の中で毒づいた。
――あまりそう、怖い顔してくれんなよ。
言っとくけどな、俺は強いぞ?そりゃあ上には上がいるけどな、おまえらの人生の中では絶対に一番強い男だ。怖いものなんか何もないんだからな。…ブルマ以外には。だから、俺にガン飛ばすのはやめとけ。それからブルマにちょっかい出すのもやめとけ。本当にその方がおまえらの為だぞ。
そして次の瞬間、自ら毒を取り除いた。…なーんてこと、例え実際に言ってみたとしても、信じてもらえないんだろうな。自分で言うのも何だが、今の俺、結構都会人っぽくキマってるし。ブルマなんかそれ以上だからな…
あくまで笑顔を絶やさず話し続ける、エメラルドグリーンのドレス姿。それを人波の向こうに想像しながら、俺は思っていた。…今夜は実際に愚痴を言わせてもらおうかな。愚痴とまではいかなくても、突っ込みくらいは入れさせてもらおう。ウーロンの二の舞にならない程度にな。
思うを超えて、すでに俺は決めつつあった。だがその気持ちが固まりかけた頃に、こう言ってしまった。
「あっ、ご、ごめん…」
ふいに俺の横腹を小突いてきたエメラルドグリーンに向かって。よもや心が読まれたとは思いたくはないが…っていうか、一体いつの間に来てたんだ。
愚痴と文句(『こんなところにいたの!?探したわよ』とかそういうのだ)の両方に備えた耳に入ってきたのは、それとは対極の声音だった。
「私の方こそごめんなさい。少しお酒に酔ってしまって…」
俺は小突かれたわけではなく、倒れ掛かられていたのだった。ブルマよりも幾分小柄の、エメラルドグリーンのドレスを着た人間に。同じような色とはいえ、露出度は極めて低いその姿。ウェーブがかった薄い赤毛の下から覗く弱々しい瞳…
「大丈夫ですか?立てますか」
俺は慌てて姿勢を正した。女性客がいたなんて、全然気がつかなかった。おまけにずいぶんと若いじゃないか。本当に、ブルマに聞いていたものとはまるで違うな、このパーティは。
「連れはいますか?いえ、それよりどこかで休みましょう。休める場所があるかどうか訊いてみますから。それまではとりあえずソファに…」
途中で態度を変えたのは、女性が今やほとんど俺の腕にしがみついていたからだ。それはもう弱々しい手つきで。そしてやっぱり弱々しい声音で、ほとんど囁くようにこう答えた。
「ごめんなさい、大げさにはしたくないんです。お酒を飲んで倒れたなんて知られたら、お父様に叱られてしまいますわ。どうかこっそりとバルコニーに連れ出してくださいませんか」
おおお、お嬢様…!
かなり不謹慎であることに、俺はものすごく感動した。これが本物のお嬢様か。初めて見た。俺のお嬢様は外面は時々すごくいいようだが、普段はまるで正反対だからな。俺に対しては特に。こりゃあ、ウーロンに見つかったら大変だ。一体何をされることやらわからない。
おそらくは彼女とはまったく違う理由から、俺はその女性をバルコニーへと連れ出した。いや、案内した。それ以外の意図は俺にはない。これは神に誓って本当だ。
本当ではあったのだが…

ライアという名のその女性をバルコニーに案内した後も、俺はそこに留まり続けた。俺自身の意思に寄らず。
言わば当然の成り行きだ。自分で立っていられない女性を、一人残して去れるわけがない。…あれだな。生粋のお嬢様って、結構な考えなしだな。考えなしっていうか、他人の都合を全然考えてないな。ブルマとはまた違った意味で我儘だ。お嬢様らしいと言えばらしいけど。――薄闇の中、開放的とは言い難いギャラリーのバルコニーで、若い女性と二人っきり。これ、ブルマに見られたらすごくヤバイと思うんだが。…すごくってほどでもないか。そうだな、ごく普通にヤバイ。ブルマのやつ、いつも俺の話全然聞かないんだからな。聞くどころか、喋らせてももらえない。喋らせてさえもらえればわりとすぐに納得させることができるんだけど、そこに行きつくまでが大変なんだよ。
俺は少し考えて、20分だけこの女性に付き合うことにした。幸い、このバルコニーは、前面にしか視界がない。外には誰もいないようだから、そのくらいで中に戻ればたぶんバレないだろう。昨日仲直りしたばかりで今日ケンカなんてのは、ごめんこうむりたいからな。
そんなわけで、手元の時計できっちり20分後。俺はきっぱりと宣言した。
「あの、悪いんですが、俺にも連れがいるので。誰か他の人を呼んできますね」
そして実際、女性に背を向けてバルコニーを出ようとした。こんなにはっきり女に断りを入れられるようになるなんて、俺も変わったなあ。そう思った時だった。
「あぁっ…」
それまでバルコニーの手摺りに凭れていた女性が、思いきりよろめいた。俺は瞬時に傍へ駆けより、慌ててその身を支えた。
「ごめんなさい、わたし本当にお酒に弱くって。それでいつもお父様に叱られてしまいますの」
じゃあ飲むなよ。
そうは思ったが、当然口には出さなかった。そんなことを言ったら、自殺しそうな雰囲気だ。かわいいことはかわいいんだけど、結構面倒くさいな。これがブルマの言ったことだったなら、手放しで感激してやるんだけどなあ。
「本当に、お時間を取らせてしまってごめんなさい。少し酔い醒ましすることにいたしますわ」
ものすごく今さらながらのその台詞を、ものすごく健気な口調で女性は言った。そしてやおらドレスのリボンを解き出した。肩と二の腕をすっぽり隠していた大きなリボンを。それが一本の長い布となった時には、すっかり胸元が――胸元どころか胸の半分以上が、露わになっていた。
「あああの、ちょっと…一体何を…………」
「肌を空気に当てると、酔いが早く醒めるんですの。お見苦しいとは思いますが、どうかお許しください」
「みみ見苦しいだなんてそんな。…いえ、そんな風に人前で胸を出すのはまずい…」
「あなたなら構いませんわ」
はいーーーーー!?
俺はすでに女性から手を離していたが、女性との距離はほとんどなかった。もはや限りなく0に近かった。女性がすがるように両手を俺の胸元に置いていたからだ。
「これほどご親切になさってくれた方に、そんなことを言ってはいけませんわ」
「いいいけませんってそんな…………」
それはこっちの台詞…
いつしか俺たちは床に座り込んでいた。俺は俺の理由から。彼女は今さらながらのその理由から。最初っからソファに横になっておけばよかったんじゃないのか。そんなこと、言えるはずもなかった。
あー、髪切らなきゃよかった。そうしたら、もう少し視界を誤魔化せたのに。どうして男ってこうなんだ。見なきゃいいとわかっているのに。見ちゃダメだと思っているのに。昔の俺だったら、絶対に目を逸らしていたのに。俺がこんな風になってしまったのは。こんな立派な男になってしまったのは――
…イメージトレーニング。
ようやく俺はそのことに思い至った。至ったというより、ワンセットでついてきた。だが今に限っては、それは全然効かなかった。むしろイメージが膨らんできた。だって、このドレスの色。解けたリボン。見ようによっては近い髪色。濡れた瞳に、囁くような声…
ああ、くそ。どうしてあいつは昨夜に限って、あんなにかわいかったんだ。
思わず逆恨みしかけた、その時だった。
「きゃあぁぁぁー!」
どこからか、その恨み相手の声が聞こえた。俺は瞬時に姿勢を正した。いや、正しかけた。言ってしまえば、正しきれなかった。
「じゃあねえ〜。間抜けなボディガードさん」
そう言って、酔って立てなかったはずの女性が、いきなり立ち上がったからだ。…俺の頬にキスをしてから。うっかりすると自殺してしまいそうだったお嬢様は、今や颯爽と2階のバルコニーから飛び降りる女に変わっていた。呆然と姿を追った視線の先に、それが見えた。
内庭を走り去っていく一台の車。荒野にいた頃に1、2度目にしたことのある、剛速哨戒用エアカー。それに乗り込みながら周囲へ向けて銃を構える女の前に、ハンドルを握る一人の男。そして、それに半ば圧し掛かられているもう一人の女――
「ヤムチャ!?」
「ブ…ブルマ!」
「ちょっと、何よ!何なのよーーー!?」
それはこっちの台詞だ!
思わずそう怒鳴りそうにはなったが、俺は堪えた。すでにわかり過ぎるほどにわかっていた。
俺は嵌められたのだ。


「なんじゃと?ブルマがさらわれた?」
「申し訳ありません、ブリーフ博士」
パーティホールから廊下を隔てた、ホスト側の控え室。そこで俺はありとあらゆる理由から、ブリーフ博士に頭を下げた。ほとんど顔向けできる心境ではなかった。
『間抜けなボディガード』。あの女はそう言った。だがそれすらも過大評価に過ぎる。完全に目を離した。気も逸らされた。おまけに、ブルマがどこへ連れ去られたのかもわからない。慌てて外路へ飛び出した時には、すでにエアカーの後姿さえ見えなかったのだ。間抜けも間抜け、素人以下だ。ああ、情けない……
「ヤムチャくんが謝ることはないじゃろ」
「そうよ〜。ヤムチャちゃんは何も悪くないわよ。悪いのは、その悪い人たちよ〜」
いつもと何ら変わらない柔らかな態度で、博士とママさんはそう言ってくれた。しかしそれに心慰められるはずもなかった。
「ブルマちゃんはどうなっちゃうのかしらね、あなた?」
「そうじゃなあ…」
「警察に連絡しますか?」
とはいえ、いつまでも情けながっているわけにはいかない。虚しくも俺がその名を出すと、博士はすぐに頷いた。
「そうじゃな。それと、パーティもお開きにせんとな」
「まあ、残念だわあ」
心の中ではどうか知らないが、表向きはのんびりと、博士たちは当然の対処法を取り始めた。その時、壁のキーテレホンが鳴った。当然無視するべき内線電話。だが、それはすぐにみんなの目を釘付けた。発信元を示すランプの色が、ありえないものだったからだ。
ホスト不在を怪訝するパーティホールのものではない。やっぱりホスト不在を怪訝する、社の人間の出入りする隣の部屋でもない。主人にせっつかれた秘書たちの控えている部屋でもない。…現在誰もいないはずの、居住区。ブルマの部屋…
数瞬の沈黙の後に、一番近くにいたプーアルが受話器を取った。そして一瞬の沈黙の後に、呆気に取られたように呟いた。
「…あの、どうやら犯人からのようなんですが…博士を出せって…」
「はぁ!?」
ある意味では待ち望んでいた、犯人側からのコンタクト。それに、全員が驚きの声を上げた。
「音声をスピーカーに切り替えてくれるかね、プーアルくん」
受話器をプーアルから受け取りながら、博士が物腰柔らかくそう言った。これは落ち着いているのか。それともプーアル同様、呆気に取られているのか。やっぱり両方かな…
「もしもし。電話変わったよ。ブリーフじゃ」
『おう、博士か。ごくろうさん』
ごく軽い口調で、博士が名乗った。ごく軽い口調で、犯人と思われる男が、それに答えた。はっきり言って、緊張感の欠片もなかった。だが次に博士がそれを口にした時には、さすがに場に緊張感が走った。
「娘はそこにいるのかね?」
おそらくいるには違いないと思いつつも、俺は固唾を呑んだ。見守る暇もなく、犯人がさらに答えた。
『いるよ。元気いっぱいさ。今のところはな。さて博士、さっそく取引だ。今すぐパーティを取りやめろ。そしておまえさん自身が、青写真を持ってこい』
「青写真?」
『パーティで発表するつもりだった新技術のだよ』
「ああ、あれかね」
話はとんとん拍子に進んで行った。いや、進み過ぎた。俺はすぐにそのことに気がついて、ブリーフ博士の肩を叩いた。
「博士、ブルマの無事を確認してください」
「ああ、そうじゃね」
俺に答えた博士の声は、少し高かった。どうやら本当に、そのことに気がついていなかったらしい。俺が思わず呆れかけた時、いきなり怒鳴り声が響いた。
『あんた、青写真っていう言葉の使い方、間違ってるわよ!!』
「ブルマ!大丈夫か!?」
即座に叫んだ俺の言葉は、まるっきり無視された。部屋中に、続くブルマの声が鳴り響いた。
『言うこと聞いちゃダメよ、父さん!こいつらは、パーティと新技術の発表をぶち壊したいだけなんだから!本当にそれだけなんだから!技術の内容なんかどうでもいいのよ!』
『思ったよりも呑み込みが早いな、お嬢様。でも、今は黙っとけ!』
『きゃあぁ!!ちょっとやめてよ!叩かないで!』
「待て!ブルマには手を出すな!!」
今度は受話器を引っ手繰って、俺は叫んだ。だがこの言葉も、まるっきり無視された。
『その基幹組み上げるのに一週間かかったのよ!そのボトルは放っちゃダメ!』
『邪魔なんだよ、ごちゃごちゃと!!』
『父さん、こいつらのこと調べても無駄だからね!テルライズカンパニーのフラウドとライア、そんなの嘘っぱち。きっとただの雇われよ!』
『やかましい!!銃撃ち込むぞ!!』
『ちょっと!やめてったら!!それは一ヵ月かけて作った試作品――』
すでに俺は受話器を取り落としかけていた。プーアルとウーロンが、呆れたように口を開いた。
「何ともなさそうですね、ブルマさん」
「あいつの部屋、きったねえからなぁ〜」
「…………」
俺がすっかり言葉を失ったところで、犯人が叫んだ。
『取引は10分後だ。いいな!』
そして、それきり通話が切れた。…取引の詳しい方法も提示せずに。

数瞬の呆然からいち早く立ち直ったのは、ウーロンだった。
「ひょっとしなくても、頭悪いな、あいつら。黙ってればパーティ止めるとこだったのによ」
「…………」
またもや俺は言葉を失った。…その頭の悪い犯人に騙された俺は一体…
「そうじゃなあ。まあ、話自体はわりとよくあることだよ。少々古い手じゃがな」
相変わらず緊張感の欠片もなく、ブリーフ博士がそう言った。それで俺もついうっかり、その雰囲気に乗っかってしまった。
「そうなんですか?」
「似たような技術を開発していた他会社の仕業だろうね、きっと。おそらく近々発表する予定だったんじゃろ。技術や研究なんてものは、早い者勝ちだからね。犯人は金で雇われた無関係者じゃな。ブルマもそう言っていたが。それだと犯人さえ逃げてしまえば、会社名もバレないからねえ」
「綿密なような、そうじゃないような…」
「ありがちなやり方じゃよ」
…ま、そうかもな。
俺の嵌った手も、ありがちな手だったからなあ。まったく、そんなものに嵌る俺も俺だ。
「『テルライズカンパニー』、フラウド、ライア、と。…ふむ、確かにゲストブックにそういう名前があるね。母さんが呼んだのかい?」
「いいえ〜。全然知らないわ〜。どうしましょう、あなた。警察にお電話する?」
ママさんが少しだけ困ったようにそう言って、受話器を取り上げた。それでようやく気がついた。…そう言えば、警察に電話するなとは言ってなかったな。
「さっぱりわからないな。どうしてブルマの部屋なんかに立て篭もったんだろう。銃は持っているようだけど、それにしても…」
「さあねえ。とりあえず騒ぎを大きくしたいんだろうね。そうすればパーティはもちろん、発表だって潰れるからね」
「念が入っていると言うべきか、そうじゃないと言うべきか…」
「結構なアホだな」
こともなげにウーロンが呟いた。今度は俺は、言葉を失いはしなかった。ウーロンは全然ビビっていない。それがわかった時に、閃いた。そして思った。
ありがちな手しか使えない程度のやつになら、充分通じるんじゃないかな。『間抜けなボディガード』…もう手遅れだとしても、せめて形容詞は外してもらおうじゃないか。


そのものすごく単純な作戦を、俺が簡単に口にすると、途端にウーロンが態度を変えた。
「げっ!や、やだよ、おれそんな役やるの!おれが5分しか変身できないこと知ってんだろ!おまえ一人でやればいいじゃねえかよ。おまえならあんなやつら、すぐやっつけられるだろ」
「大ごとにしたくないんだよ。それじゃ、やつらの思うつぼだ。そりゃ弾なんか掴めるけど、銃声が聞こえるとまずいだろ。だからこれが適役なんだよ。俺とプーアルは飛べば物音が立たないからな。…大丈夫、5分もかけずに終わらせるさ」
特に最後の部分にかなり力を入れて俺は言ったのだが、ウーロンは納得しなかった。だから今度は思いきり軽く、ウーロンの心を揺さぶってやった。
「それに、パーティ潰れない方が、おまえだって嬉しいだろ?」
「く、くっそ〜…わかったよ。その代りちゃんとやれたら、なんか礼くれよな」
「そういうことは助けたやつに頼め」
「ブルマにかよ。…期待できねえな…」
ウーロンはウーロンなりに、現実を受け入れたようだった。プーアルは、説得の必要なし。ブリーフ博士は一つだけ修正を加えて、俺の案に賛成してくれた。
「天井裏が結構広いから、そこを通っていくといいよ。窓ガラスを割るよりは天井を壊す方が、きっと音が出ないと思うよ」
どっちもどっちなんじゃないだろうか。そう俺は思ったが、わざわざ口に出すほどのことでもなかった。それに窓を割ってしまったら、その後ブルマがきっと困るだろう。
「じゃあ、さっそく行くぞ。もうほとんど時間がないからな」
「傍迷惑なやつらだぜ、まったく」
「みんな、がんばってね〜。秘密戦隊みたいで素敵よ〜ん。お揃いのスーツが用意できなくて残念だわ〜」
まったく緊張感なくにこやかに手を振るママさんに、俺は心の中で答えた。
もう充分、お揃いですよ。色までね。


ブルマの部屋から数十m離れた、廊下の端。そこで俺は気を微量指先に集めて、天井の一部を溶かした。
「ウーロン、髭が長過ぎるよ。それじゃ亀仙人さんだよ」
「本人が目の前にいないんだから、しょうがねえだろ。おれは男のことなんか、いちいち覚えてないの!」
足元ではプーアルとウーロンが、ある意味お約束とも言える口論を繰り広げていた。ウーロンが変身能力を使う時にいつもやらかす、例のミステークだ。
「プーアル、行くぞ。ウーロン、今から1分経ったらキーテレホンを鳴らせ。後は犯人の言う通りにしておけ。余計なことは一切せずにな」
「言われなくてもそうするよ」
どうにかブリーフ博士と瓜二つの姿になったウーロンは、苦虫を噛み潰したような顔をして、この上なく不貞腐れた声を出した。…うーん、この態度はどう見てもウーロンだな。大丈夫だろうか。さすがに1秒でバレたりしたら、作戦も何もないな…
焦りというよりは呆れを感じながら、俺はプーアルを連れて、天井裏をブルマの部屋の真上へと飛んだ。ま、ウーロンは絶対に必要というわけじゃない。言わば保険のようなものだ。だいたいの見当をつけて、ごく僅かに足元の天井を溶かすと、ちょうど真下に頭が2つ見えた。何かに座らされ、後ろ手を縛られている様子の菫色の頭。その正面から銃を持った腕を伸ばしている、赤い頭。
「やれるか、プーアル」
「はい、ハエに変身して行きます」
「叩き潰されるなよ」
「変化!」
いつもながらの掛け声は少々大きなものではあったが、それは下からだらだらと流れてくる男と女の声に比べれば、格段に小さなものだった。ふん、相手は正面からしか来ないと思ってやがる。どっちが間抜けな野郎なんだ。
小穴から部屋へと入っていったプーアルは、すぐに俺の目にも見えなくなった。それから手元の時計でさらに1分ばかり経った頃、キーテレホンの鳴る音がした。…ようやく来たな。逃げたかと思ったぞ。そう思いながら、俺は動かないブルマと男の頭を凝視し、耳ではおそらくはキーテレホンへと向かっていく女の足音を聞いた。
「父さん!どうして来たのよ」
作戦開始の合図とも言える第一声は、犯人のものではなかった。強気な人質のその声に、弱気な救出者の声が続いた。
「おれだって、来たくなかったよ。だけど、しかたないだろ」
ウーロンのやつ、すっかり本音が出てるな。
呆れを深めながら、指先に気を集中させた。壊すのではなく溶かすことに、すでに俺は決めていた。消音のためではなく、衝撃を与えないために。
「中には入るな。床に封筒を落とせ」
思っていたよりは慎重な、男の指示が飛んだ。続いて、思っていたよりも大きな、物を落とす音。俺が天井に手を当てた、その時だった。
「変化!!」
この上なく大きな、その掛け声が聞こえた。次の瞬間、指示した通り、ブルマの真正面に枕が現れた。そして指示した通り、ブルマの体を押し倒しにかかった。相変わらずうまいな。俺は少し昔を思い出しながら、一気に天井を溶かしきった。
「はっ!」
まずは男。驚いたように顔だけをこちらへ向けかけたところを、思いきり蹴りつけた。正確には銃を蹴りつけたのだが、正面に回り込んでいたので、蹴りはそのまま胸に入り、一撃で勝負がついた。身を翻すと、慌てたように銃を両手で構える女の姿が目に入った。…遅過ぎるな。
銃を叩き落として、そのまま惰性で懐に入った。先ほど俺の目を釘づけたその胸は、今では全然効力を発していなかった。
さっきはブルマかと思って最初から気を抜いていたから、あんなことになったんだ。でも今は、本物がそこにいる。それに、見てみりゃスタイルはブルマの方が断然上だ!
ことさらそちらへ向けて殴り飛ばすと、女は男に重なるようにして気を失った。まったく、弱っちいやつらだ。やっぱり、前もって言っておいてやればよかったな。俺にケンカを売るな、ってな。
だが、すでに親切をしてやる機会はなくなった。おそらく目が覚めても2人が動けないことは、明らかだった。だから俺は、今だに俺の言いつけを守って微動だにせずにいる、優秀なアシスト役の方へと気を向けた。礼の一つも言わないお嬢様を立たせてやってから、作戦終了の言葉を口にした。
「よし、プーアル、もういいぞ」
言い終わるとようやくプーアルは変身を解いた。軽く腹の辺りを擦るその姿を横目に、改めてブルマの様子を確認した。よし。どこも何ともないな。
「ウーロン、終わったよ。もう出てきても大丈夫だよ」
「本当か?絶対だな?嘘だったら承知しねえぞ」
「本当だってば」
けろりとした声で言い切るプーアルに対し、ウーロンはなかなか事実を認めようとはしなかった。それどころか、部屋に入ってもこなかった。これは勇気の差なのか、それとも変身能力への自信の差なのか。両方かな。
ブルマの腕に残るロープを解きにかかった段になって、やっとウーロンは顔を出した。依然として変身したままのその顔に向かって、俺は言ってやった。
「な?5分かからなかったろ」
っていうかな。自信がないなら、さっさと部屋に入れよ。1分、自分で縮めたんだぞ。矛盾したことやってるよな、こいつ。
ようやく変身を解いたウーロンを見ながら、そう思った。その直後だった。
最後まで当たり前のように事の推移を眺めていた。そう思っていたお嬢様が、いきなり抱きついてきた。俺は完全に虚を衝かれて、意味なくその名を呟いた。
「ブルマ?…」
答えが返ってこないことは、別に不思議じゃなかった。でも、俺の背中に回る腕の力が強まったことは、十分に不思議だった。
…あれ?
ひょっとして、強がっていたのかな?…
まさかとは思うが、泣いてたりとか。おそらくは俺と同じような心境であるに違いない、プーアルとウーロンの視線を浴びながら、胸元にすがりつくブルマの頭を撫でてやった。すると少しだけ間を置いて、いきなりブルマが顔を上げた。
「あたし、バカって嫌い!」
そして唐突に叫んだ。言葉の意味はさっぱりわからなかったが、その声音の意味するところは、はっきりとわかった。
…強がってる。
泣いてないどころか、瞳が潤んでさえいないけど。この、背中にかかる力が何よりの証拠だ。
「はー…」
今日何度か聞いた溜息のどれよりも深い息を一つ漏らして、ブルマは体を離した。そして、得心した俺と得心していない残る2人の作りだす沈黙を、強引に破った。
「さ、さっさと戻りましょ」
やれやれ。
うちのお嬢様は強気だなあ。…あらゆる意味で。


「やあ、ごくろうさま。みんな怪我はなかったかね?」
「みんなの戦ってるところ、ママも見たかったわ〜」
パーティホールへと戻った俺たちを、博士とママさんは、見送る前と何ら変わらない態度で出迎えた。心の中はどうかわからないが、表向きは充分に豪胆だ。この親にしてこの娘あり、だな。
最も、それについては少し前からわかっていた。そして、この親と娘には決定的な違いがあるということは、さらに前からわかっていた。だから、ブルマが一見けろりとした顔で吐いた次の台詞は、俺には意外でも何でもなかった。
「母さん。もうあたし、誰とも話しないからね。絶対に声かけないでよ」
むしろ、今までよくがんばったと褒めてやりたいほどだった。いや、本当に今日のブルマは気が長いよ。長過ぎて、少しうんざりしかけていたよ。外面なんかよくたって、何もいいことないからな。ブルマと俺の場合はな。
「あらぁ残念。みなさんブルマちゃんが帰ってくるの待ってらしたのに。ブルマちゃんの気に入りそうな科学をやっている方も、ちゃんといたわよ〜」
「絶対に嫌!もうあんな思いするのごめんよ!!」
あくまで強気でブルマは叫んだ。…これはほぐしてやるのが大変そうだな。愚痴言ってる場合じゃないな。俺はそこまで思ったが、未だに得心していない人間が一人いた。ウーロンだ。
「あんな思いって何だよ」
「フラウドよ。男の犯人!あいつ科学をやってるだなんて大嘘ついて、あたしを騙したのよ!」
「なんだおまえ、ひょっとして自分でついて行ったのか?そういえば、わりといい男だったもんな」
「どこがよ。それに、あたしはただ話をしただけ!ホストの娘だからしょうがなくね!」
少しばかり意外なこの話は、俺を一瞬、微妙な気持ちにさせた。俺はすぐに男の顔を思い出そうとしてみたが、浮かんできたのはライアの顔ばかりだった。男の方は、ほとんど見ていないからな。ライアと似ているような気はしたが。ライアは…俺を騙していた時のライアは、雰囲気はかわいかったが、でも顔はそうでもなかったよな。スタイルだってそこそこ…標準、ってところだった。ハッタリと雰囲気。それに尽きるな。ブルマと被るところがなければ、きっと流されなかったと思うしな。
結局のところ、俺はそれほど不快感は抱かなかった。あれだろ。男の店員やバーテンダーと話し込むのと同じ感覚だろ。ブルマってそういう、その場の雰囲気を楽しみたい、みたいなところあるからな。だからといって俺を蔑ろにするな、という不満は当然あるが、それはまた別の話だ。とりあえずこの件については大団円…
そう俺は思っていた。ブルマが唐突に、次の台詞を口にするまでは。
「ねえ、ヤムチャ。あんたどうして、あの女と一緒にいたのよ」
「えっ…」
俺は完全に言葉に詰まった。『あの女』が誰かなど、訊くまでもなかった。そして、白を切れる状況でもなかった。
「おれ見たぞ。ヤムチャがあの女に声かけられてるところ」
「えぇっ…」
「腕に抱きつかれてただろ。『酔っちゃった』とか何とか言われてよ。また古い手に引っ掛かったもんだよな、おまえも」
「バッ、バカ!!」
わかってるなら言うな!!…おまえは一体俺に何の恨みがあって…
「ブルマが怒鳴りつけに来ないなんておかしいなと思ってたんだよ。こういうことだったとはな。あーあ。ほんっとしょうもねえなあ、おまえらは。ブルマはいい男と見りゃすぐに尻を追いかけるし、ヤムチャは簡単に女にほだされちまうし。こりゃあもう終わりだな」
「なっ!何言ってんのよ。あたしは騙されたんだってば!あの男の口車に乗せられて…」
「俺だってそうだ。っていうかな、やっつけただろ、俺は!!」
とはいえそれはあくまで結果に過ぎないということは、俺にはわかっていた。再びライアの言葉が心に浮かんだ。『間抜けなボディガード』――…ヤバイ。もはやボディガードにすらなれないかもしれん…
こういう場合の展開としては非常に珍しいことに、俺とブルマは数秒間、黙って顔を見合わせた。『喋らせてさえもらえればわりとすぐに納得させることができる』はずの俺が口を開かなかったわけ。それはもうわかるだろう。
「話し合いましょ。それがいいわ」
だから、思いのほか冷静な声で発せられたブルマのその提案にも、俺は頷くことすらできなかった。そればかりか、思いっきり体を引いてしまった。でも、文字通り俺の襟首を掴んだブルマの手を払うことは、できなかった。
「ヤムチャ様…」
心配そうに呟いたプーアルの隣では、例によってウーロンがいつもの白々しい目つきで、俺たちを見ていた。…わかってる。ウーロンが悪いわけじゃない。俺が浅はかだったんだ。そう思ってはいたのだが、ウーロンが口を開いた時、俺は思わず心の中で叫んでしまった。
「お達者で〜」
バカ野郎!何だ、その台詞は!!


最後まで引っ立てられるようにして、俺は廊下を歩いた。ブルマの態度に納得できなかったからではない。納得したくなかったからだ。
説明しなければならないということはわかっている。だが…
売り言葉に買い言葉。そういう展開になるような気が、ひしひしとするんだ。俺とブルマのケンカには大雑把に分けると2つのパターンがあって、今のこの状況はその1つの方にぴったりと当てはまっている。すなわち、俺に心当たりがある場合。その気はなくとも、客観的には自分に非がある、そういうことをしでかしてしまった場合。しかも今回に関しては、主観的にも自分に非があるとはっきりわかっている。その気はなかった、それだけは胸を張って言えるが、それは免罪符にはならないのだ。特にこういう女絡みのことに関しては。これまで何度もそうブルマに言われたし、今は言われるまでもなく、俺自身がそう思っていた。他の女とブルマをダブらせるなんてな。裏切り…とまではいかないにしても、顔向けできないことに違いはない。
とにかくまずは打擲を受けよう。肉体的にも、精神的にも。俺はそう思って、ただただブルマの言葉を待った。ひたすらブルマが動くのを待った。さっきまではブルマの身を心配していたホスト側控え室で、今は自分の身の置きどころを決めかねて。俺を部屋に放り込み、自分も入ってきたはいいものの、ブルマがドアに向いたきり、俺を見ようとしなかったからだ。ドアが閉まらないとか、そういう話ではない。だいたい、ドアの操作はドア横のコンソールで行うのだ。そして、それがわからないわけもない。ここは勝手知ったるブルマの家の一部分なのだから。
これは相当怒っているな。『顔も見たくない』と見た。それとも、息を整えているのかもしれない。『とっくり話を聞かせてもらおうじゃないの』――ものすごく困るな、それ。今さらこのタイミングでは考えにくいことだが、平手打ちという可能性も一応残っている。どれにしても、またこじれてしまいそうだ。昨日もう1つのパターンのケンカ――俺に心当たりがない場合――の究極形を終わらせたばかりだというのに。
一体どうして、こんなことになったんだ。途中までは俺がちょっとおもしろくなかっただけで、別に何も問題なかったのに。あんなやつらがパーティに入り込んでこなければ。いや、あの女があんなことしなければ。せめてドレスの色が違っていたらな。そうなんだよ。
おまえのそのドレスがな、露出度高過ぎなんだよ。
大きく開いた背中に向かってそう文句をつけた時、いきなりブルマが振り向いた。よもや心が読まれたとは思いたくはないが…ともかく俺は自分の心を押し隠すことに全力をあげた。何とかして説明することを避けたい。今ではそう思いながら、ブルマに怒鳴りつけられるのを待った。その前哨戦として、きつく睨みつけられるのを待った。
だから、ブルマが俯き加減の顔からその視線を寄こした時には、すっかり呆気に取られてしまった。さらに、薄く開けた唇からその言葉を漏らした時には、完全に素に戻ってしまった。
「…おあいこ?」
――こいつも、嘘をつけないやつだなあ…
手を後ろで組んで、拗ねたように呟くブルマのその姿を見て、そう思った。
それがあいこにしようと思ってるやつの態度か。めちゃくちゃ不本意そうな面しやがって。
どうやらブルマは怒りたくとも怒れない心境であるらしい。信じがたいことではあるが、間違いない。いつもなら絶対に怒っているところだからな、ここは。
ふーん…一応は悪いと思っていたんだな。あの男について行ったらしいことが。…まあな、相手は悪者だからな。そういう意味では、いつもの店員やバーテンとは違うもんな。それにいつもは、ちゃんと俺の見ているところで話してるし。ケンカした時なんか、わざわざ見せつけてきたりするし。それがいいことなのかどうかは微妙だが。
「うーん、そうだな…」
ブルマはまたもや動かなくなった。様子見しているのは明らかだ。だから俺は、少しだけもったいつけてから、言ってやった。
「もともと何でもなかったんじゃないか」
特に何を含めることもなく。思っていたままのことを。
きっと価値観の違いだろう。悪者に騙されたのならなおさらしょうがないと俺は思うんだ。いや、俺に限らず、普通は誰でもそう思うんじゃないだろうか。ブルマもおかしなところでプライドを発揮するもんだ。そんなに許せないタイプだったのかな。うーん、どうだったかな…顔、覚えてないんだよな。当然、怒ってなんかもいない。だから、あいこも何もない。もうほとんど、やぶへびに近い。俺のこと空気読めてないっていつも言うけどさ、ブルマだって結構読めてないよなあ。
だがそれは、今に限ってはとてもいいことだ。俺はそう思いながら、一つ意地悪してやることにした。今さっき、もったいつけてみたのと同じ理由から。
「それとも何かあったのか?」
ことさらからかうようにそう言ってやると、ブルマは途端に拳を握って、大声で叫び立てた。
「ま、まさか!!あるわけないでしょ!!」
よしよし。
俺は疑っていたわけではない。カマをかけてみたわけでもない。でも、このブルマの反応には、非常に満足した。
なかなかかわいくて結構なことだ。素直でよろしい。やっぱり悪いと思ってるんなら、それなりに焦ってもらわないとな。こいついっつも、俺にその役をやらせるんだから。心当たりがある場合はしかたがないとしてもだ、昨日みたいに心当たりどころか理由がない時にもそうなんだからな。本当に堪らんぞ。
こうして少しだけその堪らなさを解消した俺は、すかさずブルマにキスをした。一つにはかわいかったから。そしてもう一つには、ブルマに同じことを訊かれてしまわないようにだ。
何もなかったけど。何もなかったけど…ちょっと言えないからな。色香に惑わされたなんて。それだって、ほとんどブルマのせいなんだけどさ。でもそれを言ったらきっと『やらしい』とか言うんだぞ。自分はこんなにセクシャルなドレスを着てるくせにな。まったく、なんだってこいつはこんな格好をして平気な顔でいられるんだろう。一応はお嬢様のくせに、慎みってものがまるでないんだから。本当に堪らんな…
俺は悶々としていたわけではない。もうそんなガキじゃない。だいたい、悶々とするほどお預けを食らっているわけでもない。そもそも昨夜食べたばかりだ。だからこれは純粋にエスコート兼ボディガードとしての感覚だ。でもそれも、もはや必要なくなった。
部屋の外に、人の気配が溢れ返ってきたからだ。気配だけじゃなく、足音も。人の声も。窓の外には、たくさんの迎えの車。どうやらパーティが終わったらしい。 これにはブルマも気づいていたと思うのだが、ブルマは動かなかった。 パーティが始まる前のいそいそとした様子を思い出しながら、俺は言ってみた。
「酒でも飲みに行くか」
ご機嫌を窺おうというつもりはない。もうこの話は終わった。それははっきりしていた。非常に珍しいことに、俺自身が幕を下ろした。だが他方では、自分にはまだ一仕事残っているということもわかっていた。
「どうも中途半端だよな。このパーティってやつは。酒も料理も、雰囲気も。それとも疲れたか?」
だから、自分自身の感覚も取り入れて提案してみたわけだ。実際、酒なんか全然飲んだ気がしないし、料理だって食った気しないし、いくらか食ったぶんはさっき消化しちまったし。放っておかれっぱなしだったし、今キスはしたけど、甘い気分に浸りきれようはずもないし。ま、結果的にはブルマの言っていた通りだな。『会社のパーティなんかつまんない』…理由が全然違うけど。
「平気。大賛成よ!」
ブルマは力いっぱい俺に応えた。素直だな。『平気』ときたもんだ。いや、強がってると言うべきなのかな。どっちにしても、今夜は会話が弾むだろう。…一方的に。そしてブルマがバーテンに目移りすることもきっとない。こいつ、愚痴を溢す時に限って他人を寄せつけないんだから…
とはいえ、俺はブルマの愚痴を聞くことを、嫌だと思ったことはない。こいつ、最後には必ずと言っていいほどカラッとした笑顔を見せるんだ。『愚痴っぽい』のではなく、単なる愚痴なんだ。吐き出してしまえば、後には何も残らない。どこからともなく、上機嫌とかわいさがやってくる。そして大概、一緒にベッドに潜り込むことになる。
そして今日もやっぱりそのようだった。いくら何でも早過ぎるとは思うが、もうその兆候が見え始めた。
「ねえ、着替えあんたの部屋でさせてよ。それから夜も寝かせて。さっき天井に穴開けたでしょ。大きいやつ」
「ああ、あれな。窓を割るよりいいだろうって博士が言うから…」
「どっちもどっちよ。いえ、むしろ天井の方が悪いわ。あれじゃ覗かれ放題じゃない」
…そっちか。またああいう手合いがやってきたら、という心配じゃないのか。強気…というより、喉元過ぎると忘れる方だな、これは。まあ、だから愚痴もさっぱりしてるんだろうが。
「父さんてばあんな力任せのやり方してくれちゃって。てんで頭使ってないんだから」
「ま、確かにちょっと荒っぽかったかもな」
「あれはあんたがいたからこそ使えた手よ。どう考えたって、天才と言われてる人の考えることじゃないわよ」
「それはそうだろうな」
だって、あれは俺が考えたんだからな。当然、自分の得意な方法を取るに決まっている。博士はあまり危機感持ってなかったみたいだからなあ。それこそ天才ゆえに。だが、それは言わないでおこう。愚痴が増えるだけだ。
時折心の中で突っ込みを入れながら、俺はブルマといつもながらの会話を続けた。
…正直なところを言えば、少し不本意には思う。今日は自分でも珍しいと思うことに、はっきりとした不満を持ってもいる。おそらくブルマは次あたり、ママさんのことに触れるだろう。その時俺は自分の不満を確認するだろう。でも、口には出さない。言ったってケンカになるのが目に見えているし、そうじゃなくたってブルマが態度を変えるとは思えないからだ。
だからといって、我慢したりは俺はしない。そういうのは趣味じゃない。俺には俺のやり方がちゃんとある。一通り聞いたら、俺も溢してやるさ。
本人に気づかれないように。たっぷりとな。
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