初一の女
武の道を歩く者に休みはない。例え元日であっても。少なくとも、亀仙流ではそうだ。
最も、そのことについては何ら思うところはなかった。俺は武天老師様のところに昼寝をしに来ているわけではないからな。…してはいるが。それでも時々、修行の内容そのものに疑問を抱くことがある。初めてカメハウスで過ごす正月も、そうだった。
「ふーん、なかなか動きにくいな。体の動きを制限するというわけか」
「別にそういうわけじゃないっすよ。もともとこういうものなんです」
「あ、そうなのか」
「本当に知らないんですねえ、ヤムチャさん」
クリリンの声に、呆れは漂っていなかった。だが、それよりもっと気になるものが、声と顔の両方にあった。何かひどく珍しいものを見るような…。とりあえずはそれを和らげたくて、俺は言ってみた。
「餅(ビン)ならわかるんだがな。その牛と絹でやるという方法には馴染みが――」
「牛と絹じゃなくて、臼と杵。臼に入れた米を杵でつくんですよ」
「米を突く…」
それは全然手応えがなさそうだな。だいたい米って、突いたら粉々になるんじゃないだろうか。
クリリンの説明は、俺に新たな不審を抱かせただけだった。だが、これ以上好奇の視線に晒されるのはごめんなので、俺は結論だけを言うことにした。
「やっぱり、さっぱりわからないんだが」
「わからなくても問題ないっすよ。とても単純なやり方ですから。少しのコツと、あとは力ですね」
「力だけしか必要ないんなら、この動きにくい道着は何なんだ?」
「これはただの衣装ですよ。伝統行事ですから」
俺はすっかり煙に巻かれた。その時、2階からランチさんが下りてきた。それでさらに煙に巻かれた。
「ラ…ランチさん。一体何なんですか、その服?」
思わず俺が指差すと、ランチさんははにかんだ様子で、赤い着物の袖を手元に寄せた。
「やっぱりおかしいかしら。私、着物って着慣れなくて」
「あ、いえ。そんなことありませんよ。すごくきれいです。きれいな布だとは思うんですが、その…変わった作りだなと…」
変わっているどころではない。一体何なんだ、この着物ってやつは。どうして男と女でこうも違うんだ。本当に同じ服なのか?
「それ、ちゃんと歩けるんですか?」
「平気ですよ。サイズはぴったりですし。すぐにお出かけの準備しますね」
そう言うとランチさんは、さっさとキッチンへ行ってしまった。異常に狭い歩幅で。
…新鮮を超えて斬新過ぎる。
俺はそう思いながら、着物の袖に手を入れた。この仕種だけが、俺の唯一慣れられるものだ。本当にこれだけだよな、中華服との共通点は。異国の服って変わってるなあ…
常夏の冬の景色に、イースタン風の衣装。ひどく違和感のあるこの光景に、俺はどこか浮ついた気分でいた。すると突然、玄関のドアが開いた。
「何やってんの、あんたたち。仮装大会?」
やっぱり突然飛び込んできた、見事に正月の挨拶をすっ飛ばしたブルマの態度にも、この時ばかりは俺は呆れなかった。『仮装大会』…そうだよな。そう思うよな。まさに俺もそんな気持ちだ。
浮つきつつもどこか腰の落ち着いた気分を味わっていると、クリリンがそれまで俺に向けていた視線を、そっくりそのままブルマに向けた。
「ブルマさんも着物知らないんっすか?」
「何バカなこと言ってんの、そんなわけないでしょ。なんで着物なんか着てんの?今日は修行はなしなの?」
「今日は隣村で餅つきの手伝いをするんですよ」
「餅つき?へー、こんなとこにまで流行がきてるんだ」
正月に流行なんてあるのか?正月ってのは、もっとこう落ち着いた雰囲気の中で過ごすものだと思っていたが。まあ、どっちみち俺たちには関係のないことなんだからいいか…?
俺の心は再び浮つき始めた。どことなく疎外された気分で2人の会話を聞いていると、プーアルが肩へと飛んできた。俺は無言でその背中を撫でつけた。…こうしてるとなんとなく落ち着くんだ。そうしてなんとなく落ち着いたところで、キッチンからランチさんが、手洗いから武天老師様が姿を現した。
「あけましておめでとうございます、ブルマさん、ウーロンさん、プーアルさん」
「あけましておめでとう、ランチさん」
「やれやれ、やっと出たわい。おやブルマちゃん、おめっとさん。ちょうどいいところに来たのう」
「…何がよ?」
一瞬正月らしくなったと思えた雰囲気は、やはり一瞬にして潰えていた。ブルマと老師様の間に漂う、ある種いつもの緊張感がそうさせた。
「これから餅つきの助っ人に行くところでな。たぶん着るだろうと思うて、ブルマちゃんの着物も用意しておいたぞい。そこの2人の分もな」
「本当に着物なんでしょうね?」
「信用ないのう…」
「自業自得でしょ」
なんとも微妙なこれらの会話は、だが場の空気を掻き乱しはしなかった。いつものことだ。ほとんど風物詩だ。季節感はまるでないが、季節が変わり何か事が起こるたびに繰り返される、謂わば年中行事だ。
「ブルマさん、よろしかったら私が着付けしますわ。お着物も私が見立てたんですよ。きっとサイズも私とそれほど変わらないと思って」
「あら、それなら安心ね。喜んで着させてもらうわ」
そして、それに続くランチさんとブルマの会話も。いつもと少し違うのは、武天老師様が苦虫を噛み潰したようにこう呟いたことだ。
「どういうことじゃい、それは」
老師様の気持ちはわかる。今回に限っては、下心なしの好意のようだからな。それをこうもあからさまに突っぱねられたのでは、不満にも思うだろう。
「自業自得でしょ」
でも、そう言い切ってしまうブルマの気持ちの方が、もっとよくわかるんだよな…

…人形みたいだ。
俺と同じ衣装を着ているはずのプーアルを一目見た時、俺はそう思った。なんというか、違う意味で似合っている。女の子がぬいぐるみに服を着せる気持ちが、少しわかったような気がする。
「プーアルおまえ、なんだかかわいいな」
なんとはなしに俺がそう呟いたところから、一連の会話は始まった。
「そうですか?でもこれ、ちょっと重たいんですよね」
「おまえは服を着ていること自体が重たいんだろ」
さりげなく答えるプーアルに、さりげなく突っ込むウーロン。食べ尽くされた酒釀団子に、少しく渇いてきた喉――
「それにしても遅えな、ブルマのやつ。一体何やってんだ。ちょっくら様子を見てきてやるか」
「どれ、それじゃわしも」
「やめろ、ウーロン」
「やめてくださいよ、老師様」
正月早々さりげなく一悶着起こそうとするウーロンと老師様を、俺とクリリンはいつものように止めた。風物詩の展開を一定の場面で止める。それが俺たち弟子の務めだ。
といっても、実際にはほとんど止められた例はない。時間稼ぎをするのが精一杯だ。
「固いこと言うなよ。正月くらい楽しもうぜ」
「だからって、覗きはダメだろ」
「覗きとは失敬な。わしらはただブルマちゃんがちゃんと着物を着れるのか気になって…」
「老師様、またブルマさんに殴られますよ」
ともかくもどうにか2人を足止めしていると、ようやくブルマが2階から下りてきた。ランチさんと同じく異常に狭い歩幅で。よくそんな危なげな足取りで階段を下りられるものだな。ランチさんはともかく、ブルマはとてもしとやかとは言えないのに。
俺の呆れを超えた感心は、やがて純粋な感心へと変わった。
ランチさんの着ているものよりは幾分柔らかな雰囲気の、鮮やかな桃色の着物。珍しく(というか初めてかな)高い位置で華やかに纏め上げられた髪。そこに散りばめられた小花飾り。…すごくきれいだ。似合っているのかどうかは正直なところよくわからないが、きれいだなっていう気だけはすごくする。
俺が黙って見ていると、ブルマが着物の袖を口元に当てて(この仕種、ランチさんもさっきやっていたな。お約束なのだろうか)軽やかな口調で言った。
「似合う?」
「うん、きれいだよ」
今度は俺はシンプルに答えた。ブルマが嬉しそうに笑ったので、これでいいのだと思えた。しかし次の瞬間、さっきとは違うところが気になりだした。
「なあ、ここどうしてこんなにいっぱい巻き物してるんだ?」
着物の形そのものはもう黙って受け入れるとしてもだ。この帯はどうしたことだ。男の着物に帯が必要なのはわかるが、女の着物って一枚布だろ?どうして留め紐がこんなにたくさん必要なんだ。
俺の至極当然の質問(だよな?)に、ブルマは怒声と手払いで答えた。
「ちょっと、何触ってんのよ。エッチ!」
「エ、エッチってそんな。俺はただこの腹のところが苦しくないのか気になって…」
「姑息なこと言わないで。あんた、亀仙人さんに似てきてるわよ。やらしい!!」
がーん。
俺は傷ついた。ものすごく傷ついた。エッチと言われたことよりも、やらしいと言われたことよりも、武天老師様に似てきてると言われたそのことが、何より一番ショックだった。思わず貝になったところで、クリリンが一言添えてくれた。
「ヤムチャさん、着物を見るのも着るのも初めてなんだそうですよ」
「あら、そうなの。じゃあ、プーアルも初めて?」
「いえ、ボクは幼稚園の仮装で一度着たことがあります」
…やっぱり仮装か…
プーアルのその言葉に、俺は妙に心を落ち着かされた。そういうニュアンスの言葉を聞いたのが、初めてだったからかもしれない。
「どうもしっくりこないんだよな…」
俺がうっかり本音を漏らすと、ブルマは軽く俺の肩を叩きながら、満面の笑みで言い切った。
「何言ってんの。すっごく格好いいじゃない!」
…一体、どうしたものかな。
俺は少なからず躊躇した。これがもし自分自身で違和感のない格好(中華服とか、武着とかだ)をしている時ならば、ただ笑ってブルマの言葉を受け止めたことだろう。はっきり言って、俺は自分が見場の悪い男だとは思っていない(謙遜だ)。でも、今は違う。自分はおろか、きれいだと思っているブルマさえ、似合っているのかどうかわからない有様なのだから。
「餅つきも初めてだそうです」
「へー、珍しいわね」
とはいえ、クリリンがさらに言い添えて、ブルマが口で言うほど珍しがってはなさそうな視線を俺に寄こした時、俺はすべてを吹っ切ることに決めた。
例えお世辞だとしても俺を褒めたということは、誤解だとわかってくれたんだろう。すでにそういう雰囲気だしな。そもそもブルマは、他人、特に俺に対しては絶対に、おべっかは使わない。…つまり、そういうことだ。だから、さっきの台詞は聞かなかったことにしよう。
「ブルマはやったことあるのか?」
「あるわよ。子どもの頃だけど。ニューイヤーパーティとかで、物好きな人が時々やるのよ。男の仕事よね、あれは」
「つきたてのお餅って、柔らかくっておいしいですよね。私、餡子と一緒に食べるのが好きですわ」
「あっ、あたしもそれ好き!」
ふーん。
餅つきは男の仕事で、紅二点はそれなりに楽しみにしている。いつしか賑わい始めた会話の中から、その事実だけを俺は拾い上げた。男?男はいいんだ、気にしなくて。プーアルの気持ちはだいたいわかるし、ウーロンの考えていることは把握してもたぶん無益だ。そして、残る亀仙流の人間は、揃って修行なんだからな。
「どれ、ではそろそろ行くとするかの」
やがて武天老師様がそう言って、ワゴンカーのカプセルを取り出した。それで俺は腰を上げて、今だのんびりと話し込んでいるクリリンを促した。
「よし、じゃあいくぞクリリン!」
「やっぱり今年もやるんですか?」
「当然だ」
他所で修行をする時の前儀式。それをさりげなく流そうとするクリリンの声を、俺は気を入れて捻じ伏せた。元はと言えばクリリンが言い出したことなのに、今さらその態度はないだろう。勝ち逃げしようったって、そうはいかんぞ。
「今年初だからな。気合いを入れてやれよ。ジャーンケーン、ポンッ…あっ!」
「あっ!」
その瞬間、俺は完全にクリリンと声を揃えた。ルールがないにも関わらず、結果はいつもながらの一回勝負。どこからどう見ても、紙と石。こ、これは…
「奇跡ね」
「今年の運を全部使い果たしたんじゃねえのか」
それが、勝者である俺にかけられた、ブルマとウーロンの言葉だった。
「嫌なこと言うなよ」
「じゃあ、おれがドライバーってことで。久しぶりだなあ、運転するの」
心なしか楽しそうに、クリリンは外へと出て行った。…もう少し悔しがってくれないものかな。喜びが半減するじゃないか。
その時にはすでに、玄関前にワゴンカーが用意されていた。運転席のドアを開けているクリリンと、意外そうな顔でそれを見ている老師様。俺は釈然としない気持ちで、開け放たれたままのドアを潜った。助手席側に回り込もうとしたところで、ブルマに着物の袖を引っ張られた。
「奇跡ついでに後ろに座りなさいよ。隣村ならナビする必要ないじゃない。ね?」
「いいけど…?」
わけがわからないままに、俺は頷いてしまった。その明るい声と、いつにも増して華やかな笑顔に流されて。半ば押し込まれるようにして第二列席へ滑り込むと、俺を押し込んだ人間が、袂を重ね合わせながら乗り込んできた。俺の隣へ。ブルマはシートに浅く腰かけるなり、結構な強さで俺の腕を掴んだ。それから、にっこり微笑んだ。
…これは一体、どうしたことだ。
俺は軽く息を呑んだ。なんだかブルマが、すごくかわいいのだが。いや、そんな言い方をしては失礼か。ブルマは地は、一応かわいいんだから。という言い方も、やはりまずいか。とにかくブルマがこれほどそれっぽい素振りをするのは、ここカメハウスでは非常に珍しいことだ。珍しいというより、初めてなんじゃないだろうか。その証拠に、みんなの視線がいつもと違う。クリリンなんかあからさまに驚いているし、いつもはなんら表情を変えないランチさんですら、いつも以上の笑みを浮かべている(『あらあら』といった感じだ)。
俺はかなり困ってしまった。ちょっと恥ずかしいし、なによりこれは明らかに公私混同だ。俺はこれから遊びに行くわけではないのだからな。ブルマにとってはそうなのかもしれないが。
それでも俺は、口に出しては何も言わなかった。みんなも、何も言わなかった。それがどうしてなのかはわかっていた。
すでにここカメハウスには、ブルマのすることに口を出す者はいないのだ。…俺を含めてな。


非常に気恥かしい数十分を過ごした後で、隣村の餅つき会場へと足を踏み入れた。隣村でよかった。俺は本当にそう思った。みんなも少しはそう思っていたに違いない。気まずいという程ではないにしろ、異質な雰囲気であることには違いなかった。武天老師様がブルマやランチさんに何もちょっかいを出してこなかったことからも、それがわかる。
「あけましておめでとうございます、武天老師様。今日はよろしくお願いいたします。もうじき準備が整いますので、縁起ものなど飲んでお待ちいただけますか」
「それはかたじけない。では、お言葉に甘えて」
そして、そういうことをしない老師様というのは、とても高尚な人物に見える。俺たちを迎えた村長さんの態度が、さらにそう思わせた。師匠が尊敬されている姿を目にするというのは、弟子にとっても嬉しいことだ。
「さて、餅つきの準備ができるまで、屠蘇でも飲んで待たせてもらうとしようかの。おぬしらも少しなら飲んでも構わんぞい。ランチちゃん、ちょいと酌をしてくれんかの」
「ええ、もちろんですわ」
いつものようにランチさんに声をかける老師様を見てからも、その思いは変わらなかった。そう、師匠というのは本来こういうものなんだ。悠々と腰を据えて酒を飲む。煩悩も何も感じさせずに。あー、気分出てきたなあ。
自分の立場を順守して老師様とは別の長椅子、その正面に腰を下ろすと、ブルマが右隣にやってきた。まあ、このくらいならいいだろう。俺は老師様に礼節を尽くしたいと考えてはいるが、それをブルマにまで強要しようとは思わない。ブルマには関係のないことだし、そもそも老師様はそういうことにはさほど拘らないお方だからな。
「どうぞ、ヤムチャ様」
だからプーアルがそう言って盃を差し出してきた時、俺はそれを素直に受け取った。プーアルに対してもまた然り。それに、俺とプーアルの関係では自然なことでもあった。だが、それを許さない人物が一人いた。
「こういうのは女のすること!」
…ブルマだ。
ブルマは怒り顔でプーアルから銚子をぶん取って、次の瞬間満面の笑みで俺に銚子を傾けてきた。
「はいヤムチャ、どうぞ〜」
俺は思わず心身共に引いてしまった。プーアルに対する不躾な態度にでも、その変わり身の早さにでもない。そんなことは、もう意外でもなんでもない。ただ条件反射で。いつもとはまったく違う意味合いでの、条件反射で。
「ひょっとしてお屠蘇も知らないとか?」
「そこまで無知じゃないさ」
「じゃあ、はい」
そう言ってさらに銚子を傾けるブルマが、雰囲気あり過ぎだったからだ。もう、そら怖ろしく感じてしまう程のかわいさだ。嫌ってわけじゃもちろんないけど。でも、なんだからしくない。というか、はっきり言って異常だ。俺、何か――って、さっき会ったばかりだよな…
それでも俺は、結局は盃を受けた。何も言わずに。ここでブルマに何か言える人間など、いようはずがない。その証拠に、誰も何も口を差し挟まない。今の俺たちの状態を、意外に思っていないわけがないのに。なにせ俺たちは、いつもいつもケンカをしていると思われているんだからな。空気ではなく言葉で直接、みなはそれをいつも繰り返し俺に教えてくれるのだ。
それにしても、ブルマはどうしてこんなに機嫌がいいんだ。…機嫌、いいんだよな?まさか嫌味でやってたりするんじゃないよな。俺がそこまで考えた時、左隣にいたウーロンがおもむろに言い放った。
「おいブルマ、おれにも一杯注いでくれよ」
なかなかに図々しい、それでいて豪胆な一言を。いつもの態度と言えばそれまでだが。こいつ、調子に乗ってるな。ブルマが機嫌いいからって。それは甘い。甘過ぎるぞ。
俺の感覚は当たっていた。ブルマは当然のように、ウーロンの言葉を撥ねつけた。
「そのくらい自分でやりなさいよ。どうしてあたしがあんたなんかにお酌しなくちゃいけないわけ」
手の平を返したというよりは、至っていつもの態度で。そうだろうさ。いくら機嫌がよくたって、ブルマがウーロンに酌などするわけがない。そんなことが起こったら、それこそ奇跡だ。
「けっ。ヤムチャばっかり贔屓しやがってよ」
「贔屓なんかしてないでしょ。ただあんたを差別してるだけよ」
「あー、そうかよ。そういうことにしといてやるよ。あーあーまったく、素直じゃないね〜」
「わけわかんないこと言わないでよ」
あっという間に2人の会話は、いつもの舌戦へと展開していた。間に俺を挟んでの。この時になって、いよいよクリリンが自らの心中を口に出してきた。
「いいなあ、ヤムチャさん」
…この板挟みの状態がか?
俺は思わずそう返してしまった。…心の中で。
確かに一見、ブルマは俺だけに酌をしたいように見受けられる。だが、それは違うぞ。本人の言う通り、ただウーロンに酌をしたくないだけだ。それと、おそらくは老師様にも。うまく会話を持っていけば、クリリンになら一杯くらいは注ぐんじゃないだろうか。悟空あたりになら、もっと注ぐかもしれん。それとも『子どもにはまだ早い』と言って止めるかな。微妙なところだな…
まあ、そういうことを抜きにして考えても、今のブルマは異常にそれっぽく感じられるが。悪い気はしないが――と言ってやりたいところだが、実際にはそうも言っていられない。とてもそうのんびりとは構えていられない立場だ。
俺は延々と考え込みついに結論を出したが、それを口にすることはやっぱりなかった。この状況でそれらを言うほど、チャレンジャーではない。
「あんたはお屠蘇が許されてるだけありがたいと思いなさいよ!」
「我儘なやつだな、おまえは」
気づけばウーロンが、さらなる火種を放り込んでいた。これはちょっとやそっとじゃ終わりそうにないな。俺はそう考えて、現実的な面から場を治めることにした。
「あ、いや、ブルマ、俺はもういいから。この酒結構強いから、これ以上飲むわけには…」
「えぇー!?」
「これから一修行あるんだから。とりあえずの儀式だから」
俺はここで言葉を切った。というより、これ以上言葉が見つからなかった。…情けないな。思わずそう思ったが、それが『情けない』では済まされないことを、次の瞬間知った。
「残念だったな。どうしても注ぎたいってんなら、おれが受けてやってもいいぜ」
「お断りよ!」
2人の舌戦がスタート地点に戻ったからだ。…おいおい、ウーロン。いい加減頼むよ…
俺はもう完全に、場を去りたい気持ちになった。すると老師様が、それを示唆してくれた。
「やれやれ。おぬしらも何というか…ま、後でゆっくりやるんじゃな。餅つきが終わったら、少し時間を取ってやるわい。わしらは餅も食べ放題じゃからの。さて」
すばらしいタイミング。やっぱり、そういうことをしていない老師様は、頼りになるお方だ。
「その餅をつきにゆくぞい。働かざる者食うべからずじゃ。正月といえども気を抜くでないぞ」
「はい!」
俺とクリリンはいつも以上に意気揚揚と、声を揃えた。クリリンの目にはもう、先ほどの夢見るような気配は微塵もなかった。どうやら、クリリンにもようやくわかったようだ。俺の立場の大変さが。ちょっと言い合いをしていれば『またケンカ』と言われるし、ちょっと仲良くしていればウーロンがこんな風に絡んでくるしで。本当に大変なんだぞ。
当の本人であるウーロンは、もうまるで興味がなさそうな顔をして、手酌で屠蘇を飲んでいた(初めからそうしていてくれ)。もう一方の本人は、少しばかり胡散臭そうな目つきをして、俺たち師弟を見ていた。俺に対するその気配が一層濃厚であることに、俺は気がつきたくなかったが気がついた。これは一日の修行が終わった後が大変そうだな。そう思いながら、老師様の後に続いて席を立った。
今は修行だ。そのことだけを考えよう。まだ半日あるから、その間にブルマの不満も和らいでくれるかもしれないし。…無理かな。どうかな…
すでに修行のことだけを考えられる状態ではなかったが、俺はそういう自分を無理に強制しようとは思わなかった。そんなことをせずとも、すぐに自ずとそうなれるということを知っていたからだ。そして、今日に限っては、それはいつもより格段に早かった。
ソテツの並木を隔てて会場の隣に用意されていた、見慣れない道具。2本の棒と、数え切れないほどのそれを同時に視界に入れた時、すでに俺の意識は目の前にあるもののみに向けられた。
「わっ!何これ。どうしてこんなに臼がいっぱいあるわけ!?」
何やら驚いているブルマを横目に、俺はそこへ行ってみた。すぐにクリリンがやってきたので、俺もすぐに訊いてみた。
「どっちが臼で、どっちが杵なんだ?」
「こっちが臼で、こっちが杵。臼の中に餅米を入れて、杵でこう…」
ここでクリリンは杵とやらを振りかぶってみせた。
「…つくんですよ」
「粉々にならないか?」
「米は先に蒸かしてあるんですよ。潰れて最後に纏まって餅になるんです」
「なるほど」
「一度つくたびに捏ねる必要があるんですけど、それはたぶん老師様がやるんじゃないですかね。俺たちのスピードに普通の人がついてこられるとは思えませんから」
ここですでに俺の気持ちは、かなり修行に向いていた。いつもならば修行内容を聞いた際に感じてしまう『出鼻を挫かれる感』のようなものも湧かなかった。俺にとっては、この餅つき自体が新鮮なのだから。さらに視界の隅に見えた老師様とブルマの様子が、俺の気持ちを後押しした。老師様はとても和やかにブルマと話をしていた。いつもと違って、何のちょっかいを出すこともなく。ブルマが怒っていないので、それがわかった。
「では始めるぞい。つく餅は600kgじゃ。わしがそれぞれのついた餅を捏ねて回るからの。各々つく時は声を出すように。手をつかれてはかなわんからのう」
やがて老師様がそう言って、着物の袖を捲り上げた。次にクリリンが袖を捲って、杵を振り下ろした。最後に俺も袖を捲って、杵を振り下ろした。
「せっ!」
「ほっ」
「せっ!」
「ほっ」
クリリンが声をかけ、老師様がそれに答える。俺が声をかけ、老師様がそれに答える。一定のリズムで繰り返される反復運動。少し緊張感に欠けるかな。そう思わないでもなかったが、それほど強い思いではなかった。老師様の修行はほとんどすべてがそんな感じだ。もう慣れた。まあ、完全に吹っ切るまでにはそれなりの葛藤があったが。ある一つの事故を経て、俺はこの心境に達した。…あれはな。かなり情けなかったからな。おまけにブルマが淋しがってたことにも気づけなかったし。いろいろと教訓になった出来事だ。
そんなことを考えていたのも初めのうちだけで、俺はやがて完全に杵を振り下ろすことに集中した。クリリンの言っていた、『僅かのコツと、力』。いつしかそれだけが念頭にあった。やはり武道はいい。身をやつしている間は、すべてのことを忘れられる。体を動かすというのは、俺の性にあっている。本当にそう思う。
1時間近くも経っただろうか。確かに餅と思われる匂いが、臼からしてきた。老師様が捏ねるのをやめたので、俺たちも杵を手から放した。途端にプーアルが、俺のところへ飛んできた。
「お疲れ様です、ヤムチャ様!」
「まあ、汗は掻いたけど、それほど疲れはないな。薪割りみたいなものだな、これは」
「あー、確かに。そう言っておけばよかったかもしれませんね」
「わしゃ、ちょいと腰が痛くなったがの」
老師様が背中を擦りながらそう言ったので、俺はふと会話に参加していない面々の方へと目をやった。少し離れたところに黙って笑いながら佇んでいたランチさんは、依然として大人しい方のランチさんだった。なぜ彼女を確認したのかというと、老師様がこの手のことを口にした日には、ランチさんに体を揉んでもらうのが常だからだ。ただそれだけのことだった。でも、それだけのことではないような気のするものが、彼女の隣に見えた。
着物の袖を口元に当ててやっぱり黙って佇んでいるブルマは、妙にしとやかに見えた。いや、しとやかというよりはちょっと…さらにちょっとどころか、思いっきり溜息を吐いているところを、俺は見てしまった。
「ブルマ、どうした?着物に疲れたか?」
それで、少しばかり遠回しに訊いてみた。言葉は何でもよかった。…とはいえ人は、自分がそうであると他人もそうだと思ってしまったりするものだ。特にこの、女の着物はものすごく動きにくそうだからな。
ブルマは一瞬表情を固まらせた。次に、さっきまでの不満そうな顔を蘇らせた。…マズい。やぶへびだったか?そう俺が思った時、さらに違う顔を見せた。
「ううん、平気。ちょっとお屠蘇飲み過ぎちゃった」
言いながら俺を見上げて、はにかんだように小さく笑った。両の袖を軽く持ち上げて。それがまたすごくかわいかった。なんというか、何かをくすぐるような仕種だ。俺がこれまで、一度も見たことのないものだ。
一体、どうしたんだろう。
ずいぶん浮き沈みが激しいな。ブルマの気が変わりやすいのなんてとっくにわかってたことだけど、こんな風に目の前でころっと変わったことなんて、あっただろうか。…あったか。あったどころか、しょっちゅうだな。にっこり笑ってみせた後でいきなり怒り出したりするからな、ブルマって。でも、その逆は初めてなんじゃないだろうか。初めてじゃなくとも、非常に珍しい。いや、やっぱり初めてかもな…
そんなことを、ブルマの視線を避けながら俺は考えていた。そう、視線。ブルマからの視線が強かった。さっきとは違う意味で。いつもとは全然違った意味で。
なんか、すごく甘い瞳をしてるんだ。絶対に気のせいじゃない。だって、俺はこの瞳を知っている。まだ俺とブルマが出会ったばかりの頃、本当に最初の頃、俺が都に出たばかりの頃、ブルマが俺に見せてくれていた瞳だ。…俺、何か思い出させるようなことしただろうか。俺は何も思い出していないんだが。この瞳以外には。
帰りの車内もこの調子だったら堪らんな。俺はだいぶん困った気持ちになって、そう思った。嬉しくないわけではないのだが、やっぱり堪らん。せめてそういう気分を出すのは、みんながいない時にしてくれないかな。俺はてっきり、ブルマも俺と似たような感覚を持っているものだと思っていたんだが。今までずっとそうだったから。みんながいない時でさえ、たいして甘くならないような感じだったのに…
最もこの困惑は、それほど長くは続かなかった。ソテツ並木の切れ目を通って会場へと足を踏み入れた時、ふいにブルマが叫んだのだ。
「わー、餡子がある!さっそく食べようっと!」
そしてあっという間に、異常に狭い歩幅で駈け出していった。それを見て、さっきも思ったことを、俺はまた思った。
…変わり身、早いな。
『色気より食い気』ってやつなんだろうか。なんだか悟空みたいだな。それにしてもブルマって、そこまで餡子好きだっただろうか。これがイチゴに対する反応なら、まだわかるんだが…
「あっ、おいし〜」
とはいえ現実に、ブルマが非常においしそうな顔をして餡と餅を食べ始めたので、俺は考えることをやめた。考えるほどのことでもない。それにはっきり言って、すごく助かった。
俺はすっかり気を抜いて、ブルマから目を離した。会場内はなかなかに賑わっていた。餅に群がる村人たち。赤い布の上に置かれた杵と臼を、物珍しそうに弄り回している子どもたち。ところどころに設えられた赤と紫の長椅子。そしてその頭上には同色の異国風傘。周囲を囲むソテツに括りつけられたしめ縄…
今改めて見てみると、この会場もかなり異質だ。来た時には感じなかったが(というか、観察できるような心境じゃなかった)。ここには何度か来たことがあるが、こういう風に見えたことはなかったな…
俺は再び違和感に襲われた。やがてそれはさらに強まった。異質な会場の一角から、異質な声が聞こえてきたからだ。
「ねえ、ランチさんも食べたら?餡餅、好きなんでしょ。その間、あたしが亀仙人さんにお酌していてあげるから」
言いながらランチさんに皿を差し出しているブルマの顔は、まったく邪気のない笑顔だった。それには全然違和感はない。ブルマとランチさんは、意外にも仲がいい。ブルマが 彼女を慮っていることにも、それほどの違和感はない(いつもはたいてい逆だが)。だが…
「こりゃあ珍しいこともあるもんじゃわい」
「ちょっとだけよ。変なことしたら、お屠蘇ぶっかけるからね!」
多少のらしさを覗かせながらも、ブルマが武天老師様の隣に自ら腰を下ろしたので、俺は本当にびっくりした。『亀仙人さんなんか放っておいて食べたら?』。ブルマの場合、こう言う方が自然だ。老師様本人も、珍しいとおっしゃった。他人の目から見ても、十分に異常な事態――
…俺、ちょっと離れてようっと。
俺はブルマを怖れていたわけではなかった。ブルマにだって、かわいいところはちゃんとある。そんなことわかっている。でもそれが、武天老師様にまで向けられているとなると…
『そら怖ろしいほどのかわいらしさ』。さきほど酌をされた時に感じたそれを、俺は思い出していた。
かわいいのはいいのだが。それはとても歓迎すべきことなのだが。でも、困ってしまうのもまた事実だ。
「なんかブルマさん、すごく機嫌いいっすねえ」
ふいにクリリンがやってきて、そう言った。皿と箸を一組俺に差し出しながら。
「そうみたいだな。正月だからかな」
「何かしたんすか、ヤムチャさん」
「俺が?どうして」
「だって今日のブルマさん、いつもと違っていかにも彼女って感じするじゃないっすか。いいな〜。おれも彼女ほしいなあ」
クリリンは何やら気になる表現で、ブルマの異常を認めた。…まあいいけど。
「あー、腹減った。さてと、おれは納豆からいこうかな」
そして例によってさっくりと、話を流した。『彼女がほしい』そうクリリンは時々言うが、それほど本気でほしがっているとも思えない。少なくとも武天老師様やウーロンに比べれば、淡泊とも言えるほどの女性への執着のなさだ。…いや、そっちを基準に考えるのは危険か。そうだな、きっとクリリンが普通なんだろうな。
俺も普通を保っていこう。そう俺は自省しながら、少し気になったことを訊いてみた。
「納豆なんかどうするんだ?」
「どうするって、餅に入れるんですよ」
「えっ、納豆を餅に!?」
「結構メジャーな食べ方ですよ。知らないっすか?」
クリリンは意外そうな顔で俺を見たが、はっきり言って俺はちっとも気にならなかった。朝、着物を着た時に浴びた視線に比べれば全然マシだ。
「納豆だけで食べる人もいますし、大根おろしやネギを入れる人もいますし。その辺は適当ですけどね」
「なんかメシみたいだな」
「まあ、似たような味ですよ」
朝、着物を着た時とは違い、さくさくと会話は進んだ。さくさくとクリリンが納豆を餅に入れた。俺もさくさくと、それに倣った。そうして、いざ箸をつけようとした時だった。
「ちょっとヤムチャ!何、納豆餅なんか食べようとしてんのよ!」
忘れかけていた彼女の声が、どこからともなく飛んできた。同時に手も飛んできた。箸を奪われながら貰った言葉に俺は思わず納得して、残された手元の皿を見つめた。
「ああ、これ納豆餅って言うのか」
「もうヤムチャさん、いちいち新鮮なんだから…」
「いや、そのまんまの名前だなって思って」
イースタンの言葉って、直截的だな。『着物』に『納豆餅』。なんとも誤解しようのない名前だ。『餅つき』も知ってしまえばそうだよな。
そう思ったら、途端に心が落ち着いてきた。だが一つだけ、俺を落ち着かせてくれないものがあった。
…ブルマだ。
「納豆なんか食べちゃダメ!」
「何で?」
「そんなの食べたら、後で困るでしょ!」
「後で何が?」
「あー、もう!!」
なんだかさっぱり言うことが要領を得ない。はっきり言って、らしくない。怒っているのはわかったから、どうして怒っているのか教えてくれ。いつもなら二言目にはそういうことを言ってくるのに。平手打ちや無視をするほど怒り狂っていない時だけだけどな(そして今はそういう時だ)。
「ちょっとこっち来て、ヤムチャ!」
はいはい。
心の中でそう答えてから(口にするほどバカじゃない)、今やすっかりいつも通りの様子となったブルマの後について行った。…襟首を掴まれながら。この着物ってやつも、便利なんだか不便なんだかわからんな。どうしてこうも捕まられやすいんだ。やっぱり、道着に似ているな。胸も取りやすそうだしな。
ぽかんとした顔で俺たちを見送るクリリンが、他の村人たちの陰に隠れて見えなくなった頃、ようやくブルマは足を止めた。そして振り向きざま、厳しい口調で再び怒り始めた。
「あのね。納豆なんか食べたら、匂いがするでしょ。匂いがしたらできなくなっちゃうでしょ」
「だから何が…」
俺はさすがに呆れを感じて、だが結局は同じ台詞を吐いた。本当に全然的を得ないな。怒っているのはいいとしても、何だってそうくだを巻くんだ。
「キスが!初キスが納豆の味なんてやーよ、あたし」
「は…」
初キス?
俺は思わず呆然としてしまった。それは何か違うんじゃないか。だいたい、どうしていきなりそういう話になるんだ。そんな気配が一体どこに――
…あったか。思いっきりあったな。俺にだってわかるくらい。わかり過ぎて困るくらい。実際、俺は困っていた。そして、今も困っている。さらにこの先、もっと困ることとなった。
「っていうか、今してよ」
ブルマが、非常に強い眼光を閃かせて、そう言ったのだ。それは絶対に、冗談を言っている口調ではなかった。
「そうよ。今してよ。そしたら納豆食べてもいいから。今なら袴姿だし、ちょうどいいじゃない」
「…さっぱり意味がわからないんだが」
くだを巻いているを超えて、支離滅裂だ。本気だということ以外、何もわからん。
だが、次の瞬間ほとんど鼻がくっつかんばかりの距離でブルマが声を上げたので、ようやく俺は気がついた。
「袴着てるうちにしたいの!格好いいから!」
「う…」
…酒臭え。
ブルマのやつ、めちゃくちゃ酒臭いぞ!一体いつの間に飲んだんだ!?全然、気がつかなかった。
「ね?いいでしょ。キスして!!」
「え…ああ。…今はちょっと。じゃあ後で…」
すべてが腑に落ちた俺は、ブルマに対する態度を切り替えた。酔っぱらいをまともに相手にするな。それが世界の常識だ。例え国が変わろうとも、これだけは変わらない。
「やだ!あたしは今したいの。今、キスしたいの!!」
…そして、酔っぱらいは簡単には後へは引かない。それもまた、常識だった。
一体、どうしたものかな。
腑に落ちてもなお、俺は困っていた。するとふいに背後から声が聞こえた。
「おまえ、何してんだ。大声出しやがって、恥ずかしいやつだな。しょうがねえな、どうしてもキスしたいってんなら、おれが相手してやってもいいぜ」
いつの間にかウーロンが近くまで来ていて、一見親切そうな面構えでそう言った。すでに必然とも言える流れで、ブルマがウーロンを怒鳴りつけた。
「うるっさいわね!あんたに用はないのよ!!あたしはヤムチャとキスしたいの。今!ヤムチャと!キスしたいの!!」
「ちょっとブルマ、そんな大声で――」
ウーロンも、そういう無駄なちょっかいを出すのはやめてくれ。
それを口に出す暇はなかった。気づけばウーロンだけではなく全員が集まってきていて、ほとんど聞こえるように言っているとしか思えない内緒話を、遠巻きに始めていた。
「まあ、どうしましょう。私がお屠蘇を勧めたばっかりに」
「ブルマさんって、酒乱だったんですね…」
「いや、この我儘は地だろ」
「所謂、キス魔というやつのようじゃな」
「でも、誰でもいいわけじゃないみたいっすよ」
「だから地なんだって」
俺は思わず天を仰いだ。もう他に、どこに目をやればいいのかわからない。
とはいえ、それすらも許してくれなさそうな人物が一人いた。ブルマはすでにウーロンを相手にするのをやめたらしく、じっとりと半ば据わった目で俺を見ていた。
体に突き刺さる、周囲からの強い視線。心に突き刺さる、目の前からの強い目線。
「ああ、ええと…ブルマ、とりあえず場所を変えよう。な?」
当然、俺は後者を取った。同時に、この場から去りたい欲求も満たすことができる。俺はいつだって、真面目に修行してきた。きっと老師様も理解してくださるはずだ。
「またそうやって誤魔化そうとしてー」
「いや、誤魔化してないから。ここは人目が気になるから車に…」
「本当?」
「ほんと、ほんと。…………ちょっと車の中に押し込めときます」
それでも一応ブルマの隙を見て俺が本当のことを告げると、老師様は淡々として俺の期待を裏切った。
「ま、適当に応えてやるんじゃな」
うは…
「30分ほどしたら、わしらも行くからの」
30分…
長いなあ。いや、短いかな。30分で酔いが醒めるだろうか。醒めたからといって、落ち着くだろうか。
依然として困惑しながら、俺はブルマの背を押して歩いた。今はこうするより他にない。それにしても、ブルマはいつから酔っていたんだろう。どこまでが素で、どこからが酔いなのだろうか。
「ねっ、手繋いで」
ふいにブルマが顔だけを振り向けて、そう言った。その瞬間、俺は気づいた。
俺を見るブルマの目が、あの頃と同じであることに。俺たちが付き合い始めたばかりの頃、まだ軽い言い合いにさえもそれほど慣れていない頃、ブルマが俺に見せてくれていた、素直で直截的なあの瞳。それはとても酔っているとは思えないほどに、きれいな瞳だった。
「えへへ」
言いようのない空気に流されてブルマの手を握ると、ブルマはおもむろに顔を上げて、はにかむように軽く笑った。俺と繋いだ方の腕だけを、大げさに振り回しながら。それはとてもしとやかとは言えない仕種だったが、ものすごくかわいかった。なんというか、ブルマらしいかわいさだった。
「るーっるるっるるんる〜ん♪」
微かに耳に入ってくるブルマの鼻歌を聞きながら、俺は一瞬天を仰いで考えた。
30分…
…さて、どうしたものかな。
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