聖日の女
女の子の存在って大きいなあ。
昨年C.Cで思ったことを、今年はカメハウスで、俺はつくづく思っていた。
朝雨の降る冬のある日。目覚めた時には、ただそれだけの一日だった。朝の修行を終えた後でも、そうだった。でも朝食を食べ終えて、いつもよりさらに慇懃に食後のコーヒーを出された瞬間に、そうじゃなくなった。さりげなく新しいカップに挿げ替えられて出てきたコーヒーには、さりげなく2粒の丸いチョコレートが添えられていた。
「どうしたんすか、ランチさん。今日って何かありましたっけ?」
おそらくは目の前の事実そのものについて、クリリンは訊ねていた。俺はと言うと、やっぱりクリリンと同じ思いで、それらを差し出した女性を見ていた。
「バレンタインのチョコレートですわ。チョコレートケーキを焼こうと思ってるんですけど、チョコを買い過ぎちゃったので、とりあえず作ってみたんです。ケーキはお茶の時間にお出ししますね」
ランチさんは実に自然な笑顔でそう言った。それで俺も自然とその事実を受け入れた。少しだけ意外を衝かれながら。
「そうか、今日はバレンタインデーでしたか。ランチさんはいつもそういうことをするんですか?」
自然な気持ちで口に出したこの台詞を、去年別の場所でも言っていたことに、俺はすぐに気づいた。とはいえ、懐かしさに浸ることはなかった。告げられた事実が、思いのほか意外性溢れるものだったからだ。
「去年は、チョコレートクッキーを山ほど用意されたんでしたよね」
「去年は悟空さんがいらっしゃいましたから。あの時はお店を5軒ほど回って、そこにあるチョコレートクッキーを全部買い占めてしまいましたわ」
「ほっほっ。ランチちゃんはよく気のつくおなごじゃわい」
「それなのに悟空のやつ、『なんだこの甘ったりい煎餅』とか文句を言って。でも結局、全部食べたんだよなあ」
「あやつは罰当たりもいいところじゃ」
和やかに繰り広げられる一連の会話を、俺はひたすらに心楽しい思いで聞いていた。ものすごく納得のできる話だ。ほとんど目に見えるようじゃないか。唯一わからないことがあるとすれば、悟空がバレンタインの意味をわかっていたかどうかだ。…いや、きっとわかってなかっただろうな。
そう考えた時、俺の想像はよりたくましいものになった。今ではその時の悟空の表情すら、思い描くことができた。だってあいつはいつだって、わかることもわからないことも、同じように受け止めるんだからな。
『ま、いっか』
その声が脳裏に響き渡った時、老師様が言った。
「さて、では今日の予定を伝えるぞい」
意外と言うほどではないが、まったくいつも通りではないことを知らせる言葉。時折イレギュラーな修行を行う際に発せられる、定番の台詞を。
「今日は日中の基本となる修行を、まずすべて終わらせてしまうことにする。それから間伐をするぞい」
「間伐、ですか」
「ああ、もうそんな時期なんですねえ」
「場所は北の山岳地帯。午前中にひと山、午後に最低でもふた山じゃ。やり方は、クリリンはわかっておるな。ヤムチャよ、おぬしはどうじゃ?」
「以前一度やったことがあります。山ではなく林でですが」
正確に言えば、個人宅の庭だ。C.Cの外庭。懐かしいな。ほぼ一年前だな、あれは。
「ふむ。では説明は不要じゃな。山は10山以上あるからの。心してかかれよ」
「はい」
やや語気を強めた老師様に感化されて、俺は態度を改めた。ほのぼのと思考に耽っていい時は過ぎた。今はもう、気を引き締めるべき時だ。
さほど珍しくもない心境でカップを置くと、老師様が腰を上げた。次の瞬間俺は、さほど珍しくもないにも関わらず未だに意表を衝かれてしまう現実を目の当たりにすることとなった。
「では、さっそく湖に行くとするかの。今日は少々ピッチを上げていくぞい。ランチちゃん、何かお手伝いすることがあったら、わしに声をかけてちょうだいね〜」
厳しい師匠然としていた老師様の顔は、すでに言葉の途中から、お茶目な老人のものになっていた。
…女の子の存在って、大きいよな。


一度目の間伐を、俺はブリーフ博士に頼まれて、材木業者の代わりにやった。今回は老師様のお指図で、おそらくはどこかの村人の代わりにやる。非常によく似た話ではあるが、俺の受けた感触は天と地ほどに異なっていた。
――なんという楽しさだ。
C.Cの庭でやった時も結構楽しかったものだが、今回はあの時とは比べものにならないくらい楽しい。理由は、やり方が全然違うからだ。木を切り倒す助力となる追い口を作ったり、木の角度を考慮したりする必要が、今はまったくないのだ。そんなことをせずとも、蹴り一つで倒せるのだ。この事実は俺の心に大きな喜びをもたらした。
俺、強くなってる。
これまではそんなこと欠片ほども感じなかったが、今は感じる必要もないままに事実が目の前に見えている。次から次へと倒れていく灌木。絶え間なく立ち込める砂塵。そして、何も言わない老師様。
はっきり言って、俺はものすごく充実していた。これまで行ってきたどの修行の時よりも、充実した気分であったと言い切れる。
「でやぁーーーっ!」
「とーーーっ!」
近くから遠くから聞こえてくるクリリンの声だけを意識して、それに負けないスピードで声を上げることだけを考えて、俺は適当な木に蹴りを入れ続けた。だから、まったく気がつかなかった。
いつしかブルマたちが来ていたらしいことに。気がついたのは、午後のひと山目を終えた後だ。
「よし」
「こんなもんっすかねえ」
足を止めた俺の視界にクリリンが入ってきて、そう言った。それを受けて老師様に終了の報告をしようとした、その直後だ。切り替えた視界の中に、歩みを止めた老師様の姿が見えた。その時だ。
「おぬしら、終わったならさっさと帰るぞい。少々時間をオーバーしてしもうたからの。ほれ、こうしてブルマちゃんも来ておることじゃし」
「ちょっと、どこ触ってんのよ!このエロじじい!!」
どうやらまた何か被害を受けたらしいブルマが、老師様の頭上に固めた両の拳を振り下ろした。その瞬間だ。
「…………」
「…………」
俺とクリリンは完全に呆気に取られて、それを見ていた。情けないことに、見続けていた。もう珍しくも何ともないことだとはいえ、やっぱり未だに、こういう時ってどう反応すればいいのかわからない。
「あのー、ブルマさん」
それでも俺が感心したことにクリリンが、ブルマにそう声をかけた。だが、ブルマは一言の元に、クリリンの存在そのものを撥ね除けた。下から掬うようにクリリン(とたぶん俺も一緒くたに)を睨み据えて、こう言った。
「何よ!?」
「い、いえ。別に…」
クリリンはすぐさま身を引いた。その理由は俺には過ぎるほどにわかった。この場面で『こんにちは』もないだろう。…それ以前に、ブルマが怖過ぎだ…
まったく、困ったものだな、老師様にも。そう思いながら、今度は俺が声をかけた。
「…あー、武天老師様。間伐、一通り終わりましたが…」
俺は別にブルマを無視したわけではない。ここはこう言うより他にはないと、わかっていた。
「よろしい。では、帰ってお茶にするかの。ランチちゃんが首を長くして待っておるだろうて」
すると途端に、老師様が師匠の顔に戻られた。おそらくそうなってくれるだろうことが、俺にはわかっていた。これまでの経験で。たぶんクリリンもわかっているんじゃないかと思うのだが、クリリンは俺よりもブルマに対する耐性がある(それともないと言うべきなのかな、これは)ので、先に一声かけてしまうのだ。
まあそんな感じでほとんど有耶無耶のうちに、俺たち亀仙流は徒歩で、C.C組は乗ってきたエアジェットで、カメハウスへと向かった。
たいてい、いつもこうだ。俺とブルマは、会いがけがまともであった例が、ほとんどない。
困ったものだな、老師様にも。どう考えても女の子のせいじゃないよな、これは。


カメハウスへ辿り着くと、C.C組が先に着いていたにも関わらず、俺たちを待っていた。ハウスのドアも開けずに。プーアルとウーロンがそうしていた理由はわからない。だがブルマがそうしていた理由は、俺にはわかった。
これはお灸を据えられるな。なぜか俺が。そう思った時だった。
「3時のお茶が済んだら、もうひと山じゃ。今の山は少し時間がかかり過ぎじゃ。いつまでも気合いだけではいかんぞい。対象をよく見よ。自分の動きを常に意識せよ」
まったく予期していなかった方向から、お灸が据えられた。クリリンがどう捉えたかはわからない。だが、俺には老師様の言葉は十分にそう感じられた。はっきり言って、図星をつかれていたからだ。
楽し過ぎて、我を忘れていた。完全に力だけで蹴りを放っていた。力だけではダメだ。老師様はいつだって、それを教えてくれていたはずなのに。俺だって、そんなこと知っていたはずなのに。
さすが老師様。そして、申し訳ありません。
俺はすっかり反省した。公と私、両方からの情けなさを感じながら、カメハウスのドアへ向かった。するとふいに華やいだ声が耳に届いた。
「おかえりなさい、みなさん。ちょうどチョコレートケーキが焼き上がったところですわ。あらブルマさん、こんにちは」
「こんにちは、ランチさん」
…やっぱり、女の子がいると違うよな。
俺は深く感じ入りながら、みなに続いてドアを潜った。なんていうか、一瞬で情けなさが払拭された。もちろん消えたわけではないが、心の片隅に追いやられたことは確かだ。いつもながらのにこやかなランチさんの笑顔と、それに答えるブルマの笑顔がそうさせた。
そう、ブルマはランチさんに対しては、ほとんどいつも完全に笑顔なんだ(あ、青髪のランチさんに対してな)。そしてそういうブルマを見ていると、俺もなんとなく自然に顔が綻ぶ。女の子って、不思議なもんだ。
ランチさんはとりたててブルマに言葉を返すことはなく、ただ笑ってキッチンへ消えた。彼女はたいていいつもそうだ。まずは笑って実際にもてなす。話はそれからなのだ。
「ランチさんの作ったチョコレートケーキ、とてもおいしいですよ。でも亀仙人様、あまり食べ過ぎないでくださいよ。糖尿病になってしまいますからね」
「なんちゅうことを言うんじゃ。それにカメの分際で、わしより先に食べよったのか」
「少し味見させていただいただけですよ」
「ウミガメさんにお手伝いしていただいたんです。とっても助かりましたわ」
「おまえ、そのなりで何を手伝ったんだよ?」
「チョコレートを溶かすボールを押さえたりとかですよ」
「そんなの、おれにだってできるぞ」
いつもと同じ和やかな雰囲気の中で、いつものように流れていくなんということない会話を、俺はほのぼのとした気持ちで聞いていた。…途中までは。途中から、少しだけ違和感が湧いてきた。
なんだか、ブルマがおかしい。
おかしいと言ったら失礼かな。でも、妙におとなしいんだ。具体的には、会話に入ってこない。聞いてはいるようなのだが、入ってこない。特にブルマに水が向けられているということもないので、そういう点ではなんら不自然ではないのだが。ということ自体が、すでに不自然だ。いつもだったら当然のように場の空気を自分の方へ持っていくのに。そして、ウーロンと言い合いを始めたりするのに。さっきのことを気にしてるっていう風でもないし。気にしてる、というか怒っていたら絶対に何か言ってくるはずだ。なぜか俺に。
変だなあ。まあ、平和で結構なことだけど。
そうこうするうちに、ランチさんがキッチンから戻ってきた。ケーキナイフを片手に、おもむろに笑って言った。
「あの、少し甘めに出来上がっちゃったんです。亀仙人さんとクリリンさんは平気ですわよね。ヤムチャさんは甘いの平気ですか?」
…あ。
その時になって、俺はふいに、そしてようやく思い至った。
「…ええ、それは全然大丈夫です」
ひょっとして、また怒ってたりするのかな。
相手がランチさんだから、表に出さないだけで。心の中では怒っていたりするのだろうか…
あの時のことを思い出しながら、俺は俺の隣に黙って座っているブルマの顔を窺い見た。そう。すぐ隣にいるんだ。それなのに、気づかなかった。情けないよな。
そしてさらに、気づいた今注意してブルマの顔を見てみても、やっぱりわからなかった。再び情けなさに襲われながら、俺は考えた。
食べない方がいいのだろうか。ちょっと角が立ちそうだけど。
邪気のない笑顔でチョコレートケーキにナイフをかざすランチさん。あの時と同じように黙って、でも席は立たずにいるブルマ。別に、どっちを取るかとか、そういうことではない。もともとそういう話ではないのだ。少なくとも、俺にとっては。
そうは思いながらもいま一つ踏み切れぬままに、俺はコーヒーカップに口をつけた。…苦手なんだよなあ、そういうの。女の子に面と向かって断り入れるの。間接的に断るのならまだしも。おまけに相手はいつも世話になってるランチさんだし。それでも結局は、何とかなった。
正確には、何とかする必要がなくなったのだ。
「…っくしゅん!!」
唐突に小さなくしゃみを、ランチさんが漏らしたその後に。瞬時に髪色を変えたランチさんの手から、ブルマがナイフを取り上げたその直後に。そのナイフを、ブルマが黙ってケーキに入れたその瞬間に。
…冷静だな。ひょっとして、気にしてないのか?
俺の気は自然と緩まった。少なくともブルマは怒ってはいない。そう思えた。さらにランチさんまでもが、どことなく緩んで見えた。
「なんだあ?オレ、一体何をしてたんだ?銃はどこいった?」
それまでナイフを握っていた自分の手を見ながら、そう言った。どうやら状況を把握できずにいるようだ。それでいて、攻撃するような素振りも見せてはいない。当然と言えば当然か。今は何も起こってはいなかったんだからな。金髪のランチさんは過激は過激だが、一応いつも彼女なりの理由があって銃をぶっ放しているようだから。
「銃なんか持ってませんでしたよ」
「間抜けな嘘をつくなよ、このカメ。そんならオレは、何を持ってたっていうんだよ」
「ナイフですよ、ナイフ」
「ああ?嘘つくなって言ってんだろ。ジャックナイフならちゃんとポケットに入ってらあ」
この頃にはすでに、ケーキは切り終えられていた。さらに、皿に乗せられたそれらが、みなに配り始められてもいた。ブルマの手によって。それは俺に対しても同じだった。それでもはや完全に、俺は考える必要がなくなったというわけだ。そのかわり、わからないことが増えた。
――…一体、何が違うんだろう。ランチさんと他の女の子と…
結局俺は最後まで過去のことばかり考えながら、ランチさんのチョコレートケーキを食べ終えてしまった。さすがにちょっとランチさんに失礼だったかな。そう思う一方で、俺はまた一つ過去のことを思い出していた。
去年も、そうだったなあ。
一年前の今日、C.Cのテラスでチョコレートケーキを食べていた時。あの時も、俺はやっぱり過去のことを考えていた。それをふるまってくれた人たちの、過去のことを。こんなバカでかいハートマークのついたケーキを食べるような目の前のこの夫妻は、昔はどういうカップルだったのだろうかと。有り体に言えば、当てられたわけだ。だってブルマのママさん、ブリーフ博士に『あーん』とかやってるんだぞ。博士もけろっとした顔でそれを食べてるし。あの2人の人となりを俺は一応知っているつもりではあったが、だからといって思わないわけはなかった。やってくれるなあ、と。
少しばかり苦い気持ちでママさんの甘いケーキを食べていたことまでを、俺は思い出した。とはいえ別に、感傷に耽っていたというほどのものではない。さほど強い思いを伴っている記憶ではなかった。ただふと思い出したのだ。ランチさんの作ったチョコレートケーキの味が、ママさんの作ったそれに似ていたから、なんとなく思い出したのだ。
「あのね」
2杯目のコーヒーを飲み干した時、ふいに隣から声が聞こえた。俺は自然と過去の扉を閉じ、現実世界へと目を向けた。
「甘いものたっぷり食べた後で申し訳ないんだけど、あたしからもあげるわ」
そう言うとブルマは、珍しく持ってきていたリュックを引っかき回し始めた。この時俺は、声を上げるというほどではないがうっかり目を瞬いてしまった程度の驚きを、心に感じた。
今日がバレンタインデーだということは、もう充分過ぎるほどにわかっている。だけど、ブルマがそれを言い出すとは思ってなかった。
「えーとね。まずはランチさん。あんまり興味ないかもしれないけど、捨てずに取っておいて。結構おいしいやつだから」
「おう、サンキュー」
本人にしては謙虚過ぎるとも言える姿勢で他人に物を手渡すブルマと、彼女にしては充分に謙虚な姿勢でそれを受け取る金髪のランチさんとを、俺は新鮮な気持ちで見ていた。意外なほど穏やかな光景だ。でも、これまた意外なことにそれほど違和感はない。ブルマもやっぱり女の子なんだなあ。そして、こっちのランチさんもやっぱり女性なんだな。ランチさんはただ受け取っているだけなのにも関わらず、俺はそう思ってしまった。失礼かな。でもなあ…
「じゃあ次、みんなの分ね」
非常に手際よくてきぱきと、ブルマはみんなにチョコレートを配っていった。多少事務的な雰囲気が漂ってはいたが、おそらく義務感だけでやっているわけではないだろうことに、俺は気がついていた。ブルマの口調が、どことなくおとなしやかだったからだ。途中で入れられた突っ込みにも、ブルマにしては穏やかに答えていた。
「どうしてランチさんのだけ、おれたちのと違うんですか?それにずいぶんと大きいですよね」
「ブルマちゃん、そっちの気があったのかの」
「バカなこと言ってないで。二人分よ、二人分」
二人分…
ずいぶん気が利くなあ。そういう考え方はしたことがなかった。やっぱり女の子だからかな。女の子ってこういうこと、本当に好きみたいだからな。
ここまでは、俺は冷静だった。冷静というかなんとなく遠巻きな気分で、一連の会話を聞き、ブルマのすることを見ていた。でもすぐに、そのどちらもできなくなった。
ブルマが何やら意味ありげな視線を、俺に送ってきたからだ。俯きがちに横目を流すような、おまけに一瞬のものではあったけど、すぐ隣にいた俺にそれが捉えられないわけもなかった。純粋な照れくささとそれ以外のものを同時に感じてしまった俺は、とにかく目を逸らさないことに全力を挙げた。
「んー…じゃあこれ、ヤムチャの分ね」
どことなくおずおずと、ブルマはそれを差し出した。俺はというと、気づけばそれを受け取っていた。正直なところ、ぼうっとしていた。すぐには礼の言葉が出てこないほど。
さらに、気づかないほど。気づいたのは、ウーロンだ。
「どうしてヤムチャのだけ、包装が違うんだよ?」
訊ねているというよりは絡んでいるに近いいつもながらのウーロンの態度に、ブルマはいつもながらの態度を取った。
「うるさいわね。自分でやったからよ。作ったチョコだから、店では包めなかったの!」
でも、言っていることは、全然いつもながらのものではなかった。少なくとも、俺にとっては。
「作った?おまえが?マジかよ。ちゃんと食えんのかよ、それ」
「毒は入ってないわよ」
「毒が入ってなきゃいいってもんじゃないんだぞ」
まあ、ウーロンにとっても、いつもながらのものではなかったようだが。そんなことは、今の俺にとってはどうでもよかった。
「どういう意味よ、それ」
「おまえが菓子作ってるとこなんて、見たことないぞ。ヒマさえありゃ、メカばっかり作ってるくせによ。あっ、あれか?昔おれに食わせた飴みたいに、何か仕込んでんのか?」
「あんたねー!もう、そのチョコ返しなさいよ!」
「やーだよ。これはもう、おれのもんだもんね!」
いつもながらのブルマとウーロンの舌戦は、いつもとは少し違う雰囲気で終わった。ブルマの勝利であるという点では、いつも通りであったが。いつもと違って終戦後の場の雰囲気がそれほど厳しくはなかったので、俺は確認させてもらうことにした。無粋だとは思いつつも、そうせずにはいられなかった。
「これ、本当にその…ブルマが、作ったのか?」
だって、意外過ぎたから。らしくないという意味ではない。らしいと言えば、らしいよな。他人にはあまり知られていないことだが、ブルマにはそういう部分がわりとある。それでもこの場合は意外に過ぎた。
なぜなら、去年のことがあったからだ。
「そうよ!ありがたくいただきなさいよ!」
「…うん」
ブルマからの返事はかなり乱暴なものだった。でも、今の俺にはそんなこと、全然気にならなかった。たぶん俺は自分で思うよりもずっと強く、目の前の事実に感動していた。
「いいなー、ヤムチャさん」
「…うん」
ふいにかけられたクリリンの言葉にも、ただそう答えた。クリリンのこの手の冷やかしに同意したことは今まで一度もなかったが、今回ばかりは否定する気になれなかった。やっぱりどう考えても、俺は感動していた。
当然と言えば当然かもな。好きな女の子から初めて貰ったチョコが手作りチョコ。長らく女に免疫のなかった俺が、これで感動しないわけがない。
そう、初めてなんだ。ブルマにチョコを貰うのは。一緒のバレンタインデーを迎えるのはこれで2度目だがそれにも関わらずこれが初めて。去年は貰わなかった。それはなぜか。…たぶんあれかな、という心当たりはある。
去年のバレンタインデーの頃は、俺はC.Cにいてハイスクールに通ってたんだよな。それで朝行ったら、机の中にチョコがいっぱい入っててさ。それがことごとく外側に名前書いてないもんだから、しょうがなくうちに持って帰ったんだ。クラスの連中の前で品定めするわけにもいかないし。そしたらブルマにそれを見られて…たぶん見られたんだと思うんだ。断定できないのは、ブルマが何も言わずに部屋に行ってしまったからだ。だから、俺も何も言えなかった。だって、何も言われてないのに言い訳するのもなんだし。まあ、バレンタインデーなんて、所詮、都人のお祭りだ。そう考えて、それきりにしていたんだが…
――理由のあるようでない、あのケンカ。いつの間にか消え去っていた、あの気まずさ。
俺はまたもや延々と、過去のことを考えていた。でも、感慨に耽っていたわけでは、まったくない。
感慨に浸れるような過去ではない。そもそも感慨に耽るべきものは、他にある。
俺がそのことを考えた頃には、場の雰囲気は食後の休憩時間のようになっていた。お茶の後で休憩するというのもおかしな話だが、実際そうなっていた。具体的には、老師様がのんびりと窓辺へと移動していった。
「あ、老師様、煙管吸いますか?」
「うむ、一服な。なんじゃ?」
「いえ、ちょっと。…俺、自分の部屋に行ってもいいですか」
「別に構わんぞい」
老師様の言葉に甘えて、俺は席を立った。できるだけさりげなく、場を離れた。ことさらに何でもない風を装って、自室へと続く階段を上がった。困るというほどのことではないが、できれば訊かれたくなかった。
ガキくさい好奇心だと、自分でも思っていたからだ。


自室のドアを閉め、完全に一人になってみると、自ずと感慨が湧いてきた。
バレンタインデーをバレンタインデーだと本当に自覚したのは、きっとこれが初めてだ。
去年は結構本気で、どうでもよかったんだよな。今日だって、朝ランチさんに言われるまでは気がつかなかった。気がついてからも、実際ブルマに貰ってみるまでは、わりとどうでもよかった。
バレンタインデーの存在は知っていたが、それとは無縁の生活を、俺は都に出るまで長く送っていた。環境的にも、性格的にも。都に出て環境的にはそうじゃなくなってからも、俺自身の感覚はそれほど変わらなかった。そして武天老師様の元に来て、その感覚はさらに強固となった。なぜなら、俺は武の道を歩く者だからだ。そういう世俗的なことは、どうでもいいのだ。
…そのはずだったのに。
言いようのない気分に襲われて、俺は立ったまま壁に背を預けた。床に腰を下ろす気にはなれない。窓辺に佇む気にもなれない。女の子ばかりがこういうことには熱心なのだと思っていたのだが、そうではなかったらしい。そういう自分を、俺はこれまで知らなかった。きっとずっとそうであったに違いないが、知らなかった。知る機会がなかったからだ。
女の子の存在って大きいな…ことに、好きな女の子の存在は。
自分が完全に浮ついていることを、俺は自覚していた。だからこそ、一人になろうと思ったのだ。一体、どんな味がするんだろう。いや、チョコレートの味なんか知ってる。そうじゃなくて…
…本当に、なんてガキくさい考えなんだ。こんなこと、プーアルにだって言えやしない。
そう思いながらチョコの包みを破りかけた、その時だった。
「…何してんの、あんた」
まったく予期せぬところから、声が聞こえた。――部屋の中。俺しかいないはずの部屋の中――
「なんでそんな端っこにいるの?それにチョコ、いつまでも持ってると溶けるわよ」
僅かに開いていたドアを閉めながら、ブルマは無造作にそう言った。…どうしてそんなところにいるんだ。っていうか、勝手に入ってくるな!
瞬時に思ったそのことを、俺は口には出さなかった。自制したわけではない。ブルマが怖いからではない。驚きを超えた情けなさが、そうさせた。…気がつかなかった俺も俺だ。
「いや、ちょっとその…チョコ食べてみようかと思って」
できるだけさりげなく、俺は答えた。誤魔化そうとは思わなかった。誤魔化せるような状況でもない。それに、誤魔化すようなことでもない。だって、くれたのはブルマなんだからな。
ブルマは少し首を傾げて、淡々と言った。
「チョコレートケーキ食べた後なのに、またチョコ食べるの?」
その瞬間、俺の感慨はそっくりそのまま呆れへと変わった。
そういうこと言うなよ…
デリカシーないなあ、こいつ。その、チョコレートケーキを食べた後に敢えてチョコを食べようとする、男心がわからんのか。…まあ、わからなくてもいいけどな。せめて黙って食わせてくれ。おまえがくれたんだろ、これ。
またもや瞬時に思ったそのことを、俺はやっぱり口には出さなかった。ブルマへの呆れは、すでに自分自身に対する呆れへと変わっていた。…くれたやつにならわかるだろう。そう思った俺がバカだった。
「いいよ。後にするよ。それよりそろそろ行かなきゃな」
だから、俺は頭を切り替えた。そういう話じゃないのなら、ブルマが俺に声をかけに来た理由はそれしかない。そう思ったからだ。
「あ、いい、いい。まだ行かなくて。そういうつもりで言ったんじゃないのよ。っていうか、今は行っちゃダメ!!」
だがブルマは、なぜか強く俺を押し留めた。呼びに来たんじゃないのか。じゃあ、何しに来たんだ。
「ダメってどうして。何かあったのか?」
「…チョコ、食べるんでしょ?」
………………。
ブルマが急に声を落してその台詞を言った時、俺は心と体の両方で、無言になってしまった。なんだか支離滅裂だな。どう考えたって、答えになってないぞ。それに、タイミングもズレてる。
その、無言になっている間に、ブルマは俺の隣の壁に、黙って背中を預けた。両手を後ろで組みながら。至極当然といった顔で。
ま、いいか。
感慨の味はわからなさそうな雰囲気ではあるが、チョコの味はわかるだろう。せっかく作ってくれたんだからな。こういうものの感想は早い方がよし。ブルマの場合は特に。
開いた窓から戦いでくる、涼やかな常夏の冬の風。季節柄柔らかに差し込む日差し。それらを正面から受けながら、俺はチョコの包み紙を破り始めた。途中から、片足を組んだ。だって、すでにそういう雰囲気なんだ。のんびりしてるというか、色気がないというか。まあ、気楽でいいけどな。
だが、気楽だったのはチョコの姿を見るまでだった。包み紙を半分ほど破った時、俺の心に再び感慨が湧いてきた。俺は思わず、チョコとそれを作った人間の顔を見比べた。心と体の両方で、思いっきり無言になりながら。当然それは当の本人にも知られるところとなり、俺がチョコを弄り始めてから初めて、ブルマは口を開いた。
「何よ?」
「いや…かわいいチョコだなーと…」
ブルマは俺の方を見もせずに、横目だけを流して言い切った。
「バレンタインのチョコがかわいくなかったら、大問題よ」
その瞬間、俺の感慨は再び消え去りかけた。
身も蓋もないこと言うなよ…
そういう意味じゃないんだ。それくらいわかるだろ。だいたい、買ったものならまだしも、これはブルマが作ったんだろ。おまえがかわいくしたんだろ。
『おまえ、かっわいくねえな〜』
ふと、ウーロンの声が脳裏に響いた。これまで何度か耳にしたことのあるその台詞。ウーロンがそう言う時の心境が、俺にはわかったような気がした。
まあ、俺はそうは思わないけどな。だって、ブルマはちゃんとくれてるんだから。こんなにかわいく作り上げて、それをくれてるんだから。かわいくないやつだったら、絶対にやらないぞこんなこと。やったとしたって、隣で見てたりしないだろ。
ま、だからといって、気になるところが何もないわけではないが。
ここで俺は佇まいを正した。半ば無意識に、半ば意識的に。俺の手の中にあるものと、俺の隣にいる顔がそうさせた。小さく割った一欠片を口に放り込むと、その味が広がった。
「…しょっぱい」
努めて宙を見ながら、口に出した。すると、ようやくブルマが態度を崩した。
「えぇー!嘘!!」
弾かれたように背を壁から離して、そう叫んだ。そして、俺と俺の手にあるものとを食い入るように見つめた。自分の攻め手が効いたことはこれ以上ないというほどにわかったので、反撃を食らう前にと俺はすぐさま身を引いた。
「嘘に決まってるだろ」
ちょっと意地悪だったかな。だけどブルマが、あまりにもあっけらかんとしているものだから。あまりにも、意識してくれないものだから。貰っておいてこんなことを思うのは図々しいかもしれないが、少しは俺の気分に付き合ってくれたっていいじゃないか。
「何それ!信じらんない!それがひとに物貰ったやつのすること!?」
「ごめんごめん。でもさ…」
ブルマは一見烈火のごとく怒っていた。声はだいぶん大きかったし、両の拳を振り上げてもいた。でも俺はさして身を竦めずに、謝罪の言葉を口にした。この反応は大丈夫。まだまだ本気で怒ってはいない。本気の拳は、振り上がったと思った瞬間に飛んできているものだ。ブルマは怖いけど、冗談はわかるやつだからな。でも、ここらでやめとこう。うっかりすると、大変だから。
「ひょっとして、味見してないのか?」
ブルマの弱い拳を片手で受け止めながら、俺はとても根本的な質問をしてみた。正直言って、こんな単純な引っかけが通用するとは思わなかった。だって、しょっぱいかどうかなんてわかってるはずだろ。…普通はな。
ブルマはゆっくりと拳を引っ込めてから、きっぱりと言い放った。
「だって、作ったのそれ1個だけだもん」
その瞬間、またもや俺の心に呆れが湧きおこった。
相変わらず乱暴だな…
味見くらいしてくれ。本当にしょっぱかったら、洒落にならなかったところだぞ(ブルマのことだから、きっと恥ずかしさのあまり逆上するに決まってる)。よくそれで、『毒は入っていない』などと言えたものだな。ウーロンのやつも、当たらずとも遠からずだ。
だが、その呆れはすぐに消えた。消えると同時に、感慨が心を満たした。『1個だけ』…かわいい事実だ。少し迂闊な気はするが、それを補って余りあるかわいさだ。なんかもう、味なんかどうでもよくなってきたな。その事実だけで充分だ。チョコの出来なんかどうでも――ひょっとするとチョコそのものがなくても――そう、もしもウーロンのやつに今目の前で食われちまったとしても、俺はきっと受け入れられる。悔しいとは感じるだろうが、受け入れられる。でも、今年は何を言われようともやらないぞ。
そんなわけで、俺はこのチョコは他人には絶対にやらないことに決めた。例えプーアルでもダメだ。我ながら心が狭いと思うが、やっぱりダメだ。だからといって、一人で全部食べ尽くさないと気が済まないというわけではなかった。
2口目を放り込みながら、少し大きめに欠片を作った。うまい言葉が思いつかなかったので、ただ黙ってブルマの手元に寄せてみた。するとブルマは即座に俺の意を撥ね除けた。
「いらないわよ。それはあんたの!」
「だから、あげてるんだろ」
だって、ブルマは他人じゃない。作った当の本人だ。それなのに食べてないなんて、おかしいじゃないか。
「いいから、食ってみろよ。せっかくおいしくできてるんだから」
「しょっぱいってさっき言ったくせに」
「嘘だって言ったじゃないか。しょっぱくなんて全然ないし、ちゃんとうまいよ」
俺は別に、何が何でもブルマに食べさせたかったわけではない。当人が食べていないのはおかしいとは思ったが、異常だとまで思ってはいない。それなのに、食い下がった。それはなぜか。
それは単に、雰囲気のせいだ。
「『ちゃんと』?へぇ〜、ふう〜ん。『しょっぱくなくってちゃんとうまい』ねぇ〜。それはそれはわかりやすい感想をどうもありがとね」
…この、雰囲気。
意識してくれるようになったのはいいんだけどさ。もう少しどうにかならないものかな。貰っておいてこんなことを思うのは失礼なのかもしれないが、それがバレンタインデーにチョコをくれたやつの態度か?ママさんやランチさんほどにこやかになれとは思わないが、それにしたっていつもよりもつんけんしてるじゃないか。
「あのなあ…おかしな裏読みするなよ。そういう意味じゃないって。っていうかな、作ったやつが疑ってどうするんだ。変だぞ。変っていうか、もったいないぞ。本当にうまいんだからさ。だから食っとけ」
まあ、異常というほどのことではないが。いつもはこれでそう不満はないのだが。でもせっかく、チョコレートくれたのに。それもこんなにかわいいのくれたのに。こんなにかわいいの作るようなやつなのに…
それでも結局、俺は引いた。ブルマが思いっきりそっぽを向いたからだ。そしてそのまま黙り込んでしまったからだ。壁に深々と体を凭れて。頑なに両腕を組んで。しょうがないなあ…
ま、かわいくないとまでは思わない。ちょっとつまらないけどな。
諦めたというよりは時間切れ。俺は現在修行中の身。一時は忘れていたそのことをふいに思い出して、俺は心だけではなく身も引くことにした。特に支障はないだろうと思ったので、実を兼ねてブルマの手元にチョコレートを放った。
「まあ、適当に食っとけ。一口二口と言わず適当にな。俺は今はこれ以上食えないから。そろそろ修行の時間だからな。…そうだな。俺はその、ハートの中でも特にハートの篭ってそうなところさえ貰えればそれでいいかな。真ん中の一番かわいいとこな」
そして最後にもう一度、押しつけがましくならない程度に勧めておいた。その途端だった。
「これは母さんがっ…」
おっ。
心の中でそう叫んでしまったほど突然に、ブルマが叫び立てた。瞬時に身を壁から離して、解いた両腕でチョコレートを抱きすくめた。…チョコレート、服につくんじゃないかな。そう思いながら、俺は途切れた言葉の続きを促した。
「ママさんが?」
「…なっ、何でもないわよ!」
ブルマはまた叫び立てた。そして即行でそっぽを向いた。さっきとは比にならないほどの勢いで。わけがわからん。どうしてここで逆上するんだ。俺、何も変なこと言ってないよな。言ったんなら、そこを突いてくるだろうし。…ママさんか?C.Cで何かあったのか?
俺は想像を巡らせてみたが、今日この日に思い浮かぶママさんの姿といえばもう決まっていた。ブリーフ博士とワンセットのその姿。『こっちはパパのためだけのケーキだから』と言い切ったあの笑顔。『ヤムチャちゃんはブルマちゃんに貰ってね』というあの困った台詞…
…あ。ああ。ああ…
俺はたぶん理解した。なぜか今日に限って自分のしていることを押しつけてこないブルマの態度を。これは嫌味ではなく事実なのだが、ブルマはいつもはこういうことをする時は、これみよがしにありがたがらせようとするんだよな。まあ、今日もそういう台詞を言ってはいたが。でも、態度が裏切っている。少なくとも、俺に対してはことごとく。
そう思ったら、俄然嬉しくなってきた。あの母親にして、この娘ありか。いや、これは使い方が違うか。でもまあ、おそらくそんなところだろう。
ママさんの手柄だとは思わない。だって、作ったのはブルマなんだから。そんなの、ただ無視すればいいだけなんだからな。
「ははっ」
「ちょっと!笑ってんじゃないわよ!!」
俺が思わず笑いを漏らすと、ブルマは顔を俺に戻して、一見烈火のごとく怒り始めた。もうまるきりがなっていたし、眉もつり上がっていた。でも、両腕は振り上げなかった。拳も作らなかった。依然としてチョコレートを腕の中に隠し続けていたからだ。だから俺は、ちっとも怯まなかった。これで怒られた気分になれって方が、無理な話だ。
「笑わないでったら!いい加減にしないと、このチョコ取り上げるわよ!!」
さらにブルマはこの期に及んで、そんなことも言った。んー、かわいいなあ。
ママさんみたいにいかにもわかりやすい態度もいいけど、こういうわからなさそうでわかりやすい態度も悪くないな。…同じか?いや、やっぱり違うか。でもまあ、かわいいことには変わりない。
バレンタインデーって、こんなに楽しい日だったんだな。知らなかった。
「…ああ、ごめんごめん」
俺はすっかり心緩んでいたが、それでもどうにか笑いを引っ込めた。ブルマの言う通り、いい加減でやめておこう。あんまり刺激してしまうと、本気の怒りに転換するかもしれないからな。明白な理由のないケンカほど、どうしようもないものもない。それを俺は、よく知っているのだから。
「ほんっと、あんたって、デリカシーの欠片もないわね!」
先に怒鳴っていた時よりもむしろ怒りを感じさせる雰囲気で、ブルマが言った。それでも俺はさほど身を竦ませはしなかった。まあ、いつも通りの声だったからだ。それよりも――
「デリカシーがない?…一体どこが?」
「何もかもがよ」
「…そうか?」
「自覚してないのがその証拠よ」
「うーん…」
少なからず反論したい衝動に、俺は駆られた。反論というよりも、言及かな。俺にデリカシーがないと感じるのはブルマの自由だが、ブルマだって結構ないと俺は思うのだが。あるのかもしれないが、屈折しているというかな…
でも俺は、口に出してはこう言った。
「ま、いいさ。とにかくサンキューな」
だって俺は、ブルマのそういうところが嫌いというわけじゃないんだから。今なんかむしろかわいいと思ったくらいなんだから。だからそれよりも、今の自分の気持ちを優先した。
少しだけブルマの頭を撫でてから、右の頬にキスをした。本当は抱きしめたかったし、唇にキスしたかった。でも、やめておいた。今は修行前だから。これ以上気が緩むといけないからな。ただでさえ、俺は武天老師様に釘を刺されているのだから。
「じゃあ俺、行くな。あ、そのチョコ他のやつにはやるなよ。それから全部食っちゃダメだぞ。預けるけど、やるわけじゃないんだからな」
最後にいろいろと念を押しておいた。みみっちいかもしれないが、押しておいた。俺は俺のために用意されたチョコレートを、他の人間にやるつもりはなかった。それに込められた気持ちを、有耶無耶にするつもりはなかった。そうして、そう思った途端に気がついた。さらに同時に、思い知った。
自分が過去にそうしてしまっていたということに。理由のないケンカなどないのだということを。
「なあ、ブルマ」
「何?」
今では俺は、すっかりわかっていた。何もかも、俺に訊ねる女の子が教えてくれた。
今日という日の楽しさを。好かれることの嬉しさを。そういうことを知ろうともしなかった、自分の浅はかさを。
ブルマが俺のために『特別に一個だけ』用意してくれたことが嬉しかったように。俺も『特別な一個だけ』を手にするべきだったんだ。チョコの存在そのものが問題なわけではないのだ。食べなければいいということではないのだ。食べたからどうだというわけでもないのだ。
「…去年、ごめんな」
いつの間にか忘れ去っていた気まずさを思い出しながら、ちっとも気まずくない空気の中で俺は言った。ブルマからの返事はなかった。それについては何も考えることはなく、俺は部屋を出た。何かを思える立場では、俺はないのだ。
「あっ、ヤムチャ様!今呼びに行こうと思ってたところだったんですよ」
リビングへ行くと、プーアルがそう言って俺の方へと飛んできた。いつもなら心和ませられる笑顔だったが、この時の俺はそうはならなかった。
俺はなかなかに苦い気持ちになっていた。でもそれを、今は肯定的に受け止めることにした。
今は苦い気持ちになっておこう。その方がきっと、俺にはいい。武天老師様の御心に応えるためにも。そうして一日が終わったら、あの甘いチョコレートを食べることにしよう。
俺だけの女の子と一緒に。
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