呑みこむ女
リビングのソファに陣取って、ブルマが本を読んでいる。
ひどく古ぼけた装丁だ。タイトルは『ぼくはペット』。
「おまえ、ペット飼うのか?」
C.Cには、すでに山ほどの(元)捨て動物たちがいるというのに。
「ああ、これ?違うわよ。前時代の漫画よ。参考になるかと思って」
俺は眉を顰めた。一体、何の参考だろう。こいつが前時代の物を参考にして、いいことが起こった試しがないのだ。
「おまえ、そういうものにすぐ影響受けるからな」
ウーロンが俺の気持ちを代弁した。俺は頷いた。
「ちょっと!あんたたち…」
俺とウーロンは嵐の到来を予感し、防御体勢を取った(具体的には、腕で顔を覆った)。
だが、俺たちの精神点が削られることはなかった。
ブルマはなぜか息を呑んで(それはこっちのすることだろう)、リビングを出て行ってしまったのである。

緊急事態発生、緊急事態発生。

「一体どうしたんでしょう」
隣接したキッチンから一部始終を見ていたプーアルが、怪訝な顔で言った。俺はプーアルの持っているトレイからコーヒーを受け取りながら、呟いた。
「ひょっとして、虫の居所がよかったんだろうか」
「ブルマに限ってそんなことあるか」
ウーロンが吐き捨てた。
「あいつはな、自分がダイエット中だからという理由だけで、俺を隔離しようとする人間なんだぞ。ブタの顔は見たくないとか言いやがってよ。オレだって好きでブタに生まれたわけじゃないっつーの!」
ウーロンも苦労しているな。
でも、そうなんだよな。
俺だって「前時代の某俳優がかっこいい」という理由で髪を切らされたことがあるし、プーアルなんか何もしていないのに「領空侵犯」だなどとイチャモンをつけられたことがある。
誰しも機嫌にブレはあるものだが、ブルマのそれは理解の範疇を越えている。ちょっとくらい虫が遠出をしたからといって、急に変わるものでもない。
プーアルがふと気づいたように言った。
「あ、ひょっとして今の、Lot1のコピーブルマさんだったんでしょうか」
俺は即答した。
「いや、それはない。あれは破棄したはずだ」
俺しか知らない理由でな。
「それにLot1にしては性格が荒すぎる」
この言葉にウーロンとプーアルは一も二もなく同意した。
「確かに…」
「あれは天使だったよな」
俺たちはLot1に思いを馳せた。
そして溜息をついた。

ブルマの異常は翌日も続いた。
俺たちはキッチンで朝食をとっていた。昨夜のことを口(或いは表情)に出す者はなく、俺に至っては失念すらしていた。
端的に言うと、一晩寝たら忘れたのだ。
それに「怒らないから」という理由で、いつまでも不審を抱くのもかわいそうじゃないか。ブルマにだって、いいところが少しはあってもいいはずだ。
さて、事を起こしたのはウーロンだった。
一応やつの名誉のために言っておくと(しかしこれも後々バカらしいと思うことになる)、わざとではない。事故だったのだ。
その朝食の席で、ウーロンがブルマの服にコーヒーを零した。
おそらくは新調したばかり(見たことなかったからな)の、アイボリーホワイトの、どう見てもオートクチュールであろうドレス。
「あー!ちょっと!!」
俺たちは嵐の到来を予感した。
「何…」
しかしブルマは口を噤んだ。そして押し殺した声で言ったものである。
「…着替えてくるわ」

非常事態宣言発令。

「本当にどうしたんでしょう」
プーアルが不安そうに言った。
「こういう展開、前にもあったような気がするな…」
俺は不快そうに言った。
「天変地異の前触れだ」
ウーロンが不穏当なことを言った。
しかし、俺はウーロンの発言には反対したかった。天変地異とブルマの怒りと、どちらがより恐ろしいのかと問われれば、即答しかねる立場に俺はいたからだ。
そんな俺の心の機微には気づかず、場は推移していく。
「どうも我慢しているみたいですよね」
「あれじゃねえの、108回怒ると死ぬとか」
「そんなの、もうとっくに越えてるだろう」
俺の活躍でな。
虚しい自信が俺にはあった。

本当にブルマは怒らなかった。というよりはプーアルの言うように、怒ることを我慢しているようだった。
なんだろうな。怒らないといいことがあるのか?…そりゃ俺たちにはあるけど。
そのうちにウーロンが故意にちょっかいを出し始めた。わざと怒らせようとするのだ。チャレンジャーだな…というか、後のことを考えないのだろうか。
そうさ、夢には必ず終わりがある。そのことを俺は知っている。Lot1だってそうだったじゃないか。
それに、らしくないとも思うのだ。
俺は怖い女が好きというわけではないが(というか、そう信じたい)、正直、今のブルマはらしくない。怒るところもあいつの一大要素だったはずだ。
…それとも俺が慣らされてしまったのだろうか。


「コースター3連発、行くわよ!!」
俺とブルマは遊園地に来ていた。なぜなら、この前俺が遊園地に来たからだ。
文脈が変だって?それはつまり、こういうことだ。

コピーブルマと遊園地へ行った夜、俺はブルマにこっぴどく責められた。
「あんた、何で遊園地なんか行ったのよ?」
「いや、だって、コピーがそう言ったから…」
事実を述べる俺を、ブルマは横目でジロリと睨みつけた。
「あんた、言われりゃどこでも行くわけ?」
おまえにならな。そう言いそうになるところを、俺は我慢した。
「しょうがないだろ、デートだと思ったんだから」
「何よ!あたしだって行くわよ!!」

やっぱり変だって?ああ、俺もそう思うよ。
要するに、これはブルマなりのヤキモチなのだ。俺はそう解釈している。まあ、自分にヤキモチ焼くのもどうかと思うがな。
そういうわけで、俺たちは遊園地に来ていた。経緯はともかく、俺は遊園地が好きだし、ブルマとデートすることに何の異存もなかったので、楽しい1日を過ごしていた。…彼女に会うまでは。
第1弾の3連発を終え、ブルマがソフトクリームを買いに行ってしまうと、俺は庭園を囲む柵に背中を持たせかけた。なんとはなしに父親と手を繋ぐ子どもなどを見ていた時に、その声はかけられた。
「あら、ヤムチャじゃない」
それはハイスクール時代の同級生――いや、そう紹介することには抵抗があるな。というのは彼女は俺の取り巻き(とブルマは呼ぶが、俺は取り巻かせたことなど1度もない。断じてな)の1人で、俺がいない時にC.Cへやってきてブルマと開戦しかけたこともあるほどの猛者なのだ。
とにかくその彼女に俺は発見され、うまい逃げ道が見つからないまま、そこに足止めされることとなった。
「ヤムチャ元気だった?」
「ああ」
「1人なの?だったら一緒に回りましょうよ」
「いや、俺は…」
俺ははたと口を噤んだ。
これはどうしたものだろう。ブルマと一緒にいることを言ったほうがいいのだろうか。いやしかし…
俺が思考の迷路を彷徨っていると、彼女の視線が動いた。その先にブルマがいた。
「…あ〜ら、ブルマ、あんたまだいたのね」
俺は思わず心の中で呻いた。
彼女の、ブルマを見る目つきと刺のあるその口調が、これ以上ないというくらい侮蔑を湛えていたのだ。
こりゃあ、ブルマ怒るぞ…というか、俺だって不快だ。
チラと傍らのブルマに目をやると、あいつは瞳を青く燃やして口元を引き結んでいた。
俺はこの手の女性の対応が非常に苦手なのだが、さすがにこの時ばかりは見過ごせず、彼女へ向かって1歩を詰めた。
と、ふいにブルマが踵を返したではないか。
俺は後を追った。
「おい、どうしたんだよ」
「だって、嫌なんだもん!」
ブルマは歩を緩めず、張り詰めた声で言った。
「怒ればいいじゃないか」
「だって」
怒ればいいじゃないか。というか、怒らなければダメだ。今のはどうしたって、怒るべきところだ。
そう俺が言おうとした瞬間、ブルマは立ち止まり、俺の顔は見ぬまま呟いた。
「あんたが『かわいい方』なんて言うから…」
俺は一瞬意味がわからずその場に立ち尽くしたが、やがて氷解した。
そうか。そうだったのか。
「ははは」
俺は笑った。謝らなければならないところだということはわかっていたが、自然と笑みが漏れた。
だって、嬉しいじゃないか。かわいいじゃないか。
ブルマおまえ、すごくかわいいじゃないか。
俺はブルマを抱きしめた。
ブルマは眉を顰めたままで、されるままになっていた。




(さらにブルマ目線の後日談がこちらにあります)
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